華の男とその華
最後の王。そう言って、シャオランさんは私の指に唇を寄せた。
何を告げられたのか未だによくわかっていない私の頭に、そのかさついた唇の感触だけが確かな現実感として伝わる。彼の見せる、柔らかな妄執。
恭しく両の指先に口付けていくシャオランさんを、床に膝をついたまま私は呆然と見下ろしていた。
「あなただけが俺の王」
指先に口づけられたまま囁かれた言葉に、私ははっと身を震わせた。
それが伝わったのか、そうっと指から唇を離したシャオランさんはそのまま私を見上げる。
真っ黒い瞳。
何か大きなものを飲み込んで沈めているような、そんな深い色の。
そこに浮かぶのは、愛情というには執拗で信頼というには縋るような感情が行き来していた。否定されたくないと、自分を必要としてくれと言外に訴えかけてくる。
だけど、私は……!
「私……私には両親がいたし、日本で生まれて日本で育って……。私、女王様なんかじゃないっ、そんなんじゃ……!」
「宵藍は絶対に間違わない。あなたこそが俺の命華人。我ら華人の王。胸に華を刻まれて産まれた、全ての華を従える大輪」
「私……!」
深遠な瞳が真っ直ぐに私を貫く。
彼の中に燃え上がる狂気すれすれの忠誠が、私の背筋を冷たく走った。
誰ひとり知り合いのいない、私が過ごしてきた世界の常識が通用しないこの場所で、何もかもを投げ出して彼の腕の中に飛び込めばきっと楽になる。
シャオランさんは自分の命を投げ出してでも、私を守ってくれるだろう。それは痛いくらいにわかるけれど。
だけど、もう何も知らないままではいられない。
「ファーレン、て何ですか……? この痣は何なんですか、私は本当に……」
「華人は古い血を継ぐ種族のことだ。今や数は減り各地に少数が残るのみ。リンガよりも排他的で戦の力ばかりが突出した種族だから、人には疎まれ険しい地へと追いやられた。古い伝承では、この地に降り立った竜族と渡り合いそれなりに繁栄もしたらしいが、異端はいずれ排斥される運命だった」
膝立ちのままでいる私を見上げながら、シャオランさんは遠い記憶を探るように訥々とファーレンという種族についてを語っていく。
「多くは人と変わりない姿をしているが、『華の人』と呼ばれる通り、その身に華を持って産まれてくる者たちがいる。この、俺のように」
「華……」
柔らかく握られていた手が引かれ、露わになっていたシャオランさんの胸に触れた。
そこに咲く赤い大輪の牡丹。
胸の真ん中にあるものが一際大きく、それは脇腹や右の肩、そして背中まで流れるように美しく咲き誇っている。
「華を持つ者は人よりずっと戦闘能力が強い。生命力も、寿命も。だが、血が弱まるにつれてその数も減り、命華人すら何十年と産まれてこなくなっていた」
シャオランさんは自分の胸に触れさせているのとは反対の手で、今度は私の首筋に触れた。ゆっくりと喉元を通り痣にたどり着く。
「華をその身に刻まれた、華人の支配者。同じ華を持って産まれた男たちは、あなたを守るための盾。あなたを害する者を切り裂く剣」
自らの華と私の痣を繋ぐように、私たちはお互いの身体に触れたまま見つめ合う。
それは不思議な感覚だった。
いつもより明晰に伝わってくる鼓動がいつの間にか自分のものと重なり合って、絡み合うようにひとつになっていく。それ以外の音は遠ざかり、身体が心地よい熱に包まれる。
シャオランさんの黒い瞳の中、鏡のように私が映っていた。
きっと、私の目の中にも。
「命華人の持つ華に決まりはない。華人には同じ一族がある。命華人の傍に仕えることが許されるのは、同じ華を持つ男だけ」
「同じ華……」
「女王は……命華人は絶対だ。胸の華が開き、自らに目覚めればすべての華を意のままにできる。すべての華人の記憶と経験を自らのものにできる。命華人を上位者とすること――それは俺たち華の男にとってこの上ない幸福。そして今、カツラと同じ華を持つのは俺だけだ」
吸い込まれてしまいそうなほどに艶やかな笑みを浮かべ、シャオランさんは私の胸元から手を離した。
次々と明かされていくことにうまくついてゆけず、私は呆然とその微笑を見つめ返すのみ。直後、床に膝立ちになったままの身体がふわりと浮かび上がって初めて、はっと自分の意識を取り戻す。
慌てて下を向けば、私はシャオランさんに腰と膝の裏を抱えられ、抱き上げられたところだった。
「しゃ、シャオランさんっ!?」
自らの腕に腰掛けさせるように私を抱き上げ、彼はうっとりと陶酔したような笑みをこちらに向ける。
普通の女の人なら全員が全員恋に落ちてしまいそうな、輝かしい笑顔。
だけどそれは、私にとっては何となく嫌な予感を感じさせるようなものだった。
「あなたは俺の、俺だけが触れることの許された命華人だ――!」
まるで大切な大切なガラス細工の宝物のように、ゆっくりと優しく寝台の上へ下ろされる。ずっと探していた宝物を見つめるかの如く、何の悪意もないきらきら光る瞳が私を見つめ、それから優雅に頭を下げ――たんじゃなくて、足に口づけた!
「ひゃっ」
それは何回経験しても慣れない感覚。
いくらか乱暴な手つきで足首を掴まれ、強張って張りつめた指の先を戸惑いもなく唇が挟み込んだ。
無意識にそれを避けようとばたつかせたもう一方の足も、なんてことないように押さえられ、そうして私の身体はのし掛かってくるシャオランさんの身体で押し倒されてしまう。
ええええええええっ!
ちょっと待ってちょっと待って、ちょっと待ってぇえええええ!
今、私たちものすごく大事な話の途中だったよね!? すごく真剣な話していたよね!?
なのに、なんでこういう流れになってるの!
「カツラ……俺のあなた……」
「やっ、し、シャオラン、さん……っ」
ぬるりと生暖かいものが指の間を這う感覚に、私は手の下にあるシーツを握りしめて耐える。それは指のひとつひとつを丁寧に舐めあげ、お腹を空かせた子猫のようにちゅうっと何とも言えない微妙な強さで吸い付いてきた。
彼の、舌が。
気持ち悪い。
気持ちがいい。
相反する感情が私の身体を駆けめぐる。
無理矢理に押し上げられた熱が頭の中までをも浸食して、考えなくちゃいけないことが散り散りになっていく。
だ、だめ! まだ訊きたいことがあるのに!
ちゅ、ちゅ、と二人きりの部屋に大きく響く音に赤面しつつ、私は再び囚われた足に力を込めて抵抗する。
すると、くるぶしの辺りに舌を這わせていたシャオランさんは、その動きを止めることなく唇を離した。名残惜しそうに鼻先を脛に擦りつけ、膝頭を手で優しく撫でる。
そうして泣きそうになっている私を見あげ、困ったように笑った。
こ、困ってるのは私なのに!
「カツラ、俺はあなたの問いに答えた。褒美をもらってもいいと思う」
「ま、まだ訊きたいことがあるんですっ」
喉の奥で低く笑い声を立てるシャオランさんに、私はむっとして抗議の声を上げた。
「どっ、どうして今はシャオランさんひとりだけ、なんですかっ。他の人たちは……!?」
「死んだ」
一所懸命にぶつけた疑問は次の瞬間呆気なく返されてしまい、私は息を飲む。
目を閉じ、恍惚の表情で私の足に頬を擦りつけていたシャオランさんは、今日は少し寒いね、なんて言うようにさらりと言う。
「ガナドールの竜に食い殺された。俺は運がよかったから助かった。だから、牡丹の華の血族はもう俺しかいない」
「食い、殺された!?」




