ふたつめの命令
同名の短編の連載版となります。短編がプロローグとなっています。
彼にした最初の命令は、「私を名前で呼ぶこと」。
そして二つ目の命令は――。
「では行って参ります、カツラ」
「は、はい。行ってらっしゃい!」
さっきまで辺りを真っ赤に染め上げていた夕陽も落ち着き、そろそろ濃紺の闇が迫り始める時間。目の前に立つ美しい青年は、いつも通りに出掛けの支度を済まし、私へと声をかけた。
紺色の簡素な上着に、同色の裾がすぼまったズボン。鋼のようなしなやかに鍛え上げられた身体に、それはとてもよく似合っている。
綺麗についた筋肉は服の下に隠され、彼を一見たおやかな美青年に見せていた。
少しだけ癖のある黒髪は首の後ろでゆるく結われ、まとめきれなかった髪が耳元からふわりとこぼれている。それがまた妙に彼の纏う退廃的な雰囲気に合っていて、見慣れていてもどきりとするほど色っぽい。
結われた髪の先端は胸の辺りまで伸びていて、元いた世界――日本では、そんなに髪の長い男の人を見たことがなかった私には、とても珍しく感じられた。
色は艶やかな黒。特別手をかけて手入れしているわけではないようなのに、同じ色をしている自分の髪とはずいぶん艶が違う。少しの、嫉妬。
そんな風に彼――宵藍を見つめていた私の足下に、彼が跪いた。
「カツラ、足に触れたい。許しを」
ベットの上に座り、室内履きを履いた足を床に降ろしていた私に、彼は当然のように要求してくる。まさか断られるなんて思ってもいない、そんな自信に満ちた口調で。
しかしそれを要求されるほうの私はといえば、何回繰り返されようと決して慣れることはない。その、行為に。
「あ、あの、シャオラ……」
「あなたの許可がないと足に触れてはならない、あなたがそう命じた。だから俺は許可を求める。触れられないと、俺は出かけられない」
「う……」
こんなことはやっぱりやめようと、そう言いかけた私を先に制するように、シャオランさんは言葉を重ねた。
濡れたように光る黒の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いてそらすことを許さない。強い、光。生き生きとしている、ともいえる。
しばらくの沈黙。
私はなんとか彼を説得しようと言葉を探り、けれども足下から発される無言の圧力に耐えかね、結局は今日もその言葉を紡ぐのだった。
「ゆ、許しますっ」
「是」
すると待ちかねていたという風に、シャオランさんはするっと私の足から履き物を取り去り、甲にそっと唇を触れさせた。
軽く食むようにそこを挟み込み、ちろりと赤い舌で舐める。
そのこそばゆいような、また別のような、複雑な感覚にひくっと足と身体を揺らすと、彼はなぜか満足そうな笑みを浮かべた。そうして自分の頭を下げ私の足を手に持ち、そこに自らの額を振れさせる。
「宵藍はあなたに変わらぬ服従を誓う」
まるで密やかな愛を告げるように囁いて、彼は立ち上がると私に晴れやかな笑顔を向けた。なんというか、ちょっとだけむかつくかも!
複雑に眉をひそめた私にかまわず、シャオランさんは黒一色のマントのようなものを羽織ると、こちらに軽く一礼して背を向けた。
出かけるために廊下へと続く扉に手をかけ、ふと思い出したようにもう一度私を振り返る。
「しつこいようだが、部屋から出てはいけない。何かあれば俺の名を呼んで。俺は必ずあなたの助けとなる」
「わかって、ます。大人しく待ってます……」
毎日毎日噛んで含むように言い聞かされる言葉に、私は小さく頷いた。なんか、過保護な親とその子供、みたいな感じ。
私の素直な返事にやっぱり嬉しそうに笑うと、彼は今度こそするりと扉から外へと出て行ってしまった。足音はひとつも立てない、そんな身のこなし。
私に向けてくる不思議なほどの親愛のような感情は、ちょっとだけ大型犬のようでもあるけれど、彼自身は山猫みたいな感じ。
基本的に物静かで、何かする時に音を立てるってことがない。
ついでにいうと気配もないので、時々とんでもなく近くから話しかけられたりして、そろそろ私の心臓も疲労気味……。
シャオランさんの姿が消えて、どうでもいいようなことをつらつらと考えつつほっと一息ついていたら。
「邪魔するわよっ」
「うわっ」
バタンっと乱暴に部屋の扉が開け放たれ、思わず見惚れてしまう美貌の女性がずかずかと中へと入ってきた。私はベットの上で飛び上がる。本当に、もう、心臓……!
真っ赤なふわふわの髪をなびかせて、氷のような青の瞳で私を見下ろす――というか睨み付けるのは、この宿の女主人であるラサさんだ。
その燃え立つような美しい容姿に負けず劣らず、性格のほうも鮮烈で苛烈。私がここに連れてこられてからずっと、何かしらの嫌みを言い続けている人でもある。
事情はよく知らないのだけれど、どうもラサさんはシャオランさんのことが好き、なのかな。これはただの女の勘、だけど。
「あんた、ここに来てどのくらいになる?」
「え! あ、ええと……ふた月くらい、でしょうか」
真っ赤に塗られた艶のある唇から突然発された質問に、私は少し考えつつそう答えた。
この宿で寝起きするようになってから、朝と夜を数えて多分そのくらいになる。ここには時計がないし、私も腕時計をしてないし、持ち歩いていた携帯は鞄ごと元の世界に落としてきてしまったし。
だから、これはまったくの私の体感時間でしかないんだけど……。
ちょこっとだけ自分の答えに不安を持ちながら、ラサさんの派手な美貌を見上げれば、彼女はぎゅっと不機嫌にその整った眉をひそめた。そして大袈裟にため息をついてみせる。
「あんたねえ、ふた月くらい?じゃないわよ、本当に鈍くさい娘ねえ!」
「ご、ごめんなさい……」
「誰が謝れって言ったのよ! とにかくさあ、あんたふた月も部屋に籠もってぼやぼやして、ルワンロンにだけ働かせて……情けないと思うないわけえ?」
あからさまに蔑みの視線を受け、私は縮こまってしまう。
それは突かれると痛いというか、触って欲しくなかったというか、何よりも自分が一番痛切に感じていたことだった――。