閉じられた扉
シャオランさんよりも日に焼けた素肌に、青白い蓮の華の入れ墨。
緋色の牡丹が乱れ咲くのとは違い、ユワンと名乗った青年の胸には蓮の大輪がひとつだけ咲いていた。
ふ、と大人びた微笑を私に向け、ユワンさんは手のひらを私の額へと触れさせる。
シャオランさんのものとは違う、大きな手のひら。彼のものよりもずっとタコだらけで、労るように撫でられればその感触に身体が震えた。
それと同時にすうっと内側へ清涼な何かが流れ込んでくる。
原因不明の痛みに苛まれていた私は、その不思議な感覚に知らずに詰めていた息をゆるゆると吐きだした。
「こういうの、俺はあんま得意なほうじゃないけど、気休めくらいにはなるだろ」
何の邪気もない笑顔でそう言うと、ユワンさんは少しだけ表情を鋭くして、黙ってこちらを見つめていたシャオランさんに問いかけた。
「んで? まだやる気か?」
痛みと熱が過ぎ去った後のぼんやりとする視界の中、シャオランさんはすでに全ての表情を消し去っていた。
それはどこか歪な静寂。
悲しいのに、悲しみを表せないような。悲しいことがありすぎて、どうしたらいいのかわからなくなってしまったような、そんな顔。
ふと、胸を突かれる。
――私、この人にそんな顔をさせたくない。
「シャオラ……」
「ちょっとおお! あんたたちはさっきからドカスカなに暴れてんのよ!」
言葉を無くしてしまったかのように黙り込むシャオランさんに、どうにか声をかけようとした矢先。
いつものように傍若無人に部屋に入って来たのは、見慣れた赤髪の美女――というか、一応美青年――であるラサさんだった。
マイペースに怒鳴り散らし、私とユワンさん、そしてシャオランさんが対峙している浴室まで歩いてくる。そうして、ちょっと緩んだけれどまだひりついた空気を見て、すうっと猫みたいな目を細めて。
「子供じゃあるまいし。うちはこれでも客商売なんだからね! その子はあたしが預かるから、あんたたちはとっとと働きに行きな!」
燃えさかる炎のような怒りを二人にぶつけると、そのままラサさんはユワンさんの腕の中から私の身体をひったくった。
まだ力の入らない身体は、簡単にラサさんの腕の中へ。
「ラサ……っ」
「ああ、ルワンロン。お前、俺の名前を盾にしておいて、まさかコレだけを安全圏で匿おうなんて、そんな甘ったれたこと考えてねえよなあ?」
がらりと艶を含んだ声音が変わる。
抜き身の刃を喉元に突きつけるような、そんな男の声に。
ラサさんのその言葉に、視界の先、凝った表情のシャオランさんが小さく肩を揺らすのが見えた。ゆっくりとラサさんが両腕で私を抱き上げる。
は、と嘲るような笑い声を零して、そのまま彼と私は部屋の扉へと近づいた。
「コレは一度俺の鈴をつけて店に出た。何かあって、無関係ですなんてことはもう通らねえよ。その代わり、お前が今までと同じように“お掃除”頑張るなら、俺も傷ひとつつけずに守ってやる。わかったら、さっさと行け、ゴミどもが」
言うだけ言ってシャオランさんの返答は待たず、ラサさんは扉の外へと出てしまう。
扉が閉まる前、ラサさんの影からようやく首を動かしてちらりと振り返った先に、シャオランさんの姿。
縋るような、どうしようもなく切ない瞳に私が何か言う前に、扉は閉められた――。
***
「あんったはねえ、ホントに騒ぎの元にしかならないわ!」
「ご、ごめん、なさい……」
抱き上げられたまま廊下を移動して、連れてこられたのは何やらとっても豪奢な一室。どうやらここがラサさんの居室らしい。
殆ど裸の私をぽいっと天蓋付きのベットに投げて、それから彼は近くにあったタンスのようなものを漁り始めてしまった。
黒く磨き上げられた、一見して高級品とわかる家具。ゆっくりと辺りを見回してみれば、多少散らかってはいるものの、派手ではないが品の良い家具でまとめられている。落ち着いた緑色の壁には、ぎょっとするほどの数の鞭。
物珍しげに視線だけあちこちにやる私の顔に、柔らかくて大量な何かが降り注いだのはその時だった。
「ひゃっ」
「傷ひとつつけないってこのあたしが約したからには、あんたの膜を破ってやるわけにいかないからね。そのまんまでいられると、さすがに目の毒なのよ」
「え、え?」
わけのわからないまま、重たく感じる手を伸ばして顔に落ちてきたそれをつまみ上げる。
それは色とりどりの、下着。下着。下着の山。
しかも自分では絶対に選ばないような、レースやフリルがふんだんに使われたいわゆる勝負下着と呼ばれるような……。
「目測だけど、あんたの寸法はそんなもんでしょ」
「え、ええ!?」
「言っとくけど新品だから。商売柄、置いてんのよ」
「しょ、商売?」
話についていけなくてもたもたと問い返せば、ベットの傍までやって来たラサさんがはあっと大きくため息をついた。
また怒られる!と目を瞑って肩をすくめると、ふっと空気が動くのを感じる。そしてぎしり、とベットが軋む音がして、鼻先に甘い甘い匂いが掠めた。これ、ラサさんの香り……?
えっと思って慌てて目を開ければ、目一杯の近さにラサさんの美貌。
「ら、ラサさんっ」
「うちがただの飯屋だと思ってたりするのか、お前」
「ち、違う……んですか?」
またもや声音を変えたラサさんに、疲れきった身体を引きずるように後ろに下がりながら、私は言葉を返す。
するとラサさんは面白いおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべ、瞳を光らせ、ずり下がる私を追いかけるように顔の側へと手をついた。その細身の身体で私を囲うように、どこにも逃げ場がないように覆い被さる。
「飯屋はまあ、前座だな。四大門に来る荒くれ男どもが、腹を満たせば他に何が欲しくなると思う?」
「ラサさん、や……っ」
舌なめずりでもするように、顔を傾けて彼の視線から逃れようとした私の耳に、毒を吹くんだ声を吹き込む。ぞわり、と総毛立つ私の反応に喉の奥で低く笑って。
「女、だよ。女の身体」
まるで愛の言葉でも囁くように熱を籠もらせた声が耳を嬲る。そのまま、彼が私の耳たぶを柔く噛んで、私は全身を震わせた。この人、怖い……!
脳裏にこの間、こうして押し倒されて泣かされたことが思い出される。今度はもう絶対、シャオランさんは助けてくれない。くれないと、思う。
今日まであんなに甲斐甲斐しく、右も左もわからない私を世話してくれたのに、私はよく理解できない恐怖で彼を拒絶してしまったんだから。
彼がどこかへ行くのに、私にあの儀式を求めなかった。
きっともう、嫌われた……!
「は、お前また泣いてんのか。泣かすのは俺の趣味だが、他の男を頭に浮かべて“泣かれる”のは腹立たしい」
ぼやくように呟き、ラサさんは私から身を引いた。
遠のいた体温にほっと胸をなで下ろして彼を見上げれば、いつものようにきつく睨み付けられる。
「とりあえず、早く着なさいよ。あれだけ煽っちゃったし、“今は”さすがのあたしでも部屋には入れないからね。それでガマンなさい」
「は、はいっ」
「あたしは下に行くけど、部屋にいる限りは好きにすればいいわ。じゃあね」
急に興味を失ったようにそれだけ言い捨て、ラサさんはさっさと部屋を出て行ってしまった。
残された私はベットの上で下着に囲まれたまま、再び大きく息をつく。一日の間に何もかもが起こりすぎて、正直頭のなかがオーバーヒート状態だ。
さっきユワンさんが何かをしてくれたお陰か、身体は痛みの余韻も残さず、ただ疲労感があるだけでもう何ともない。
確かめるようにゆっくりと身体を起こし、そうして渡された下着を手に取った。
「……隠れる面積が少ないのは、下着としてどうなんだろう……」
どうしようかとしばらく悩み、けれどこれを身につけなければずっと裸のままだ、と意を決し、私はその中から比較的面積が大きく淡い緋色のものを選ぶ。
どこか、シャオランさんの胸に咲く花の色に似ている。
ふと最後に見た彼の悲しそうな瞳を思い出せば、胸の痣が疼く。
のろのろと下着を身につけ、私は唐突にひどい痛みをもたらした胸の痣に手を置いた。
(カツラが俺を許し始めてる――)
(やはり、あなたは俺を許さないのか――)
正反対の感情を乗せた彼の言葉が甦る。
目を落として見れば、確かに花開くような形に変わっていたそこは、また元の姿に戻ってしまっている。
私の意志とは別の何かがここに宿り、彼を拒絶した。
(狂い咲き――)
あれは、誰の声?
私はいったい何? シャオランさんは、華人は、私の何なの?
次から次へと浮かんでは消えていく疑問に、私はくらくらとする頭を再びベットへと横たえた。
上質で柔らかな布団に潜り込み、ぎゅっと身体を縮めてふるりと震える。
わからない。何もわからない。どうしたらいいの。
固く目を閉じている私に忍び寄ってきた睡魔が、混乱する思考を吸い取ってどこかへと連れ去ってしまう。放棄してしまうのは卑怯だと思いながらも、私は今はただ、その柔らかな逃避に身を任せる。
シャオランさん……。
その名前を、微かに呟きながら――。




