痛みと蓮の華
――同じ殺し屋稼業
殺し屋って……なに?
シャオランさんは掃除屋さんじゃないの?
ここへ来てからしばらくして、お世話になりっぱなしで申し訳なく思っていた私を安心させるように、彼は「街の掃除をしているからお金は心配しないでいい」って言ってくれた。
それは、嘘?
「あれっ、姫さんは知らなかったの? ルワンロンって言ったら、けっこう有名なんだぜ? 容赦なくばらっばらに切り裂いちゃうから、ついた通り名が『散らかし屋(ルワンロン)』ってな!」
無邪気に告げられたその言葉に、私の脳裏にはこの世界に来てすぐの時のことが思い出された。
私に乱暴しようとした男の人たちを、一瞬にして切り裂いたあの時の光景。
音もなく切り裂かれていく身体。壊れたおもちゃのように散らばる手足。返り血のひとつも浴びることなく佇んでいた、シャオランさんの姿。
まるで息をするかのように簡単に人を殺した彼。
この目で確かに見たのに、あれが普通のことだとは思わなかったはずなのに――。
ずくり、と胸の痣が疼く。
無意識に胸元へと手をやり、固く握りしめる。何かから守るように。
青年の言葉に動揺する私に、シャオランさんは特に何も言うことはなく、壊れ物でも扱うかの如く優しい仕草で自分の背後へと押してやった。そうして、艶然とした微笑を青年へと向ける。
老若男女誰しもが見とれずにはいられないような、背筋に甘い疼きが走る微笑み。それを真正面から受けた青年が、さすがに頬を染めたのが見えた。
「な、なんだよう。俺、そっちにはまだ足を踏み入れてないっていうか。いや、興味はないわけじゃないんだけどさ、やっぱり突っ込むほうが性に合ってるっていうか!」
「気が合うな。俺も突っ込む方が好みだ」
言うやいなや、艶やかな笑みもそのままに、シャオランさんが右腕を横一直線に薙ぎ払う。
浴室の窓から入る淡い光りにきらめく鋭い光り。握られた、小刀の。
息を飲む間もなく迫る刃を見て、三つ編みの青年は不意に後ろへと身体を傾ける。ゆっくりと流れる空気。粘性の何かで満たされたような緊張感。
確実に青年の首を狙った攻撃を紙一重で避け、けれど彼の纏ったシャツが切り裂かれる。
柔らかく後ろに倒れた青年は、床に両手をついて足を跳ね上げ、カンフーシューズのような靴のつま先でシャオランさんの手を狙う。
小刀を手にした右手を蹴られかけたシャオランさんは、やはり慌てることなく手を少し上げ、それからくるりと小刀の柄を返した。すぐさま、握り締めたそれを青年の足の甲を目がけて振り下ろす。
しかし、反撃を予期していた青年は逆立ちのように足を真上に上げ、そうして後ろへ後ろへと飛び跳ねて間合いを広げた。
「怒ってる時には怒った顔しろよお! びっくりするだろ!」
浴室の扉をすり抜け、寝室兼居間のほうまで飛びずさった青年がそう叫ぶと、シャオランさんは小さく舌打ちをする。冗談でも何でもなく、多分ものすごく本気で彼を殺そうとしてたって雰囲気。
私には絶対に向けないぴりぴりとした空気を感じて、身体が震える。
この人は私を絶対に傷つけない――だけど。
それは本当のこと?
(ヤメテ)
(ヤメテ、ヤメテ)
(バケモノ、ヒャッカ、クルイザキノ――)
(ドウゾクゴロシ!)
警笛のようにわけのわからない言葉が頭の中を駆けめぐる。
すると、今まで感じたこともないような痛みが胸から全身へと走り、私は小さな悲鳴を上げてしゃがみこんでしまった。
「カツラ!」
すぐさま青年から私へと意識を切り替えて、シャオランさんが同じようにしゃがみこみ、私の肩へと手をかける。
指が細く長いせいで見た目はたおやかに見えるそれは、むき出しの肩に触れれば間違えようもなく男の人のものだった。さっきのように日常的に武器を手にしているからなのか、手のひらはごつごつとしている。
その感触に、私は本能的に身を強張らせた。
「……カツラ?」
「あ――」
俯いた顔を下から覗き込まれ、心配の色を湛える黒の瞳にびくりと再び肩を揺らせる。それをどうとったのか、シャオランさんはふと顔を強張らせ、口を引き結んだ。
その間もずっと、痣の辺りを中心とした痛みは止むことはなく、私は胸元を掻きむしるようにして大きく息を吐く。
何か重いもので強く胸を叩かれているような、そんな痛み。
全身で息をする度に痛みが走り、痛みがあることによってますます息が詰まるという悪循環。短く息をする私をじっと見ていたシャオランさんは、不意に私の身体を包んでいたタオルを剥ぎ取った。
「あ、や……っ」
何も身につけないままの素肌を両手で隠そうとすれば、その手を簡単に片手で阻止したシャオランさんは、それとは反対の腕で私の喉元にそうっと触れた。
節ばった彼の指はつと首筋を辿るようにして鎖骨のほうへと落ちていく。その妖しい感触に、私は身をよじる。苦しい。恥ずかしい。やめて!
「や、だっ……!」
「……やはり、あなたは俺を許さないのか」
自らの指先を辿るように視線を落としたシャオランさんが、ふっとした呟きを落とした。低く、ひどく絶望したような、そんな声で。
私は苦しみと痛みと恥ずかしさとがごっちゃになったまま、半分泣きながらひたすらに彼の名前を呼んだ。
「シャオ、ランさんっ! シャオランさんっ、シャオラン……っ」
「可哀想なカツラ。可哀想。可哀想に……」
「んっ」
何かに魅入られたように、全ての表情が抜け落ちたシャオランさんの顔が、私の胸元へと近づいていくのが見える。
かさついて、けれど柔らかい微かな体温が痣に触れて。
「あ、ああ、あ――っ」
痣に唇を落とされた瞬間、今まで以上の激痛が身体を襲う。
いつもなら言葉では表現できないような悦楽が溢れるのに、今はまったく正反対の、痛み。
痛くて、痛くて、離して欲しくてめちゃめちゃに暴れるのに、シャオランさんの身体も腕もびくともせずに口付けを続ける。
ざらり、と生暖かい何かが痣の上を這った。
いつの間にか外された手は、だけどもう抵抗する力もなくだらりと垂れ下がり、痛みに苛まれる身体はシャオランさんに抱きかかえられて動けない。
どうして?
どうしてこんな、ひどいことするの!?
心の中に住み始めていた男の姿を、幻とわかって問いつめる。
ちっとも緩まない痛みに耐えかね、私の目からは涙が零れ始めていた。この拷問のような行為が続くなら、いっそう気を失ってしまいたいと思った矢先。
「なあ、その命華人はあんたを拒絶してるんだぜ?」
間合いをとって離れていたはずの青年の声が近くで聞こえ、次の瞬間にはものすごい勢いでシャオランさんが私の傍から吹き飛ばされる。
崩れ落ちそうになった私の身体を、今度は青年が抱き上げた。
「おーい、姫さん生きてるか?」
痛みの余韻に自失しかけている私に声をかけながら、青年はシャオランさんに剥ぎ取られて床に落ちていたタオルを身体に被せてくれる。
激しい痛みが遠ざかり、ほうっと息をついた私を見て、青年は安心したように笑った。
「……手を離せ。それは俺のものだ。俺の命華人。俺の上位者。俺の、俺の―― !」
静かに、けれど狂ったような呟きを繰り返して、浴室の壁へと叩きつけられていたシャオランさんがゆっくりと立ち上がる。
そうしてこちらへと伸ばされた腕に、さっきまでの痛みを思い出した私が悲鳴を上げると、はっとその黒い瞳が見開かれた。
過ぎったのは、痛み。
一瞬にして暗い熱が消え去ったあとに残されたのは、ひび割れたような痛みの表情。
差し出された彼の手が力無く、落ちる。
「ふうん。理性の最後の一欠片は残ってるってわけか」
荒れることのない声音で呟くと、青年は力を抜いたシャオランさんを見やる。
前とは打って変わって力無くその瞳を見つめ返したシャオランさんは、何かに驚いたように息を飲んだ。
「お前、は」
「あんたがいきなり襲いかかるもんだから、せっかくめかし込んできたのに上着が台無し! でもまあ、驚いてくれたんならまあいいや」
からからと笑って、青年はさっきシャオランさんに切り裂かれた上着をするりと脱ぎ捨てる。
私は彼に抱えられたまま、ふと顔を傾ければそこに――。
「……蓮の、華……」
「そうさあ! ようやく自己紹介させてもらえるなあ、姫さんよ。――俺は元。蓮の華人だ、よろしくな!」
はだけた胸元には美しく描かれた蓮の花が刻まれていた――。
※作中表記は「元」となっていますが、本当は「連」の「車」の部分が「元」という漢字になります。
読み方については、「ユアン」が正しいかとは思ったのですが、参考にした「色の名前」という本の通り、「ユワン」とさせて頂きました。




