繋ぐ紐
とりあえず落ち着いて、とお茶を淹れようとすれば、まだ不満そうにしていたシャオランさんがそれを手伝ってくれる。……というより、ほとんど彼が淹れてくれた。
元々備え付けられていたのか、それともシャオランさんが用意してくれたものなのか。薄く作られたそれは、私が使うには不相応なほど高級感に溢れている。真っ白く丸みを帯びた側面には、彼の胸に咲くのと同じ牡丹の花柄。
男性らしい大きい手が持つには小さなそれを、シャオランさんは優美に扱う。
その動きに見とれていると、目の前に花の香りのするお茶が差し出された。甘い、香り。
私はお礼を言ってお茶を口に含んだ。
「美味しいです!」
「カツラが嬉しいなら俺も嬉しい」
シャオランさんにもし尻尾があったなら、今千切れんばかりに振られてるんだろうなあ……と思ってしまうほどに、輝かんばかりの笑顔。
自らも茶碗を手にした彼は、なぜかそのままベットの上、私の隣にぎゅうっと詰めて座ってきた。ええっと。
「……あの、シャオランさん」
「なんだ。おかわりならもっとある。別の茶葉もある。あなたの気に入るものがないのなら、茶屋に行っていくらでも買ってこよう」
「ま、満足ですっ、美味しいですから!……じゃなくて、その……どうして隣に座るのかなあ、と」
「くっついていたほうが安心する。傍にいないとカツラはすぐ危なくなる」
大まじめにそんなことを言われ、私は反論しようとして――黙り込んだ。
なんというか、意見のしようがない。昨日のことが頭に浮かび、私はうなだれた。
「昨日は、本当にごめんなさい。私が言いつけを守らなかったから……」
「この街には色々なものが入り込む。ラサはかなりの有力者だが、だからと言ってこの中が安全だと言い切ることは出来ない。俺はあなたを大事にしたい」
深い色を湛えた黒の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
何の偽りもまとわないその瞳に、私は本当に申し訳なくなって小さく頷いた。すると、華が開くようにシャオランさんは完璧な笑みをこちらに向ける。
……完璧すぎる、笑顔を。
「だから、下位者である宵藍はいいものを買ってきた」
そう言って彼がズボンから何やら紐状のものを取り出した。
太くも細くもない、少しだけ無骨な造りのそれは何の装飾もないただの紐に見える。象牙色紐を、シャオランさんは何でかとっても嬉しそうに私へと差し出した。
「だから、これを」
いつもの端的な言葉に私は首を傾げる。
彼が手にしている紐は、見たところ何てことはない普通の紐だ。紐以上でも紐以下でもなく、とにかくただの紐。
ううん、とさらに深く考え込んだ私の頭に、ふと恐ろしいことが浮かぶ。も、もしかして!
「しゃ、シャオランさん、私っ」
「大丈夫、優しくする」
なぜかきらきらした瞳で、紐を手にゆっくり迫り来る美しい顔に、私は全身の毛穴がぶわっと開くのを感じる。何ていうか、本能的な恐怖、みたいな?
もしかして、もしかして、もしかしなくても!
私、これでベットに縛り付けられて部屋に監禁されるとか、そういうオチなの!?
あわあわと慌てる私の身体を、不自然なほど自然にベットの上へと押し倒したシャオランさんは、その瞳の奥に興奮の色を宿らせた。心なしか頬が赤く上気している。
「や、やですっ」
「何も怖いことはない」
あなたが一番怖いんですっとは言えず、私は何をされるのかわからない恐怖に、ぎゅっと目を閉じた。それじゃ、何の解決にもならないってわかってはいるんだけども!
ふ、と彼が笑う気配がして、それからついっと足首を持ち上げられた。
手ではなく、足。
えっと思う間もなく、いつものようにそこに彼の舌が這わされた。えええ!?
「シャオラン、さんっ!?」
「あなたはいけない人だ、カツラ」
「な、なに……っ!?」
右足を拘束したまま甲に唇を落とし、ひくっと反応して足裏を見せれば、土踏まずにまで舌を這わされる。くすぐったくて身をよじれば、今度はふくらはぎを甘噛みされ、膝の裏をざらりと舐め上げられた。
いつもよりもそこはかとなく際どい行為に、私は唇を噛み締めて漏れそうになる吐息を飲み込んだ。
唇が膝に口付けを落とす間、足首には彼の長い指が絡みつき、何かざらっとしたものが巻き付けられたのを感じる。そうしてシャオランさんの唇が離れ、私が目を開けた時には、右の足首にはさっきの紐の一部が巻き付けられていた。
上がってしまった息を整えながら私がそれに触れると、シャオランさんはその手を取って私をベットの上に抱き起こす。
まだ、ぐったりとしている身体を支え、さっきと同じように横に座った彼はとても満足そうに私の足首に巻かれた紐を見つめていた。
「あの、これ……」
「これは血帯。カツラの声をもっと届きやすくする。同じものを俺もする」
そう言って興奮気味のシャオランさんは、紐の残りを私へと押しつける。まだぼんやりしたままそれを受け取れば、彼は私へと背中を向けた。ど、どういうこと?
わけがわからず紐を受け取ったまま、一面に牡丹の華の散る背を見つめていれば、彼は少し焦れたように自分の首をぽん、と叩いて見せた。
「俺の首に巻いて、カツラ。巻いて、固く結んで。決して外れないように」
「で、でも」
シャオランさんが私に何をさせたいのか、その意図がわからず戸惑っていると、彼は再び私へと向き直って口を開く。
「血帯は法術士が力を込めたもの。これに血を垂らしお互いに結べば、どちらかが切れた時にもう片方も切れる」
「ほう、じゅつし? 切れるって……?」
彼が一所懸命説明してくれればしてくれるほど、私の知識とはかけ離れた言葉が次から次へと語られて、さらに混乱してくる。
目を白黒させる私を見て、シャオランさんは少し困ったような表情になった。彼もまた、あまり言葉にするのが得意じゃないみたいだから、よけいに申し訳ない気持ち。
「カツラは、昨日みたいな時にもっと抵抗するべきだ。さっきみたいに、目を閉じてはいけない。諦めてはいけない。怖いことある時には、この紐を引きちぎればいい。そして俺を呼んで。俺の名前を」
「シャオラン、さん……」
「そう、その名前。この紐が切れれば、俺のほうに巻かれたものも切れる。そしたら宵藍は、昨日よりもっとずっと早くあなたの元に駆けつける。あんな風に誰かにカツラを好きにさせたりしない。触れさせたりしない。カツラは宵藍の命華人だ。俺の――!」
そこで言葉を切って、彼はどうしてなのかひどく悲しそうに瞳を細めて私を見る。
沼地で初めてであった時のように、喜びと同時に深い悲しみを黒い瞳の中に感じた。なんか、迷子の子供が母親を見つけた時みたいに。
すがりつくような、愛情。
私はすごく胸が苦しくなって、思わず大きく頷いていた。
「わ、わかりました! 私、もっと頑張りますから、だから……!」
「ではカツラ、それを俺に与えて?」
「は、はいっ」
もう一度背を向け、ひとつ結びにされていた髪をさらりと避けて、シャオランさんが男の人にしては妙に色っぽいうなじを晒す。
私は促されるままに手にしていた紐を、彼の首に巻き付ける。一重では余るので、苦しくならないよう余裕を持たせてもうひと巻き。
何だか飼い犬に首輪を付けてあげる時みたいで、なんか、なんかなあ……。
そうして首の後ろでぎゅっと強く結ぶと、私はシャオランさんへ声をかけた。
「あの、結び終わりましたけど……」
「好!」
首に巻き付けられた紐を手で確かめながら、シャオランさんは満足そうに笑い、私の手を取った。
硬い、たこだらけの指先に強く異性を意識した私が照れて視線をそらした、その隙に。
「い、た……っ」
親指に走った鋭い痛みに声を上げ視線を戻せば、シャオランさんに握られていたはずの指の先には刃物が押し当てられていた。
あれは確か、簡易の台所に置いてあった、果物ナイフ!?
甦った恐怖に手を取り戻す暇もなく、ぷつっと親指からは真っ赤な血が滲みだした。それをさらにぎゅうっと絞られる。
「や、痛いっ、やめて!」
「カツラ、ごめんなさい。もう少し、我慢して」
流れ出した赤に魅入られるように、シャオランさんは掠れた声で呟くと、私の指を自分の首元へと導いた。さっき結んだばかりの紐に、親指を強く押し当てる。
すると、象牙色だった紐は何か魔法のように、一気に朱色へと変化した。その見事な鮮やかさに、思わず痛みも忘れて私は驚き、息を飲む。
ど、どういう仕組みになってるの? あれって私の血の色なの?
半ばパニックになって固まってしまった私の指を、シャオランさんが口に含んだことで正気に返る。
傷つけられた箇所を丁寧に舐め取られ、ぶるりと身体を震わせると、彼はなんとも名残惜しそうに指から唇を離した。心なしか、ちょっとだけ酔ったように瞳が揺れる。
「カツラの血は、俺にとっても美酒のようなものだから。……今度は、俺の番だ」
解き放たれた指先を胸の前で握り込んだ私に、シャオランさんはとろりとした艶めかしい視線を落とす。
そしてあっさりと同じナイフで自分の指を傷つけると、部屋の中には昨日と同じ華の匂いが広がった。どうしても抗えないような、とてもいい匂い。
喉が渇いて、身体の内側から熱くなるような。
私はふらふらと揺れだしてしまった身体に逆らえず、ぽすんと再びベットの上に横たわってしまった。
それを見て、シャオランさんは嬉しそうに笑う。
「カツラと俺とを繋ぐ」
そう言って彼は無抵抗の私の足を持ち上げ、ついさっき結んだ紐に指から流れる血を含ませた。
高く掲げられた足首の上で、彼の首に起こったのと同じ現象が起こる。象牙色から朱色へと。私は心地よい気持ちでそれを見つめていた。
それから彼の指先から流れ落ちていく血を。
私のその視線に気がついたシャオランさんが、横たわる私の顔まで近づいて、まだ鮮やかな血が流れ出す指を見せつけるようにかざした。放たれる芳香。
我慢できずに小さく鳴った喉に、彼はとても意地の悪い微笑みを向ける。
「これが欲しい? カツラ」
私はその甘美な問いに、逆らうことを忘れて頷いていた――。




