甘い嫉妬
誰かが低く歌ってる。
ゆらめくような穏やかな声音。聞き覚えのない遠い国の言葉。
でも、すごく懐かしい。なんだか涙が出てくるほどに。
温かい何かに優しく包まれて、幸せに胸が詰まる。そうして知らず目尻から零れた涙の欠片を、硬くざらついたものがそうっと拭ってくれた。
そのまま甘やかすように頬にかかった髪を梳かれ、私はその温もりに頬をすり寄せた。
「……カツラ?」
耳に吐息を吹き込むように、囁かれた自分の名前のくすぐったさに首をすくめる。すると、誰かは喉の奥で少し笑ったようだった。
ひどく甘い、甘い空間。
私は心に何も纏わないまま、全部をこの温もりに預けていて。そしてこの懐かしい体温を持つ人は、それを咎めることなく受け入れてくれている。なんて、幸せな――。
そこで、目が覚めた。
窓の側にしつらえてあるベットにそそぐ光は、掛けられている布を通して柔らかく。ぼんやりと滲む視界に薄紅と緑が映る。
綺麗な花だなあ。
夢の余韻に浸ったままの私は、そうっとその花に手を触れさせてみた。
流れるように描かれている緑に指を這わせ、胸の間にある大輪の牡丹にたどり着く。もう一度それを繰り返そうとして、私の指は優しく掴まれそれを阻まれた。
「カツラ、いたずらはよくない」
「……シャオラン、さん?」
笑みを含んだ甘い声が頭の上から降ってきて、続いて捕らわれた指先に柔らかい温度が触れる。ちゅっと強めに吸い付かれる感覚に、私の意識は一気に覚醒した。
「しゃっ、しゃっ、しゃっ」
「起来。おはよう、カツラ」
指に唇を付けたままそう言うと、シャオランさんは顔を上げた私に視線を合わせ、それからとろけるような微笑を浮かべた。
何ていうか、朝から卑怯なほど輝いているんですけど……っ。
「身体は何ともないか? どこか痛むところは?」
「だ、大丈夫、です!」
近づいてくる美しい造作に、未だ慣れない私は慌てて首を振る。
それでもシャオランさんの黒い瞳は心配そうな色を湛えて、じいっと私の目を見つめたまま。しばらく、二人とも無言で。ええっと、ええっと、これは一体どういう……。
というか、私何がどうして――。
うん、と唸りながら必死に昨日のことを思い出そうとして……私はがばっと勢いよく身を起こした。
「カツラ、どうした?」
「わたっ、わた私、き、昨日っ」
「昨日はあのまま眠ってしまったから、俺がここに運んだ。服は勝手に脱がせるとカツラは怒るから、そのままだ。すまない」
「や、それは別に……じゃなくて、あの、私昨日とんでもないことを!」
一気に甦ってきた昨日の記憶に、私はさっきとは違う意味で早鐘を打つ胸を手で押さえる。
男にセクハラされ、ラサさんが男の人で、鞭で、よくわかんないけど意地悪されて、シャオランさんが怒って……。
見る見るうちに真っ赤になっていく私を、同じように身を起こしたシャオランさんが不思議そうに見つめている。その首筋に、かすかな傷痕。
わああああっ!!
舐めた! 舐めちゃったよ!
ラサさんに平手をしたことよりも、そのことのほうを叫びだして忘れてしまいたい!
すると、私の視線を感じ取ったシャオランさんは、なぜかはにかんだような笑みをこぼして傷痕に手を当てた。
「カツラはとても可愛らしかった……」
「忘れてください! お願いだから、昨日のことは忘れて!」
「不。それはできない」
「めっ、命令ですっ」
「従えない」
服従するって、服従するって言った癖に!
半分涙目になりながら彼の顔を睨み付けても、何だかいっそう嬉しそうに微笑むばかりで、ちっとも効果はない。主従ってこういうものなの!?
今すぐここから消えてしまいたいほど恥ずかしくて、私はベットの上にぺたりと座り込んだまま、顔を覆って俯いた。あんなの、正気じゃなかったもの!
ぎしり、とベットが軋み、ふわっと小さくなったままの身体が温かなものに包まれる。
「命華人が、相手の血に酔うのは恥ずかしいことじゃない。対を為す華同士なら、お互いの全てに酔うものだ。俺は嬉しい」
「血に、酔う?」
私の身体を背後から抱き締め囁くシャオランさんのその言葉に、私は首を傾げる。
そういえば彼の首から血が流れた瞬間、何とも言えない濃厚な華の匂いが部屋中に広がって、それを吸い込んだからものすごくふわふわとしてしまって……。
あれが血に酔うっていうことなのかな。
「是。対の相手の血や涙や汗や、そういうものに反応する。カツラはまだ開花していないから、刺激が強すぎた」
「開花?」
「ここ」
疑問だらけの話に問いを返せば、シャオランさんは胸を押さえていた私の手をそうっと外した。そうして、昨日着たきりの黒い上着の首元を緩ませ、器用にするすると胸元を開くと、慌てる私にかまわずそこに刻まれた華の痣に指を触れさせる。
寝ぼけた私が彼にしたように、赤いそれをつうっとなぞり、くすぐったさに身をすくめる私に囁いた。
「この華はまだ開いていない。蕾ではまだ駄目だ」
「痣が開く? これが蕾ってどういう……」
「もう少し。もう少し、俺は我慢する」
彼の不思議な言葉に私は、胸元を露出しあまつさえ微妙に恥ずかしいところを触れられていることも忘れてしまう。何を言っているんだろう、と振り返ろうとした私を、シャオランさんはますます深く抱き込んだ。
お腹に回された両腕で胸の中へ引き寄せられ、伸ばされた足は私の足に絡み、そうして首筋に彼の湿った息がかかる。それが複雑に胸をざわめかせ、身をよじって逃げようとした矢先。
「……カツラ、誰があなたの身体に痕を?」
「え?」
背筋も凍るような、地の底から響いてくるような声音に、私は本能的に身体を強張らせる。
何のことだかわからず、ぽかんとしてしまった私のうなじに、ぬるりとしたものが這った。
「ひゃっ」
「ここに赤い痣が残ってる。誰かがカツラに触れた痕だ。それは誰?」
「え、え」
ふつふつと沸き上がる怒りを無理矢理押し込めたような低い声。
シャオランさんのその声に、私はうなじを舐められたショックもどこかにやって、昨日のことを頭に思い浮かべる。赤い、痣?
何かあったっけ、と考え込んで、そして。
「あ――!」
あの、ラサさんに鞭打たれた挙げ句にどこかへ連れて行かれた、あの人!
私の表情を後ろから見て、心当たりに行き着いたのを悟ったシャオランさんは、どろどろと黒いものを含ませたオーラを噴出させた。
「カツラ、それは誰。今すぐ殺したい」
「え、や、その、えっと」
「フタアイ? セキロク? それともラサ?」
「あの、シャオランさん」
「言って、カツラ。大丈夫、ちゃんと殺す」
目が、目が笑ってないよ、シャオランさん!
凄絶に艶めかしい笑みをにじませた彼に、私はすでにその人にはラサさんから制裁が加えられたことと、現在多分行方不明なことを必死に説明する。
それでもいまいち納得できずに、ならフタアイかラサの責任だ、と部屋を出て行こうとする彼を私が押し止められたのは一種の奇跡だったに違いない。




