華に酔う
部屋のあちこちに置かれた照明に、シャオランさんが握る剣が鈍く光る。
少しでも動けばラサさんの細く白い首が切れてしまう、それほど精密にひたりと当てられた切っ先に、けれど彼は赤い唇を歪ませるだけだった。
「あら、お早いお帰りねえ。まさか、あんたがこの子に深名まで捧げてるとは思わなかったわ」
「何をしているのかと訊いている」
「残念ながら、まだ“ナニも”してないのよ」
押し倒した私を見つめながら、ラサさんは背後に立つシャオランさんへと軽口を叩く。その言葉に、彼の身体から発される殺気が膨れあがるのがわかった。
息も苦しいほどの、圧迫感。それに晒されてなお、ラサさんは笑う。
「お前が背後を許すほどに溺れる女が、どんなもんか興味があっただけだよ」
彼の言葉に、黒い瞳に怒りを渦巻かせていたシャオランさんは何かを言おうとして――息を詰めた。
無造作に括られた髪。ゆるやかにうねるそれが這うむき出しの首筋に、同じようにして当てられた光。三日月のように湾曲した、鎌のような刃物。
いつの間にそこに存在していたのか、シャオランさんの背後にはさっき店で見たセキロクさんが佇んでいた。
大柄な体躯に似合わずひどく物静かな空気を纏う彼は、微動だにせずじっとラサさんに剣を向けるシャオランさんを見つめている。何の感情も見えない、焦げ茶の瞳。
「……セキロク」
「ラジャウハリィ、どうする」
シャオランさんの口から零れた自らの名前には反応せず、セキロクさんは抑揚のない声で誰かの名前を口にした。ラジャウハリィ?
「だって。どうすんのよ、ルワンロン」
ラジャウハリィというその問いかけに答えたのは、私の上に乗ったままでいるラサさんだった。苦笑混じりのため息をつき、背後を取るシャオランさんを横目で見る。
「俺の首が飛ぶ前に、お前の首も半分は千切れる」
一向に切っ先を引かず、シャオランさんは殺気も怒りも隠すことなく剣を握る手に力を込めた。
それを感じ取ったのか、背後のセキロクさんもシャオランさんの首に置いた鎌を食い込ませる。ぷつり、と彼のむき出しの首から赤いものが一筋流れ落ちた。鮮やかな赤色に、私は息を飲む。
「試してみるか」
いつもより暗く感じるシャオランさんの瞳が、その時初めて妖しい光を讃えて細められる。
こんな状況なのにそれはひどく魅惑的で、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。同時に、広くない部屋の中に漂う濃厚な華の匂いにも気がつく。なんだろう、これ。
強いお酒の香りのように、頭の芯が少しの酩酊を覚える。
三すくみの緊迫した最中、私は現実感が遠ざかっていく頭でぼんやりとただ、なんとかしなくちゃ、と呟いた。
その小さな呟きに気がついたラサさんが、ソファに押し倒されたままの私に視線を戻した瞬間。
ばしん、と鈍い音を立てて私の手のひらが彼の頬にぶち当たった。
「な――っ!」
突然の私からの攻撃に、ラサさんを始めとして咄嗟に彼の首から切っ先を引いたシャオランさんも、その首に鎌を当てていたセキロクさんも、驚きに身を固くしたまま動けない。
そんな三人を見つめながら、私はへらりと笑った。なんか、みんな変な顔。
そのまま、ラサさんが身を引き自由になった身体を起こし、頭を振るう。ぽわぽわして、なんだかとっても楽しい気分。
「あん、た……!」
「いつまで人の上に乗ってるんですか、すっごく重いれすよ! もう、三人とも何をやってるんですか!」
私に叩かれた頬を押さえたまま、まだ呆然とこちらを見つめるラサさんを押しやって、ソファから立ち上がろうとして……ふらつく。あれえ?
くらくらふわふわとする身体を素早く抱き留めたのは、剣を手にしたままのシャオランさんだった。首から血を流したままの彼が近づくと、華の匂いはいっそう濃くなる。
「カツラ!」
「なんらろう。すっごくすっごく、いい香りぃ……」
いつもだったら恥ずかしくて近づくこともためらいがちなのに、今は何だかすごくいい気分で私はシャオランさんの身体にすがりついた。
刺激的で、だけど吸い込めば吸い込むほどに癖になるような、そんな香り。
私はうんと背伸びをしてシャオランさんの首筋に唇を寄せてみた。何の戸惑いもなく、流れる血に舌を這わせる。
「カ、ツラ……っ」
「ん」
ひくっと動いた身体を気にせず、血の流れた跡を追って舌を移動させていけば、身体にはさっきよりずっと強い酩酊感が訪れる。
気の済むまで舐め取って、ようやくそこから顔を離した時には、私はすっかりご機嫌になってしまっていた。そうして、シャオランさんに抱き留められたまま周りに視線を流せば、何だか呆れたような瞳が四つ、私たち二人を眺めている。んんー?
「どおしたんですかあ、ラサさん、セキロクさん?」
「……ルワンロン、なんだこれは?」
けらけらと笑い声をたてる私に構わず、なぜだか疲れたような表情をしたラサさんが、シャオランさんを睨み付けた。セキロクさんは、すでに鎌を引いてそれをじっと見守る。
「カツラは俺の血に酔った」
どこか微妙に嬉しそうな顔をしてシャオランさんが端的に言えば、ラサさんは美しく整えられた眉を顰め、それから大きな息を吐いた。
ソファから立ち上がり、心なしか赤くなった頬を押さえ、シャオランさんの腕の中でにこにこ笑う私に視線を落とす。さっきよりもいくらか素直に見える青の瞳に、私は舌を出した。
「いじわるな人とは、仲良くれきません!」
「……俺を殴っておいていい度胸だな」
「変なことしようとするからです!」
私の言葉に、ラサさんはふんと鼻を鳴らすとそれ以上は何も言わず、あっさりと背を向けて歩き出した。そして扉の前で止まり、ちらりとこちらを振り返る。
「まあ、今日のことは許してあげる。あの男のこともあったしね。だから、あんたはまた店に出なさい。拒否はさせないわよ」
「はあい」
「カツラ!」
気軽に返事を返した私に、焦ったようにシャオランさんの声が飛ぶが、その時にはもうラサさんの姿は部屋の中から消えていた。セキロクさんも彼に続いて部屋を出て行く。
私は高揚した気分と温かな腕の中で、すでにうとうとと眠気に襲われていた。
「カツラ、部屋から出てはいけないと俺は言った。知らない奴と話してもいけない。だから店の手伝いなど許さない」
「うん、眠い……」
「カツラ!」
耳元で繰り返されるお説教は、だけど何だか困ったような優しさに満ちていて、私は胸に頬をすり寄せながら目を閉じる。私を心配してくれている、その気持ちがただ素直に嬉しくて。
そのまま眠りに落ちていく私の頭上で、シャオランさんがひどく複雑そうなため息をつく。けれど、彼はそれ以上は何も言わずに私を抱き上げ移動を始めた。その温もりの中、私はこちらに来て初めて不思議なほど心の底から安堵し、意識を手放したのだった。




