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プロローグ 華の男

短編として投稿したものを、連載版に統合しました。内容は変わっていません。



「小娘っ、どこぉ行きやがったあ!」

「通った後がある、こっちだ!」


 まだ距離はあるが、先ほどよりは近づいてきている男たちの荒れた声。それを背にしながら、私はただひたすら足を前へと動かした。

 膝丈を越える草たちが、ふくらはぎまでしかない靴下から見える素肌に、小さな傷を付けていく。その痛みも、感じている暇はない。

 足下はぬかるんだ土。学校指定のローファーがそこに沈むたびに、私は崩れる身体を手をついて支える。ぬちゃり、と嫌な感触。

 なんで、どうして、何が起こってるの――!?

 額から流れ落ちる汗は熱いのに、身体の内側は恐怖に竦み、急速に冷えていく。セーラー服のスカートから出た膝が震えてうまく動かない。とにかくここから逃げなくては。


「出てこいよお! 可愛がってやっからあ!」


 げらげらと、下卑た笑い声を放ちながら、男たちは必死に逃げる私をじりじりと追いつめ始める。

 きっと、この人たちが本気ならば私なんてとっくに捕まっている。今でも私がこうして逃げられているのは、男たちがそれを楽しんでいるからだ。

 力のない者を、追いつめて追いつめて、そうして最後には捕まえて。

 はあっ、はあっ、と口から漏れる荒い息を、もう気遣う余裕すらなく、私は真っ暗闇の草原くさはらをただひたすらに走っていく。急激な運動と追いつめられていく恐怖によって、心臓は破裂しそうな鼓動を打っていた。

 こんなことになって、もうどれくらい時間が経ったんだろう。

 口の中は乾き、喉はひりついて、震える足はすでに限界に達していた。どうして、こんな……。


 こんな、変な世界に紛れ込んじゃったの!?





 いくら思い返してみても、その日もいつも通りの日常だったはずだ。

 母親に叩き起こされて父親と朝食を取って、ぎりぎりの時間になって慌てて学校へ走って、眠いのを我慢しつつ授業、友達と放課後までくだらないことを話して笑って、それで。

 夕闇の迫るざわついた商店街を、私はひとり家に向かって歩いていた。

 どこにも不安なんてない、むしろつまらないくらいの私の毎日。楽しみなのは今日の夕飯で、心配なのは明日当たる予定の数学のこと。

 それと、もうひとつだけ。

 今日はそのもうひとつの心配事のために、かかりつけのお医者さんの所に寄ってから帰る予定だった。

 産まれた時から私の胸に咲く、赤い痣。

 それはまるで牡丹の花のような形をしていて、身体が成長するのと合わせて少しずつ、花びらが開くように大きくなってきていた。同時に、時折じわりと熱が広がるような、不思議な感覚をもたらすようになって、初めて私は父と母に相談したのだった。

 それが中学生の時。高校生になった今でも、私は週に一度皮膚科に通っている。

 医者も首を捻る、私の痣。

 特に身体に何かあるわけでもなく、大きくなったように見えるのは成長に伴って皮膚が伸びたからだと。熱を持つように感じるのは、痣を気にしているせいじゃないかと、そう言われてはいるんだけれど……。

 この痣を心配しているのは、むしろ私よりも両親だった。

 特に母親の動揺は激しくて、お風呂に入る前は毎回痣の様子を見てはどこか悲しそうな顔をする。なぜなのかはわからないけれど。

 だからそんな母を安心させるためにも、無駄だとは思いつつ、私は今日も学校帰りに皮膚科へと足を向けるのだった。

 商店街の外れ、細い路地を通った先にその皮膚科はある。

 外観はぼろいけれど、御歳89歳のお爺ちゃん先生は温厚で、けっこう近所の人たちは何だかんだとお世話になっている所だ。

 いつもの通り商店街の喧噪を背に、その路地へと足を踏み入れた、瞬間。


「あ――!」


 思わず漏れる声。

 胸の真ん中、ささやかな膨らみの間にある痣が、疼いた。熱い感覚が、そこを中心として私の身体に広がっていく。今まで経験してきたものとは違う、もっと根源的な熱さ。

 その熱に耐えきれず、私は保っていた鞄を取り落とし、そうして自らも路地へと膝をついてしまった。

 胸を押さえ、どくどくと早鐘を打つ心臓を沈めようと、短い息を繰り返す。夕方の誰もいない路地に、私の呼吸音だけが響いては消えていった。

 貧血? 心臓発作?

 ふっと過ぎった不穏な言葉に、私は首を振る。違う、違う違う!

 その動きに、額から汗が流れて落ちた。熱い。身体の内側から焼き尽くされていくように、収まるどころか胸からの熱はどんどん高まっていく。

 誰か、誰か助けて!

 圧迫されるような苦しさに声も出せず、私は必死に商店街のほうを振り返る。そこまで這い出られれば、きっと誰かが助けてくれる。そう、思って。

 けれど、そこにはもう、商店街どころか何もない闇が広がっていた。


「う、そ――っ」


 苦しい息の下で、私はそう呟くのがやっとだった。

 振り返った先には何もなく、慌てて前に視線を戻せば向こうに見えていたはずの病院も、跡形もなく闇に飲まれて消えていた。

 商店街や病院だけじゃない。私の今いる路地さえも真っ暗な闇に取って代わり、そしてぐにゃり、と私の身体を柔らかく捕らえた。

 身体に起こっている変調と、突然の恐怖に私は心の中で悲鳴を上げ、四つん這いになってどこかへ逃げようとするけれど、もう遅い。

 まるで底なし沼のような闇は私の足に、手に絡みつき、そうして私はその中に飲み込まれてしまったのだった。





「うっ」


 丈の長い草に足を絡ませ、私は受け身をとることすら出来ずに沼地に身体を打ち付けた。口の中に、泥の味が広がる。にじんだ涙は痛みのためではなく、恐怖と諦めの複雑に混ざったものだった。

 すぐに身体を起こそうとするのだけれど、疲れ切った身体は私の言うことを聞いてくれない。それでも、今ここで諦めたら待っているのは……多分地獄のようなもの。

 私は自分を叱咤して、ぼろぼろと涙を流しながら何とか身体を起こした。けれど。


「つーかまーえたー!」

「あーあー、泥だらけになりやがって、小娘が! これじゃあ、舐め回せねえじゃねえかよ!」

「あ、ぐ……っ」


 セーラー服の襟元を掴み上げられ、ただでさえ途切れ途切れの息がいっそう苦しくなる。そのままがくがくと揺すぶられ、私はうめき声を上げた。

 私を追ってきたのは、見るからにまともではない男たち、五人。小汚い格好をして、酒臭い息を私に吹きかけてくる。

 路地裏で闇に飲まれ、気がついたらこの沼地にいた。

 そうして当て所なく、人を求めて歩いていた私が出会ってしまったのが、この男たちだった。それはもう、不運としか言い様がない。

 最初から私に下卑た視線を向けてきた彼らに、自分の身の危険を感じて逃げ出したけれど、それは彼らにとってただのいい暇つぶしだったようだ。

 息を切らせる私とは反対に、彼らは余裕な素振りでにやにやとこちらを見つめている。


「しかし、こんな痩せっぽっちの子供で楽しめるかあ?」


 釣り上げられたまま、苦しさにもがく私を見ながら、男のひとりが不満そうな声を上げた。

 楽しむ、ということは……私に待ち受けているのは想像したとおりの行為らしい。恋も何も知らないまま、私はここでこの汚らしい男たちに強姦されるのだ。


「ユディ、嫌ならおめえは外れたっていいんだぜ? 俺は突っ込める穴さえありゃあ、どんなんだっていいんだからよ」

「ばーか、お前は元々こういう青臭いガキが好きなだけだろうが」


 次々と交わされる卑猥なやり取りに、男たちが段々と興奮の度合いを高めていくのがわかった。酸欠になりかけている私は、恐怖に身を強張らせる。

 そして、意識を失いかける寸前、掴み上げられた時と同じように乱暴に、どさっと私の身体は沼から外れた草地へと投げ捨てられた。

 背中を強打し、痛みに喘ぐ私の上に、顔中を髭だらけにした男がのしかかってくる。


「こういう男を知らねえ小娘が、突っ込まれて股から血を流しながらわめくのを見るのが興奮するってもんなんだよ!」

「あ、や、やっ」


 足の間に身体をねじ込まれ、いきなり身体の中心へと手を突っ込まれた。

 それを阻止しようとスカートの上から手で押さえれば、いきなり平手が飛んでくる。ばしん、と耳に破裂したような音が響き、遅れて頬に痛みが走った。口の中に、広がる鉄さび。

 殴られた、とくらくらする頭で認識する。


「大人しくしろよ、大人しくしてれば、少しは優しく膜を破ってやんからよっ」

「おめえのでけえそれを突っ込むんじゃ、なにひとつ優しくなんてねえだろうが!」

「違いねえ!」


 はあはあと荒い息を吐きながら、私から下着を取り去った男が、ズボンのベルトを外しにかかる。周りはそんな彼を見ながら、卑猥な笑いを上げるばかり。

 足を開かされ、誰にも見せたことのない場所を食い入るように見つめられながら、私は恐怖に固まった身体を何とか動かそうともがいていた。

 そこに、二度目の衝撃。

 今度は反対側の頬を思い切り引っぱたかれ、脳しんとうのような状態に陥ってしまう。痛い、いや、怖い、やめて、触らないで!

 男のズボンから取り出されたそれが私のそこに触れた、その時。


「が――」


 悲鳴のような、何か妙な声を発したかと思ったら、男の頭が消えていた。手に男の印を握ったまま、私の身体の間で。どさっ、と何か重いものが草地に転がる音。

 遅れて頭が消えた場所から、噴水のように血しぶきが上がり、それは男の下に押さえつけられていた私の身体にも降りかかった。

 赤い、赤い、赤い。

 身体を濡らしていくそれを、私は呆然と見つめるしかできない。

 今、何が起こったというのか――。

 わからないのは私だけではなく、さっきまで下品な笑いを浮かべてこちらを見ていた残りの男たちも、呆然と首を刈られた仲間を見つめていた。

 ぐらり、と頭を失った男の身体が、吹き出す血に押されるようにして仰向けに倒れる。その音で、初めて男たちは正気を取り戻した。


「な、なんだ!? どうなってんだ!」

「まさか小娘、おまえが変な魔術を使ったんじゃ――」


 男のひとりがこちらに悪意を向けた瞬間、またもその頭が吹き飛び、身体はその場に崩れ落ちた。隣に立っていた男は血を浴びて、恐慌状態に陥る。

 わけのわからない悲鳴を上げながら闇の中に走っていく彼に釣られるように、残りの二人もまたてんでばらばらに走り出した。

 しかし、その足が、飛ぶ。

 聞いたこともないような悲鳴を上げて、男が転がる。手が、足が、まるで壊れたおもちゃのようにそこら辺に散らばって。そうして辺りがむっとする血の臭いに満ちる頃には、もう誰ひとり悲鳴を上げるものはいなくなっていた。

 じんじんと熱を持って痛む両頬を押さえ、私はずり上がったスカートを手で直して身体を起こす。何が、なんで……?

 ふっと、その時初めて厚い雲の絶え間から、月明かりのようなものが差し込んだ。その光に、血の海となった沼地に立つ人物のシルエットが浮かび上がる。ゆっくりと、雲が風に流され、闇に包まれた人の姿を露わにしていく。薄いベールを取り去るように。


 思わず息を、飲んだ。


 青い光の中から現れたのは、まだ若い男性。

 うねる黒髪を首の後ろで無造作に束ね、両の手には未だ血の滴る片刃の剣を持ち。意志の強そうな眉の下に輝く黒い瞳が、じっと私を見つめていた。射抜くように、真っ直ぐ。

 見慣れている日本人の顔よりも、少しだけ彫りの深い顔立ち。どこか淋しげで、それがまた艶やかさを引き立てているような、美貌。

 何よりも私の目を引いたのは、何も身につけていない上半身だった。

 あんな風に斬りつけたのに、一滴も返り血を浴びていないそこには、見事なまでに彫り込まれた牡丹の華が咲いていた。

 肩から胸を通り、ヘソの辺りまで。私からは見えないけれど、多分背中にも。

 薄紅に色づいた、大輪の華。胸と胸の間にあるものが一際大きく、流れるように小さな華がいくつも身体に散っていた。

 それはまるで、私の胸に咲くものと似た――。


「あっ」


 その時、私の胸の痣が強く疼いた。

 路地で感じた時よりも、もっと熱く、もっと激しく。

 殴られた痛みよりも鮮明なその疼きに、私が胸を押さえて俯いた。すると――。


「メイファーレン」


 低く、手触りの良い絹のような響きの声が近くで聞こえた。

 胸に手をあてたまま顔を上げれば、いつの間に近くにやってきたのか、少しも気配を感じさせない華の男が、私の傍に片膝をつく。

 射干玉ぬばたまの、濡れたような瞳が私を真っ直ぐに貫いた。そうして握りしめていた剣を草地に放り、彼はそっと痣の位置に置いた私の手を外す。乱暴な仕草ではなく、どこか畏れるような、そんな感じで。

 私は何がどうしているのかわからず、彼と見つめ合ったまま、まるで催眠術にでもかけられているかのようにそれに逆らわなかった。

 つ、と少し固い感触をもたらす指先が、鎖骨の間の窪みを通り胸の間へと流れる。こそばゆさとは違う、未知なる感覚に私は思わず身体を揺らした。

 指が、汗で貼り付いたセーラー服の襟ぐりをぐっと引っ張ると、それはいとも簡単に小さな音を立てて引き裂かれてしまった。びくっと私はまた身体を震わせる。

 この人も、あの男たちと一緒なんだろうか。

 私はやっぱり、ひどい目に遭わされる……?

 再び襲ってきた恐怖に身を強張らせた私に、眼前の華の男は少し躊躇したようだった。下に身につけていた薄いキャミソールに指をかけたところで動きを止め、一瞬だけ息を飲むようにして、それから一気にそれを押し下げた。


「や……っ」


 さしたる抵抗もなく裂けたそれに、私はようやく悲鳴を上げる。

 その下にはもう、下着しかない。それまで剥ぎ取られないようにと、自分を守るように胸の前で腕を交差させた。

 けれど、男はそんな私の腕を強い力で掴み、身体の両脇へと押しのけてしまう。そうして、彼は胸の間に目をやり――突然、黒の瞳から涙を零した。


「本当だった……! 本当に、メイファーレン……っ」


 あまりの美しい涙に、私はあげかけた悲鳴を飲み込み、思わず見とれてしまった。

 静かに、静かに流れ続ける涙。それは悲しみのものでも憎しみのものでもなく、ただひたすらに歓喜に満ち、私と同じような象牙色の肌が喜びと興奮に色づく。

 華の男は流れる涙を拭おうともせず、穴が空くほど私の胸の痣を見つめ、そして不意にそこへ口付けを落とした。

 その途端、全身に雷に打たれでもしたような衝撃が走り、私はそのまま意識を失ってしまった。





 ゆらゆらと、波間を漂うように意識が揺れている。

 何もない、何も考えられない、真っ白な空間。何も見えず、何も聞こえない。だけど、まったく恐ろしくはなく、むしろ反対に私はひどく安堵していた。

 今まで起こったことは全部夢。

 きっと、目を覚ましたらそこにはお父さんとお母さんがいるはず。

 不意に甘えたいような気持ちになって、私はどこかに向かって手を伸ばした。すると、温かい何かがその手を掴み、私をどこかに引き寄せる。

 少し固い、けれどとても安心できる温もりに頬が触れた。

 滑らかな感触。ほのかにスパイスのような、不快ではない匂いが鼻を掠める。もっと近くに寄りたくて身体をすり寄せれば、その身体ごとふわりと何かに包み込まれた。

 ほうっと安堵の息を吐く。

 もう大丈夫。なぜだかぽつんとそう思う。もう、絶対に大丈夫。


 だって。

 だって。

 だって――。



 そこで、ふっと目が覚めた。

 ぼんやりと揺れる視界に、私は何度も瞬きを繰り返す。ここは、どこ?

 次第にはっきりとしてくる目に最初に映ったのは、牡丹の花。本物ではなくて、絵画のように描かれたそれ。どこかで、見たような……。

 次の瞬間、それが何か気付いた私は身体を起こそうとして――失敗する。

 私の身体を、誰かが抱き締めて横たわっていた。というか、抱き締められて私は眠っていたんだ!

 ちょっとした恐慌状態に陥った私がもがけばもがくほど、身体に回された逞しい誰かの腕がぎゅうぎゅうと強く締まっていく。

 頬に当たる素肌の熱。足と足が絡み合って、頭のてっぺんにさわりと感じる吐息。何もかもが、私を羞恥に追いやった。

 なんで、どうして、ここはどこ、これは誰!?

 次々と疑問が浮かんではどこかへ飛び散っていく。こんな状態じゃ、ちっともうまく思考できない!

 私が半泣きになりかけた、その時。


「……メイ、ファーレン……」


 掠れた男の声が私の耳を震わせた。

 熱い吐息とともに、満たされて幸せそうな呟き。それは私を抱き締める男の声だった。牡丹の花を纏った、あの男の。


「メイファーレン、俺の、俺だけの……」


 熱に浮かされたように繰り返されるその言葉に、私はどう反応していいのかわからず、ただ身を縮める。初めて経験する男の体温が、ひどく恥ずかしい。

 それでも、とにかく状況を確認しなくては!

 私は意を決し、生唾を飲み込んでから自分を抱き締める男に声をかけた。


「あの、ここ、どこですかっ。えっと、私どうしたんですか、あなたは誰、ですか!」


 すると一瞬の沈黙の後、ぎしりとベットが軋む音がしてふっと私の顔に影が差した。見上げれば、かなり近い位置に美しい顔が。

 ゆるく結ばれた黒髪が筋張った首筋に沿うように流れ、綺麗に浮き出た鎖骨を強調している。少し日焼けした素肌に、特徴的な牡丹の華。スポーツをやっている人とも違う、鋭く鍛え上げられた身体。

 私を見つめる、艶やかな黒。繊細さを感じられる睫毛に縁取られ、けれども強い光を内に秘め、私を射抜く。高い鼻梁。全体的に東洋的な顔立ちだけれど、はっきりとした目元や彫りの深いところなんかは、日本人である私とは違っている。

 ひどく、蠱惑的な美しさ。

 ふ、とその口元が優しくほころんで、呆然と見とれる私の頬に指が触れた。


「どこか、痛むところは?」

「え、あっ……」


 深い響き。男らしい喉仏が揺れて、低い声がかかる。

 さらり、と頬にかかっていた髪を耳元へかける仕草に、私は少しのくすぐったさを感じて首を引っ込めた。それを見ていた男は、喉の奥で低く笑う。


「しばらく氷で冷やしたのだが、まだ少し腫れている。痛みはないか?」

「あ……!」


 男のその言葉に、一瞬にして私はあの沼地での出来事を思い出した。

 路地裏から迷い込んだ、夜の沼地。下卑た男たち。追いかけられ、捕まえられ、引き倒され。殴られて下着を剥がれ、強姦されそうになったこと。

 そして、その男の首が一瞬にして飛ばされたこと。降り注ぐ赤い血。悲鳴と、次々と血まみれになっていく人の残骸。落ちた腕、脚。

 青い月明かりに照らされ、ひとり立っていた牡丹の華の男――。


「あ、や、いやあっ」


 突然甦ってきた衝撃と恐怖に、私は一気に恐慌状態に陥り、叫び声を上げた。

 抱き締められている腕が、身体が、男のものだというだけで恐怖する。押さえつけられて、犯されそうになったあの恐ろしさ。

 その男たちを無造作に殺し尽くした、この目の前の男。

 怖い、怖い、怖い!


「メイファーレン、何も怖いことはない。俺がいる。俺が守る。だから、落ち着いて」

「やだっ、離してっ、いやだあっ」

「メイファーレン……」


 横たわったまま暴れる私を、男は強くなりすぎない程度にしっかりと胸に抱き込み、背をさする。耳元で、懇願するように「メイファーレン」と繰り返しながら。

 何を言っているのかわからない。

 この男は、私を誰かと勘違いしているんだ。

 嫌だ嫌だととにかく手足をばたつかせ男から逃れようとするけれど、彼はそれを許さず、私を抱き締めたままで何度も何度も囁く。「大丈夫、守るから」と。

 その言葉に絆されたわけではないけれど、わけのわからないまま走り回ったせいか身体中がぎしぎしと痛んで、終いには疲れ果てて私は泣きながら暴れるのをやめた。

 頬を伝う涙を、男が壊れ物にでも触るかのような慎重さで何度も拭う。


「あなたに泣かれると、俺も辛い。だから言って、メイファーレン。あなたを悲しませるものを、俺は許さない。全て消滅させて見せよう。あなたを悲しませる、それは何?」


 目尻に溜まった涙までも親指で優しく拭い去り、男は真っ直ぐに私の目を見つめる。

 嘘のない、純粋な瞳。

 隠し事に揺れることもない、強い言葉。

 そのふたつが不思議なほど自然に自分の中に溶け込んできて、私は強張らせていた身体の力をふっと抜く。それを敏感に感じ取った男が、ゆっくりと腕の拘束を解き、身体を起こした。


「あなたは、誰なの……?」


 感情に理性が上手くついていけずに、私は複雑に絡まったままの頭で、ただぼんやりと華の男を見つめながらぽつりと呟く。

 男は傍らにあったテーブルの上から濡れた手ぬぐいのようなものを手にして、再び私に向き合った。その手ぬぐいを、そっと私の頬に当てる。ひんやりとした感触に、私は思わず目を閉じた。気持ちがいい……。

 殴られた頬は、男が言っていたようにまだ少し腫れているらしい。そこに涙を流したものだから、ひりひりと痛んでいたのだ。


「しばらく冷やしたほうがいい。痣にはなっていないが、あなたに傷が残ったら大変だ」

「あり、がとう」


 それを素直に受け取って、私は多少ぎこちなくも男にお礼を言う。

 男は私の言葉にちょっと驚いたような顔をした後、ひどく甘い笑みを浮かべて見せた。何だか、最愛の恋人にでも向けるような、そんな笑顔。

 私は顔に血が上るのを感じて、慌てて手ぬぐいで顔を覆った。

 ぎし、とまたベットが軋む音とともに、私が横たわるすぐ傍に男が腰を下ろす。そうして、顔を隠したままの私の髪を優しく梳いた。


「……シャオラン」

「え?」

「俺の名は宵藍シャオランだ。命華人メイファーレン


 何か秘密の呪文を教えるかのようにそうっと囁いて、華の男――シャオランは、はにかむように微笑んだ。私はそれを、布の隙間から覗いてさらに顔を赤くする。顔の造作の美しい人は、よくわからないけど卑怯だと思う……。

 さらりさらりと、シャオランは飽きることなく私の髪を梳く。しばらくされるがままになっていた私は、意を決してがばりと身体を起こした。


「メイファーレン?」

「あのっ、私はメイファーレンじゃなくてっ、その、西野桂にしのかつらです!シャオラン、さん? た、助けて頂いてありがとうございましたっ」


 ベットの上に正座をし、手をついて頭を下げる。

 こんな風に畏まってお礼を言うことなんて経験がないから、どこか不格好な気もしたけれど、とにかく危ない場面を救ってもらったのは確かだから。やり方は、色々とあれだったけれど……。

 少しの間頭を下げ続け、けれど何の反応もないことに疑問を感じた私は、恐る恐るといった感じで顔を上げてみた。すると。


「シャオラン、さん!」


 そこには、両膝をついて拳をその両脇につき、私に深々と頭を下げている彼の姿があった。なななな、なんで!?

 なんでお礼を言われているほうが頭を下げるの!?

 慌てた私は急いでベットから飛び降り、彼の肩に手をかける。そうして顔を覗き込もうとして、強くその胸に抱き寄せられてしまった。


「メイファーレン、俺は嬉しい。あなたに名を呼んでもらえるなんて……っ」

「え、ええ!?」


 私の肩に顔を伏せ、そう囁く彼の言葉に思わず声を上げる。ただ、教えられた名前を呼んだだけなのに!?

 そっと私から身体を離し、シャオランさんは黒い瞳を潤ませ私を見た。

 こう言ったら失礼かもしれないけど、なんだか家で飼っている秋田犬のナナみたい。大きな身体から好意のオーラを発して、こちらを見上げてくる様なんか、もう。

 そんなことを考えながらシャオランさんと見つめ合ってしまっていた私は、彼の背後にある扉がばんっと大きな音を立てて開いたことで、我に返った。

 びくっと肩を揺らす私より先に、シャオランさんは素早く私の身体を自分の背に庇って扉を振り返る。

 二人して床に膝をついたままの状態で見上げた先にいたのは、真っ赤な髪をした女の人だった。

 ふわふわと綿菓子のような赤髪とは正反対の、氷のように薄い青の瞳が私たち二人を見下ろし、きゅっと細められる。野良猫みたい、と思う。

 小さな卵形の顔に、派手な目鼻立ち。シャオランさんとはまた違う、西洋的な美貌。髪の色とも相まって、まるで燃え立つような美人。

 その人はちょっとの間、シャオランさんと彼に庇われる私を睨み付け、それからふうっと大きな息を吐いた。


「ルワンロン、あんたに頼まれてたもん、用意してきてやったわよ」

「……助かる」


 少しだけ警戒を解いたシャオランさんは何事もなかったかのように立ち上がり、赤髪の女性に歩み寄って何かの荷物を受け取った。私はまだぽかんと床に座り込んだまま、それを見つめる。

 ふ、と女性と視線がかち合った。


「そのみすぼらしい子供があんたの探してた子なの? どう見ても、『運命の相手』とやらには見えないんだけど?」

「金だ。用が済んだら出ていけ、ラサ」

「ちょっと、追い払う気!? この子とこれからお楽しみってわけえ!?」


 シャオランさんをなぜかルワンロン、と呼んだ女性――ラサさんは、彼から布に包まれたお金らしきものを押しつけられ、部屋から出されそうになって声を上げる。こちらに向けられる感情は、私の気のせいじゃなければ多分……嫉妬。

 そんな彼女にシャオランさんはぴりり、と触れれば切れそうなほどの不機嫌な空気を向けた。顔立ちが整っているだけに、怖い。


「あの人はそのようなものではない。去れ」


 すぱり、と切り捨てるように言うと、彼は今度こそ容赦なくラサさんの身体を外へと押しやり、ばたんと乱暴に扉を閉めてしまった。

 扉の向こうで何かの悪態を二、三度つき、それからラサさんの気配は遠ざかる。それを慎重に確認してから、ようやくシャオランさんは私を振り返った。すでにその表情は、柔らかなものに変化している。なんか、二重人格みたい……。

 そのままこちらに歩み寄り、床に座り込んだままの私の前に膝をつく。え、と声を上げる間もなくふわりと抱き上げられた私は、気がついた時にはベットの上に座らされていた。ええええ。


「あなたの衣を駄目にしてしまったので、適当に見繕わせたものだ。気に入ってもらえればいいのだが……」

「あ!」


 そう言われ、青色の簡素なワンピースのようなものを差し出されて初めて、自分が殆ど裸同然の格好をしていることに気がついた。

 身につけていたセーラー服も、キャミソールもなく。ただ辛うじてブラと、男に投げ捨てられたはずのパンツだけを履いている。うわああああ!

 叫びにならない叫びを上げて、私は慌ててベットの上にくしゃくしゃになっていたシーツをたぐり寄せる。それで何とか身体を隠して、それから目の前に膝をついているシャオランさんを盗み見た。


「本当に申し訳ない。あの時は、一刻も早く確認しなければと、それだけしか頭になかった」

「かく、にん?」


 まだばくばくと鼓動をうち鳴らしている胸を押さえながら、私は彼の言葉を繰り返して問う。見返した先の黒い瞳は、どこか喜びに満ちあふれて見えた。

 大きく節ばった手が、すうっと自らの裸の上半身をなぞり、胸の間で一際大きく咲く牡丹の入れ墨で止まる。

 私はなぜかそれに不思議なほど魅入られて……。


「この華とあなたの華が同じかどうか。予言されたとおり、あなたが俺の命華人メイファーレンなのかどうか。それを、知りたかった――」

「同じ、華? メイファーレンって……」


 私の言葉に、彼は艶めいた笑みを浮かべる。

 それはまるで宵の闇のような、どこか背徳的で、けれどとても淋しげな。その笑みに、私の胸がぎゅうっと締め付けられる。不可思議な、感覚。ずっと、ずっと前から彼を知っていたような、そんな感情が私の中に吹き荒れた。

 胸元でシーツを握りしめる私に、彼は華へ触れさせているのと反対の手を伸ばす。つうっと首筋を撫で、ゆっくりとその手は私の胸の間へと落ちていく。

 いつもの私なら、そんな微妙な場所に男の人が触れているというだけで悲鳴を上げるだろうに、なぜか彼の手を拒むことは出来なかった。

 握りしめたシーツごと手を下ろされ、私の胸元が露わになる。

 そこにあるのは――華の形をした痣。彼の華と、よく似た赤い、赤い華。


「あなたは俺の、命の華……」


 熱に浮かされたように、シャオランさんはひっそりと呟き、そうして私のそれに唇を寄せた。

 それは私が気を失う前にされた行為で。


「あ、ああっ」

「メイファーレン……!」


 今まで感じたことのない、快楽、のようなものが全身を駆け抜け、私はその強い感覚に耐えきれずに彼の頭にしがみついてしまった。

 一気に上がった呼吸を整えようと、全身で息をする。その私の身体を抱き締め、シャオランさんは低く囁く。


「これがあなたが俺のメイファーレンという証。深く繋がり合っている印だ」

「繋がり、合う……メイファーレン……?」

「俺の、俺の俺の! ずっと待っていた、ずっと探していた俺の!」


 堪えきれない激情をぶつけるように、私は身体ごとぶつかってきた彼に押されるようにしてベットに仰向けに倒された。

 顔の脇に両手をつき、少し上気した私の顔を彼が覗き込む。普段だったら赤面するような体勢なのに、私は少しも恐怖を感じることができなかった。あの男たちに同じようにされた時には、あんなに強張った身体は弛緩して彼を拒みもしない。

 さっきの衝撃の余韻に霞む頭で、私は必死に考える。なんで、どうして。

 けれどその答えが出る前に、彼の両手は私の素肌の肩をなぞり、腕から腰へと流れ、太股から足の先まで到達した。その微かな感触に、私は細かく身を震わせる。


「シャオラン、さんっ」

「メイファーレン、あなたを俺の上位者にしたい。あなたを守り、あなたの為だけに生きたい。あなたの憎むものを憎み、あなたを悲しませるものを滅する。どうか、俺を――」


 切々と私にはよくわからないことを訴えたシャオランさんは、やおら私の足先を持ち上げると、そこに唇を落とし始めてしまった。

 足首を手で固定し、足の甲にちゅ、ちゅ、と吸い付いてくる柔らかな温もり。さすがの私もびっくりして起きあがろうとするが、両足をそうして押さえられて身動きがとれない。


「や、シャオ、ラン、さん……っ」

「服従を、俺に許して……」


 悲鳴にも似た私の呼びかけに、彼は陶然とした瞳だけをむけてそう答える。

 そうして彼の唇は足の指にまで下がり、躊躇することもなくそれを口の中に迎え入れた。艶めかしい感触。ぬるりと指の股にまで入り込む、熱い舌。まるで赤ん坊が母親の乳を吸うように、彼は私の足の指を吸っている。

 ぞくっと腰の辺りに何か震えのようなものが起こり、私は耐えきれずに涙を流した。


「メイファーレン、泣かないで」

「だって、や、だっ。そんな、汚い、しっ、どぉしてっ」

「あなたの身体に俺の触れられない場所などない。許されればどこにだって口付けを落とそう。メイファーレン、お願いだ。俺はあなたに服従したい」


 今度は反対の足の甲を、彼の舌がざらりと舐め上げた。

 私はその地獄のような責め苦に耐えかね、彼の言葉に大きく頷いてしまう。何を求められているのかもわからないまま。


「あなたは俺の上位者だ。俺はあなたに服従する」

「わかっ、たっ。わかった、からあっ。も、それ、やめて……っ」

シー


 短く呟き、シャオランさんはようやく私の足を開放した。

 私は二度と舐められたりしないようにと、素早く身体を丸めるようにして足を庇った。それを見て、彼は密やかな笑い声を零す。


「メイファーレン、さあ、下位者の俺に命令を」


 再び私の身体に覆い被さったシャオランさんが、私に言う。

 さっきから服従だとか下位者だとか、そんなことを口にする割に、彼の瞳はまるで肉食の獣のようだった。飢えて飢えて、やっと見つけた獲物を目の前に舌なめずりするような。

 私は息も絶え絶えに、それに逆らうことはできずに思いついたささやかな願いを口にしてしまった。


「名前……桂、と呼んで下さい……」

「是、あなたがそう望むなら」




 それが私の新しい物語の始まり。

 華を纏う男シャオランと、同じ華を刻まれた私との不思議な関係の出発でもあった――。



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