第二章:神の使いと「お邪魔虫」の逆転劇
1
昨夜、深い霧の迷路の果てに老舗旅館『霧乃屋』に滑り込んだ時には、すでに深夜近くだった。
旧道の草むらで見つけた、恩師のものと思しき「乱れた足跡」――。先生は生きている、この霧のどこかで僕を待っている。その確信だけを胸に、悠真は夜通しの捜索に備えて数時間だけ仮眠をとるつもりで、泥のように眠りについていた。
しかし、五月の山の朝は、希望を打ち砕く異様な喧騒によって、あまりにも残酷に幕を開けた。
「おい、鑑識班はまだか! 足元に気をつけろ、渓谷沿いの土壌を荒らすんじゃない!」
「大貫警部、本署から応援のパトカーがさらに二台到着します!」
宿の歴史ある木造の廊下を、泥に汚れた重い長靴がドタドタと容赦なく踏み鳴らしていく。開け放たれた玄関からは、ひんやりとした川霧と共に、場違いな警察無線のアナウンスと、遠くで反響するサイレンの音が館内へと容赦なく流れ込んでいた。
悠真は、夕べシワにならないよう丁寧にハンガーにかけておいたネイビーのサマージャケットを慌てて羽織り、眼鏡をかけ直して部屋を飛び出した。
帳場へ向かうと、そこにはいつも通りの端正な着物姿で佇む女将・霧乃美沙子の姿があった。しかし、その立ち姿はどこか硬く、白磁のように美しい横顔は、血の気が引いて驚くほど青ざめている。
「女将さん。何か、大きな事件でもあったんですか? 警察がこんなに……」
悠真が声をかけると、美沙子はハッとしたように細い肩を揺らし、それからいつもの能面のような微笑を無理に浮かべた。だが、その視線は帳場の格子窓の向こう、白く煙る温泉街の通りへと向けられたままだ。
「……東京の、お人だそうです。昨日から行方が分からなくなっていた、大学の、高名な先生が……白鷺橋の崖下で……」
「白鷺橋……教授が!? 無事だったんですか!」
美沙子の言葉が最後まで紡がれるより早く、悠真は身を乗り出した。しかし、美沙子の次の言葉が、悠真の淡い希望を完全に粉砕した。
「……いえ。冷たくなって、発見されたそうです」
「え……」
悠真の脳裏が、一瞬で真っ白に染まった。
昨夜、自分がレガシィのフォグランプの先で目撃した、あの神聖で不気味な「白鷺の影」。そして、その直後に散策路の入り口で見つけた、深く泥を抉る男の靴跡と、引きずられるように乱れていた、先生の足跡。
あれは、ただ迷子になって歩いていた形跡などではなかった。まさに昨夜のあの時間、あの霧の中で、恩師である堂島教授が何者かによってあの場所へと連れ去られ、命を奪われようとしていた、その生々しい犯行の痕跡だったのだ。
「先生……! 僕が、すぐ近くにいたのに……っ!」
激しい後悔と焦燥感が悠真の胸を突き上げる。彼は美沙子の制止の声を背中で聞きながら、旅館の玄関を飛び出し、愛用のデジタル一眼レフカメラのストラップを首にかけながら、濡れた石畳の坂道を一気に駆け下りた。
2
村の入り口、昨日悠真が足跡を見つけた散策路のすぐ近くに架かる古い石橋『白鷺橋』の周辺は、すでに黄色い「KEEP OUT」の規制線で完全に封鎖されていた。渓谷の底を流れる濁流の激しい水音が、濃い川霧のせいで、まるで地響きのように低く、こもって聞こえる。
「どけ、どけ! 野次馬は下がれ!」
制服警官たちが村人たちを遠ざける中、悠真は規制線のわずかな隙間に滑り込み、カメラを構えた。
ファインダーを覗き、200ミリの望遠レンズのフォーカスリングを回す。乳白色の霧のカーテンを光学ガラスが切り裂き、崖下の河原、冷たい岩場の上に横たわる「それ」を鮮明に捉えた。
悠真は息を呑んだ。ファインダーを持つ指先が、にわかに凍りつく。
「これは……ただの転落事故じゃない。見立て、なのか……?」
岩場にうつ伏せに倒れている堂島教授の遺体。その凄惨な姿もさることながら、異常だったのはその『装束』だった。
普段、不器用なほど几償面に三つ揃えのスーツを着こなしていた恩師の身体には、その上から、真っ白な神事用の死装束が乱暴に、しかし明確な意図を持って纏わされていた。そして、左右の岩に引っかかるようにして大きく広げられた両腕――それは、夜霧の帳の奥へ向かって力尽きて墜ちた、一羽の巨大な白鷺のシルエットそのものだった。
バシャリ、バシャリと、悠真は本能的にシャッターを切った。昨日見つけた足跡の点と、この凄惨な遺体という最悪の線が、頭の中で結びついていく。
「おい、そこでお前! 何を勝手に写真を撮っている!」
背後から、鼓膜を烈しく震わせるような、野太く傲慢な声が響いた。
振り返ると、泥のついたトレンチコートの襟を立てた小太りの男が、眉間に深いナイフのような皺を刻んで悠真を睨みつけていた。地元警察のベテラン、大貫警部である。
「カメラをしまえ! ここは東京の観光地じゃない、殺人をも視野に入れた事件現場だ。だいたいお前、見かけない顔だな。そこの路肩に止めてある、東京ナンバーの白いスバル……あれはお前の車か?」
「あ、はい。僕のレガシィですが……。僕はフリーライターの朝霧悠真と申します。行方不明になっていた堂島先生とは、以前から親しく教えを乞うていた面識がありまして、実は昨夜、このすぐ近くの旧道で、先生のものと思われる不審な足跡を――」
「ライター? 面識ぃ? 足跡だと?」
大貫警部はフンと鼻で笑い、悠真の上品なサマージャケットと、高価なカメラのボディをなめるように品定めした。
「怪しいねぇ。東京からわざわざ被害者の後を追うように村へ入り、事件直後の現場の最前線でカメラを持ってうろついている。頼みもしない『足跡の情報』をペラペラと喋って、第一発見者を装って本庁より先にスクープでも狙ったか? あるいは、衣服に神事の衣装を着せるなんていう芸芸しい真似をあらかじめ知っていた、計画犯の戻り鑑賞か……。おい、こいつを署まで連れて行け!」
「え? ちょっと待ってください、僕は昨夜の状況を説明しようと――」
制服警官二人に両腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして、悠真はパトカーの後部座席へと押し込まれた。閉められたドアの向こうで、白鷺村の深い霧が、まるで悠真の視界を永久に遮るように、いっそう濃く渦巻いていた。
3
(――ガチャン。)
重い鉄扉が閉まる無機質な音が、取取室の冷え切った空気に小さく反響した。
パイプ椅子の冷たい感触が、スラックス越しにじんわりと悠真の肌を刺す。机を挟んで向かい合う大貫警部の、勝ち誇ったような視線。
しかし、今の悠真の耳には、刑事の威嚇するような声は届いていなかった。
彼の脳裏を支配していたのは、昨夜、自分が霧の旧道でレガシィのライトの先に捉えた、あの乱れた足跡の記憶だった。
(あの時、僕は先生がまだ生きていると思って、夜が明けてから捜そうとしてしまった……)
もし、あの瞬間に車を降りて、霧の奥へもっと深く踏み込んで捜索していれば。もし、もっと早く先生の危機に気づいていれば、今朝あの白鷺橋の崖下で、白い死装束を纏わされた無惨な姿の先生と対面することはなかったかもしれない。
激しい後悔と、恩師の命を奪った犯人への静かな怒りが、悠真の胸の中で黒い炎となって渦巻いていた。
「おい、聞いてるのか、朝霧悠真!」
大貫警部が金属製の机を力任せに叩き、至近距離から悠真の顔を覗き込んできた。
「さっきから神妙な顔をして黙りくさりおって。お前、昨夜この村に入ってすぐ、現場近くの旧道にいたな。なぜそんな都合のいい時間にそこにいた? 観光ライターっていうのは表の顔で、本当は先生を呼び出して、崖から突き落としたんじゃないのか、ええ!?」
大貫の早口な怒号が、取調室の狭い空間に充満する。
悠真はゆっくりと顔を上げた。少し癖のある黒髪の間から、眼鏡の奥の瞳が大貫を真っ直ぐに見据える。その瞳には、先ほど現場で連行された時の困惑はすでになかった。
「大貫警部。私は先生を殺してなどいません」
悠真の声は、驚くほど静かで、透明だった。
「私は先生に呼ばれたんです。先生が遺した『未送信メール』の謎を解き明かすために。そして昨夜の足跡は、先生が犯人に連れ去られる瞬間のものだった。私には、その真実を突き止める責任があります」
「寝言を言うな! わけのわからん言い訳を持ち出すな! ここをどこだと思っている、警察署の取調室だぞ!」
その時だった。
バタン!! と、取調室の重い鉄扉が、今度は内側からではなく、外側から引き剥がされるようにして勢いよく開いた。
「大貫! お前、なんという真似を……なんという大馬鹿な暴挙を犯してくれたんだ!」
飛び込んできたのは、額にびっしょりと青い汗をかいた、地元警察署の署長その人だった。手にしたスマートフォンを握る拳が、目に見えてガタガタと震えている。
「署長? 何ですか一体、今この東京の怪しいホシを厳しく落としている最中――」
「バカ者! 口を慎まんか、この大馬鹿者が!」
署長は悲鳴のような声を上げ、大貫のトレンチコートの袖を激しく引っ張った。
「この朝霧先生のお兄様が、どなたか知っているのか! 警察庁長官官房の、あの中枢におられる朝霧俊介参事官だぞ!」
取調室の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りついた。
大貫警部の動きがピタリと止まる。机を叩こうとしていた右手が空中で静止し、彼の自慢の髭が引きつった。口が、まるで釣り上げられた魚のように、ぐうの音も出ずに開閉を繰り返す。
「え……? 参事官? 庁の……本庁の、あの『氷の参事官』……?」
「先ほど本庁から直々に、私の携帯に直接お電話が入ったんだ!『私の弟が、白石村長からの正式な観光取材の先で、何ら合理的根拠なく不当に拘束されていると聞いた。今すぐ身柄を解放し、本庁へ釈放の法的根拠を書類で提出されたし』と……! ギロチンの刃で首筋を撫でられるような声だったぞ!」
署長は額から滝のように流れる冷汗をハンカチで何度も拭いながら、パイプ椅子に座る悠真に向かって、直角に近いくらい深々と頭を下げた。
「朝霧先生、本当に、本当に申し訳ございませんでした! 地元警察の未熟さゆえの、完全なる行きすぎた誤認捜査でして……! すぐに釈放いたします。お車まで、私が直々にお荷物をお運びさせますので!」
悠真は小さく息を吐き、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。上質なネイビーのサマージャケットの裾をそっと引っ張り、シワを伸ばす。
「いえ、誤解が解けたのでしたら結構です。俊兄も、身内に甘いというか、相変わらず大げさな人だな……」
悠真はそこまで言って言葉を区切ると、まだ呆然と立ち尽くしている大貫警部の前に歩み寄った。
眼鏡の奥の瞳に、ライターとしての、そして恩師の無念を晴らす探偵としての、鋭い知性の光が宿る。
「ですが大貫警部。不当拘束の件を水に流す代わりに、私からも一つだけ、条件を出させていただきたいのですが」
「じょ、条件……、ですか……?」
さきほどまでの威勢を完全に失い、すっかり小さくなったベテラン刑事を、悠真は真っ直ぐに見つめた。
「堂島先生の遺品を、私にも見せてください。先生が死の直前、僕に遺そうとした最後の『メッセージ』の謎を解き明かすために」
【第二章・了】




