↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

たべる、ガラス

作者: ぷょ
掲載日:2026/05/25

 目の前に、ガラスのかけら。真っ白い床にぽつんと置かれたそれは、ほんのりと茶色がかった何かのかけら。

 親指と人差し指でそうっと摘んでみる。それは、思ったよりも軽くて薄かった。

 上にかざせば、光をほのかに通してちらちらと瞬いた。そこに鋭利な角さえなければ、きっとそれを純粋に綺麗だと言って眺められたはずだ。

 かけらを摘んだまま、ぼんやりとそれを眺めては思いを馳せる。

 このかけらは、元はどんなものの一部だったのだろうか、と。

 栄養ドリンクの瓶、ビールの瓶。…どれも野暮ったい。いやいや、このどこかお高くまとったような顔からしてお洒落なボトルの一部だったのでは?

 …考えたって仕方のないこと程、頭が回る。大切な時には、役に立たないのに。

 私は何を思ったのか、それを顔の近くに寄せた。どこかひんやりとした存在感が心地いい。破片を眺めれば、その表面に映る光に、吸い込まれてしまいそうだった。


 たべたい。

 ふと、もわりとした感覚が心に浮かんだ。心の下の方で雨をたっぷり含んだ雲のように、それはゆらゆらと揺れた。

 味を知りたい訳でもなく、ただただ、たべたい。

 食感を知りたい、その舌触りを知りたい。果たして噛んだそれは、どんな音を立てて割れるのか、はたまた割れないのか。この身を持って知りたかった。知りたくなってしまった。

 そう、思ってしまった。こうなってしまっては、飽くなき好奇心に歯止めは効かなかった。…果たしてそれが、本当に純粋なる好奇心なのかも、知らないまま。

 たべたい、たべたい。

 震える手が、摘んだガラスを舌にのせる。ひんやりとした面の感触と、すぐそこにあるであろう鋭利な角に背筋がぞくりとする。

 舌を半端に出して、山なりに反らせたそこに置かれたガラスをこの目で拝むことはできなかったけれど、恐らく、変わらず透けた茶色でそこにあることだろう。きっと、その下にある味蕾まで見えそうな程の、儚さで。

 さて、舌にのせたはいいものの、これからどうしようかと逡巡する。

 ガラスをたべたい、という欲求が少しばかり満たされたおかげで、ほんの少しだけ頭に冷静さが返ってきた。それはどこか夕凪に似ていて、私は眼前に、どこまでも広がる淡いオレンジ色の海を見た。

 と、言っても、まだこの頭の中ではたべたいと言う願望とたべるべきではないと言う理性とが半々な状態だ。


 さあどうしようか、と頭がその決断に踏み切ろうと重い腰を上げかけたその時、じゃあたべちゃいなよ、と誰かが耳元で囁いた。

 それはどこまでも甘い甘い響きを孕んでいて、その囁きに、全てが飲み込まれてしまったと錯覚する程だった。

 まるで、そっと伸びてきたその両手の指先や腕に、首元を優しく抱きしめられたかのような。あるはずもないその吐息が、ふわりと私の耳にかかったかのような。そんな、痺れそうな程に甘ったるくて、思わず呼吸が浅くなる程の、誘惑。

 その瞬間、全身の産毛が泡立って髪の毛にまで緊張が走ったように感じた。緊張と脱力が入り乱れる。どうしようもなく気持ち悪いのに気持ちいい時間を、身じろぎ一つできないまま経る。

 だけどその後に押し寄せてきたのは、どうしようもない程の渇望だった。

 たべたい、たべたい、たべたい。

 気持ちばかり残った理性も、込み上げる気持ち悪さすらも突き飛ばして走り出したそれを止められる手立てを、私は知らなかった。

 舌にのせていた薄くて鋭利なそれを、口に、含む。この気持ちの向くまま、そうしたいと願うまま。

 たべたい、たべたいたべたいたべたい。

 ふ、と恐る恐る口を閉じると、上顎に微かに、光沢を帯びたちくりとした感触があてられた。

 口の中に、ガラスのかけらがある。

 言ってしまえばそれだけなのに、この口の中にある感覚は異様で、心の中で底知れない緊張と出所のわからない安堵がとぐろを巻いている。

 舌を盛り上がらせるようにして、ガラスのかけらを口の中に当てては離す。上顎にガラスの冷ややかな面が当たる度、徐々にそれらの温度は同じものとなっていった。


 どれぐらい暫く、舌と上顎でガラスを挟んでは離すのを繰り返していただろうか。

 ころ、と試しにガラスを転がしてみる。その刹那、ビリッとした痛みが走った。そして遅れてやってくる、熱さとひりつき。それが私の上顎から発せられていることを知るまで、少し時間がかかった。

 痛かったのに、驚いたのに、私は不思議とガラスのかけらを吐き出さなかった。それどころか、それを愛おしむようにこの歯の間に挟みんで、歯に力を入れる。まだ上顎の痛みが引いたり薄くなったりもしていないのに。

 思ったよりも呆気なくそれは割れた。ほんの少しだけ硬い音がして、それは割れた。氷が砕かれる音よりも儚く、冷たく。

 二つに割れたそれは、また私の舌に転がされて口の中で暴れ回る。その度に深さの異なる痛みが口のそこかしこで広がる。

 そしてまた、私はその感覚を痛みと共にそれとは別の何かとして受け取る。どこからか口元に笑みが広がるような、それなのにどこか空虚な気持ちとして。


 ガラスを食む。噛み締めるたびに少しずつ削がれていく肉の感触を味わいながら、ガラスと血と肉とが混ざり合った何とも言えない食感を味わいながら。

 …たべている間だけは、何も考えないで済む。

 鈍くなってきた痛覚と背筋を走る高揚感と背徳感に包まれた空虚な感覚に、ただただ身を任せていればいい。口を動かして、歯と歯をかちかちと合わせるのをやめなければいい。それだけのことだから。


 …どれだけの間、それをひたすら噛みしだいていただろうか。

 気が付いたら、口の中にあったはずのガラスのかけらの鋭さを感じることは減り、代わりに肉の生温かさと妙な湿っぽさを感じるようになった。口の中はすっかり熱くなっていて、痛みも痒みも通り越しきってしまっていた。

 ただ、間違えて飲み込んでしまったであろうそれらが通過したであろう喉が、ほんのりとぴりぴりとした痛みによる悲鳴をあげていた。

 それを叱咤するのは口だ。何を舐めたことをぬかしているのか、とその訴えを跳ね返す。自分がかつて通ったであろう道なのに、やたら厳しいことに首を傾げる。

 …いや、そんなもんか。


 かぱ、と口を開けて首を動かして頭のと下を向く。

 ぬるりともずるりともいえない感触がして、舌の上から何かがずべり落ちる。その時、粉々になったガラスの破片が名残惜しそうに、舌のはらをざらりと撫でては去っていった。

 白い床に、赤黒い中にたまに煌めく何かが混じった半固形の塊が落ちる。

 それは酷く醜いのに、なぜだか一種の気品や麗しさすら漂わせていた。無論、鼻につくのは変わらず、血と肉とが混ざり合った錆臭い匂いだったが。

 ただ私には、自分の体のものが入っているはずのそれを、自分の体から出したはずのそれを、触る気には到底ならなかった。

 ただ私は目の前に転がるそれを見つめて、ほのかに感じる温かみを、どこか蔑んだ目で見つめていた。

 …汚いね。

 微かに聞こえたそれは、果たして私の声なのか、誰かの声なのか。


ー・ー・ー


 目が、覚めた。

 そこはいつもと変わらぬ天井で、カーテンの上の隙間から微かに入る朝日が煩わしかった。

 だけど私はそれをどうすることもできないので、ただそれを睨んでは意味のない敵意を飛ばしていた。

 そこでふと、私が涙ぐんでいることに気がついた。いや、泣いていた。夢から覚めた脱力感か、あの時見ていたものに対する反応なのかは知らない。知りたいととも思わない。

 それに、あれは脳が目に見せた幻なのか、目が脳に見せた幻なのか。そんなことは知る由も分かる由もない。ただ確かなのは、ここには一人だけだという虚しさ、悲しさ。

 知りたくないこと程どうして、分かりきってしまった瞬間にこうも残酷な程に鮮明で、こうも至近距離にあるものなのか。

 …一人だと言う事実が寄り添うようにして、私は一人であることを強調されながらも一人ではなかった。


 笑ってしまう。

 口をほのかに歪めて息を少し吐くだけの笑いが、ベットのマットレスに少しずつ染み込んでいく。

 朝が来たのだ。今日も、また。

 息を軽く吸い込んだその時、ほんの少し喉の中の上の方に残ったざらつきが、ちくりと、痛んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。