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見えない君  作者: 葵
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第9話 名前のない温度。

 腕時計を気にしながらせかせかと公園の噴水前に向かって歩く。

 仕事を片付けた途端に会社を出てきた俺は、何としてでも匠より先に到着したかった。

 今日は、匠と俺の家で夕飯を食べる約束をしている。実家から持ち帰ってきた、母の愛情がこもった大量の料理を食べてもらうために。

 噴水が見えてくると、そこにはすでにサングラスをかけた匠が立っている。

 間に合わなかったかと肩を落としつつ呼吸を整え、俺は匠のいる方へ駆け足で行った。

「匠!ごめん、おまたせ」

 名前を呼んだ途端にこちらを向いて、匠はニコッと笑った。

「大丈夫だよ。僕も着いたばっかり」

「そうだったんだ。そっか……」

 会話が止まって、なんとなく気まずくなる。

 俺はそれを誤魔化すように声を出した。

「じゃあ、行こうか」

「うん…あ、腕掴んでもいい?」

「おう。どうぞどうぞ」

 白杖を畳んで肘の裾を掴んだのを確認してからゆっくり歩き始めた。

「……想太、今日はありがとうね。誘ってくれて」

「いえいえ、こちらこそ」

 匠がぎゅっと握る力を強めて言った。

「また一緒に歩けて嬉しい。なんか…友達みたい」

 友達。その響きに体が慣れない。けど、確かにそれっぽいと俺も思った。

「いいな。友達」

 そう言うと、隣でくすっと笑う声がした。


 家に入ってすぐ、床に物が落ちていないか確認してから匠を誘導する。

「わざわざありがとう」

「うん。これ椅子だから」

 匠は椅子の形を確かめるように手でなぞってから座り、サングラスを外した。

 それを見守った後、冷蔵庫からタッパを取り出して1つずつお皿に移し、電子レンジに入れた。

「匠って箸使う?」

「うん。お箸で大丈夫」

 食器棚の箸を見ると、最悪なことに1膳しかなかった。もう一つは流しの端っこに取り残されている。洗い忘れだった。

 洗うのも気まずいので、匠の前には普通の箸を置き、俺は調理用の竹製の箸を使うことにした。

「さっきため息が聞こえたんだけど…大丈夫?」

「ああ、うん。もう解決した」

 会話が途切れたタイミングで電子レンジが鳴った。

 そっちに行って料理を取り出すと、匠が目を閉じて微笑んでいた。

「いい匂い〜それ筑前煮?」

「正解。すごいな、匂いだけで分かるんだ」

 すごいでしょと得意げな笑みをこちらに向ける。

 ちょっとしたクイズをしているみたいに、食卓に料理を並べていった。

 すべて並べ終わってから、匠の正面の席に着いた。

「想太、このお皿は…煮込みハンバーグ?」

「そう。その右隣がほうれん草のおひたしで、左がご飯、1番取りにくいところに筑前煮があります〜」

「説明ありがとうございます〜」

「それじゃあ、食べようか」

 2人で手を合わせてから箸を取る。

 匠はそれで皿に乗ったハンバーグの位置を確かめてから一口大に切って口に入れた。その直後、笑顔を浮かべながら目を見開いた。

「すごくおいしい!」

 その言葉に胸を撫で下ろした。

「だよな。俺の母さんすごいんだよ」

「うん。調味料のこだわりを感じる」

 筑前煮やおひたしも同じく幸せが溢れる表情で食べた。

 誰も取らないからゆっくり食べなと言ったが、おいしすぎて無理だと笑いながら箸を進めていた。

 そして、俺より先に皿が空になった。

「ごちそうさまでした。とっても楽しかった」

「楽しかった?」

「うん。食感がそれぞれ違うし、スーパーとかよりも味付けが丁寧だし…とにかくおいしかった!」

 嬉しそうに感想を言った。俺はこの様子を直接母に見せたくなるほど心が温かくなる。

「ありがとう。母さん喜ぶよ」

 匠は満面の笑顔だったが、あるタイミングでそれが少しぎこちなくなった。

「僕、こっち来てから帰省したことないんだよね」

「へぇ、意外。何で?」

「うーん…親との折り合いが良くないから、かな?」

 そう聞いてから無神経なことを聞いたのだと気がついた。

「ごめん。重い感じにしちゃって」

「いやいや、匠は悪くないよ。俺が家族の話したから」

 俺が謝ろうとすると、匠は首を振った。

「素敵な家族だよね、想太のとこ。お互いがお互いを大切にしてて」

 儚げで切ない笑みで俯き、ぼそっと呟いた。

「僕も帰ってみようかな。もう顔も思い出せないんだけどね」

 その顔を見て、俺の箸は止まった。皿に残ったのは、あと一口分のご飯のみ。

 だけど、俺は無意識にそこに手を伸ばしていた。

「…え」

 匠は戸惑った表情で俺の方を見る。

 俺は頬に触れてから行動に気がついて、慌てて手を離した。

「ごめん、その…ソースついてたから」

「そうなの?」

 すると、恥ずかしそうに口の周りを触った。

「…あ、食器片付けるな」

「うん…ありがと」

 この雰囲気を誤魔化すように、皿を重ねて急いで流しに持っていく。

 蛇口をひねって水で汚れをさーっと浮かせていると、ふとひらめいた。

「なあ、ちょっと付いてきてくれる?」

 そう言って腕を出すと、匠は不思議そうな顔をしながらもそっと掴んだ。

 目的地に着いて匠の手が離れた。

「そのまま真っ直ぐ手を伸ばしてみて」

 匠は1度ためらってから、割れ物に触れるように左手を動かした。

「…これ、本棚?」

「大正解。この中から好きなの選んでみて、くじ引きみたいな感じで」

 すると匠は、そこから手を引いて、空気をぎゅっと握った。

「何で本なの?」

「これから洗い物するから暇になると思ってさ。これならアプリ使って朗読聞けるし」

「アプリ?」

 俺は匠にアプリの説明をした。サブスクリプションサービスで、新作から古典までの様々な作品をプロの朗読で聞けるというもの。

「…じゃあ、文字読まなくてもいいってこと?」

「そう。全部読んでくれるから」

 次の瞬間、匠は目を輝かせた。周りに星屑をまいたみたいに。

「本、読めるんだ…」

 そう言う表情は、今日で1番幸せそうに緩んでいる。その顔を見ると俺も自然と口角が上がる。

「じゃあ、何読む?」

「うーんとね…これ!想太が1番読んでそう」

「え、ばれた?」

「だってすごい年季入ってるもん」

 俺たちは、また本の話をした。

 あの頃よりずっと大人になったけど、感覚は変わっていない。最高だ。

 だから、友達でいられなくなりそうで、少し怖かった。

 また気持ちが戻ってきてしまいそうで。

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