第8話 寒い夜に、君の声と眠る。
寒さが厳しい季節、白杖が氷のように冷たく感じるようになった。しかも、夕方は真っ暗だから1人で歩くのは怖い。
5年の間で病気はさらに進行した。
今はもう、世界の形すら分からない。分かるのはほんの僅かな光だけ。それも、夜になると眩しすぎるから困る。
「あれ?匠じゃん」
「え……幸輝?」
心細い退勤中、いてくれるとありがたい声が聞こえた。
幸輝も仕事帰りだったようで、途中まで一緒に帰ることになった。
「あ、そうだ。花音ちゃん元気?」
「うん。もう元気すぎるくらい。匠の前だとかわいこぶるから淑やかになるんだけどな」
従姪とはあまり会ったことがないが、親戚で集まるたびに小さな体で僕の元に歩いてきてハグしに来てくれる。
「花音がさ、一昨日突然“匠くんと結婚するからパパはくっついてこないで”って言ってきたんだよ」
「ええ!嬉しいな」
「罪な男だ…俺より好かれるなよ」
そんなほのぼのした会話をしながら歩いた。けど、僕のアパートの前に着くと、急に話題が変わった。
「そういえば、もう15年か」
「え、何が?」
「失恋した匠が俺ん家駆け込んできたの、15年前のクリスマスだよ」
もうそんなに経ったのか。そう思うと、懐かしい記憶がゆっくりとほどけていく。
あの頃の僕は、こんなに見えなくなるなんて想像してなかっただろう。
「そろそろさ、帰ってみたら?」
「帰ってみたらって、ここ僕の部屋」
「そうじゃなくて!」
1度口を閉じてから、幸輝は言った。
「実家…そろそろ帰ってみてもいいんじゃない?」
そこから思い出すのは、耳にたこができるほど言われたことだった。
『匠は普通でいなさい』
もう母親の顔は思い出せないほど時間は経っているのに、その言葉だけは鼓膜にへばりついていた。
胸がドクドクと鳴って、白杖を握る力が強くなる。
「急にごめん。実は俺、匠のお父さんと連絡取ってるんだ」
幸輝は、父親とのやり取りを口頭で読み始めた。
そのメッセージは、いつも僕の体調を気遣う内容だった。
でも時々、優しさよりも苦しみが浮かんでくるものもある。
匠が家に居づらくなる空気にさせてしまったことは悔やんでも悔やみきれない。母さんも毎日匠の部屋を掃除しては、ため息を吐いている。また匠の声を聞きたいけど、匠が嫌ならこのままでいい。
家を出てから初めて聞いた本音に、鼻がツンと痛んだ。
「匠はこのままでいいの?高校時代の恋愛は振り切れたみたいだけど、家族は?」
「ちょっと待って!」
幸輝の優しさゆえにこう言ってくれている。だけど、両親のことを思い浮かべるだけで体が震えた。空気の冷たさがよりそうさせる。
「ごめん…今は、考えられないや」
無理やり笑顔を作って、前に立っているであろう幸輝に言った。
「そっか…うん、ごめん。じゃあ、もう帰るよ」
「うん、気を付けて」
スタスタと離れていく音が聞こえて、心苦しくなる。
ぬるぬると巡る嫌な感情を抱きながら、僕はバッグから鍵を出してドアを開けた。
ベッドに潜って羊を数えていても眠れない。
時間が経って体に馴染んだ毛布が僕を重たい温もりで包んでいる。
これじゃあ当分寝られないと思った時、僕はゆっくり寝返りを打って右手を伸ばした。
慎重に手を動かすと、コツンとサイドテーブルに当たる。そのまま手をすべらせ、スマートフォンを探した。
「…あった」
冷えたスマートフォンを取って充電器を外してから、音声アシスタントをタップする。すると、思っていたよりも大きい声が出てきたので、慌てて音量を下げた。
眠れないといっても頭が冴えているわけじゃないから、自分でも何でスマホを握ったのか分からない。でも、今から僕がしようとしていることは分かる。
僕は左手を胸に当てて深呼吸してから言った。
「小島想太に、電話して」
心臓が跳ねる僕に対して、スマートフォンからは冷淡な音声が流れる。
その後に着信音が鳴り始めたが、一瞬で「はい」と、想太の声が聞こえた。
想定よりも早すぎるレスポンスに言葉が出なくなる。
「もしもし。えっと、河村匠です」
恐る恐る声を出すと、一瞬の沈黙が流れた。
「うん、知ってる……夜中に電話なんて珍しいな。ってか、久しぶり」
突然だし何年ぶりかの電話なのに、変わらず優しい声が僕の中に溶けていく。
「久しぶり。急に電話してごめん」
「大丈夫だよ。ちょうど寂しいと思ってたし…何かあった?」
想太はとろけたトーンでそう言った。その声に心がほっと温まる。
「いいや、何もない。けど…想太の声が聞きたくて」
そう言うと、想太が嬉しそうな口調になった。
「そうか。じゃあ、寝るまで話すか。あ、寝落ち電話?っていうんだよな。こういうの」
「うん。ありがとう」
少し目が冴えたのか、想太の口数が増えた。
「正直さ、電話かかってきてすごいびっくりした。何言われるんだろうって考えちゃったし」
「僕も電話かけた瞬間に想太が出たから心臓止まるかと思った」
「ごめん、それは職業病。電話業務多くてさ、癖ですぐ出ちゃうんだよね。だから、後から名前を見て“え?匠じゃん”って」
「うそ、そんな感じしなかったけど」
5年前、泣きながらお別れした日以来の会話だけど、僕らは自然と笑い合っていた。なんだか懐かしく感じるこの雰囲気は、出会った頃みたいだ。
特別なことは何もなくて、ただくだらない話をお互いに繋げているだけ。
「____あ、そうだ。お姉さん元気?」
「うん、ドイツで元気に暮らしてるよ」
「へぇ…じゃあ、匠は今一人暮らし中?」
「そうだね。でももう慣れたよ。物の位置覚えればなんとかなる」
視覚が衰えた代わりに、他の感覚が良くなった。だから、間のとり方でもその人の感情が伝わってくる。想太の間には、少しの期待と緊張が混ざっていた。
「なあ、もし良かったらなんだけど、今度一緒にごはん食べてくれない?」
唐突な話題転換にドキッとする。
「いきなりごめんな。実は、この前実家帰ったら結構おかずをもらって、それが1人じゃ食べきれない量なんだ」
話を聞いたところ、ハンバークから筑前煮まで、タッパーに詰め込まれた手料理が冷蔵庫にあるらしい。
「だめにするよりも分けて食べたほうが母さんも嬉しいだろうし…手伝ってくれないかな?」
思えば、1人で暮らし始めてからは外食か中食で済ませていた。ほとんど見えないから自炊できないし、しばらく手料理を食べていない。
「いいよ。手伝う」
そう答えると、想太は柔らかく笑った。
「ありがとう」
このまま穏やかに夜は明けていった。
気がつくとお互いに眠りに入っていたようで、目を覚ますとかすかに光を感じた。
「…想太、もう朝?」
電話はまだ繋がったままで、寝起きで掠れた声が聞こえてくる。
「うん…5時31分」
「そっか。まだ寝る?」
「ん、30分くらいは寝たい」
「じゃあ…あと30分は、このままでいい?」
「いいよ。でも、充電切れたらごめん」
「充電はしてよ」
言い訳をしながら笑う想太の声が左から入って右から出ていった。
朝の時間は、ふわふわと流れていく。
布団の外がどれだけ寒くても、想太の声が届くここだけは、温かかった。




