第7話 ずっと、好きだった。
匠が突然泣き出したと聞いたのは、夜の居酒屋だ。
仕事帰りに絢音から「久々に飲もう!」と誘われて行ったものの、いきなり始まったのは匠の話だった。
「引っ越し蕎麦食べてる途中で目頭押さえ始めたからびっくりしちゃったよ」
そもそも3人で引っ越し蕎麦を食べたというロケーションもよく分からないけど、あの太陽の匠が突然泣き出すというのも不思議だ。
「え、泣かせたの?」
「違うよ。私が人を泣かせるやつに見える?……なんか、匠くんも失恋してたみたいで、思い出し泣き」
「失恋、か」
離れた10年間で、匠は誰かに恋したんだ。しかも、思い出して泣くほどの好きな人。
その人はどんな人なのだろう。
そんなことを考えて嫉妬してしまう俺は、全く前に進めていない。ずっと止まりっぱなしだ。
「失恋仲間として友達になったらどうですか?」
「いやいや、友達はちょっと…しかも失恋繋がりって」
世話焼きの絢音のことだから、匠にも同じようなことを言っていそうで心配になる。
でも、匠が他の人と恋愛をしていたなら、俺もそろそろ潮時なのかもしれない。
「友達がいなくても前に進まないとだめだろ?」
俺はビールを一気に飲み干して、ジョッキを机に置いた。
「うん、もう引きずらないように頑張るわ」
そう宣言すると、絢音もジョッキを置いて言った。
「よっ!頑張れ頑張れ〜」
背中をバシバシ叩いて気合を入れてもらい、店員にもう1杯のビールと唐揚げを注文した。
会計を済ませて居酒屋を出ると、通りが来る前よりも静かになっていた。
その中で、突如として絢音が質問した。
「そういえば、焼肉で匠くんと何かあった?」
ギクッと背筋を伸ばしつつ、何もないと反射的に答えたが、絢音は目を細めてにんまりと嫌な笑みを浮かべた。
匠が初恋の人だと言っていればこうはならないのだろうけど、言った言ったで面倒だ。
「ふーん。だから友達も嫌なんだぁ」
「違う違う。根本的に合わないってだけだから」
変わらず鼻につく表情で相槌を打つ絢音だが、俺の後ろに視線が移った。俺もその方向に体を向けて見ると、そこには白杖を持って歩く匠がいた。
「おっ、匠く〜ん!」
絢音は大声で名前を呼びながら匠の方に駆け寄った。一応俺もそれを追いかける。
「あれ、絢音さん?」
「そう!奇遇だね!何してたの?」
2人は俺の存在を無視して会話を弾ませていたので、こっそり帰ろうかなと家の方向に体を向けた瞬間、絢音が余計なことを言ってしまった。
「私はね、さっきまで想太と飲んでたの」
「…想太?」
絢音は逃さないよとでも言うように俺を見た。
文句を言いたいところだけど、それをぐっと堪えて作り笑いをした。
「どうも〜想太です〜」
俺が声を出すと、匠は目を見開いてこちらに顔を向けた。
「こんな近くにいたんだ…」
「想太って気配消すのうまいよね」
あははと2人して苦笑いしていると、絢音は追い打ちをかけてきた。
「あ、そうだ!私コンビニ寄って帰るからさ、想太は匠くんと帰りなよ」
意味不明の論理を持ち出して俺たちをふたりきりにしようとする絢音は、なぜか俺に向かってウインクをした。さらに、俺の耳元に寄ってきて、「おせっかいでごめん」と謝られた。そして、俺たちが引き止める間もなく、颯爽と通りを抜けていった。
残された2人の間には、もちろん沈黙が流れる。匠は下を向いてしまった。
「あ…ごめん。置いてかれたな」
「そうだね」
大きめのため息が聞こえて、俺といるのが相当嫌なのだろうと感じる。
この場から動くためには、ここで解散してそれぞれ帰路につく選択肢が思いつく。だが、それで俺は前を向けるようになるのかと言われたら、そうは思わない。
だから、勇気を振り絞って声を出した。
「匠?」
ちょっと震えそうになる喉を咳払いで直してから続きを言った。
「家はどっち方面?」
「…あっち」
すると、匠は真っ直ぐ指を伸ばして方角を示した。
方角的には俺も同じ道を通るので、結局並んで歩くことになった。
重い空気の中だけど、久々に2人で帰っている。
無言が続いているし、手は離れているし、俺と匠の間には壁があった。それがもどかしい。
「あの、さ」
少しの間喉を動かさなかったからか、声が掠れた。
「高校生の頃は、毎日こうやって帰ってたよな。懐かしい」
隣からは返事もなく、大声で独り言を晒している気分になる。でも、だからか、本音が言いやすかった。
「今まで10年間、俺はずっと考えてた。フラれた理由。匠は何が嫌だったのかなって」
根暗。不器用。喋りだすとストッパーが効かない。根に持ちやすい。コミュニケーション能力が低い。
探せば無限に出てくる短所を見つめ直しても、どれも直接的な原因とは考えられなかった。そういうところが露呈しても、匠はいつも笑って受け入れてくれたから。
「1人で考えても、しっくりくるものがなくて……だけど、匠と再会して分かった」
俺が立ち止まると、その数秒後に匠も歩みを止めて振り返った。
「匠は、ずっと1人で戦ってたんだよな?見えなくなる現実と」
こんなに見ていても匠と目が合うことはないが、その目がかすかに動いたのを見逃さなかった。
今まで当たり前にあったものがなくなる。それはとても怖いことだ。特に、視界が塞がれるとなると、外を出歩くのも、起きることすら気が乗らないと思う。
見える世界にいたら、本も読めるし、気楽に外に出れるし、人と会うのも億劫じゃない。
でも、見えない世界で俺と一緒にいたら、匠を苦しめるだけだ。
「俺の好きなもの、本と犬。それから、匠。1番は匠の笑顔。これ全部、見なきゃ楽しめないやつだろ?だから、俺といたら、匠は笑えない」
勝手に流れてきた涙をバレないうちに拭ってから鼻を啜った。
「ごめんな。苦しめて、引きずって……もうやめるから」
話すのも今日が最後でいい、そう続けようとした。
「違う!そうじゃない」
その時、匠は俺の言葉を遮った。
「嫌だったのは、想太じゃない」
匠は目に水分の膜を張って、声を詰まらせながら言った。
「1番嫌だったのは、見えなくなる自分。想太を、想太と同じ景色を、もう見れない。本も拡大機使わないと見れない」
膜が破れて、つーっと涙が匠の頬に流れていく。それと同時に顔を上げた。
「でも正直に言ったら、想太は僕につきっきりになっちゃうでしょ?優しいから……想太が恋人じゃなくなっちゃう気がして、それが嫌で」
匠が話している途中だが、自然とその頬に手が伸びる。触れるとぴくっと震えてから、涙を絞り流すように目を閉じた。手でそっと頬を撫でて涙を拭うと、匠は目を開いた。
そこで、一瞬だけ目が合った。
「匠、ありがとう」
感謝を伝えると、匠は俺の腕を辿るようになぞり、ハグで返してくれた。それに応えるように抱き返す。その温もりが、匂いが、心地よく背中を押してくれた。
だから、俺はそのまま匠の耳元で囁いた。
「俺たち、ちゃんと別れよう」
深夜の閑散とした街の真ん中で、また匠の声だけが響いた。
「……分かった。別れよう」
葵と申します。このたびは、この作品を開いて読んでいただき、誠にありがとうございました。
ここまでが前編となります。
後編も引き続きお楽しみください。




