第6話 触れた手を離した日。
段ボールと新しい部屋の匂い。それらが混じった空気の中に、僕といとこの幸輝、その妻の絢音さんがいる。
結婚式を終えてから新居に引っ越したと聞いたので、お祝いに蕎麦を持っていった。渡すだけで帰ろうと思っていたのだが、一緒に暮らしている姉夫婦から《今日は外でランチ食べてくる!匠も美味しいもの食べてね〜》という連絡が来た。だから、夕飯として一緒に蕎麦を食べることに。
慣れていない場所では身動きがとれない僕は、ただローテーブルの前で座って待つことしかできない。
絢音さんとは、幸輝との結婚前に3人で飲んだことがある程度の関係。でも、少し話しただけで明るくて優しい人だということが伝わってきた。あと、同い年だから話しやすい。
「遠慮せずゆっくりしててって」
その近くで絢音さんから言葉をかけられて、僕は恵まれた環境にいるなと実感する。
引っ越し蕎麦の準備が終わって、僕の正面側に2人が揃って座った。
手の感触とぼやけた視界を頼りに皿と箸を探していると、幸輝に手を掴まれてからその上に箸が乗せられた。
「これが箸で、これが蕎麦ね」
「わざわざありがとう」
蕎麦の入った器に顔を近づけて匂いを嗅ぐと出汁を感じた。鰹のいい匂いがする。
すべての蕎麦が配膳されたところで、手を合わせて食べ始めた。
箸で蕎麦を皿の端に寄せて巻いてから口に運ぶと、口の中に幸せが広がる。
「おっ、美味しそうに食べるねぇ」
「匠は普段食べないもんな、麺類」
視力が矯正できなくなってから、食べにくい麺類は避けていた。特に、蕎麦は食べるのにテクニックが必要だから時間がかかってしまう。久々に食べられる幸せを噛み締めながら、一口ずつ味わった。
こうやって笑い合いながら箸を進めていると、絢音さんが話題を変えた。
「そういえば、“想太”と高級焼肉行ったって聞いたんだけど、どうだった?」
いきなり出てきた“想太”に反応して蕎麦が器の中に滑り落ちた。
そんな僕をよそに、幸輝も口を開く。
「あの背が高い、絢音の“元恋人”だっけ?」
「そうそう…あ、今は飲み友達だけどね」
立て続けに出てくる単語に頭がパンクしそうだ。
想太と絢音さん、脳内で2人が並んで歩く姿を想像して、勝手に気持ちが下がる。
すると、箸を置く音が聞こえてから、絢音さんは言った。
「ねえ、あのさ……想太と“友達”になるっていう道はない?」
「友達?」
「うん……想太ってさ、5年の付き合いなのに交友関係が分からないんだよね。いつも1人でぽーって顔してて、時々すごく寂しい顔になる」
絢音さんのイメージは、僕のイメージと近かった。ミステリアスでいつもぽやぽやしているのに、凛としていて、ドキッとするくらいかっこいいところもある。
だけど、寂しい顔は見たことがなかった。
「特に、高校時代の忘れられない人の話をしてる時は、いつも泣きそうな顔してるの。だから、もし嫌じゃなかったら、どうかな〜って思って」
10年も引きずっていると絢音さんから聞いて、その人が僕だと分かってしまった。
「ふーん。じゃあ、匠と同じようなものだな。高校時代の恋、まだ引きずってるでしょ?」
幸輝が続けてそう言ったので、恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「え〜気になる。いつか聞かせてね、恋バナ」
一応笑い返したが、思い出すとそれどころではなくなった。
僕と想太の別れは、痛みと苦しみだけを残していった。
***
想太と付き合い始めて1年経ちそうだったある冬の日、怒り気味の母親に呼ばれてリビングに行った。そして突然、想太と僕が手を繋いで歩いている写真を掲げられる。
「この人誰なの?」
知らぬ間に写真を撮られていたことよりも、僕は母親の顔色が気になってしまった。何と返したら暴言が最小限になるのだろうと。
「……クラスメイト」
写真が床にパシッと投げつけられる。
本当はもう少し言い訳を補足しようと思っていたのに、その猶予は与えられなかった。
「待って、何で?手繋いでるだけでしょ」
固定電話の前に立った母親は、睨むように僕を見た。
「手繋いでるだけって、幼稚園児じゃないんだから。そんなの普通じゃない」
受話器を手に取って、そのまま番号を打とうと指を動かしながら言った。
「何を言われたのか知らないけど、無理に人付き合いする必要はないの。お母さんがちゃんと言ってあげるからね」
その勢いで次々と悪口を吐き出した。想太のことを、汚い人間だと言うように。何も知らないくせに、知ったような口で。
ただ、怒りは湧いてこなかった。逆に心が冷たくなっていった。
「……普通じゃなくて、何が悪いの?」
淡々と反論すると、母親は驚いたようにこちらを向いた。
僕は人生で初めて母親に抗った。想太の名誉を守るため、手の震えを抑えながらその目を見て主張した。
「好きな人と手繋いで歩いて何が変なの?普通のフリして過ごす方がよっぽど変だよ。今までの僕の方がおかしい。普通じゃない!」
絶句する母親の手にある受話器を取って投げ、僕は上着も持たずに外へ走った。
まだ夕方なのに真っ暗な道を通っていると、右から自転車のブレーキ音が聞こえる。
そちらを見た瞬間、痛いほど光るライトが目に入った。
そして、僕は____。
事故が起こってすぐに病院に運ばれた。
幸い、額にかすり傷ができる程度の怪我で済んだ。だが、自転車とぶつかった時の状況を話せば話すほど、医師の表情は険しくなっていく。
自覚症状はないが、病院を出る前に「また来てください」と言われてしまった。
この日から数日後、色々な検査を受けて診断結果が伝えられた。
医師の口から出たのは、よく分からない病名だった。
目に関わる遺伝性の病気で、視野が徐々に狭くなって視力も低下するらしい。
「残念ですが、現代の医学では治療法が確立していません」
その言葉を信じられなかった。受け止めきれなかった。
ちゃんと見えているし、どこに何があるのかはっきり分かる。
だから、僕はこのことを夢か何かだと思い始めた。
クリスマスイブの日、想太と学校のよりも大きい市民図書館に行った。高校のは司書の先生の都合で閉まっていたから、せっかくだし寄っていこうと。
「やっぱりスケールが違うな。学校のがちっちゃく感じる」
「そりゃあそうでしょ」
想太は興奮気味に本を手に取った。その幸せそうな表情を脳に焼き付けるように見る。
見惚れているうちに夜が来て、帰路についた。また想太と手を繋いで街を歩く。
お互いに大学の合格発表があったばかりだから、未来の話をした。
いつか2人で旅行に行けたらとか、働き始めたら一緒に暮らしたいとか、そのためには貯金しなきゃなとか、楽しくて仕方がなかった。
でも、突然想太が足を止めた。
「あ、犬だ」
そう言われて正面を見直すが、どこにも犬が見当たらない。想太が指を差して教えてくれて、やっと犬っぽい影を見つけた。
「犬アレルギーでしょ?こっちの道通って帰ろ」
想太に手を引かれ、大通りから外れた道を歩く。
その時気がついた。僕は見えてるって勘違いしていただけだと。
今みたいに、いつも想太が目になっていた。いつの間にか、僕の代わりに周りを見ていた。
年が明けて最初に想太と会った日、僕は心を無にして言った。
「別れよう」
そう言い捨てて僕は去ろうとしたけど、想太に手を止められた。しかし、それだけで想太は何も言わない。
「……嫌だ」
勝手に涙が流れ出して、唇が震える。
「もう、全部嫌だっ!」
手を振りほどくと同時に、想太と視線が交差した。
ひどい顔で泣く僕をただ見つめているだけで、やっぱり黙っている。
そのまま僕は、想太の元を離れた。
さっきと違うのは、誰にも引き止められないことだ。
この年の冬は、一段と寒かった。
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