第4話 僕は平凡でいたかった。
「匠は普通でいなさい。お姉ちゃんみたいになっちゃだめよ」
それが、母親の口癖だった。
姉は変人というよりも天才の域にいる人だ。学校はつまらないから登校拒否、でも半ば無理やり行かされた定期試験では学年トップの成績を掻っ攫って帰ってくる。高校卒業後は、突然「ドイツに行ってくる!」と言い、その数年後には目の色の違う彼氏を連れて、これまた急に結婚した。
それに比べて僕は平凡だ。勉強も、スポーツも、どう頑張っても平均点だった。
だから、平凡は平凡らしく生きよう。そう思っていた。小島想太と出会うまでは。
***
僕と想太が出会ったのは、高校2年生の夏だった。
想太の第一印象は、同じクラスのクールで背が高い人。教室の端で本を開いたり寝たりしているイメージだ。その頃、僕はクラスの真ん中で適当に笑って過ごしていた。流行り、隣席の人の趣味、共通の話題を探して、浮かないように必死だった覚えがある。
情報量の多さに疲弊したある日の帰り道、まだ帰りたくなくて学校の図書館にふらっと立ち寄った。ドアを開けた途端、しんとした空気に緊張したけど、司書の先生に会釈してから本棚の方に向かって歩いた。
難しそうな本の背表紙ばかり並んでいて読む気にはならなかった。でも、ドイツ文学のコーナーに入ると知っている作家が出てくる。
姉がドイツに飛び立つ前、数冊のドイツ文学をもらった。それをマットレスの隙間に隠し、母親に見つからないようにテスト勉強の合間によく隠れて読んで息抜きにしている。
グリム兄弟、ヘッセ、ゲーテと続いて並べられている中、好きな作家を見つけた。
「あ、カフカだ」
思わず声が出た。
もらった中で1番奇妙で惹かれた作家。
その背表紙に手を伸ばした途端、左から伸びた僕より少し大きい手とぶつかった。
手を引くと同時に横に顔を向ける。するとそこには、僕より少し背が高くて思っていたより鼻が高い男子生徒____小島想太が立っていた。
目が合って数秒すると、想太は気まずそうに手を引いてその場を離れようとした。
「小島くん?僕読まないからいいよ」
僕は本を取って手渡そうとするが、両手の手のひらを揃えて見せて拒否された。
「もう読んだことがあるので大丈夫です。どうぞ読んでください」
同級生なのになぜか敬語を使い、物理的にも距離を取ってくる想太。何を怖がっているのだろう。
「実は、僕も読んだことがあって、家に置いてあるんだ」
だから読みなよと言おうとしたその時、想太は大きな目を見開いて言った。
「え…読んだことあるの?まじ?」
素直に頷くと想太は目を輝かせ、唐突に本と僕の手を握った。
「これ、不気味で面白いよな」
それから図書館の壁際にある席に座って、その本と作家の話をし始めた。
話してみて分かったけど、想太はよく笑う人だ。意外と明るくて面白くてよく喋る。
「ああ、喋りすぎた…すみません、調子乗って」
またクールな顔に切り替わって背筋を伸ばした。
「ううん、楽しかった。僕、クラスメイトとこうやって趣味の話したの初めてだな」
想太は照れているのか目線を逸らされ、頭をかきながら言った。
「俺も初めて。河村さんと共通点があるって思ってなかったから、すごく変な感じ」
「え、変な感じってどういうこと?」
「うーん…俺から見てあなたは“普通じゃない”から」
何気なく発された言葉に心臓をぎゅっと掴まれたような心地になる。それが顔に出ていたのか、想太は慌てて補足した。
「悪い意味じゃなくて、なんか、河村さんは春の太陽みたいだから」
「春の太陽?」
「そう。暑苦しくもないし、寒くもないし、離れていく感じもしない。優しく温かく気遣って、皆を照らしてる感じが、春の太陽だなって思って」
そんなことを言われたのは、人生で初めてだった。
僕は普通を目指していたけど、この人の前なら頑張らなくていいのかもしれない。そう心から思えた。
その日から僕らはよく図書館で話すことが多くなった。クラス内では相変わらずだ。でも、僕にとって想太の隣がどこよりも気楽になれる場所だった。
想太が僕を変えてくれた。普通じゃなくていいって教えてくれた。
それなのに、僕は想太と最低な別れ方をしてしまった。
***
いとこの結婚式の日、僕らは10年ぶりに再会してしまった。しかも、白杖が折れた。
それを助けてくれたのが想太で、こんな最悪な偶然があるのかと思った。
優しい声、触れた感覚、衣服の匂い、気遣い、全部が懐かしくて心地よかった。だけど、想太から名前を呼ばれることはなかったし、過去の話をされることもなかった。
「……ごめん、想太。ごめん」
肉を焼く音、店内の賑やかな声、店員の足音、すべてが遠くに聞こえる。その中ではっきりと聞き取れてしまうのは、想太の嗚咽だ。
目の病気が分かってから年々視力は落ちていき、今は世界がぼんやりしている。
机を挟んだ向こうにいるはずの想太が泣いてる姿すら見られない。
「色々言いたいことあるけど……匠は目が悪いんだよな?別れた頃から」
涙声になった想太が鼻を啜りながら問いかけた。
「結婚式いたなら分かるでしょ」
僕はわざと冷たく答えた。
どうせこの後、罵られて貶される。想太に本当のことを言わなかったのだから、最低だって嫌われる。
顔も見られないくせに、僕は心を無にして俯いた。
「何で言ってくれなかったんだよ」
震えた声と鼻を啜る音が聞こえる。
「俺、まじで苛ついてる」
想太が再び口を開いた。声のトーンとテンポでその感情がよく伝わってくる。
僕は怒鳴られる覚悟で両手に力を入れた。
だが、次に続いた言葉は、耳を疑うものだった。
「……俺が隣にいたかった」
その一言で僕の顔が無意識に上がった。
「匠が1番辛い時、隣で話を聞きたかった。電話、俺ならかかった瞬間に出るし」
ここにはなぜか罵詈雑言がない。むしろ、想太が後悔しているようにも聞こえてくる。
「何で、嫌いになってないの?」
震える声で質問すると、1度呼吸してから返ってきた。
「嫌いになれないよ。なれるわけない……匠にとっては過去の恋かもしれない。だけど、俺にとっては違う。10年間、進行中の恋だから」
想太は僕の好きな声で、真っ直ぐに言った。
「俺は、ずっと匠が好き」
このまま嫌われてしまえばいい。
僕のことなんて忘れて。素敵な人と出会って。幸せになって。
10年前の僕はそう考えて想太を突き放した。
なのに、そんなこと言われたくなかった。
好きだなんて、今さら聞きたくなかった。
「……最低だよ」
どの口が言ってんだって、自分でも思う。1番ひどいのは僕だって分かっている。
隣の声がかすかに聞こえてくる部屋で、僕は唇を噛んだ。




