第10話 見えなくても家。
ピピピピピ。
朝を告げる電子音が鳴り響く。それを止めると1人の部屋がしんと静かになって、寒さを際立てた。
冷蔵庫からコンビニで買ったコッペパンとドリンクゼリーを取り出して椅子に座った。
食べる前に、スマートフォンで音声アシスタントに頼んで、想太に教えてもらったアプリを開いた。
毎朝好きな作家の短編集を読みながら食べるのが最近の日課。そのおかげで、毎日変わらない生活に彩りが生まれた。
朗読が流れ始めてから、僕はコッペパンを一口かじった。が、味が変わった気がした。
いつも買うのはいちごジャムの挟まったものだが、それとは異なる甘さを感じ、匂いを嗅いでみる。
「……黒蜜、きなこ?」
少しの間違いにも笑いが込み上げる。これはくじ引きみたいなものだと。
この味も悪くないからまた買おう。そう思いながら、僕は朝食を楽しんだ。
食事の時間が少し伸びたせいか、その後の準備が慌ただしくなる。
急いでサングラスをかけて、いつものコートを着ていると、インターホンが鳴った。
駆け足で玄関に行って、鍵を開けると同時にドアが開いて、前につんのめりそうになる。でも、それを小さな手が支えてくれた。
「たくみくん、おはよ」
前に会った時よりも身長が伸びた従姪の花音ちゃんは、僕の腰元をぎゅっとハグした。
「ちょっと花音!いきなり開けちゃだめでしょ。匠くん怪我するところだったよ?」
絢音さんは、ごめんね〜と言いながら花音ちゃんを剥がした。
「大丈夫。花音ちゃんがぎゅってしてくれたから転ばなかったよ」
「うわっ朝からイチャイチャしたのか?」
左側からは幸輝の声がした。花音ちゃんはクールに「ぱぱにはかんけいない」と言って僕の右手を取った。
「幸輝、絢音さん、花音ちゃんも、おはようございます。今日は朝早くからごめんね」
「ぜんぜんだいじょうぶ!たくみくんもいっしょにどうぶつえんいこ!」
無邪気に言ってくれた。だが、僕は屈んで花音ちゃんがいる方向を向いた。
「ごめんね。一緒に行けない。僕は違うところ行くんだ」
そう言ったけど花音ちゃんは納得いかないようで、僕の手を目一杯掴んでいる。
「だってさ花音。ほら、早く行くぞ」
花音ちゃんと手を繋いだままなので誘導をお願いすると、仕方ないなと言いたげに手を引かれた。
幸輝の車の後部座席に座った。隣にはチャイルドシートがあって、花音ちゃんがイヤイヤと言いながらバタバタしている。
「それにしても、びっくりしたよ。いきなり実家に帰るなんて」
僕がその連絡を入れたのは1週間前だった。
突然だったのに車を出してくれて、両親にも伝達してくれた2人には本当に感謝しかない。
「こんなこと聞くのも変だけど、何で帰ろうと思ったの?」
「何でだろう……想太の影響かな」
僕は想太の家で晩御飯を食べた時の話をした。それに触発されて帰ろうと思ったのだと。
すると、絢音さんが大げさなほど驚いた。
「うそ、いつの間にそんなに仲良くなってたんだ!っていうか、どうやってそんなに距離縮めたの!?」
2人は僕と想太が付き合っていた過去を知らないからこの反応も当然だ。けど、10年来の友人である絢音さんは想太の家に上がったことがないらしい。
「相当信頼してるんだろうね、匠くんのこと」
信頼と言われて、高校時代はずっと一緒だったなと思い出す。
ドアがパタンと閉まり、車が発進した。
「着いたよ」
車が止まってから幸輝に言われて、バッグと白杖を持った。
「…花音ちゃん寝ちゃったね」
「本当だ。動物園着いたらグズっちゃうかも」
寝息が聞こえる方に向かって、またねとふいに当たった小さな手を撫でた。
ドアを開けてもらってから立ち上がり、幸輝に家の前まで連れて行ってもらう。
「真っ直ぐ手を出せばインターホンだから」
「うん。ありがとう」
実家の前に15年ぶりに立つと、分かりやすく心拍数が上がっていく。
幸輝は僕の背をトントンと叩いてから僕の手を離した。
「無理すんなよ。それじゃ、またね」
「うん。ありがとう」
家の前には植木鉢が何個か置いてあって、季節によって違う花の香りがした。その習慣は変わっていないようで、ローズマリーの香りが広がっている。
ここまで来たら入るしかない。だけど、肝心な体は動かない。
ゆっくり呼吸をしながら左手を伸ばした。
その直後、まだ何も押していないはずなのにドアが開く音がした。
「…匠」
名前を呼ばれた時、すぐに分かってしまった。
「お父さん、何で」
何で出てきたのと問いかけようとしたが、その前に父が言った。
「匠、おかえり……寒いから早く入りなさい」
ぶっきらぼうに放たれた言葉は、父らしくて懐かしさを覚える。
僕は白杖で段差を確認しながら歩き、実家の敷地に足を踏み入れた。
促されるまま靴を脱いで、壁に手を置きながら聞き馴染みのあるスリッパの音がする方に向かって歩く。
ある地点で壁からドアに変わり、僕は手探りでドアノブを引いた。
「…ああ、すまない。ここまで一緒に来たほうが良かったな」
「大丈夫。1人で動くの慣れてるから」
結局父が僕の手首を掴んでソファまで連れて行ってくれた。
「何か、温かいものでも飲むか?ココアとか」
「…じゃあ、ココアもらってもいい?」
父は立ち上がって後方にあるキッチンに歩いていった。飲み物をすでに用意していたようで、丁度いい温度のココアが僕の前のローテーブルに置かれた。
「ありがとう……お母さんは?」
「今日は、出かけてる」
そう言うと父は一口コーヒーを飲んでから話題を変えた。
「そういえば、あれだな……目は、どうなんだ?」
ためらいがちに出た質問には、少しの緊張を含んでいた。
「もうほとんど見えてない。ちょっと光を感じるだけ」
父は、そうかとしみじみ言いながら、またコーヒーを飲んだ。
この部屋に漂う空気は、15年経っても変わらない。無意識に匂いや音を覚えていた。
「見えないけど、分かるよ。ここが家だってことは」
その後、僕はドアの方を向き、そのまま続けて声に出した。
「お母さん、そこにいるんでしょ?」
ココアがすぐに出てきたのも、スリッパの音も、この部屋の匂いも、そこにいないと感じないもの。不可欠なものだと思った。
いることを黙っていたのは、僕に気を使ってのことだ。喧嘩したままだったから。
「ごめん。普通になれなくて」
言いたかったことを口に出してみると、なぜか声が詰まった。
「ずっと帰ってなくて、ごめん」
本当は顔を見て言いたかった。
でも、今の僕にはそれができない。顔を思い出すことすらできないから。
「…ごめんなさい」
静かだった部屋に、鼻を啜る音と嗚咽が響いた。
まだ伝えきれてないし、謝りきれてないのに、唇が震える。
その時、僕の体が温もりに包まれた。途端に幼い頃の記憶が蘇る。
顔は思い出せないけど、近所の公園で笑い合っていた。それは心に残っている。
「匠、ごめんね…ごめんね」
僕は返事の代わりに、母の体をそっと抱き返した。




