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菊花の約異伝

作者: 一条 香夜

これは菊花の約の後日談。

義兄の宗右衛門の仇討ちを果たした左門。

母の待つ播磨の家へ戻る道中、左門の胸にはある思いが過っていた。

義兄たる宗右衛門の仇である赤穴丹治を討ち、その屋敷から宗右衛門の遺骨を持って逃げた左門は山道を歩いていた。

 一日一日と秋は深まり、来た時よりも山は紅く染まっている。叶うならばゆっくりと景色を堪能したいところだが、いつ尼子が追手を差し向けるか分からない。

 急ぎに急いだ往路のせいで草履は擦り切れ、何度直すために足を止めたか分からない。ただ母と交わした約束を守るために、僅かな食糧と水を摂り、うとうとと浅い眠りで体を動かしていた。

 帰路の半ばまで来た日の夜のことである。

 左門は眠りの狭間でこんなことを考えた。

 「帰り着いて、その後はどうしようか」と。

 母には孝行をすると言いはしたものの、義兄の仇討ちが自分の人生の全てをかけたものであった。成し遂げた今、母に顔を見せ義兄の遺骨を弔った後の自分が何も想像できなかったのだ。

 それほどまでに義兄たる宗右衛門を失ったことが左門の胸に大きな穴を開けていた。

 「いっそ弔った後は義兄の後を追うか」

 疲れで次第に強くなる眠りに落ちる前、左門はそう思った。

今眠りに落ちると朝までは起きられない気がしたが、この山中は出雲国からは距離がある。

 ここに来るまでに追手が来なかったのであれば、今日一晩深く眠ってしまっても捕まりはしないだろう。そう判断した左門の瞼がゆっくりと落ちた。


 ふと、気がつくと左門の目の前に重陽の日に見た以来の宗右衛門がいた。周りを見渡せば眠る前に見た山の景色である。

 辺りは夜だったはずなのに、まるで朝日が昇ったばかりのように明るい。

宗右衛門は最期に見た時よりもふっくらしており、出雲に旅立つ前の姿であった。

 学問について語り合ったあの日の姿の義兄に懐かしさと、菊花の日に見た姿が思い出された悲しさとが入り交じり、左門の目から一筋の涙が流れた。

 「兄上…」

 叶うならば目の前の義兄に縋りつきたい。

 けれどももうこの世にいないことを誰よりも左門自身が分かっている。

 縋りつこうとしても、これは恐らく左門の夢だ。目の前の義兄の体は既になく、左門が抱えた箱の中に体だった名残があるのだから。

 「これは夢幻でしょうか。それともまだ四十九日が過ぎていないから兄上が来てくださったのでしょうか」

 目の前の宗右衛門に尋ねる。

 宗右衛門は口を閉ざしたままである。

 「兄上、私はあなたの仇を討ちました。兄上が望んでいなかったことも知っておりました。ですが、どうしても私は成さねばならぬと思ったのです」

 赤穴丹治を討ったことには何の後悔もない。

 義兄の仇を討たずにこの先生きていた方が日々後悔に苛まれていただろう。

 「仇を討ち私は今、播磨の母の元へと向かっております。帰り着きましたら母に貴方の骨を見せて、二人で共に弔います」

 弔ったその後。

 「私はどうしていいか分からないのです」

 宗右衛門を見ることができず左門が俯いた。

 これまで左門が過ごしてきた年月は、左門の母が生きてきた時間よりも短いものである。その年月の中、学問しか心惹かれるものがなかった。

 左門自身はそれで満足していた。満足してきた。目の前の義兄に会うまでは満足できていた。

 あの日宗右衛門の看病をし、学問について語り合い打ち解け、兄弟の契りを交わして左門の人生は変わった。

 誰かと語り合うことに楽しさを感じたのだ。母や妹と交わす会話もそれなりに楽しいものであった。里人との会話が無意味なものとは思わない。

 ただ自分と同じ視点を、自分よりも深く物事を知る人を師として仰ぎ、学を高め合う。

 僅か半年ばかりであったその日々が左門の中であまりにも尊いものであったのだ。

 その日々を亡くした今、果たして前と同じように一日一日を過ごすことはできるのか。

 義兄を失う前には戻れず、ただ一人で学問に向かう日々は過去と同じようなものだろうか。


 「左門殿」

 黙って左門の想いを聞いていた宗右衛門が語りかけた。

 「まず改めてあの晩の詫びを。時間がなく、貴方と母上に礼を述べることもできず去り大変申し訳ない」

 宗右衛門の謝罪が左門にあの晩を思い出させる。

 たまらず左門は顔を上げた。

 「兄上、謝られないでください。兄上はあの晩私との約束を果たすためにその魂で来てくれたではありませんか」

 本当は生きた義兄と再会したかったけれども。

 「兄上と生きてまたお会いしたかった。それは叶いませんでしたが、母も兄上の信義がそれは素晴らしいものであると仰っておりました」

 魂魄になっても約束を果たしてくれた義兄だからこそ、左門も仇を討たねばならぬと思ったことを誰でもない宗右衛門に詫びてほしくはなかった。

 左門の想いを汲んだのか、宗右衛門の口の端が少し緩む。

 「そして左門殿に私の仇討ちの礼を。はるばる出雲まで足を運び私の仇を討ち、骨を持ち帰ろうとしてくれていること。どれだけ感謝の言葉を尽くしても足りません」

 宗右衛門の礼に左門の目から、また一筋涙が流れた。今は涙をぬぐうことすら惜しかった。

 「しかしながら左門殿。魂魄にて訪れたあの晩、私が最後にお伝えしたことをお忘れのようだ」

 菊花の夜。

 左門と交わした約束を果たすため、牢の中で自刃した宗右衛門。魂魄となって、出雲から播磨まで訪れた夜。

 姿が消える前に宗右衛門はなんと言ったか。

 「あの時、私は最後に貴方に母上に尽くすようにお伝えしました」

 幼くして宗右衛門は父母を亡くしている。

 「もし貴方が後を追ってしまったら義理とはいえ息子としてくれた私、そして実の息子である左門殿。二人の子を母上は立て続けに失うこととなります」

 里には左門の妹がいるとはいえ、子を失う母の悲しみはどれほどのものであろうか。

 宗右衛門が続けた。

 「貴方は仁義にも劣るとして、私の仇討ちを成してくれました。そんな貴方がご母堂を置いてこの世を去ってしまっては、それこそ仁義にも劣る行いとなりませんか」

 約束をしたのでしょう、と宗右衛門が言う。

 出雲に出る前のこと。

 母と交わした約束が左門の脳裏に浮かんだ。

 「母を安心させてほしい、そう言われました」

 ぽつりと左門が母との約束を零すと、宗右衛門は一つ頷いた。

 「そうでしょう。それならばどうか私の後は追わず、母上を安心させてください」


 もう一つ私とも約束を、と宗右衛門は続けた。

 「どうか私の分まで母上を支えてください」

 幼い頃に両親を亡くした自分の分まで、と宗右衛門が願った。

 宗右衛門の願いに、義兄がどれだけ播磨の母を実の母のように思ってくれているのかが伝わり、左門は唇を噛んだ。

 「そして左門殿が天命を終えられてこちらに来た後。酒を酌み交わし、また学問など様々なことを語り明かしましょう。あの晩叶わなかった続きを、今度こそ」

 生前に見た穏やかな微笑みを浮かべたまま、宗右衛門の姿が次第に薄くなる。

 悲しみに満ちたあの晩とは全く異なる表情で、あの晩のように姿が空気に溶けていく。

 「尼子は貴方を追わないと決めたようです。どうか安心して母上の元へお戻りなさい」

 その姿はもう周りの光に溶け込むほど薄くなっている。

 これが本当の本当に最後だと、義兄が言った。

「左門殿と会えたこと。義兄弟の契りを交わしたこと。母上に息子と言って頂けたこと。私にはとても過ぎたものでした。ありがとう。母上にもよろしくお伝えください。そして」

 義兄の、宗右衛門の姿が完全に光の中に消える。

「どうか達者で」

 宗右衛門の最期の言葉が耳に届いたと同時に左門は自分が何かに引っ張られる気がした。

 何かに引っ張られた感覚で目を覚ますと、眠る前の山中の景色が目の前に広がっていた。

 東から朝日が昇っている。

 これまでまともに眠れていなかったせいか、朝日が昇るまで眠っていたようだ。

 久しぶりに取った深い眠りだからこそ、義兄が出てこれる時間があったのかもしれない。

 身支度を軽く整えて、義兄の遺骨を入れている箱を持とうとした左門の目に入ったものがあった。

 箱の横。白と黄色の野菊が咲いている。

 あの夢は左門の願望ではなく、義兄の魂が現れた夢だと思えて目からまた一筋の涙が流れ落ちた。


 夢の中で宗右衛門が言った通り、追手が来る気配もなく左門は播磨の母が待つ家へ辿り着いた。

 左門と、腕に抱えられた箱を見た母は肩を震わせて出迎えた。

 帰ってきて早々ではあるが、一家の墓へ宗右衛門の骨を弔う。

 成すべきことを終えて家の中に入りようやく一息ついた左門は仇討ちのことは伏せて、帰りの山中で見た夢の話をした。

 弔ったあと、自分も義兄の後を追おうと考えたことも。

 左門が一通り語り終えた後、終わるまで黙って聞いていた母が口を開いた。

 「よく無事に帰ってきました…」

 一言だけの言葉であったが、母が今日までどれだけ自分を思っていたのか。

 どれだけ心配をかけ、先ほど自分が後を追おうと考えていた話を聞いて何を思ったのか。

 母の想いが伝わる一言に、左門は深々と頭を下げた。

 「無事に帰ってまいりました…」

 母が頭を下げたままの左門の手を握った。

 「宗右衛門殿の後を追うのでは、と母も思わなかったわけではありません。宗右衛門殿が我が家にいらしてからのお前は、それまでとは別人のように生き生きとしていましたから」

 宗右衛門と出会ってからの左門の違いを母はさすがに見抜いていたらしい。

 そのうえで帰ってくるようにと、あの日母は願ったのだ。

 左門は再度深々と頭を下げた。

 「もういいのです。私の代わりに宗右衛門殿が貴方を諭してくれた。人の魂は死して四十九日はこの世にあると言います。きっと貴方と、この母のことを心配してくれたのでしょう」

 左門の頭上で母の声が震えている。

 たまらず顔を上げて、左門は母を抱きしめた。

 あの夢で生きて孝行をするように諭した義兄を思いながら、母と二人であの菊花の夜のように泣いたのであった。


 その後のことである。

 宗右衛門と出会う前は日がな一日書物に向かってばかりであった左門は、武士の子どもが預けられることもある近くの寺へ講師として勤めることとなった。

 墓参りについて寺に相談していた際、学問の話となり、左門の知識に住職が是非にと請うたのだ。

 それまでどこかの武家に奉公することもなく、時折畑に出ているくらいであった左門とは打って変わった姿に、義弟の作用氏からどうしたのだと驚かれたものだ。

 勤め始めは慣れないことも多く、武家の子どもも自分たちより身分の低い者に教わるなどと左門を甘く見ていたが、その知識の深さに今では様々なことを質問されるようにもなった。

 「これまで学問で身を立てることもなかったのに、いきなりどうしたのですか」

 ある休みの日。母から頼まれ、作用氏の家を訪れた左門へ妹が尋ねた。

 左門は少しだけ目を伏せ、こう答えた。

 「義兄が私に遺してくれたものを、私だけで終わらせてはいけないと思ったのだ。義兄が生きて私と出会って、伝えてくれたものを次へ伝える。それが私にできる義兄への。宗右衛門への孝行である」


〈終〉


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