第1話 ~一番遠い~
県立飛山高校の2年生である田中祐希は学校から帰ろうとしたとき、一人の少女の歌声に足を止めた。
音楽に詳しくなくても特別だとわかる彼女の声は、彼をどんどん魅了していく。
「この声はきっと僕から一番遠い声」
その歌声に導かれるように、彼の新しい学校生活が始まった。
昔はもっと自信があった気がする。
勉強だってそれなりに出来たし、運動にも苦手意識はなかった。自分は選ばれた人間できっと何でもできる、そう本気で信じていた。でも、その余裕にあぐらをかいているうちに、世界は僕を次の日、また次の日って連れ去っていって、気づいた時にはもう、かつての余裕なんて見当たらなかった。僕には結局、喪失感だけが残っていて今もまだその穴を埋められずにいる。
『私は咲希と一緒のクラスだったら何でもいいや!』
軽く弾んだ女子の声が耳に転がってくる。
4月9日、今日から県立飛山高校の新学期が始まる。
「2年、E組、27番、田中祐希…よし、あってる」
僕は自分の名前を見つけて指定されたクラスに向かう。
教室までの道のりは、友達とクラスが一緒だったことに対しての喜びの声だったり、離れ離れになった不安の声だったり色んな声で飾られている。
教室の扉を開けてみるとそこには既に男女男女15人くらいの姿があった。
どうやらちょっとしたグループもできているらしく、女子が5人ほど黒板の左端に集まって何かを話している。
「27番だから、あそこか」
教室の扉に貼られていた座席表と目の前の景色を見比べて、自分の席を確定させる。
僕の机は他の机と比べて少し焦茶色で、その年輪の模様にも若干年季が入っている。
もう少しオレンジ色で、しっかりとコーティングされている木の方が何となく清潔感を感じるので、僕は少しがっかりした。
隣には既に真面目そうな男子が一人で座っていた。
こういう時、話しかけるべきかどうか迷う。
おそらく話しかけるべきだと思うけれども、その決断を下すには中々勇気がいるものだ。
『あの、名前なんて言うんですか』
男性にしては少し高い声が僕の思考を全て吹き飛ばした。
「え、あ、何ですか」
『名前、なんて言うのかなって』
ああ、名前か。
名前って僕の名前か。
そりゃそうだろう、他に誰がいる。
「えっと、田中祐希です」
『たなかゆうき、どうやって書くんですか』
「しめすへんに右で祐と希望の希で祐希です」
『しめすへん、って何だっけ』
「えっとネみたいなやつ」
『あーはいはい、了解。俺は佐藤駿太。よろしくね』
「あ、うん。よろしく」
卓球のラリーみたいに、僕が口から出した言葉にはすぐに返事が返ってきた。
思考のスピードが全く追いつかない。
僕の返事は、はたして間違っていなかっただろうか。
というか、しめすへんが分からないって意外と頭脳派ではないのかもしれない。
会話がひと段落した途端、色んな思考が頭を巡る。
『あのさ、今日ってこの後何があるんだっけ』
ひと段落してまもなく、再び彼の言葉が僕の思考を吹き飛ばした。
「えっと、確かこの後にまず体育館で話があって、その後クラス帰ってきてから自己紹介とか係決めじゃなかったかな」
『うわ、俺今日体育館シューズ持ってきてないよ。どうしよう、終わった』
両手で頭抱えながら後ろにのけぞって彼は言った。
「ははは」
僕は愛想笑いで返事をする。
こういう時、一体どう返事するのが正解だろう。
いまだに僕はこの問いに答える術を知らない。
佐藤くんと話しているうちに、教室にいる人の数はだんだん大きくなっていて、他のクラスからは先生の声も聞こえてきた。
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それからしばらく時間が経って、2年生としての一日目が終わった。
僕は保険係、佐藤くんは号令係になった。
学校から帰るにしては空がまだ明るい。
授業もまだ始まっていないのだから当たり前ではあるが、少し不思議な感じがした。
下駄箱から自分の靴を取る。
学校に来る時には靴紐がしっかり結ばれていたのに、今は両足とも紐が解けていた。
僕は外に出てから少し歩いて、誰かの邪魔にならないよう、端っこの方でしゃがみながら紐を結ぶ。
この時間に帰路についているのは、僕と同じく一緒に帰る誰かなんていない人ばっかで、どういう訳か、たまにカップルらしき二人組もいるけど、僕には関係のない人たちだ。
一部の部活動は今日からいきなり活動があるらしく、学校の上の方からは軽音学部の演奏の音が漏れ聞こえている。
詳しくはないけど、多分どこかで聞いたことある曲。
ギターもドラムもリズムが一定で聞いていて心地がいい。
ベースはあまり聞こえない。
そんなことを考えながら歩いていると、僕の前に一人の少女の歌声が突き刺さった。
どこまでも止まることなく進んでいくような、疾走感のある、そんな声。
音楽に詳しいわけじゃないが、彼女の声が特別であることだけは、はっきりと分かった。
再び歩き出そうとしても中々歩き出せず、僕は声のする方を見上げた。
多分四階の一番端っこの教室。
そこが歌声の源だ。
きっと、平凡な僕からは一番遠い歌声。
そんなことは分かっていても、その正体を知りたくなった。
後ろを振り返る。
見に行ってみようか。
きっと今の時期なら、部活動見学という名目で見学したところで誰も不審には思わないだろう。
僕は小走りで下駄箱のところまで戻る。
あの声の正体をこの目で確かめたい。
でも、やっぱり変だろうか。
1年生ならまだしも、2年生が部活動見学をするというのは少し珍しい。
そもそも一人で演奏中に見学に来る人なんているだろうか。
「帰ろう」
やっぱり僕はどこまでいっても平凡で、勇気なんて持てない情けない人間だった。
再び帰路についた僕と彼女の歌声は、だんだん距離が遠くなり、やがて聞こえなくなった。




