泉鏡花『草迷宮』と『稲生物怪録』ではないもの
『草迷宮』は、明治四十一年(1908年)一月発表。
青空文庫
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この作品にはいろいろな入り口があって、それ自体が迷宮の様相を呈しているのだけれど、私の場合の入り口はご多分に漏れず、昭和のサブカル好きなら必ず観ているといってもいい寺山修司の同名映画だった。鏡花作品としては、まっ先に読んだ記憶がある。また、鏡花の本の挿画画家としてはめずらしく洋画家である岡田三郎助の描いた幻想的な絵にひかれた人もいただろうし、そしてなによりも『稲生物怪録』から派生した有名作品だから手にしたという人は、鏡花のファンだからという人よりも、もしかしたら多いのかもしれない(ちなみに『稲生物怪録』の本来のものとされる読みは「いのうぶっかいろく」なのだそうだ)。
そう思えるほどに『稲生物怪録』は、あるいはその本体ともいえる『三次実録物語』は、江戸中期のベストセラーになって以来、名だたる作家たちの注釈やリメイクにめぐまれながら、今日でも小説や漫画の題材にされることが絶えない人気を誇っている。有名作を題材にするのは鏡花にはめずらしいが、『稲生物怪録』の思わぬ人気持続のせいで、結果的にそうなってしまったというべきか。
ところが『稲生物怪録』の二次創作物のつもりで、いざ『草迷宮』を読みはじめてみると、肝心の化け物屋敷にはなかなかたどりつかず、まさに迷宮にさまよう感覚に翻弄されてしまう。物語の急所を、三浦の大崩壊の因縁、子産石の因縁、嘉吉の因縁、秋谷屋敷の因縁、手鞠唄の因縁といったものが取り囲み、物怪録的な怪異はその奥の奥にようやく姿を現す。
怪異を期待してしびれを切らしたぶん、そして描かれた怪異がそれほどグロテスクでもなかったぶん、以前読み返したときには、遠回しすぎて退屈な小説だと思った記憶がある。ところが、ひさしぶりにまたまた読み返してみると、前回とはまったく別の印象を帯びて、鏡花にはめずらしいほどにストレートな作品を読んだように思えた。
『稲生物怪録』で最後に登場する妖怪の首領といえば、有名な山本五郎左衛門である。稲垣足穂によればその正体はインドの呪術師ハッサン・カーンに呼び出された梵天の眷属、ジン(精霊)なのだそうで、なるほど『三次実録物語』の終章では唐・天竺・日本を股にかけた、いかにもそれらしい壮大な自分語りを披露する。
対して『草迷宮』での山本にあたる秋谷悪左衛門は、ワールドワイドな活躍こそ誇示しないものの、「悪左衛門をはじめ夥間一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする」と、人間の意識をくぐり抜けた領域をみたす汎世界的な存在であることを主張する。三界にまたがる妖怪というより、もはやキリスト教神学の精霊のような存在である。それだからこそ『三次実録物語』のようにこれでもかと魑魅魍魎を繰りだすようなことはせず、ポルターガイスト的な脅ししかしなかったのかもしれないが、異界の存在としてはより格調高い存在として描かれていることはたしかである。
この、山本五郎左衛門の高尚化はおそらく、怪談のグレードアップを目指したというわけではなく、その悪左衛門が紹介する魔界の女をすこしでも汚したくないという、鏡花ならではのデリケートな配慮がなされた結果ではないかと思う。じっさい『草迷宮』では、満を持して登場した秋谷悪左衛門は、次に登場する魔界の女の引き継ぎ役でしかない。
この魔界の女の正体が、本作の主人公である葉越明の幼なじみ、菖蒲であることは、核心をぼやかしがちな鏡花にはめずらしく、はっきりと示されている。しかしそもそも幼なじみだとはいっても菖蒲は、「ちっとも素性が分」らない女の娘であり、その後、神がくしに逢って行方不明のままだという、謎の奥に隠された謎の娘である。しかも葉越明は三人の娘を訪ねるという昔話様式に準じた手続きによって彼女にいたるのだから、謎のままでありながら迷宮の核心であることは明白だ。
この菖蒲の立ち位置を呑みこんだうえで読みなおすと、『草迷宮』という小説には、葉越明が手鞠唄によって亡母につながる菖蒲にたどりつく話だという、鏡花の小説に典型的な、子→母のストレートな一本の線が見えてくる。いや、それしか見えなくなってしまう。何度目かの読み返しを経て、この印象の変化はかなり劇的だった。まるで狐狸魔魅の幻惑が解けて、幽霊屋敷が原っぱになったようなものだ。
あれ? これはまるで、寺山修司の映画『田園に死す』で、子どもに戻った主人公が若いころの母親と食卓を囲む、有名なラストシーンそっくりの状況である。寺山修司という人はやはり、鏡花の本質を見抜く目をそなえた人だったのか。
けっきょくのところ『草迷宮』は、複雑なサブストーリーの地模様に葉越明と菖蒲という孤立者を散らして、その様子を、同じく孤立者である小次郎法師が観察者として記憶する、という、ごくシンプルな物語なのだと思う。地模様ごと透かしてみると、魔界に堕ちた菖蒲が、おそらくは魔界での亭主の変化なのであろう傘修理の亭主をつれた、紅白の洋傘をさした三十路の女房として冒頭近くに登場したり、あるいは全国を旅する明の行く先々で、猟人に連れられた女や、炭を背負った女、後ろ向きの女、馬車のなかの女に変化する姿が点々と浮かびあがる、そんな仕掛けがほどこされている。
魔界の女に惹かれる放浪の若者、なんてなるとものものしいのだが、菖蒲の変化姿がいつも世俗的で、イメージとしては旦那に身請けされた芸者を恋い慕う若者の図にも見えるのが、いかにも鏡花らしい。作家の現実としても、鏡花には母恋のテーマの追求以前に『他人之妻』(明治二十六年頃)という習作が試みられているのだから、母と他人妻の物語が重なることには必然性がある。
そして、『草迷宮』と同じ物語は、晩年にもう一度、三人の女を訪ねたすえに人妻を慕って亡母の幻影にいたる麻川礼吉の物語、『由縁の女』としてくり返されることになる。主人公に対しては『草迷宮』では予言的かつ緩慢に、『由縁の女』では現実的かつ迅速に、同じく破滅が訪れる。
それでは、『草迷宮』における『稲生物怪録』とは何だったのか。
じつはそこに、鏡花が仕掛けた、ちょっとしたなぞかけがある。
まずは第二十一章(ちくま文庫集成ではp183)に、「旅僧は先祖が富士を見た状に、首あげて天井の高きを仰ぎ」とあることに注目してほしい。「富士を見た状に」というのは、西行法師の画題として知られた「富士見西行」の図像を示している。つまり小次郎法師は西行の子孫だと、断る必要もないように思える情報をわざわざ披瀝しているのである。
そしてもうひとつ。第二十一章の冒頭からの部分で、魔界の女、つまり菖蒲の姿が「烏が一羽歴然と屋根に見えた」と、最初は鳥の姿に見えたことが、これもそうである必要はないのにわざわざ描かれている。そして結末では魔界の女は小次郎法師にむけて、葉越明の未来を予言することになる。
西行法師が魔王と向きあって魔鳥の予言を聞く……という話となれば、おそらく鏡花がそらんじるほどに愛読していただろう、上田秋成『雨月物語』の一篇、『白峰』でしかない(『白峰』では、魔王は崇徳上皇である)。
『草迷宮』に『稲生物怪録』のリメイクを期待して読む向きにはさらにがっかりな結果になるのだが、鏡花がほんとうに書きたかったのは『白峰』であって、『稲生物怪録』は『白峰』を引き出すための枕詞、『白峰』を小説内に埋めこむためのデコイ的要素にすぎなかったのではないだろうか。
好きなものに好きなものを重ねてみせた技巧の遊び、といえばそれまでだが、もしかすると、人気作への便乗にちょっと冷や水を浴びせてみせたような、鏡花の皮肉をかいまみるべきなのかもしれない。