白い花
生温い風に乗って、甘くそれでいてさっぱりとした香りが漂ってきた。
春の盛りを迎えた五月は、様々な花が咲き乱れてその香りを振りまくが、その中でも群を抜いて強く、そして惹かれる匂いだ。
ネロリに似ているがそれよりも柔らかく、ライムのようだが優しい清涼感がある。
初めて嗅ぐ匂いだ。
セシリアはできるだけ嗅覚を研ぎ澄まし、それまでしていた作業を中断して、ノートとペンを片手に匂いの元を手繰っていった。
今は水が流れていない噴水のある水路を越えて、タイル装飾の廊下を渡り、隣の区画に出た。
そこは小さな中庭で、摩耗して判別がつかないが鷹か鷲の彫刻のある大理石の小規模な噴水が空間の中央くらいの所にある。
こちらの区画はまだ調査が入っていないようで、足元は雑草や苔が生い茂っていた。
手にしているペンとノートを上着のポケットに入れていざという時に両手を使えるようにして、滑らないように慎重にブーツの底で踏みしめるように進み噴水の脇を通る。
香りの元はすぐにわかった。
小さな中庭の隅にセシリアの腰高くらいの木があり、白い小さな花が咲いている。
日焼け防止のために頭からスカーフを被り口元を覆った巻き方をしていたが、もっと香りを吸い込みたくて結び目を解いた。
セシリアは晒された肌に風と花の香りを感じて目を閉じた。
そして、再び目を開けると、「5」という数字が浮かび上がった。
ポケットからペンとメモ帳を出して、この花木の特徴と数字を書き込む。
「なんていう花なんだろう」
五弁の白い小さな花は小指の爪程の大きさで、小手毬のように集まって花を咲かせている。
木の根元には、椿のように形状をそのままにして散り落ちている。
ズボンの裾をたくしこんだブーツの近くに落ちている花の一つを拾って顔を近づけると、それは散ってもなお柔らかな香りを放っていた。
セシリアは落ちている花をいくつか拾ってハンカチに包んでポケットに入れた。
立ち上がって花をじっくりと見ると、葉は人差し指くらいの長さで楕円形になっており、表面は艶やかだ。
セシリアは記憶の引き出しを手当たり次第開けてみるが、似ているものはいくつかあるが、そのどれとも微妙に違う。
「新種なのかな?」
「ロスメリッサ」
背後からいきなり声がしたので、肩を震わせて振り向いた。
「この国ではロースメリーザというのかな?」
いつの間にかいた男の顔を見ようと頭を上げたら、被っていた麦わら帽子がずれ、顎紐があるので首に引っかかって止まったが、頭を覆っていたスカーフがするんと落ちた。
男は上背を屈めてスカーフを拾い、セシリアに手渡す。
「あ、ありがとうございます」
異国風の袖の広いガウンのような服を着て、頭に布を巻き付けている男性は口角をわずかに上げた。
日に焼けた肌にミシュル教徒のような髭はなく、直線の黒い眉の下の切長の瞳は新緑のような色だった。
風態は東のミシュル教徒のものなのに、相貌はどこかこちらの大陸を醸し出していて、その不均衡が彼の不思議な魅力となっていた。
正直に認めると、捉えどころのない彼に見惚れていたセシリアは、日差しが肌を差しているのに気づいてスカーフと麦わら帽子を被り直した。
「すみません、この花、何て言うんですか」
「この国では『ロースメリーザ』だ。原産国はもっと東の国なのだが、遥か昔の横断行路貿易で持ち込まれたのだ」
大陸の極東には大きな国があって、大昔に絹織物と香辛料を交易する横断行路があった。
その延長で、この西の大陸にも様々なものや東の国とミシュル教徒の国での文明が流入し、戦争ではなく商いで栄えた時期があった、と学校で習ったことがある。
この花もその時にもたらされたものなのだろう。
「この花の香気は不浄なものを洗い流すと言われていて、ミシュル教徒が礼拝前にあの水甕に浮かべて手と足を洗ったのだ」
男性は中庭の中央にある噴水を指差す。
今は堰き止められているが、かつてはモルビサル山脈から水路を伝って、このミシュル教徒の建築した建物の至る所に水が流れていた。
色鮮やかなベールを纏った女性達があの噴水の水甕に満たされた新鮮な水に白い花を浮かべ、台座に腰掛けて禊をする姿が何となく脳裏に浮かんだ。
この香りは神聖なる場所に入る前の、心を整えるための香りなのだ。
白い花を見つめて男性が何か言ったが、それはこの国の言葉ではなかった。
「僕の国では、もうこの花はなくなってしまった。前の戦争で、ミシュル教の象徴でもあるこの花を焼き尽くされてしまったんだ」
それはセシリアが生まれる前の、遠い国の領土戦争だったと男は言った。
それから何十年経っても、男の国にこの花は咲かなくなってしまった。
「祖母が好きで、精油を大事に使っていた」
木のてっぺんで咲いている一群に、腰を曲げて顔を近づけて、祖母が恋焦がれたという香気を吸い込む。
その端正な横顔に、セシリアは縫いつけられたように見つめてしまった。
雲のない青空の下、新緑の異国風の中庭で異国の男と話をしているのは紛れもない現実なのに、どこか夢を見ているような、ふんわりと体も心も力の抜けた軽さが漂う。
この非現実的な光景が生涯忘れることのないものになるとは、この時は麦粒程も思いもしなかった。