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第七章 「前世の人 前編」

 チャイムが鳴り、すべての授業が終了した。


 (はあ~疲れた。)


 腕を伸ばして机に突っ伏す。


 (まあ、何だ。授業とかはそんなに違和感はなかったわけだが。)


 まったく知らないという連中は別にいない。ただ、学校内の人間の全員の性別が反転しているということで、いくら流され気質の柊城伊識でも、神経をすり減らすとまでは行かずとも多少の緊張があったことは否めない。


 不思議な世界に放り込まれた初日。


 (それももう・・・いや、終わらない、まだ。今日の本番は、これから!)


 そう思い直して、伊識はガバと起き上がる。

 と、目の前に広奏が立っていた。


 相変わらず、顔を赤らめて、うつむいて、制服のスカートの裾をいじくりながら、伊識からの何かを待っている感じだった。


 「あ、ああ・・・どうも、こんちは。」


 今まで左隣の席にずっといたのに、さも今日はじめて会ったみたいな間抜けな挨拶をしてしまう。


 まだまだ、女の子になった広奏の存在は伊識にとって刺激が強く、新鮮だった。


 「・・・・うん。」


 広奏はそれしか言わなかったが、伊識はすべて理解して


 「おぅ。」


 と言って、立ち上がりながらカバンを手に取る。


 「行こうぜ、買い物。例のところでいいのか?」


 広奏はコクンとうなずいた。


 「それじゃ行こ・・・って、ヒィッ。」


 背後に殺気を感じて振り返ると、般若のような夏木の顔が眼前にあった。


 「大事なことだからもう一度。泣かしたら殺す。何もしなくても殺す・・・って、ん?」


 広奏がクイクイと夏木の服の裾を引っ張っている。


 「夏木。」


 と、一言だけ広奏は言葉を発したが、それで夏木には十分に何かが伝わったらしい。


 「あはは、そうか、そうか。広奏。分かった分かった。行ってらっしゃい。危ないことしちゃダメだからね。お小遣いは持ってる?基本、コイツに全額払わせれば良いんだからね。」


 夏木がピシッと伊識を指差す。


 「・・・おい。」


 お前は一体広奏の何なんだ、と突っ込むとまた後が面倒なので伊識は黙って広奏と教室を出た。


 廊下では、すれ違う者の大半が二人を振り返る。正確には二人ではなく、広奏を、だが。


 (やっぱりそうだよな・・・そうだろうよ。)


 まじまじと、広奏の横顔を見つめる。


 「・・・・伊識?」


 見つめられて、広奏が恥ずかしそうに伊識を見つめ返してくる。


 「あ~いや、何でもない。」


 あわてて目を逸らす。


 (やっぱり可愛いよな、どの角度から見ても。)


 広奏は無邪気に、トコトコと伊識の隣を歩く。


 『もう、この学校の男子は全員あきらめてるから。』


 枕井の言葉がふと思い返される。


 「・・・。」


 下駄箱で靴に履き替え、校門を出て、駅までの道を歩く。


 (そうだよ、昨日だって、こんなふうに広奏と歩いたんだ。)


 ただ、昨日の広奏は性別が違っていただけで。


 (もう、遥か昔の出来事のようだ。)


 校門を出てしばらくして、二人を振り返って見るような生徒もいなくなると、広奏は


 「えっへへ~。」


 と、ニコニコ微笑んで、伊識の腕や肩にときどき軽く触れるくらいのところまで距離を詰めてくる。


 (二人きりになると、けっこう・・・いや、かなり積極的だよな。)


 空き教室での『むぎゅう』を思い出して、伊識の顔も赤くなる。


 うれしくないわけがなかった。『目の前にいるコイツが女の子だったら。』と、数えきれないほど夢想してきたことが今現実になっているのだ。


 (これは、この世界が、俺にとっての標準に?)


 性別だけが入れ替わっている世界。それ以外の環境に変化はない。昨晩行った別世界とは違って、これまで生活していた世界内で起こった変化だから、徐々にピントが合ってくるような感じで、何となく自然に受け入れてしまったが。


 (よくよく考えたら、驚き以外の何ものでもないよな・・・何なんだろうな、この世界。)


 いくら望んだってかなわないのだから、あきらめるというよりも絶対にありえないことだからそういう感覚すら湧き上がらなかった世界。


 何かふわふわした、というよりも、一言で言えば不安な感覚がずっと抜けない。


 (何を心配しているんだろう、俺は・・・。)


 「・・・・伊識。」


 隣の広奏が呼びかけてくる。黙り込んでしまった伊識を責めるでもない、完全に伊識を頼みとして、悪くいえば依存しきっているということなのかもしれないが、そうでありながらも伊識のすべてを受け入れていることがよく伝わってくるその呼びかけ。


 「あ、ああ、ごめん。」

 「ん~ん。伊識、考えごとしてる・・・じゃあね、えいっ。」


 ひょい、と広奏が伊識の手を握った。


 「あ・・・。」

 「えへへ・・・・いい、よね?」

 「お、おぅ・・・。」


 広奏の手は小さくて、潤っていて、温かかった。


 (女の子になる前から、クリームとかよく塗って、保湿には気ィ使ってたもんな、広奏。)


 伊識も、軽く広奏の手を握り返した。

 広奏は照れたような、うれしいような何とも言えない表情を浮かべている。


 (そうか。要するに、恐れているのか、俺は。この世界が元の世界に・・・広奏が男子である世界に戻ってしまうことを・・・?)


 駅に着いて、自宅方面に帰る方向とは反対のホームに滑り込んできた電車に乗る。

 電車内にはほとんど乗客はいなかった。


 ずっと手は握ったままだった。一度、電車に乗るときと座席に座るときに離れかけたのだが、伊識の方が広奏の手をギュッと握って、離さなかった。


 広奏は、そんな伊識にすべてを任せている感じだった。


 「そう言えば、買い物って、何を買うんだ?」


 座席に座って、少し心を落ち着かせてから、伊識は話しはじめた。


 「えへへ、それは秘密だよ。自分のものを買うんじゃないよ~。」

 「誰か他の人の?家の買い物でも頼まれたのか?」

 「もぉ、違うよ~。伊識のものを買うんだよ。」


 秘密という割にはどんどんしゃべってしまう広奏だった。


 「え、俺の?何で?」

 「え~分からないの?忘れちゃったのかな?ずっと難しい顔して考えごとばっかりしてるからだよ。」


 広奏はいたずらっぽくほほ笑むと、伊識の耳元に口を近づける。


 「伊識、誕生日でしょ。そのプレゼントだよ。」

 「あ、ああ、そうか・・・。」


 ここ最近のドタバタのせいで真剣に忘れていた。


 「来週・・・か。」

 「うん、そうだね。来週の、ちょうど今日だね。」


 自分の誕生日なぞより、今、広奏が耳元で吹きかけていた吐息の何とも言えないくすぐったさの方が伊識には重要で、もう今のこれがプレゼントで全然良かったくらいで、それを悟られないように平静を装うものの、広奏はそこで留まってはくれず、口元を伊識の耳に近づけたまま


 「伊識、何が欲しい?」


 と聞いてきて、伊識は即答で『広奏、お前』と答えそうになるのをどうにかこらえて


 「い、いや。特にないかな。」


 と答えた。


 「そう、じゃあ、選んであげるね、伊識のプレゼント。」


 そこまで言って、広奏はようやく伊識の耳元を解放してくれた。


 「♪~。」


 すいている電車内で、広奏は伊識の手をギュッと握り締めて、その後も終始ご機嫌な様子のまま、目的の駅に着いて、電車を降りる。


 改札を出ると、すぐ目の前に商店街の入口がある。


 『究極のふれあいショッピングモール』と、アーチ状の看板を出して主張しているからそうなのかもしれないが、どう見てもショッピングモールというよりはただの商店街で、実際多少のさびれている感は否めなかったし、シャッターの降りている店舗もチラホラあったが、だからと言ってすべてがダメなのではなく、それなりににぎわっている店もあったり、多少の行列ができているようなパティシエの店とかラーメン屋とかもあって、局所的に盛り上がっている部分もあるのだ。


 もう何度も通っている、勝手を知っている場所である。伊識は広奏の手を離さず、広奏もまた同じように離そうとせず、二人はアーチの下をくぐった。


 性別、年代に関係なく、すれ違う者たちの多くが広奏を振り返るのは学校内と変わらない。そして伊識を見て、その多くは『へえ、この娘の横にこの男が、ねぇ』という顔をする。


 (え~え~。釣り合わないのは百も承知ですよ。)


 それは伊識が男子だったときからそうだったのだ。百人中百二十人が『男装した女子だ』と思う広奏だったのだから、女子になった今はそれに拍車がかかるのも当然である。


 これまで広奏はことあるごとに『伊識は、カッコ良いよね。中身じゃなくて、あ・・・・えっと中身がかっこいいのは当然で、えと、その、見た目の方』とアワアワしながら言うことがあったが、伊識自身は自分のどこをどう見ればそうなのか、分からなかった。


 流され体質の伊識にとって、自己評価というのはそれほど高くないのだ。


 (ま、んなことはどうでも。)


 そもそも、外見だけに関して言えば広奏に釣り合う者など、この地上には誰もいないだろう。伊識は今さら気にも留めなかった。


 「えっとね・・・・こっち。」


 相変わらずつないだままの伊識の手を引っ張って、広奏が一軒の店の前に立ち止まる。


 「この店か?」

 「うん。」


 伊識にはこの手の店のことはよく分からないが、外観だけで言えば周囲の雰囲気とは明らかに異質ではあるが、しかし種々雑多なものだけは置いていそうな、まさに雑貨屋のカガミのような店だった。


 (こんな店、あったかな。まあ、あったんだろうな。)


 これまで広奏と来た記憶にはない店だった。


 (時代から取り残されたような店だな・・・あの惣菜屋みたいな・・・。)


 「あのね、伊識。私が買い物終わるまで、ここで待っててくれるかな?」


 伊識の手をきゅっと握って、広奏は上目づかいで見つめてくる。


 (うう・・・。)


 広奏が男子のときですらこの上目づかいは良くも悪くも伊識のメンタルをしょっちゅう破壊する。まして今や広奏は女の子だった。


 「あ、ああ。いいよ。」


 目を逸らしながら伊識は答える。


 「うん。伊識へのプレゼント、伊識が開けるときまで内緒にしたいの。じゃ、待っててね。」


 広奏は伊識を残して店内に入って行った。


 「・・・。」


 その雑貨屋には、道路に面して、雰囲気のある木枠の小窓がいくつかあって、何の気はなく伊識がそこをちょこっと覗き込むと、まるで待っていたかのように店内にいた広奏と目があって、広奏はほっぺをぷくっと膨らませて再び店の外に出てきた。


 「やっぱりのぞいてた!もう、だめだよ。見ないでって言ったのに。」

 「わ、悪い悪い。たまたま、窓から中見えたから。」

 「伊識、いい?お願い、ね?」


 広奏は伊識の腕を取って、自身の胸の前できゅっと伊識の腕を抱く仕草をした。


 「ひ、広奏?」


 胸に腕があたってしまいそうである。


 というか、あたっている。


 「伊識、『見るなのタブー』って、知ってる?」


 アワアワしている伊識にはおかまいなしで広奏が尋ねてくる。


 「『見るな・・・』って、あ、あれか?鶴の恩返しとかの?見るなって言われると、かえってその約束やぶって見たくなって、結局見ちゃうっていう。」

 「うん。浦島太郎もそうだよね。玉手箱、開けちゃダメって言われたのに開けて。」

 「振り返っちゃダメって言われたのに振り返って石になっちゃった人とか?」

 「うん、そうそう、それそれ。」

 「『押すなよ、絶対に押すなよ。』って言われて熱湯風呂にドプンの人とか?」

 「それは・・・どうなんだろうね。」


 えへへ、と笑う広奏につられて伊識もハハハと笑う。広奏はスキをついて伊識の手を取り、路地に引っ張り込んで、それからムギュと抱きついてくる。


 「ちょっと・・・広奏?」


 広奏の強引な誘いに戸惑う。


 「伊識、これはね、広奏がね・・・広奏が伊識にお願いする『見るなのタブー』なんだよ。」

 「な、なるほどな・・・そうか。」


 正直、タブーなんぞどうでも良かった。いくら路地裏とはいえ、公道か私道か分からないが、とにかく路上で公然と抱きつかれていることと、広奏が自分で自分のことを『広奏』と名前で呼んだ、その幼い感じ丸出しの可愛さで頭がいっぱいだった。


 「そ、そうなんだ。広奏の、見るなのタブー、ね。見ちゃうと、何かよくないことが起こる?」

 「うん、起こるよーとんでもないことが・・・・なんてね、ウソウソ。広奏の『タブー』はね、実は見ても、良いことが起こるんだよ。」


 でもね、と言って、広奏は伊識の胸に顔を埋めた。


 「伊識へのプレゼントだから、できれば誕生日まで見るの我慢してほしい。そうしたらね・・・・。」

 「おう・・・そうしたら?」

 「伊識のお願い事、一つだけ何でも聞いてあげるよ?」


 広奏の耳が真っ赤に染まっていることに、今さらながらに気づく。心臓の鼓動が高まり、早まっているが、それが自分のものなのか広奏のものなのかも分からない。


 「え・・・お願い事、何でも?」

 「うん、何でも。」


 広奏へのいくつものお願い事が現れては消える。具体的に語れたものではない。


 「そ、そうか。なるほどね・・・あっはっはー。」

 「うん、えっへへー。」


 広奏は、伊識に次の言葉を言う暇を与えずに、スッと伊識から離れて、また店内に戻って行った。

その後ろ姿を見送って、伊識はブンブンと頭を強く振って、道路の反対側まで移動して壁に背をあずけて、腕組みをして広奏を待つことにした。


 約束うんぬんは抜きにして、さすがにこれ以上覗き見ようという気持ちは湧かなかった。


 「・・・。」


 腕組みをしたまま、目をつぶる。地面がグワングワンと揺れる感じがする。


 (今日一日で、いろいろあったからな。さすがに疲れた。)


 男女が入れ替わっている世界。自分だけは元のまま。


 (やっぱり、あの別次元の世界?異世界?に行ったことが関係しているのだろうか。)


 ようやくあの世界のことを振り返る余裕が出てきた。というより、さっきの広奏の言動を忘れるために無理矢理別なことを考えようとしただけでもあるが。


 (ファノーム、だっけ。戦ってたよな。けっこう、凄い殺し合いだったような。)


 あまりにも突然のことで、光景を正確には思い出せないところもあったが、倒れていた者の中には死人もいたはずだ。伊識には相当な衝撃だった。


 (それに・・・あの何の肉か知らないが煮込み料理、美味かったよな・・・飲み物も・・・バシュティン・・・そうそう、俺の飲み物に何か盛ったんだよな、あいつは。)


 目を閉じたまま、口元を歪めて苦笑いの表情を浮かべる。


 (何かを求められていた・・・もっと、俺にできることがあったんじゃないだろうか、って言っても、自分の意思とは関係なくこっちに戻ってきちゃったからなぁ。あの敵も何だったのか・・・いや、あいつらはそもそも俺にとっては敵じゃないんだよな、たまたまファノームやバシュティン側で倒れてただけなんだから、俺は・・・。)


 あのファノームたちの敵方にいた女戦士も、伊識に対して何かを感じ取っていた、ような気がする。

そして伊識の言葉に逆らえずに恥ずかしそうに鎧を、服を脱いで・・・というところを思い出して、伊識はボン、と一気に顔を赤くし、また頭をブンブンさせているところに


 「お待たせ、伊識。」


 と、広奏が戻ってきた。


 「お、おぅ・・・早かったな。」

 「うん。はい、これ。」


 何のもったいもつけずに、後ろ手に持っていた小さな包みを伊識に差し出す。


 「今、渡しておくね。これから伊識の誕生日まで一週間、会えないでしょ?学校、休んじゃうから、私。」

「え、あ・・・おう。」


 急に言われてきょとんとなったが、広奏の言い方から、このことを伊識に話すのは初めてではないという響きを感じ取って、伊識は『なぜ会えないのか、どうして学校を欠席するのか?』と聞く間を得られず、また何となく聞きづらくもあって、黙っていた。


 「だから、先に渡しておくけど、開けるのは誕生日にね。」

 「俺の誕生日・・・来週の今日、か。」

 「うん、来週の今日。それまで、見ないでおいてね。」

 「分かった。つまり『見るなのタブー』ってやつだな。」

 「うん、そう。『広奏の』『見るなのタブー』ね。」


 広奏の、を特に強調して広奏がそう告げた。


 「お、おう。広奏の、タブー、な。」

 「うん。守ってくれたら、さっきの約束、ね。」

 「何でも一つ言うこと聞いてくれるって?」

 「うん。」

 「いやいや。そんな。」

 「いいんだよ。ダメだよ。お願いは、ちゃんと考えておいてね。」


 広奏がチラリと伊識を見上げてくる。


 「はっは、は・・・そういうこと言われると、エロいことばっかり思いついちゃうけどね、あはは、あ、いや、今のは・・・。」


 言ってる途中で『ヤバい広奏はもう男の子じゃないんだぞ!』と思って、セクハラ罪で緊急逮捕される自分を想像するところまで脳内が情景を作り上げたものの、セリフを途中で止めることができずに慌ててフォローしようとしたのだが、広奏はまったく怒りや軽蔑の素振りなど見せず、ただ頬を赤くして


 「うん、うれしい。」


 と、小さな声でそれだけ言うと、また『むぎゅう』と抱きついてきた。


 「お、おい、ちょ・・・。」


 もはや路地裏ですらない。周囲の視線がアイスピックのように突き刺さる。


 「忘れないで、伊識。」

 「ああ、うん。」

 「忘れないでね。」

 「お、おう、分かった。」

 「・・・・ないで・・・・お願い。」

 「分かった、分かったよ、大丈夫。」


 広奏の背中をポンポンとさする。


 「忘れないよ、忘れない。」

 「・・・・うん、絶対、ね?」

 「・・・ああ。」


 何のことを指しているのか、よく分からなくなって混乱している間に、広奏は伊識の胸に埋めていた顔を上げて伊識に微笑みかけたのだが、その瞳は少し涙ぐんでいた。


 「え・・・と、広奏?」


 なぜ泣いているのか、尋ねる間を与えずに、広奏は


 「じゃあ、私、練習行くね。」


 と言って、駆け足で去って行った。


 「あ、ああ。気をつけてな。」


 遠ざかる広奏に声をかけたが、聞こえていたかどうか。


 伊識は、ただただ見送るしかなかった。


 「・・・。」


 姿が見えなくなるまで、その場を動かずに広奏を見送ってから、伊識は踵を返した。


 (広奏の木刀の道場って、どこにあるんだろ?)


 そんなことをぼんやり思いつつ、とぼとぼと、駅までの道を歩く。


 歩きながら、手にした広奏からの誕生日のプレゼントを、あらためてまじまじと見る。


 いかにも古ぼけた雑貨店で購入したという趣の包装だった。中に入っているのは、切り餅程度の大きさの直方体のようだった。


 もちろん何なのかは分からない。振ってみても音はせず、重さもそれほどはない。


 (まあ、いいや。しばらくコレのことは忘れていよう。)


 伊識はカバンに広奏の小さな贈り物をしまいこんだ。


 駅に着いて、改札を抜け、電車に乗り込んだ。また高校の最寄り駅を通過し、それから自宅の最寄り駅に至るルートである。


 (・・・。)


 いろんなことが頭の中をぐるぐる回り、またいろいろ考えなくてはいけない気がするのだが、それはぐるぐる回るだけでどこにも着地してくれず、結局は広奏のことに戻ってしまい、そればかりを考えてしまう。


 (やっぱり、『むぎゅう』されすぎたよな、今日。)


 煩悩に押しつぶされそうになる。


 (・・・。)


 電車の揺れに、少しウトウトしかけたところに


 「次は~白佐那木~白佐那木~。」


 と車内にアナウンスが響き渡る。


 (・・・。)


 キキッと、電車が止まり、プシュ、とドアが開く。


 (・・・おっと、いけね。)


 反射的に立ち上がって、あわてて電車を降りてしまう。


 (あ、やっべ。)


 そう思ったときにはすでに遅く、振り返ると、電車のドアが『プシュー』と閉まるところだった。


 (ありゃま・・・。)


 家に帰るつもりが、高校の最寄駅で降りてしまった。


 (まあ、いいか。)


 いかんなく流され体質が発揮される。伊識は、そのままブラブラと改札を抜けて、高校までの道をまた歩き始めていた。


 部活帰りなのだろう、駅に向かう生徒たちがそれなりにいる中、それに逆らうように歩く。


 (やはり、引っかかる。)


 今日の学校内での出来事の中に、何かあるはずだった。


 (学校には明日も行くのだから・・・。)


 別に今、無理やり行かなくても、とも思うのだが、足は意思に反して高校へと向かっていく。

 

校門を通って、昇降口に向かう。ほとんどの生徒はもう下校して、ガランとしていた。ノロノロと上履きに履き替えて、さらにノロノロと、周囲を確かめながら階段を上って、総合国際科二年の教室がある三階を目指す。


 教室には、もう誰もいなかった。窓が一つ開いていて、弱い風がカーテンを少しだけはためかせている。


 教室に入り、開いていた窓を閉めてから、伊識はあらためて無人の教室を見渡す。


 「枕井、夏木・・・塗戸先生・・・広奏・・・ダメだ、何も分からん。」


 ゆっくりかぶりを振って、もう帰ろう、明日にしようという心とは裏腹に、今度は足が階段をのぼりはじめる。のぼり終えるとそこは校舎の屋上に出る踊り場だった。


 無意識に、右手が屋上に通じるドアを開けていた。別に何があるわけでもないが、たまに男子だったときの広奏と二人で過ごすこともあるこの屋上を、ただ何となく見ておこうと思った、その程度のことである。


 屋上に一歩、足を踏み入れる。日没直前の夕焼けが本当に壮麗だった。


 (いい風だ・・・来て良かった。広奏と見たかったな。)


 心地よい、優しく穏やかな秋の風が伊識の頬を撫でる。


 (いい風・・・いい風・・・うん。)


 伊識はかばんをどさっと無造作に置いて、そのまま屋上の金網まで歩を進めた。


 夕陽が、地平線の向こう側に消えていこうとする瞬間。夕刻から宵闇に移ろうとする間際の時を存分に味わおうとするかのように、目を閉じる。


 (こういう時分の風って、そよ風?とは言わないよな、きっと。)


 そよ風というのは日差しのそれなりにある昼間に吹く風を指して言うような気がする。あくまで伊識の主観ではあったが。


 (弱風?それじゃあ扇風機かエアコンの風みたいだよなぁ。)


 伊識はそっと目を閉じた。


 (微風・・・ていうのかな?)


 ぼんやりした感覚が襲う。


 (吹いているのかいないのか分からないくらいの風って、何ていうんだろ?)


 心の奥底で、そのぼんやりした感覚への答えが、急速に浮かびあがろうとしているまた別な感覚。


 (静かな風・・・そうだ、凪っていうんだ、きっと。こういうの・・・ん?)


 急にピントが合った。すべての答えが分かってしまったときの、ゾクリとするような不気味な感覚。伊識の背筋が凍りつく。


 (かすかな、微かな・・・風・・・・・・微風・・・凪!)


 伊識は目をクワ、と見開いた。あとから思えば、多分相当気持ち悪い驚愕の表情を浮かべていたことだろう。誰にも見られていなかったのは僥倖だった。


 (そうだ、微凪!時築、微凪だ!)


 今日、総合国際科の教室に来た。


 『これ、古文のプリント。間違えてそっちの返却分がこっちに届いちゃったみたい。』とか何とか言って、枕井にプリントを渡していた、隣のクラスの委員長。今学期になってから転校してきたというのに、クラス委員代理になってしまった成績優秀、スポーツ万能な・・・。


 「そうだ、あいつも女のまま・・・男になってない!性別が俺と同じ、元のままだ・・・!」


 思わず声に出して言ったそのとき。


 「気づくのが遅いのよ。」


 背後からボソリと声をかけられて、ギョッとなって叫び出しそうになるのをこらえて反射的に背後を振り返るとすぐ目の前に顔があった。今度はこらえきれずに


 「うわぁぁぁっっ!」


 と叫びながら飛び上がって、その後地面にヘナヘナと座り込んでしまった。


 「フン、情けない。」


 伊識の背後に突如現れたその女子、時築微凪は、腕を組んで、仁王立ちで伊識を見下ろしていた。


 陽はあっという間に沈んでしまってあたりは暗く、その表情をうかがい知ることはできなかったが、それを見ずに済んだこと、そして今の自分の表情を見られなかったのは伊識にとっては僥倖だったのかもしれない。


 「何か・・・僥倖が続くな。」


 思わずつぶやく。


 「は?何言ってんの?・・・しょうがないわね。ほら。」


 と言って、手を差し出される。


 その手を掴まなくとも立ち上がれそうだったが、それを拒むのも悪い気がして、伊識は微凪の手を掴んで、あまり微凪に負荷をかけないようにして立ち上がった。


 「この流れから行くと、つまり知ってるってこと?俺と同じく、この世界は男女が入れ替わった世界だと。」

 「その通りよ。あなた、情けないけど、察しは良いみたいね。」


 微凪は腰くらいまであるロングヘアーを手でかきあげながら、


 「あなたよりは、この世界のことを知っているつもり。さ、何か聞きたいことは?」


 と、余裕のある表情を見せながら尋ねてきたので、伊識は間髪入れずに


 「どうして広奏はあんなにも『癒し系で、小悪魔もちょっぴり入ってる超絶美少女』なんだ?何て、ドストライクな。」


 と聞くと、微凪は表情一つ変えずに


 「うん、他の質問にしようか、柊城くん。」


 と返してきた。


 「じゃあ・・・広奏はもう男子には戻らない?ずっと女子のままなのか?」

 「・・・他に質問は?」

 「えっと、じゃあ、広奏の胸って・・・。」

 「・・・死ぬのね?」


 ギン、と目を剥いて微凪が睨み付けてくる。


 「あはは、いやいや、冗談ですよ。そうだね。うん、他の質問。え~っとね、つまりですね・・・え~っと、え~っと、ほら、何だ、」


 無理に質問を作ろうとしても、なかなか出てこない。


 「何?他には質問ないの?この状況で聞きたいことって、まさかホントにそれだけだったの?」


 普段はどうか知らないが、ともかく今の時築微凪の気は相当短いようだった。


 「んなわけないって。多すぎるんだよ、聞きたいことが。そうだ、つまり、その・・・。」


 目の前の、初対面ではないが、はじめて話をする女子、しかも広奏に負けず劣らずの美少女に何と呼びかけて良いか迷う。


 「えとえと、委員長。」


 とっさに出たのは、彼女の役職名だった。


 伊識のその言葉に、微凪はいろいろと察したようで、ため息をついた。


 「・・・まあいいわ、それで?」

 「委員長と、俺だけが、この世界で性別が入れ替わってないってこと?」

 「そうよ。」


 さも当たり前というように微凪は答えた。 


 「この地球上で、あなたと私だけが元の性別。あとは全員、入れ替わってるわ。」

 「え、てことは今の日本の総理大臣って、女の人?」

 「そうよ。」

 「じゃ、お相撲さんは?全員女に?」

 「その手の質問ね。来ると思ったわ。」


 微凪は、そんな質問をする伊識をバカにするでもなく、呆れるでもないような風情でフッとため息をついた。


 「残念ながら、この世界でもお相撲さんは全員、男よ。」

 「え、そうなの?いや別に全然残念じゃないけど、でも性別変わってるなら、何で・・・?」

 「元の世界でお相撲さんだった人は、性別が変わったこの世界では別な道に進んでいる。そういう風に修正・・・世界が作り変えられている。たとえばその身体能力を生かして、柔道家になっていたり、女子プロレスラーになっていたり。フードファイターもいるわ。性別上、どうしても男の人しかなれない職業、女の人しかなれない職業は、そうやって調整されている、と思う。」

 「そんなご都合主義な・・・。」

 「そう。ご都合主義。その通りよ。」


 微凪の表情が一瞬曇った、ように見えたが、その理由は今の伊識には分からない。


 「よく考えてみて。今この地上に生きている者たちと、過去の歴史は繋がっているんだから、突き詰めていくと、歴史上の人物まで全部性別が入れ替わることになるけど、今日受けた日本史の授業、別に普通だったでしょ?」

 「ああ、そうか・・・。」


 言われてみれば確かにそうだ。今日受けた日本史の授業にそんなおかしな点はなかった。


 「歴史上『征夷大将軍』と呼ばれた者は全員、男。小野妹子も、男。ガガーリンは、初めて宇宙に行った男。テレシコワは、初めて宇宙に行った女。」

 「え、そうなの?本当に?」

 「どのレベルで聞いてるの?征夷大将軍と小野妹子とガガーリンとテレシコワ知らないの?」

 「いや知ってる、知ってるけど、それを例に挙げる・・・その、委員長も相当ヘンな人選を・・・違う違うソコじゃなくて、でもホントにそうだとすると・・・。」


 それだと辻褄が合わないというか、矛盾した点が出そうだと思ったが、うまく説明できないでいるうちに、微凪の方から


 「性別反転しても、都合よく世界が収まる、そういう力が働いている。歴史と現在との境界線は曖昧に、うまい具合に矛盾が出ないようになっている・・・私たちのようなちっぽけな人間には計り知れないほどの、とんでもない力が働いているの。」


 と、伊識に質問させる間を与えずに、微凪はひと息に説明した。


 「・・・そうか。そうだよな。」

 「やけに物分かりがいいのね。良すぎるくらい。」

 「だってもう今朝から嫌というほど味わったからな・・・待てよ、てことはつまり俺の両親も?」


 微凪が伝えようとしているのはもっと大きな問題で、その本題に突入すべき、ということはよく分かるのだが、地方の一高校生である伊識にとってはどうしても卑近な事柄が気になってしまう。


 微凪はため息をつきながらも、伊識に話を合わせてくれた。


 「そうよ。あなたのご両親はあなたのご両親のままだけど、父親が母親に、母親が父親になっている。」


 うう、何か気持ち悪いな、という表情を浮かべ、微凪も伊識の心中を察してお付き合いの微笑を浮かべた。


 「でも、勤め先はどうなってるんだよ。俺の親父、建設会社に勤めてるんだぞ?男が多い職場だって言ってた。単身赴任者の社員寮は男専用だって。親父が紅一点で社員寮にいるのか?」

 「そうよ。性別反転して母親になったあなたの元・お父さんが建設会社に勤めている。でも紅一点じゃない。女子社員寮もあるわ。現状では女性が何人もいる建設会社になってる。うまく辻褄合わせてるって、さっき言ったでしょ?」

 「あ~ってことは、俺の父親・・・元母親が、看護師を?」


 そう、伊識の母親は看護師として働いている。父親は単身赴任中、母親は看護師で夜勤も多いから、弟の槙也と二人でどうにかこうにか家のことはやってきたのだ。


 「そうよ、そういうこと。男の看護師さん。すべてが矛盾しないようにできている。」


 まだそれでもおかしなことはありそうだと思ったが、今の最重要論点はそこではないことも分かっていたので、受け流して質問を続けた。


 「この・・・性別反転?って言えば良いのか?これは委員長がやったのか?」

 「まさか。私にそんな力、あると思う?」

 「あると言われれば、あるような気もするが。」


 顔は可愛いし、スタイルは良いし、いきなりクラス委員代理にもなったし、という言葉をすべて飲みこんで


 「何しろ、この俺の背後に音もなく忍び寄ったんだから。」


 とだけコメントしたが、微凪の返答は辛らつで


 「あなたがボ~っとしてただけでしょ?」


 と即座に返して、これで何度目になるだろうか、ため息を一つついてから、これまで以上に真面目くさった表情で、伊識を正面に見据えて、一語一語、ゆっくりと


 「ねえ・・・ファノームは、元気だった?バシュティンは、相変わらずあなたに食ってかかってたでしょ?」


 と尋ねてきた。


 「え?え・・・?」


 この微凪の質問はさすがにこれまでで一番の驚きである。


 (この話を誰かにしたこと、あったか?)


 と思い返す間にも、微凪は言葉を続ける。


 「いい?バシュティンはね、ファノームが好きなのよ。あなたへのヤキモチが、言動の大半なのよ。」


 内容も確かに興味深いが、今はそれどころではない。


 「えっと、だから何で・・・。」


 と問いかける間を与えずに微凪は言葉を継いだ。


 「あなたが言葉ひとつで服を脱がせた赤い髪の女戦士、いたでしょ?彼女の名前はね、ライナ・ハウール・ハウン。この後あなたもいやというほど会うことになるだろうライナ帝国の一族・・・あなた、王家の人間を言葉一つで半裸にさせたのよ、柊城・ニョクマム・伊識くん。」

 「ニョク・・・って、え?」

 「ニョクマム・・・あなたの『対の名』でしょ?」


 それから、微凪はこれがトドメとばかりに、今度は日本語ではない言葉をスラスラ口走る。


 (ああ、この言葉・・・。)


 何を言っているかは分からなかったが、その独特の語感、語調ですぐに理解できた。


 「なぜ、委員長が・・・あの世界、エレクシス?の言葉を・・・。」

 「あら、エレクシスの言葉って、すぐに分かるのね?」


 それからさらにあの不思議な世界の言葉をいくつか発してから


 「この言葉・・・『エレクシス言語』を、とにかくこれからひたすら、あなたには学んでもらう。」


 と、さも当然というように言い放った。


 「え、何で・・・。」

 「何で?って、急に察しが悪くなるわね。またいつあなたがあの世界、エレクシスに召還されても良いように、よ。」

 「ええっ。また行かなきゃいけないのあそこに?いつ?」

 「そんなの私にも分かるわけないでしょ!だからとにかく急いで覚えてもらわなくちゃいけないの!またエレクシスに行って、服脱がしまくったり、変態の限りを尽くすつもり?」

 「やりたくてやったわけじゃない。」

 「そんなの分かってるわよ!いい?この世界の言葉、つまり日本語もその一つだけど、その言葉を『理解している』人間があの世界で使ってしまうと、ものすごく強い力が発生してしまう。」

 「魔法みたいな?」

 「そう呼びたいのならそれでも良いわ・・・つまりそれ、強力な魔法と同じになってしまうの。ファノームに言われたでしょう?言葉一つで何でも命令できてしまうって。そうよね?」


 グイ、と迫られて、思わずあとじさる。


 「お、おう・・・。」

 「でもそれじゃ、向こうの世界で日常生活が送れない。だからあなたがあっちに行っても、普通に暮らせるように、今からエレクシス言語の猛特訓する。ね、分かりやすいでしょ?」

 「いやいやいや、分かりやすいけど前提が・・・ああ、そっか、つまり委員長はエレクシスの人ってこと?地球人じゃない?」


 また話をそらしてしまった気もするが、こう突っ込みどころが多いとどうしようもなかった。


 「惜しい、70点。」

 「違うのか?」

 「う~ん、間違ってないけど、そうね・・・。」


 微凪は、くるりと半回転して伊識に背中を向ける。そんなに派手にスカートが翻ったりはしなかったのだが、伊識は目のやり場に困ったように顔を背けた。


 「エレクシス人はね、きっとあなたなのよ、柊城くん。正確に言うと、あなたは地球人でもあり、エレクシス人でもある。」


 背を向けたまま、微凪はポツリと言った。


 「は?」


 これまたさすがに驚いた。もう何を質問すれば良いか分からなくなる。


 微凪はもう一度、クルリと振り返って、スッと、伊識との間合いを詰めてくる。背後は学校の屋上の金網。逃げ場がなく、伊識は顔を赤くして微凪が近づくに任せた。


「信じる信じないは、別。一応、今言っておくね。」


 すんでのところで、ぶつかるくらいまで顔を近づけて、微凪はゆっくりと、選ぶようにして言葉を発した。


 「私が、エレクシスの人間、かどうかは、分からない。でも、あなたは、確実にそう。なぜかというとね、あなたは、私の、前世、だったから。私は、あなたの、すべて・・・を、知っている。」

 「・・・へ?」


 あまりにも唐突過ぎて、間抜けな返事しかできなくなってしまう。


 「あなたは私の前世だった。あなたがエレクシスにいた頃の記憶を私は持っている。あなたはエレクシスの人間であり、今は地球人でもあるの。」

 「え~っと、もう一度言ってもらえますかね、委員長、へ、へへへ・・・。」

 「ここ、ヘラヘラする場面?前世よ、前世。前の世と書いて、前世。反対の言葉は・・・う~ん、来世?後世?後世は何か違うか・・・。」


 微凪の答えもずれ始めている。ちょっと動揺しているようにも見えた。


 「それをにわかに信じろと?」


 そう言い返しはしたものの、受け入れなければいけないことも分かっていた。伊識の思いを察した表情で、微凪は説明を続ける。


 「だから先に話したんじゃない、ファノームやバシュティン、赤髪のライナ。もっと話せば納得する?あなたしか知らないはずのこと。エレクシスだけじゃなくて、この世界でのあなたのことだって、あなたは私の前世だったんだから知ってるのよ。」

 「え・・・。」


 何か背中がぞわぞわとする。隠していたエロ本を母親に見つかったみたいな気まずさが体を駆け抜け終わらないうちに、


 「え~っとね、そうだ。あなた、中学生のときに日記つけてたでしょ、二週間くらい。人生でただ一度だけ。」

 「そ、それは・・・。」


 そう、つけていた。言われて思い出すほど、記憶の奥底に、精神の詰まった心の樽に、心の漬物石で何層にも渡って蓋をして封じ込めていたはずのもの。日記自体は処分してしまってもう手元にないから、自分でも具体的に何を書いたかは覚えていないが、何を目的として書いたかはハッキリと覚えているから始末が悪く、当然の帰結として背中に冷や汗が流れる。


 「その日記の中に、架空の女子『ヒロカ』を登場させて、あなたはそのヒロカに・・・。」


 決定的な微凪の言葉。


 「うわうわうわうわ!やめやめ、分かった!もういい!」


 伊識は人生最大の狼狽ぶりを示した。


 「自己嫌悪で、すぐに裁断処分したわよね、あの妄想日記。」

 「やめてくれ!はい、はい、裁断処分しました。だからもう勘弁。」


 ふ、はあ~っと肩で息をついて、伊識は膝に手をつき、うつむいたまま


 「なぜ、それを・・・」


 と絞り出すようにつぶやく。


 「『あなたは私の前世だから』、って、さっき言ったでしょ?」


 そのとき、校内にチャイムが鳴り響いた。始業終業を告げるチャイムとは違う音色で、つまりは最終下校を知らせるチャイムだったのだが、その実ほとんど守られておらず、部活動その他の居残りの生徒が、二人のいる屋上からもちらほらと見えたが、伊識の目の前にいるのは転校してきてすぐにクラス委員代理になってしまう『いかにも』な感じの堅物才女だから、たぶん規則を守るだろうなと思っていたら、案の定


 「さ、もう下校しましょう。まだこの後も付き合ってもらうけど。」


 と、前半部分は予想通り、後半は想定外の発言が飛び出してきた。


 「付き合う?・・・そんなまだ会ったばかりで・・・それに俺には・・・。」

 「その付き合うじゃないわよバカ!エレクシス言語よ。もう今日からずっと特訓だから。」

 「いやいや、俺今日これからバイトだし。」

 「それなら大丈夫、連絡しておいたから。」

 「はい?」


 怪訝そうな表情を浮かべる伊識に、微凪はさも当たり前のような感じで


 「あなたの保護者を名乗って、バイト先に『伊識は高校で赤点取っちゃったんで、一週間みっちり補習です。バイト休ませますから。』って、電話しておいたの。」


 と言い放った。


 「・・・マジで?」


 さすがにこれまた驚く。 


 「事情は分かるけど、委員長、そんな勝手に・・・そりゃいくら何でもひどかないですか?」

 「あら、間違ってないでしょ。エレクシスに行って、言葉、全然ダメだったんだから、落第点ってこと。バイト先の責任者も『どうぞどうぞ、休んでください』って、物分かり良かったわよ。」

 「そんなぁ・・・。」


 微凪はすでに屋上のドアの前に移動している。扉を開けて、さも当たり前のように伊識に向かって『早くあなたも来なさい。』と目で合図している。


 「はぁ~。」


 思わずため息が出てしまうが、このクラス委員代理に今逆らってもどうしようもないし、それにまだ聞きたいこと、知っておきたいことが山のようにあるのも事実だった。


 「はいはい、分かりました!行きますよ。この後もまだお付き合いしますよ。」

 「よろしい。」


 微凪は満足そうな表情を浮かべた。が、目は決して笑ってはいなかった。


 (そこが恐ろしいんだよな・・・。)


 「そうそう、忘れないうちにこれだけは言っておかないとね。今、あなたと暮らしてる弟の『槙也』くん、ね。」

 「ああ、『まきや』が何か?」

 「もう妹だから。あなたには弟ではなくて妹がいる設定。帰ってからビックリしないように。」

 「・・・まぁ、だよな。」


 微凪と伊識以外は全員性別が変わっているのだから、それは当然そうだろう。


 (槙也が・・・妹か・・・。)


 もう今さら驚きはしないが、不安がつのる。


 「名前の漢字は同じだけど、気をつけて。『まきや』くんじゃなくて、『まきあ』ちゃんよ。最後『や』じゃなくて『あ』だから。『まきや』って呼ぶと怒るから気をつけて。」

 「お、おう・・・マキア、ね。」


 こうなると本当に『マキアート』から名前を取ったことにより一層の信憑性が増すなぁ、と伊識は余裕がない中にもほんのわずかの余裕を割いてその感想を抱いた。


 「あと、弟さんだった頃よりもさらにブラコンぶりが加速してるから、これも十分気をつけてね。」


 微凪はそれだけ言うと、クルリと背中を向けて、スタスタ階段を降りていく。


 伊識は、心底げっそりした表情を浮かべて、ヨロヨロと微凪のあとをついていくしかなかった。


 (後編へ続く)

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