第六章 「束の間」
授業の方は別段どうということはなかった。時間割は特に変わっておらず、授業の進度も昨日まで受けていた内容の続きだった。
その中で、大きく変わったことといえばやはり体育の授業であろう。
広奏が男子だったこれまでの世界では、体育の授業で広奏が伊識のそばを離れるなどということは決してなかった。
今、広奏は夏木にべったりとくっついている。というよりも夏木がお母さん的立場でべったりくっついている、と言った方が正確かもしれない。
授業の最初にペアを組んで行う柔軟体操では、伊識は誘われて枕井と組んだ。
広奏以外の人間とこういうペアを組むのは、高校入学以来初めてのことだった。
背中合わせになって、伊識が枕井の腕を掴んでグイッと背中に乗せる。
「どうだ、柊城。ちょっとは思い出せてきた?」
柊城の背中に乗りつつ、枕井が尋ねてくる。
「・・・う~ん、正直、何だかよく分からん。」
「何だ、そりゃ。」
「どう説明したらいいか・・・大体のことは分かってるんだ。思い出せてもいる。でも何だか肝心なことに靄がかかっているというか・・・。」
「そうか。難しいもんだな。」
「うん・・・。」
枕井は伊識が単純に記憶喪失か、あるいはそれに近い症状だと思っている。枕井にすべてを説明していないことは申し訳ないが、しかし今、すべてを話すことはやはりためらわれた。
なぜ、こうなってしまったのか。これから、どうなるのか。
(何か、大事なことを忘れているんだろうか、俺は・・・。)
枕井が伊識の背中から降りる。『次、柊城、行くぞ。』と言われ、生返事を返す。
「(もうすでに気づいていなくちゃいけないことに気づいていない・・・のか?)・・・うおおっ。アイテテテテテっ。」
ぼおっとしているところにいきなり腕を引っ張られ、思わず悲鳴を上げた。
「何やってんだよ、『行くぞ』って声かけただろ。」
「あ、ああ。そうか、すまない。ハハハ。」
いったん枕井の背中から降りて、腕をさする。
「大丈夫か。悪かったな。しかし何か今日やっぱりおかしいな、お前。」
「いや・・・うん、まあ・・・。」
「ほら、見てるぜ、こっち。」
枕井が指さした方向に視線を向けると、そこに広奏がいた。痛がる声が聞こえたのだろう、心配そうに伊識を見ている。
伊識は笑みを浮かべて『俺は大丈夫だよ~。』という表情を作って、小さく手を振った。
何となく伝わったのだろう。広奏も笑顔になり、伊識にこれまた小さく手を振り返してくる。
「ホントかわいいよな。男子、みんな見てるぜ、氷岬のこと。今の笑顔、すげえ可愛かったもんな。」
枕井に言われるまでもなく、確かにため息が出るほど可愛い広奏。そして広奏の横で、相も変わらず三日月のような目つきでこっちを見ている夏木。
「お、おう・・・。」
「分かってるのか、柊城。『お・前・に・し・か・見・せ・な・い』あの笑顔、あの表情、本当に可愛いよな。」
「お、おう・・・。」
「やっぱ分かってないな、お前。」
枕井が腕を回して伊識の首を絞める。
「お、おい。苦し・・・。」
「クラスの男子だけじゃない、学校内の男子はもう全員、氷岬のことは諦めてる。お前がいるからな。」
「・・・うへっ。」
ポンポンと腕をタップすると、枕井が絞める力を少し緩めてくれた。
「・・・がはぁっ・・・はぁっ・・・でも、夏木が言ってたじゃないか・・・俺と氷岬は別に付き合っちゃいないって。」
「そりゃ、夏木は女で、親友の氷岬を応援してるんだから。『男のお前から、おとなしくて可愛い氷岬にちゃんとお付き合いを申し出ろ。』って、思うだろうよ。あの性格だしな、夏木は。」
枕井が急にパッと、締めていた腕を離した。伊識は『うわっぷ・・・。』と言いながら前のめりになって転倒しそうになるのをどうにか腕を振り回してバランスを取り、こらえる。
「男の俺に言わせりゃ、もうお前ら、付き合ってるっていうか、それ以上だろ?氷岬はお前しか見てないんだから。」
「そう・・・かな?」
ついこの前まで女だった人間に『男の俺に言わせりゃ』などと言われるとこれもまたよく分からなくなってくる。
「そうだと思うけど。かえって、今さら普通に告白とかしたら、氷岬は悲しむような気もするんだよな。」
「そういうもんか。」
言葉とは裏腹に、それは十分すぎるほどよく分かる気もする。
「そういうもんだろ。お前たちが幼なじみ、ってのは前に聞いたけど、もうそういうことを超越した関係というか。前世からの因縁?とかあるんじゃないの?それがお前たち二人をそうさせてるとか。」
「何を突飛な。」
「でなきゃ、これまでに何があればそういう間柄になれるんだ?お前たち、いつごろからの知り合い?幼稚園から?それとも同じ病院で同時刻に産まれたとか?」
「いやいや、まさか。でもホントのところ、思い出せないんだよな。」
それは本音である。気づいたときには氷岬は伊識のそばにいたような気がするのだ。
つまりは、男女が入れ替わる前の世界のときから、いろんなことに靄がかかっていると言えなくもない。
(繋がりそうで繋がらないな・・・。)
体育教師の笛の音が響く。もうこれ以上話してはいられない。
行こうぜ、と言いながら、枕井はもう歩き始めている。
(まぁ、そのうち、だな。)
伊識も整列に加わるために枕井のあとを追いかけた。
・・・。
・・・・。
・・・・・。
こうして午前中の授業が終わった。
(昼か・・・。)
教科書やノートをとりあえず机の中にしまって、わざとらしく『う~ん』と伸びをしながら、チラチラと横を見る。もちろん左側、広奏の席を。
広奏の作ってきたお弁当、食べるとしてどこでどういうシチュエーションで・・・ということで頭がいっぱいの伊識の背後から、夏木が例の目つきですさまじいまでに特殊なオーラを発している。
恐る恐る振り返ると、夏木はクイ、とアゴを動かして広奏を指し示す。
『さっさと広奏に声をかけろ』と言っているのは自明だった。
目の端はすでにランチバッグを机の上に置いて、うつむいてモジモジしている広奏を捉えている。
「ひ、広奏。お昼、一緒に食べようぜ。」
そう声をかけると、広奏はすぐに伊識の方は向かず、というか、恥ずかしくて向けず、両手でランチバッグの持ち手をギュッと握り締めながら、コクコクと何度もうなずいた。
周囲は、めいめいグループを作って、昼食の準備をしているのだが、相も変わらず、みな何となく広奏と伊識の二人の動向を意識しているようで、この辺りも広奏が女子になる前の世界とあまり変わらないようだった。
「そうだ、夏木も一緒に・・・・・・いえ、何でもないです。」
夏木が『葬送方法を選べ』と言わんばかりの表情を浮かべたのと、伊識の元にお弁当を持って近づきかけた枕井が瞬時に踵を返して去っていくのを同時に目が捉え、伊識は話を打ち切って
「広奏、どこかで、二人だけで食べようか。」
と言って立ち上がる。その一言を待っていたかのように、広奏はスク、と立ち上がった。
夏木が広奏にニコニコと笑顔を向けて
「そうだな。行ってきなよ、広奏。それから・・・っと・・・お~い、枕井~メシ食う相手いないんなら、こっちに来いよ~。」
と声をかける。
「うるせぇ、ぼっちちゃうわ!」
そう言うものの、一度近づきかけた手前、きまり悪そうに枕井は再び夏木の元に戻って来る。
「俺の席、使いなよ。」
伊識は枕井に席を譲った。
「おう、サンキュ。」
スッと、入れ替わりで枕井が伊識の席に座る。
(枕井と夏木の昼食・・・それはそれで見てみたい気もするな。)
そんなことを思いつつ、教室を後にしたわけだが、去り際に『広奏に何かして、泣かしたら殺す。何もしなきゃしないで、やっぱり殺す。』と伊識の耳元で夏木がボソリとつぶやく。背筋に冷たいものを感じながら夏木と枕井に見送られて教室を出た。
夏木だけではなく、クラス全員が何となく伊識を見送った感じではあったが。
広奏もトコトコと伊識を追いかけて教室を出た。出たところで、伊識が歩調を緩めつつ、振り返って広奏を待っていた。
「エヘヘ。・・・・行こ。」
ごく自然に並んで廊下を歩く。
「ど、どこで・・・食べようか?」
「ん・・・・伊識の好きなとこでいいけど・・・・いつものところにしようか。」
「お、おう・・・。」
いつもの、というと、これまでの広奏男子世界だと
(例の空き教室だよな。)
ということになる。
そう、この片田舎の辺鄙な高校は、順調に入学志願者を減らしており、クラス数が徐々に減少していて、今年も空き教室がいくつかあった。その中に一つ、入口の鍵が壊れていて好き勝手に入れる教室があり、一応、生徒の立ち入りは許されていないのだが、伊識と広奏はよくそこに忍び込んで昼休みを過ごしていたのだった。
一度教師に見つかったこともあったが
「あんまりおおっぴらに使うなよ。あと、たまに掃除しといてくれよ。危ないことすんなよ。」
と言われただけでお咎めもなかった。
(でも、あのときは男同士だったからなあ・・・今はなあ・・・。)
男女でも二人きりでそういう場所に入って、見つかっても許されるのだろうか。
とか何とか思案しているうちに、その教室の前までたどり着く。
広奏が立ち止まり、伊識も立ち止まる。
(どうしよう・・・。)
二人きりの空き教室で、理性を保っていられるだろうか。
『泣かしたら殺すぞ。何もなくても殺すぞ。』夏木の言葉が脳内に響き渡る。
(どっちみち死亡ルート回避できない気もするが・・・。)
「伊識、入ろう?」
広奏の言葉にハッと我に返る。
(そうだよ、何考えてるんだ、俺は。)
せっかく広奏が女の子になって、それでもまだ自分のそばにいてくれるのだ。
(死ぬんなら、広奏の膝枕で、だと良いが。)
伊識は意を決して、扉を開ける。カラカラ、と扉のレールが動く乾いた音がする。昨日までと何ら変わりない、ただの空き教室だった。
(いやいや、そうじゃない。夏木に殺されるようなことしちゃダメだ。何考えてるんだ、俺・・・もっと大切にしなくちゃ・・・この関係を・・・広奏のことを・・・。)
今日はじめて広奏を見たときに『むぎゅう』と抱きしめたい衝動に駆られた自分を今更ながら恥ずかしく、情けなく、広奏に対してそんなことばっかり考えていたことを申し訳なく思いながら、伊識はブンブンと頭を振り、教室に足を踏み入れてから『どの辺で食べようか?』と尋ねようとして振り返ると、広奏が後ろ手に、伊識が開けたときと同じようにカラカラと乾いた音を立てて扉を閉め終えるところで、それから広奏はおもむろにランチバッグを近くの机に置いて、それが済むとすぐに広奏の方から伊識に『むぎゅう』と抱きついてきた。
不意を突かれて、伊識がどえらい苦心の末に保とうとしていた平常心は、あっという間に成層圏のあたりまで飛び去ってしまった。
「ちょ、広奏・・・。」
容赦なく広奏の胸が伊識のそこここにムニュムニュと当たる。
(やべ・・・思ってた以上だ・・・いやいや、そうじゃなくてっ・・・。)
離れてもらわないと本当に平常心が成層圏どころか太陽系を外れていってしまう。
軽く広奏の肩を押したが、広奏は伊識の胸に顔を押し付けて、イヤイヤをするように顔を振る。
(うわ・・・。)
広奏の髪の香りが鼻腔をくすぐる。
(すげえ、良い匂いだな・・・。)
「伊識・・・・。」
見透かすかのように広奏が、顔を埋めたままつぶやく。
その言い方で、広奏が何を求めているか伊識はすぐに悟った。
(同じこと、して欲しいのか・・・。)
半ばバンザイに近い高さにまで上げていた腕を、ゆっくりと下ろして、ふんわりと、広奏の背中に回す。
「ん・・・・。」
広奏は満足げに、さらにぎゅっと深く、伊識の胸に顔を埋めた。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・。
どれほどの時間が経っただろうか。伊識が広奏の背中をポンポンする。ムギュッと、離れる前、これが最後と思って広奏が伊識を羽交い絞めにしようと力を入れたのだろうが、全然伊識には痛くなく、まぁそんなやり取りのあと、ようやくお互いに体を離したのだった。
「た、食べよう、か・・・。」
「うん・・・・。」
窓際の日当たりの良い場所に移動する。
机を動かして、向かい合って食べることを伊識は想像していた。広奏が男子だったときはそうして食べていた。ところが広奏は伊識の隣の席にそのままちょこんと座った。二人並んで、同じ方向を向くこととなった。ガタガタと、広奏が椅子を動かして密着してくる。
(近い・・・。)
広奏がいそいそとランチバッグからお弁当の包みを二つ取り出す。
「伊識の好みに合うと良いけど・・・・。」
「おう・・・大丈夫、じゃないか。」
そう、広奏の料理なら大丈夫。まだ広奏が男子だった頃、広奏の家に遊びに行ったときに何回か広奏の作った料理とか、手作りのお菓子を食べたことがある。
(『神味』ってのは、まさにアレのことだ・・・。)
広奏の作るものすべてが伊識の想像をはるかに超える味で、初めて食べた時から、魅せられなかったことなど一度もない。
食い物の恨みは恐ろしいというが、誘いもまた然り、である。
「はい、どうぞ。好きに食べていいよ。」
「おう、いただきます。」
手を合わせて、やおら唐揚げに箸を伸ばして、そこでハタと箸を止めて、
「俺、広奏の料理食べるの、初めてかな?」
一応、聞いてみる。この世界では、どうなんだろうか。
「うん・・・・どうだったかな?・・・・初めて、かなあ・・・・覚えてないなぁ。」
いたずらっぽく微笑む。
「そ、そっか。ごめんな、変なこと聞いて、ハハハ。」
何だかはぐらかされたようだが、それ以上は追及しなかった。
「ううん、良いんだよ、エヘヘ。」
まだいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、広奏は
「スキあり。」
と言って、自分の箸で唐揚げをつまんで伊識の口に運ぶ。
「ん・・・ムグ・・・。」
条件反射で口を開けてパクッと、食べてしまう。
「えっへへ~伊識の今日の最初の一口、食べさせちゃった。」
広奏の恥ずかしそうな、でもうれしそうな笑顔。
(・・・もう、何も言うまい。)
伊識は目を閉じて、感動に打ち震えながら唐揚げを味わった。
「うん、すげえ、美味い。言うことない。」
そう、かつて広奏が男の子だったときに食べた味付けと寸分違わない。
「うん、良かった、エヘヘ・・・。」
ニコニコと、本当に何の邪気もない、伊識が喜んでいることを心から喜んでいる笑顔。
「これは・・・コロッケ?」
「うん。カニクリームコロッケだよ。」
「広奏の、手作り?」
これまでの人生、冷凍食品以外のカニクリームコロッケを食べた記憶のない伊識だった。
「そうだよ。早起きして作ったんだよ?」
広奏はそのカニクリームコロッケを箸でつまむ。
「はい、どうぞ。」
それが当たり前のように伊識の口元に持っていく。
「い、いや、自分で食えるから。」
これ以上こんなことをされていては、感動で打ち震えるどころか、落涙、しかも血涙の危険性があった。
「いいからいいから。」
お構いなしに広奏は料理を伊識の唇にそっと触れさせ、伊識が口を開けるしかない状況に追い込む。
「はい、どうぞ。」
なされるがまま、口を開ける。
こういうときの広奏に勝てたためしのない伊識だった。
「ん、んまい、これも。」
衣のサクサクした感触の後に、カニクリームのトロッとした食感が追いかけてくる。
「お弁当のおかずにすごく向いてるんだな。」
「うん・・・・ありがとう。」
「でも、ほんと、夢みたいだ。」
「夢?」
「ああ、いや・・・広奏とこうして二人でお弁当食べるなんて。」
正確に言えば『女子化した広奏と』を付けなくてはいけないのだろうが、そんなことを説明できるはずもない。
「夢じゃないよ~。」
広奏が伊識の顔を覗き込むように見上げてくる。
「伊識のほっぺ、つねってみようか?」
「あ、えっと・・・。」
戸惑う伊識にかまわず、広奏が潤んだ目を伊識に向けながら、頬に手を当ててくる。
「あの・・・。」
片手で軽くつねるだけかと思っていたら、広奏は持っていた箸を置いて、ムギュ、と伊識の頬を両手で包みこんだ。
「ちゅ、ちゅねらないのか?」
頬をギュッと挟まれたままなのでそんなしゃべり方になる。
「うん・・・・あのね、伊識。」
「・・・何?」
「え、とね。つまりね・・・・。」
伏し目がちにしていた広奏が、やおら顔を上げて、目を閉じてから、ス~っと、音もなく顔を近づけてくる。
(え、なに?・・・ホントに近・・・!)
もう何も考えられず、頭がポンとはじけかけたその刹那、教室の入り口のドアがほんの少し開いていて、例の三日月型のアレの視線が、伊識を正確に射抜いているのを見つけてしまった。
(夏木?)
その上に、もう一つの視線があった。枕井のようである。
(もう、戻ろうよ、夏木さん。)
そんな感じで枕井が夏木の肩をトントンと叩いているようだが、夏木は聞く耳持たず
(てめえ、戻ったら覚えてろよ~。)
伊識に向けて、その目は明らかにそう語っていた。
(いやいや、コレ俺のせいじゃないだろ・・・。)
(やかましい、てめえはすでに『宇宙葬』に決定した。次回のロケット打ち上げの時、お前も積載するようJAXAに依頼しておく。)
(夏木、お前『何もしなくても殺す』って言ってたじゃないか!)
(泣かしたら殺すとも言ったぞ!)
(結局死ぬのかよ!)
(このルートはもうバッドエンドしかないんだよ!)
(てか、俺、泣かしてないぞ。)
(バカ!広奏を見ろ!)
視線だけでだいたいこんな感じで会話して、広奏に視線を移すと、伊識の頬を両手で挟み込んだまま、広奏の両目からは涙がポロ・・・とこぼれ落ちていた。
「え、え・・・広奏、何で・・・。」
「えへへ、見られてるね、廊下から。一人は夏木・・・・で、もう一人は、枕井君かな?」
「広奏・・・。」
「ごめんね、エヘヘ。何でもないの。」
広奏は指で涙をぬぐった。
「いや、何でもないわけが・・・俺の方こそ、何かしたんだな。」
「違うの、うれしいんだよ、ただそれだけ。『夢みたい。』って思ってるのは、私の方だよ。ホントに、今が信じられないよ・・・・。」
「それはどういう・・・?」
伊識の質問には答えず、広奏は廊下で覗いている二人に言い聞かせるように
「大丈夫だよ。」
と広奏にしては少し大きめの声で言い、
「さあ、食べよう。お昼休み、終わっちゃう。」
と言って、自分の箸を再び手に取った。
「お、おう・・・そうだな。」
伊識も自分の箸を手に取る。
「いただきます。」
あらためて二人で声をそろえて言って、食べ始める。
(何で、泣いてたんだろう。)
食べながら思うことはやはりさっきの広奏の涙だった。
悲しくて泣いていたわけではないことは分かる。
ただ、広奏の言う『うれしいんだよ。』という言葉には、それだけで尽くせない何かがある気もする。
(まあ、そのうち。そのうちだよな・・・今は流されとこ。それにしても、広奏本当に料理上手いな。)
横の広奏を見ると、先ほどの涙がウソのように、エヘヘ、と笑いながら、箸を進める伊識を上機嫌で見ている。
(この幸せな時間はいつまで続くのか・・・続くよな?)
夢中で食べつつ考えつつ・・・。
ふと気づくと、いつの間にやら廊下の二人はどこかに去ってしまっていた。
読了ありがとうございます。




