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第五章 「新たな世界」

 登校前に、どうしてもこの埃っぽい体を何とかしておきたかった。浴室に急ぎ向かい、高校生男子特有の驚異的なスピードで洗髪し、全身を洗う。


 「はぁ・・・銭湯・・・行きてぇなぁ・・・。」


 シャワーを体に浴びながら、思わずそんな独り言が漏れる。


 実のところ伊識は風呂好きである。こんなせわしない入浴は本意ではない。が、今は仕方がない。

 

 「やべ、急がなきゃ。遅刻遅刻。」


 バスタオルのふき取りもそこそこに、制服を着て、居間に行き、槙也が用意してくれた朝食を取る。


 「・・・。」


 そそくさと食べて、いつものように歯を磨き、髪を整え、靴を履き、玄関に鍵をかけ、家を出る。


 「あら、おはよう、伊識ちゃん。行ってらっしゃい。」

 「・・・あ・・・え・・・っと、おはようございます。行ってきます。」


 自宅の前を掃き掃除していた隣家の奥さんとあいさつを交わす。隣家の住人は伊識が成長してからもずっと『伊識ちゃん』の呼び方を変えない。


 「・・・。」


 黙々と歩いて、駅に着いた。広奏は例の木刀術の朝稽古がある日だから、駅前で伊識を待っていることはないはずと思って、走りながらも、朝稽古が無い日にいつも広奏が立っている場所の辺りに目をやり、いないことをあらためて確認してから改札に向かう。


 「・・・。」


 ちょうど電車が駅のホームに滑り込んでくるのが見えて、改札を駆け抜け、飛び乗る。何とか間に合った。


 「・・・。」


 電車に間に合いさえすれば、乗り換えもないのであとはどうとでもなる。そのまま、電車に揺られて、高校の最寄駅に近づくころには、電車内は伊識の通う高校の生徒で埋め尽くされる。辺鄙な田舎の高校だから、そこ以外を目的とする乗客など他にほとんどいないのだ。


 「次は~白佐那木~白佐那木~。」


 車掌のアナウンスが電車内に響きわたる。それを合図に、生徒たちは降車の準備を始める。


 「・・・。」


 最寄駅で降りて、そこから高校までの道のりは約五分。

 いつもの道を、いつものように歩いていく。


 「・・・。」


 別段どうということもない。登校は、一人のときもあれば広奏と一緒のときもある。たまに朝稽古から高校に直行する広奏とばったり会うこともある。


 「おはよ~柊城。」


 自転車に乗った生徒が通り過ぎざま、伊識に声をかけてくる。おはよう、と返事する間もなく、自転車はスピードを上げて遠ざかって行ってしまう。顔はよく見えなかったが泥よけのところに『マッポ上等』と手書きで書かれている、よく目立つ赤い自転車、あれには見覚えがある。総合国際科のクラスメートだ。


 「・・・。」


 高校が見えてきた。『県立白佐那木(シロサナギ)高等学校』という文字が校門に刻まれている。


 「・・・。」


 伊識の通う高校。いつもの光景である。これまた別段どうということもない。


 校門前では、教師が一人、仁王立ちで遅刻者を待ちかまえている。


 「ほら、急げ~。」

 「おはようございます。」

 「おう、おはよう。」

 「おはようございます。」

 「おはよう・・・おら~もうそろそろ鳴るぞ、急げよ~。」


 伊識も、そそくさと校門をくぐった。


 「・・・。」


 昇降口の手前で立ち止まり、あらためて振り返ってみる。

 やはり別段どうということもない、見慣れた景色である。


 「・・・。」


 ぼんやりと、校門を見やる。そろそろ予鈴がなる時刻で、生徒たちは早足で伊識のわきを通り過ぎて行く。


 「・・・。」


 みな、伊識のことなど気にも留めずに、靴を履き替え、めいめいの教室に急いで行く。


 「・・・。」


 あっという間に周囲には誰もいなくなり、昇降口には伊識一人、突っ立っているばかりとなった。

 さっきまでの喧騒がウソのように、シンと静まり返っている。

 一人になって、自宅を出て、隣家の奥さんと挨拶してからずっと押し黙っていた伊識は、ここにきてようやく


 「おかしい・・・。」


 と小さくつぶやいてから


 「やっぱ、おかしいよな。」


 とあらためてつぶやき直した。 


 元の世界に戻ってきている。いつもの家、いつもの風景。別段、どうということもないのだ。ただ、そこに厳然としてある確実な違和感。


 「・・・。」


 朝、家を出たときからすでにおかしかったのだ。

 駅までの道の間で、その変な感じはどんどん増大していった。


 たいてい、通る時間はほぼ同じなのだから、駅までの道のあいだ、よく見かけたり、すれ違ったりする人というのはそれなりにいるものだ。


 たとえばそれは、小学生の登校を見守るために車通りの多い交差点に毎朝立っている交通指導員さんとか、毎朝決まった時間に決まった場所でミニチュアダックスを散歩させている人とか、かなりの頻度で駅前に辻立ちして政策の書かれたチラシを配っている市議会の議員さんとか、駅のホームでマイク片手にアナウンスしている駅員さんとか。


 そういった、毎朝見かけている人たちに対する、厳然としてある確実な違和感。ただそれはまったく見たことのない人たち、という感じではない。


 ファノームやセス、バシュティンのいた世界、あのレベルなら、すぐに別世界だと分かる。ただ、今回のような微妙な差のほうがどう考えたら良いのか分からなくなる。


 (やっぱり、お隣りさんのことからして引っかかる・・・おかしいんだよな・・・。)


 普段、家の前を掃き掃除しているのは、朝早くからパートで働きに出ている奥さんではなく、退職して年金暮らしをしているご主人の方なのだ。


 いつもご主人とは挨拶を交わすから、けっこう知った仲で、時間に余裕があれば立ち話をしたりもする。ただ、奥さんとは滅多に会うことがない、というよりここ数年会ったためしがない。どんな顔だったかも、実はよく覚えていない。


 「働かなくても二人なら何とかやっていけるんだけど、うちの奥さんは体動かすのが好きでね。」


 ご主人がそう言っていたのを思い出す。


 (めったに会わないのに・・・。)


 今朝挨拶を交わした奥さんは、伊識のことをよく知った間柄というか、久しぶりではない感じというか、そういう雰囲気で接してきたのだ。


 (そう、まるで・・・。)


 その後もすべて同様で、駅までの道を、あまり見かけたことのない人たちとすれ違ったが、彼らにもそうした『普段とは違うことをしている。』という違和感がなく、それを感じていたのは伊識だけのようだったのだ。


 (そうだよ・・・駅でもそうだ。)


 みんな普段通りにしている。でも、何だか違う。


 (電車に乗っていた連中も・・・あんなに知らない顔ばかりってこと、あったかな・・・)


 自分が違う路線に乗ってしまったのではないかと最初は思った。しかし、電車内の学生たちの制服は確かに伊識の通う高校のものだった。


 (自転車に乗ったあの生徒も・・・)


 通り過ぎる時に挨拶してきたあの生徒、彼はたぶん、伊識の顔なじみなのだろう。


 (あんなクラスメート、いたかな・・・。)


 でも、向こうは確実に伊識を知っていた。でなければ挨拶などしてくるはずもない。


 (そうだよ、あの自転車、)


 とても目立つ、赤い自転車。すれ違いざまにちらっと確認した、自転車に書かれていた名前・・・。


 「・・・。」


 そして最後に校門に立っていた教師。普段からやかましい教務主任以外の教師が校門に仁王立ちでいることなどこれまで一度もなかったのだが、今日は違った。


 (でも、声の調子とか、身振りとか・・・。)


 いささか信じがたいことだが、あのファノームたちのいた世界を経験したあとだからだろうか、『まあ、こんなことがあっても不思議はないか。』という、伊識お得意の『流されていく』感覚にとらわれる。


 もはや伊識以外、誰もいない昇降口で上履きに履き替える。周囲を見回して、こっそりクラスメートの靴のいくつかを確認して、どうやら自分の推測が当たっていそうだと確信してから、深呼吸をして、総合国際科一年の教室がある三階への階段を上る。


 上っている途中で二度目のチャイムが鳴り始め、鳴り終わる頃に教室にたどり着いた。扉を開けると、総合国際科の教室は、そこだけ消失したり、漂流しているようなとんでもない展開などは起こるはずもなく、これまでと同じ場所に存在していた。


 ただ、教室内の生徒は、誰もかれも、伊識の知らない顔だった。

 そして知らない顔にもかかわらず、伊識が教室の入り口で立ち尽くしていると、そのうちの何人かが『おう、柊城。』『おはよ~。』と声をかけてきた。


 どこかで見覚えのある、でも知らない顔。


 (やっぱり、そうだよなあ。)


 伊識は自分の推測が間違っていなさそうだと確信した。


 (やっぱり・・・男女が全員、入れ替わってるよなあ・・・。)


 朝、起きてから今までの一連をあらためて思い返す。仕草や身振りがやたらご主人に似ていたあの隣家の奥さんは、きっとご主人だったのだ。交通指導員さんは、普段は女性だったのに、今朝は男性だった。ミニチュアダックスを散歩させているのは、普段はおじいさんだったが、今日はおばあさんだった。辻立ちの市議会議員さんは、いつも女性だったのに、男性だった。駅のホームでマイクアナウンスしていた駅員も、普段は男性なのに、今朝は女性だった。


 そして赤い自転車に乗って、挨拶してきた生徒。自転車に書かれていた名前も確認した。あれは本来は男子生徒だったはずだが、今朝は女子だった。いつも口うるさい女の教務主任は、今朝は男性だった。靴箱を確認して、靴のサイズも確認した。もともと男だった生徒の靴箱に入っていた靴は女向けのサイズに、女の方は男のサイズになっていた。


 よくよく思い返してみれば、朝シャワーを慌てて浴びたとき、洗濯カゴに入っていた槙也の服が、ひらひらのフリルのついたピンクだった時点で完全にアウトだったのだ。あわてていたのでその時点では大して気にも留めなかったが。


 (あんな服、槙也は持っていない。どこからどう見ても女物だったし・・・。)


 その後に食べた、槙也が用意してくれていた朝食も、普段は『ブレックファスト』という表現がまさにぴったりの洋食なのに、今朝は『朝ごはん』という表現がしっくりくる和食だった。


 (出かける前、槙也の部屋を見ておけばハッキリしてたか・・・まあ分かったところでどうしようもないわけだが。)


 自分の唯一の兄弟である弟の槙也が、いきなり女に、妹になっている、かもしれない。どう接すれば良いのか。


 (それもそうだが・・・。)


 とりあえず今は目の前の状況に対処しなくてはならない。


 「おう、柊城。入らないのか?」


 背中をポンと叩かれて、伊識の脇を男子生徒が一人、すり抜けていく。

 その男子のことが何となく気になって、目で追うと、入口に立つ伊識に最も近い、廊下側の最後尾の席に座った。つまり今、入口に立っている伊識の目の前に座って、背中を向けているのである。確かその席は・・・。


 (クラス委員の、枕井芳乃の席・・・だったよな?)


 座席が変わっていないなら、それは確かに枕井芳乃の席であろう。

 クラス委員に選ばれるくらいだから、周囲の人望も厚かったし、見た目もなかなか可愛い女子だった。


 (アイツが・・・男になると、ああなるのか・・・。)


 確かに言われてみれば面影はあるような気はする。男になっても女子から人気のありそうな見た目だった。


 (とにかく、状況を少しでも理解していかないとな。)


 伊識は、おそらく元・枕井芳乃と思しき男子の背中に、多少身構えつつも


 「お、おはよう、枕井・・・さん。」


 と声をかけてみた。


 「おう。おはよう。どうした、柊城?俺のこと枕井『さん』て。気味悪ぃな。」

 「あ、ああ、いやいや。え~とね、何だ、まあ・・・俺は、あなたのことを・・・そういうふうには呼んではいなかった・・・ということ、ですか?」

 「おいおい、どうした柊城?前々から感じてはいたけど、今日はいつにもましておかしいな、お前。」

 「あ~はっはっは~。」


 とりあえず乾いた笑いを上げる。『前々から感じてはいた』というくだりが非常に気になるが、今はかまっていられない。


 「ははは・・・あんまり気にしないでくれ。つまりあなたは、クラス委員の枕井くん、ね?」


 「『さん』の次は『くん』かよ、気持ち悪い!ほんとどうした、お前?」


 呼び方には違和感があったようだが、クラス委員の方には何も突っ込みが入らなかったので、以前の男女が入れ替わってない世界と設定的な部分は変わらないのか、と伊識は多少安堵した。


 「お前ホントどうした?なに一人で安心したようなツラしてんだよ?大丈夫か?」

 「いやいや、大丈夫、大丈夫・・・なんだけど、実はね・・・ここだけの話、」

 「やっぱりなんかあるんだな。」

 「信じられないような話なんだけど・・・これから話すことは他の人には内緒で頼みたい・・・。」

 「うん、何?話してみろよ。」

 「ちょっとね、今、軽い記憶喪失、入ってるんだ、俺。ははは。」

 「まじで?え、ホントに?」


 そう、この学級委員の枕井は、根は非常にまじめで、どんなことも真に受けるタイプなのだ。だからこそ、伊識は最初の相談相手にこの元・女子(現・男子)を選んだわけだが。


 「本当、本当。」

 「記憶喪失で、今日はどうやってここまで来たんだよ?」

 「道順とか、場所とか、そういうのは覚えているんだよ。ホント、軽いやつでね、はは。人間関係とかに、ちょっとね、混乱が。クラスの連中の名前も大体は覚えてるんだけど、名前と顔が一致しないというか、何というか。」

 「ふうん・・・難儀なことだな。病院行かなくていいのか?」

 「たぶん、大丈夫。病院行くよりも、普段通りの生活で思い出していった方が良い感じがするんでね。」


 そのとき、伊識の背後から『枕井君』と呼ぶ声がした。

 枕井と伊識、二人が廊下の方に目を向けると、隣のクラス委員がいた。


 「どうしたの?」


 枕井が立ち上がる。


 「これ、古文のプリント返却、先生から。国際科の分が間違えてこっちのクラスに入ってたみたい。」

「分かった、返しとくよ。」


 プリントの束を受け取ると、枕井は伊識に向かって片目をつぶって


 「ちょうど良かったじゃん、柊城。」


 と言った。


 「なにが?」

 「お前、クラスメートの名前と顔、一致しないんだろ?手伝ってやるから、このプリント一緒に配って回ろうぜ。」

 「ああ、そういうことか。そうだね。」


 (何て良いやつだろう。)


 やっぱりこいつは性別関係なくクラス委員気質なんだな、と伊識は感謝した。


 「ありがとう。信じてくれるんだな、俺のこと。」

 「こんなことで嘘つかれてもな。そういう奴じゃないよ、お前は。ところで・・・いったいどうしたわけで記憶喪失じみたことになっちまったんだ?いつから?」

 「いやそれが分かんなくて。今朝起きたら、急に。」


 男女入れ代わりのことは黙っていることにした。


 「何か、よく覚えてないんだけど、もしかしたら昨日見た夢も関係してるかも。」


 そう、あの実際に行った、少なくとも現代の地球ではない、別の場所。


 「変な夢見たのか?夢のせいで記憶が混乱、ね・・・でもまあ、そういう記憶喪失って、時間経てば直るのが普通?何かショックなこととか、きっかけがあったんだろうけど。確かに病院行くより普段通りにした方が良さそうだな。あんまり深刻になるなよ。」


伊識に話す間を与えず、枕井はそう一人で結論付けた。


 「あ、ああ、おう・・・。」

 「それから・・・ちなみに、だね・・・。」


 枕井は束の一番上に置かれていたプリントをヒョイと取り上げて、


 「これが、俺ね。枕井芳之(よしゆき)。」

 「あ、ああ・・・枕井・・・芳之、ね。」


 『芳乃』が『芳之』に変化している。


 (その辺り、微妙に都合よく設定が変わってるんだな。)


 「じゃあ、配って回ろうぜ。」

 「ああ。」


 伊識は枕井のあとについていく。


 「これが、蓮藤京(れんとう・みやこ)。そこの席。」

「蓮藤京、女ね(たしか京太って名前だったような・・・)。」


 机の上にプリントをファサッと置く。


 「それでこれが、大三木史八州(おおみき・ふみやす)。」

 「大三木、男ね(元の名前何だっけ?)。」

 「暁月双至(あかつき・そうし)。」

 「暁月・・・ソウシ?男ね。」


 枕井の助言もあって、すいすいと配っていく。席に着いている者もいればいない者もいたが、場所と名前が確認できるだけでもありがたかった。


 「・・・綴原桐梧(とじはら・とうご)」

 「ほほう、男だねぇ(う~ん、思い出せん)。」

 「・・・嘉園真苗(かその・まなえ)」

 「いいお名前ですなあ、女。」

 「・・・古南田深桜(こなた・みお)」

 「ミオ・・・女子だねぇ。」

 「・・・あの~柊城くん。」


 枕井は配る手を止めて伊識をじっと見つめてくる。


 「は、はい、何でしょうか。」

 「君はどうしてそういちいち性別を確認するのかね?実は軽くないんじゃないの、その記憶喪失。」


 疑わしそうな目で見つめてくる。伊識はアワアワと弁解の言葉を口にする。


 「あ~いやいや!違うんだ。苗字は分かるんだけどね、ファーストネームの方がね、ははは。ままま、気にしないでくれ。」

 「まあ・・・いいけど。」


 物分かりの良い枕井とはいえ、男女入れ代わりのことまではさすがに説明しにくいし、説明したらこの枕井は理解して、信じてくれるのかもしれないが、つまりそれはさらに彼の心配を加速させるだけかもしれず、それはそれで申し訳ない。それに『え、俺、お前の元いた世界では女だったの?』とそっち方面で食いついて来られても困るし・・・というわけで適当にごまかすことにした。


 「ちなみにさあ、ウチの担任、塗戸(ぬりと)先生だよね~下の名前何だっけ?」


 「そこも覚えてないのか。篠(しの)。あ~ちなみに女ね、女!」

 「そうだよね~女だよね~。」


 おどけた風を装ったものの、『あの』塗戸條(じょう)先生が女になっている姿など全く想像できず、あとに残るのは怖いもの見たさだけだった。


 「ほれ、残り配るぞ。」


 枕井に促される。


 「ああ、うん、そうだな・・・え~っと、これは・・・。」


 そう言って、束の一番上に書かれた名前を見た瞬間、柊城伊識は小さく『あ』とだけつぶやいて、背中をピク、と震わせてその場で固まった。


 「どうした、柊城?」


 枕井が呼びかける、その声も耳に入らない。


 心中はすさまじく動揺していて、『あ』などでは済まされない雄叫びが体内を駆け巡っていたのだが、それを表にはまったく出さないように苦心して、つまりはそれが小さな『あ』というつぶやきに昇華して、自身の身を固めさせるにとどめたのである。


 とどのつまり、そこに書かれてあった名前は。


 (氷岬・・・広奏・・・!)


 何度見直しても、そのプリントにはその名が刻まれていた。


 「・・・。」


 気づいていなかったわけではない。そう今朝、男女が入れ替わっているのではないかと察し始めてから、それはずっと心の片隅に生じて、それきりずっと離れずにいたことだった。考えないようにしよう、考えないように・・・と思って、自分の弟が妹になってしまったのではないかということとか、隣家のご主人が奥さんになってしまったこととか、そういうことをまず考えるようにして気を紛らわそうとしても、決して消えなかったこと。


 (氷岬が・・・女の子に・・・。)


 あえて考えないようにしていたが、手にしたプリントに書かれた、丸っこい字体、その名前は、否応なしに考えることを伊識に要求してくる。


 (・・・今横にいるコイツが女の子だったらなあ・・・。)


 これまで、何百万回ではきかないくらいの回数、心の中で思っていたことが、現実のものになっているかもしれない・・・そう思っただけで、何とも言えない、地に足がつかない、ふわふわとした感覚に襲われてしまう・・・そう思った刹那、背後からタイミングよく小さな声が聞こえてきた。


 「お・・・・おは、よう・・・・い、伊識・・・・。」


 それは呪文のような効果を発揮した。伊識の背中は今度はピク、では済まされず、ビクッと震える。硬直した身体は容易に振り返ることすら許さない。


 (この声・・・氷岬、だよな・・・。)


 これまでだって完全に女の子そのものと言って良い声質で、背中から聞こえてくるそれもやはり完全に女の子のそれで、つまり以前と全然変わるところはない、ないのだが。


 (氷岬も・・・性別が反対に?)


 自分の心臓の音がよく聞こえる。


 これまで散々夢想していたことが、背後でいきなり現実になっている。伊識には心の準備ができていなかった。


 (振り返って、そこに女の子としての氷岬広奏がいたら、自分は何て顔をすれば・・・どう接すれば・・・。)


 おそるおそる、振り返ろうとしたが、そんな伊識の頭を誰かの手がガシっとつかんだ。


 「いいから、さっさとこっち向け、バカ!」

 「ヒギィっ。」


 掴まれた頭を無理やり百八十度回転させられる。グキポキという不気味な音が響く。


 「広奏が挨拶してんでしょうがよ!」

 「いてててて・・・痛ぇよ!」


 相手は掴んだ頭を離さずに、両目を三日月のようにして伊識を睨み付けている。


 (この女子は・・・誰だ?)


 やはりもとは男だったのだろうか。


 (氷岬の横にいるってことは、この世界での氷岬の・・・女友達?)


 想像もつかない。よくよく考えてみれば、男女問わず、広奏の隣で伊識以外の生徒が広奏に親しげにしている光景など伊識は見たことがない。広奏はどんなときでも伊識の横にいた。伊識の隣には、広奏以外のクラスメートがいることもあったが、広奏が押し黙ってそのそばでうつむいて立っているのを見ると、みな何も言わずに慌てて広奏に伊識の隣を譲るのが常だった。


 (そうだよ・・・何で俺だけ、性別が変わってないんだ?)


 本来は自分も女になっていて、広奏が常に隣にいる状況を誰にも譲らずにいたのかもしれない。


 (・・・。)


 三日月目の女子は、何かワアワア伊識に文句を言っているが、それはまったく耳に入らず、伊識は、その横にいる女の子の姿から視線を外すことができない。


 (ああ・・・この子が・・・この女の子が、そうなんだ・・・。)


 誰に何の説明を受けなくてももちろん分かる。伊識が夢想し続けた、完全無欠の、女の子としての広奏がそこにいた。


 広奏は最初に伊識に挨拶してから、ずっと押し黙って、頬を真っ赤に染めて、伏し目がちに立っているばかりである。が、それだけで伊識には十分だった。


 もともと百人中百二十人が『男装した女子でしょ?』と思うくらいの外見なのだから、顔も、体格も、仕草もほとんど変わらない。大きな違いと言えば、男子ではなく女子の制服を着ていること、髪が肩くらいまで伸びていること、そしてそれ以上に伊識の心をとらえて離さない最大の違い、それは。


 (・・・胸が・・・そりゃあ、あるよな・・・女の子なら・・・ははは・・・ある、あるわな・・・しかもただあるなんてもんじゃない、けっこうな大きさの・・・すげぇ。)


 伊識は静かに目を閉じ、感動に打ち震えた。


 「ちょっと柊城!コラ!」


 ささやかな感動の間も十分には与えてもらえず、三日月目の女子は容赦なく伊識にボディーブローを打ち込む。


 「ぐはっ!いて!」

 「ボケーっと、どこ見てんのよ!」

 「ま、まあまあ、『夏木』さん。」


 枕井が気を使って、名前を強調して言ってくれる。


 (イテテテテ・・・夏木、夏木・・・まあ・・・いたかな。そんな男子。)


 夢の中でちょっと違う世界にいたせいなのか、思い出せないことも多い気がする。本当は静かな場所で一人、これまでに得た情報をもとにじっくり考えたいところだが、目の前の、三日月型の目つきの度合いをさらに増している夏木という女子がそれを許さない。


 「柊城。」


 広奏に聞かれないように伊識の腕をグイッと引っ張り、耳元で夏木がささやく。


 「お、おわっ・・・な、何?」

 「確かに広奏、女の私から見ても羨ましいくらいだから・・・気持ちも少しは分かるけど、その・・・胸ばっか見てんじゃないわよ。広奏泣きそうじゃないの。挨拶くらい早くしてあげなさいよ。」

 「お、おう・・・。挨拶、挨拶ね・・・氷岬さんにね。え~っと・・・。」


 伊識は一段と声をひそめて


 「俺って、氷岬さんとどういう関係ですかね?夏木さん。」


 と聞いてみる。


 「はあ?何言ってんの?」

 「付き合ってたりするんですかね。」

 「・・・。」

 「え・・・と、夏木・・・さん?」

 「あんた、本気で殺すわよ。」

 「え、あ・・・いやいや、大変、非常に、誠に失礼しました。」


 広奏が女になっているこの世界でいきなり殺されては、本当に心残りしか残らない。


 「俺と・・・氷岬さんとは、付き合ってない・・・んですね?」

 「そういうレベルの話、してるヒマがあったらさっさと告白すれば?今だって、あんたに声かけるだけで、広奏どれだけ勇気出したと思ってんのよ・・・そうだ、私が取り持ってあげるわよ、今この瞬間に。」


 夏木は伊識が逃げないよう、制服の袖をしっかりつかんで、広奏の方を向いて大声を出した。


 「広奏ぁ、柊城が何か話したいことがあるって・・・。」


 その瞬間、ざわついていた教室内は示し合わせたかのようにシンとなり、クラス中の生徒の視線が集まる。


 「うわ~っ!ちょっ、ちょっ、待っ・・・」


 いきなり告白はあまりに準備ができていなさすぎる。


 周囲の視線も痛すぎる。


 「と、とりあえず挨拶からにしておくよ、うん。朝はやっぱり挨拶だよね~。」


 いかにも白々しい返事に、夏木は胡散臭げな視線を隠そうともせず伊識に浴びせる。


 「あ~そう?・・・じゃあ、早くしな。」

 「うんうん、分かった。氷岬さんに挨拶・・・え~っと氷岬さんはこちらの女性。うん、女の子だよね、氷岬さんは。こちらの女の子ですよね、氷岬さんは。間違いなく女の子です・・・よね?」


 アワアワ尋ねる伊識に、夏木の目つきの冷たさは一気に氷点下までウナギ下がった。


 「・・・火葬と土葬と鳥葬、好きなの選びな、柊城。」


 冷たく言い放つ。


 「なななな、何で、何で。」

 「広奏は女の子に決まってるでしょうがっ。あとね、広奏があんたのこと下の名前で呼んでるんだから、あんたも『広奏』って呼んであげなさいっ・・・って、あ、え?」


 広奏が、クイクイと夏木の服の裾を引っ張っている。


 「な、何?どうしたの、広奏。」


 夏木は、広奏より頭一つ分背が高い。腰を落として広奏と同じ視線の高さまで下りて、夏木は広奏に語りかけている。


 まるで実の母親か、姉のようであった。


 (俺への話し方と全然違うな、夏木・・・。)


 広奏は、顔を真っ赤にして、うつむいたまま、夏木に向かって懸命に首を横に何度も振っている。


 (あ~これは・・・。)


 伊識と二人きりでない時は口数の少ない広奏だから、たいていのことはその表情や身振りで理解できる。男の子のときも、女の子のときも、その辺は変わっていないんだなと思っていると、夏木が


 「おらっ。広奏があんたに直接話したいんだって。」


 と言って、グイと肩を押されて広奏の前に突き出された。


 (夏木・・・こいつも広奏の言いたいこと、見ただけで分かるんだな・・・。)


 ちょっとだけ、何かが胸にチクっと刺さる。


 それにしても、である。


 目の前の広奏は、本当に伊識が果てしなく夢想した広奏そのものだった。短すぎず、長すぎない丈のスカートや、紺色のソックスや、どうしたらそんな新品同様の白さを保っていられるのか不思議な上履きや、目もとに少しかかるくらいの長めの前髪・・・。


 夏木に小突かれて、ようやく伊識は我に返った。まずは挨拶である。


 「お、おは、おは・・・よう、ひみ・・・ひ、ひっ・・・ぴろっ・・・広奏っ。」


 いくらなんでも噛みすぎである。


 (これじゃただのよく分かんない奴だぁっ・・・!)


 幼かった頃は『広奏ちゃん』と呼んでいたこともあったのだ。成長して、伊識が広奏のことを妙に意識するようになって、いつの頃からか『氷岬』と苗字で呼ぶように伊識から変えたのだ。


 広奏は今も昔もずっと『伊識』と、名前で呼んでいる。


 今さら、お互いをどう呼ぶかなど、問題ではないはずなのに。何で今さらこんなに下の名前で呼ぶのに緊張しまくらないといけないのか。


 (要するに破壊的なんだよ!女の子になった氷岬・・・広奏は!)


 伊識のそんな慌てぶりをよそに、頭から立ち上る湯気が見えるほど広奏の顔はさらに赤みを増した。伊識の顔もそれにつられてみるみる赤くなる。


 (うへぇ・・・メチャかわいい・・・バリかわいい・・・バリ・・・カタ・・・ハリガネ・・・粉落としの味濃い目の油多めでお願いします、ハイ・・・三回は替え玉、しますから・・・。)


 自分も広奏に負けず劣らず頭がのぼせてさらによく分からない地平にまで思考が飛んでいく。


 「あ、あのね・・・・伊識。」


 広奏が口を開いた。


 「は、ハイ・・・何でしょうか・・・?」


 声がうわずる。


 「え、とね、今日も練習、あるんだけど・・・・。」

 「ああ、例のチャンバラ?・・・いてっ。」


 後ろから夏木のパンチを食らう。小声で『北雲流木刀術だろ!』と言われる。


 (そっか。よくよく考えれば、木刀術もか。)


 この世界でも広奏はちゃんと習っているらしい。


 「うん、そう。チャンバラ。」


 そう言って伊識に向かって顔を上げて、エヘヘ、と笑ったその顔を見て、伊識は体の奥がジンとしびれる感じがして、周囲に誰もいなかったら広奏のことをムギュウと抱きしめていない自信がないことに自信を深める。周囲の生徒たちは、何気ない風を装いながらも広奏と伊識の対面の行く末を横目でチラチラ見ていて、ものすごく気にしているのがひしひしと感じられる。


 (この世界でも、氷岬と俺はクラスでちょっと違う存在なのかな・・・いや俺はどうでもいいだろうな、きっと。広奏が凄まじすぎるってだけで・・・。)


 「練習に行く前にね、買い物、行くけど・・・・。」

 「あ、ああ買い物、買い物ね・・・ぐあっ。」


 先ほどのパンチの何倍もの力で、夏木の背後からのボディーブローが正確に伊識の脇腹を射抜く。


 「あだだだ・・・あのさ、じゃあ、買い物に俺も一緒に行っていいかな、広奏?」


 広奏の指が・・・おへその前あたりで組み合わされた左右の手の親指がクルクルとせわしなく動いていたが、その動きがピタッと止まって、広奏は再びうつむき加減のまま、コクンとうなずいた。


 「じゃあ、放課後、な。」

 「うん。あとね、昨日約束したこと・・・・。」

 「ん?昨日?」


 女の子の広奏は今日が初めてである。昨日の広奏(女子)と、俺はどんな約束をしただろうか、と思いつつ、『ああ、喰らうな、これは。』と思った矢先に夏木のボディーを喰らう。


 (昼だよ、昼!お前の弁当、広奏が作ってくるって約束だよ!)


 「あだだだだ・・・お、おう。昼な、昼。一緒に食べようぜ。」


 それを聞いて広奏が顔を上げて心からの嬉しそうな表情を見せたとき


 「お~ら、者ども、席に着け~。」


 のっそりと担任の教師が教室に入ってきた。


 いつの間にか姿を消していた委員長の枕井が伊識に声をかける。振り返ると、空いている席を指差している。どうやらそこが伊識の席、ということらしい。


 返却しなくてはいけないプリントの残りも、広奏と夏木とのやりとりの間に枕井が配っていてくれたらしい。伊識は表情と身振りで『悪ィ。』という仕草をし、枕井は『気にすんな。』という仕草を返す。


 伊識は枕井の示した席に着く。


(前も、この席だったっけ?)


 かつての自分の席とは若干位置が違っているような気もするが、よく思い出せない。左隣に広奏がいるのは変わらなかった。そして背後には・・・


 (夏木・・・俺の後ろか・・・いたのか?前にも・・・。)


 夏木が三日月型の怒りの目を自分に向けているのは、振り向かなくてもオーラで分かる。


 ふと、隣を見ると、広奏が自分のことをじっと見ている。


 多少の照れはまだあるものの、ニコニコと笑顔で伊識のことを見てくる。


 (これから、これが学校生活の日常になるのか・・・。)


 狐につままれたような気分である。何だか不安で落ち着かない。


 (でも、広奏が女の子で、隣の席にいて、俺の弁当作って来てくれて・・・これは現実なんだな。)


 今すぐにでも立ち上がって、『キャッ・・・ホーイ』と、間にタメを存分に入れて叫びたくなるのをどうにかこらえる。


 「静かにしろ~日直号令かけろ~。」


 担任の塗戸篠先生は、女になっても以前と変わらずノースリーブのシャツからムキムキの腕をのぞかせていて、どこで隠れて吸っているのか分からないが、やはりちょっと煙草臭くて、これまたどこで調達してくるのか、すさまじく趣味の悪いネックレスまで同じで、会うまでは想像もできなかったが、実はあんまり大差ないなという印象を伊識は得たのだった。


読了ありがとうございます。

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