第四章 「かつての記憶」
・・・うすぼんやりと意識が戻ろうとしている感覚から、徐々に徐々に目覚めようとしている。
(ああ・・・ようやく、地球に、日本に・・・戻って・・・これたのか、俺は?)
一抹の不安がぬぐえない。
そもそも、自分がどこいるのか分からない。何だか、ふわふわと浮いていて、どこにも着地していない気がする。
(まさか、俺、幽霊に?)
そう思った瞬間、背筋がぞわっとなって、柊城伊識は目を見開いた。
(あれ・・・何だろ・・・まだ夢の続き?)
目の前の光景に焦点がピタリと合う。どうやらあのエレクシスとかいう世界からは脱出したようではあったが。
(うぉ・・・ここは・・・やっぱりまだ夢なのか・・・。)
そこは伊識の自宅ではなかったが、自宅と同じくらい、昔からよく知っている・・・すべての勝手を知っている場所。
幼い頃から何度も通って、一緒に転げまわって笑って、ゲームをして笑って、並んで本を読んで笑って、絵を描いて笑って、猫と遊んで笑って、手作りのお菓子を食べて笑って、何もなくたって笑って、そのままどちらからともなく寝てしまって・・・数え上げればキリがないほど笑いあって、色んなことをして遊んだ場所。
氷岬広奏の自宅の、氷岬広奏の部屋だった。
夢だと思ったのは、その部屋を、宙に浮くような感じで、普通ならありえない俯瞰から見るような位置から眺めていたことと、広奏だけでなく自分自身の姿を第三者の視点から見ていることと、そしてどうやら今見ているその場面は、広奏と二人で、部屋の真ん中にテーブルを置いて、高校入試に向けた勉強を一緒にしていた、そんな過去の光景だったからである。
どうやら、幽霊になったわけではないらしい。安心すると同時に、懐かしさが込み上げてくる。
(こんな感じ、だったよな。広奏と二人で受験勉強、したよな・・・。)
夢の中の二人は、いま広奏の一番苦手な数学の勉強をしているようだった。
「あれ?あれれ?答え、違うかな?」
問題を解いて、答えを見て、焦っている広奏。間違えたらしい。
「移項のとき、符号変えてないぞ。」
間違えている箇所を指で示す伊識。
「あ、あ・・・・そっか。ニアミス、ニアミス。」
「ケアレスミスな。」
「そうそう、それそれ。」
エヘヘ、と言って伊識を見つめる広奏。そんな広奏の表情に、夢と分かっていてもドギマギしてしまう。
(可愛いな、広奏、本当に・・・。)
いつもの『なぜ女の子じゃないんだ!』という思いが湧き上がり、伊識は夢の中にもかかわらず頭をブンブンと振った。
自分の姿を第三者の視点から見るのも、これまた非常に照れるというか、恥ずかしい。
(・・・俺、広奏を見るとき、あんな表情、してたんだ・・・。)
こんなに優しい顔をする自分もいたのかと、今さらながら気付かされる。
「いいか、答え出したら、左辺と右辺の等号が成り立つか、確かめてみるんだ。x(エックス)にはどんな数字入れても成り立つはずだから、簡単な数字、ゼロとかイチとか代入して、成り立たなかったら間違ってる、だろ?」
「うん。」
(・・・。)
素直に返事をする広奏を見て、夢の中の伊識の顔も赤くなる。
(広奏も・・・俺にあんな表情、向けてたんだな・・・。)
熱心に解き方を説明する伊識の話を、とりあえず真剣にフムフムと聞きながらも、時折チラチラと伊識の横顔を見つめている広奏。
その表情はもうどこからどう見ても『伊識、好き。大好き。』と言っているようにしか見えない。
(いやいや、それは俺の勝手な・・・。)
そう思い直して、また頭をブンブンする。
「伊識、教えるの上手だね。」
「いや・・・まぁ、そうかな・・・。」
「伊識が学校の先生だったら良かったのに。」
「そ、そう、か・・・?」
(『そうか?』じゃねぇだろ。)
夢の中の自分に自分が突っ込む。自分の態度が何だかもどかしい。
確かに、教え上手なのかもしれない。でもそれは、広奏にだからなのだ。
とにかく、何がなんでも広奏と同じ高校に通いたい、その一心が、普段は無気力な伊識をここまで懸命にさせた。
広奏以外の人間に、こんなに上手く教えられるとは到底思えない。
(それに・・・そうだよ、思い出したぞ。この夢はただの夢じゃない。過去に現実にあった出来事だ・・・あの広奏の服・・・。)
胸のあたりをなんとも言えない重苦しさが襲うが、そんな伊識の思いとは関係なく、目の前の光景は展開していく。
「ほら、解き直してみなよ、広奏。」
「うん。」
広奏が鉛筆を走らせる。伊識も自身の問題に取り組む。
カリコリとものを書く音だけがしばらく続いたあと、広奏が
「解けた!」
と言って伊識に解答を見せる。
「おう、正解だな。」
「よかったぁ。」
ふぅーっと一息ついて、広奏はテーブルに乗せた腕を組んで、その上に自分の頭を乗せて突っ伏した。
そうして、少しだけ顔を腕からずらして、チラリと伊識を見つめてくる。
(・・・。)
その視線、その表情。あまりの可愛さに、中学生の伊識は顔を真っ赤にしてあわてて目を逸らす。が、広奏は見つめてくるのをやめようとはしない。
「じゃ、じゃあ、ちょっと休憩にするか・・・。」
顔を横に向けたまま伊識が提案する。
「うん、いいよぉ・・・・。」
相変わらずテーブルに伏して、トロンとした目で伊識を見上げてくる。
「ね、眠いのか、広奏。その目。」
誘うような広奏の目つきに、とてもまともに顔を見ることができない。
「ん?眠く・・・・ないよぉ。」
「そ、そうか・・・。」
なかなか、伊識にその場の雰囲気を変えさせてはくれない。
「広奏、あのさ、」
「うん、なぁに?」
「そ・・・その、服、さ。」
伊識が、鼻の頭をかきながら
「はじめて見る、服、だよな?」
と言った。
(やっぱり・・・。)
自分自身のそのセリフで確信した。
(これ、あのときの・・・あれだ・・・。)
胸の奥の重苦しさがどんどん増大して、切なさが締め忘れた蛇口の水で溢れかえる台所の流しのようにいっぱいになる。伊識は唇を噛んだ。
「うん、エヘヘ、気づいた?そうだよ~。」
広奏は、心からうれしそうな、無邪気な笑顔を浮かべた。
「前に伊識がボクに似合うんじゃないかって言ってた服、思い切って買ってみたんだ。」
広奏は立ち上がって、伊識の目の前でクルリと一回転した。
すそが膝上くらいまである、ロング丈のシャツだった。
色はペールブルー。一番、広奏に似合うと伊識が主張してやまない色だった。
「どうかな?」
「・・・あ、ああ。」
横を向いたまま、視線を何度かチラチラと向けて、伊識は
「似合ってる。」
とボソリと言った。
「うん、良かった。」
広奏も頬を染めて小さな声でそう返事をすると
「お茶、入れるね。あと、今日クッキー焼いたから。一緒に食べよう?」
と言って立ち上がった。
「おぅ。良いね、いつも悪ぃ。サンキュ。」
ウーンと、伊識も伸びをする。
「ううん、こっちこそ、教えてもらって。じゃ、用意するケド・・・・でも、その前にね、伊識!」
と、広奏にしては大きめの声を上げると、伊識の隣にちょこんと座りなおして、これまた広奏なりの怖い顔をして伊識を見つめてくる。
つまりそれは、伊識にとっては全然怖い顔などではなく、むしろ胸の辺りがキュっとなる表情なわけであるが。
「お、おぅ・・・な、何でしょうか、氷岬さん・・・。」
『ちょっと、近いんですけど・・・。』という伊識の心中などおかまいなしに、広奏は素早い動きで『スルン』と伊識の靴下を片方脱がせる。
「あ~やっぱり!足の爪、切ってない!この前あんなに言ったのに!」
広奏は伊識をじっと睨んだ。
「あ、ああ。そのこと・・・忘れてた、悪ィ。」
「もぉ、ダメだよ。怪我するよ、足の爪伸ばしたままだと。」
「そ、そうだな・・・分かった、分かったよ。家に帰ったらすぐ切るから・・・て、え?」
伊識がそう言う間にも、広奏は手を伸ばして机の引き出しを開けて、そこから爪切りを取り出すと、コホン、と一つセキをしていかにもあらたまった感じを出しつつ正座して、シャツの長い裾を丁寧に太ももに広げてから、ポンポンと、その太もものあたりを手で二回軽くたたいて
「さ、伊識。」
と言った。
「い、いや、いいって。帰ってから自分で・・・。」
無言のまま、ニコニコと目を糸のように細めて、広奏は自身の太ももをまた二回ポンポンした。
「・・・。」
広奏の『おいで。』と言わんばかりの表情。もう何を言っても勝てない。
「わ、分かったよ。」
しぶしぶ、という雰囲気を出しつつ、伊識は正座した広奏の太ももの上に、自身の足をそっと乗せた。
「ダメだよ、伊識。ちゃんと力、抜いて。」
広奏が伊識の足を持って、自分の太ももにキュッと押し付ける。
「・・・お、おぅ・・・。」
伊識は観念して足の力を抜いて、広奏にすべて委ねる。
「よろしい。」
広奏の手が伊識の足の指に触れる。
「う・・・。」
「くすぐったい?」
「い、いや、まぁ・・・。他人に足の爪切ってもらうなんて、幼い頃以来だよ。」
「ん・・・・任せて。」
広奏がそう言うのとほぼ同時に、ぱちん、と爪切りの最初の音が鳴った。
「くすぐったいの、ちょっとガマンだから、ね。」
「あ、うん・・・。」
ぱちん、ぱちん。小気味よい爪切りの音が部屋に響く。
「伊識。」
ぱちん。
「ん、何?」
ぱちん。
「もう、あっという間に受験だね。」
「ああ、そうだな。」
ぱちん・・・あらぬ方向に弾け飛んだ爪を拾う広奏。
「受験、さ。」
「ああ。」
「終わったら、どうする?」
「どうする・・・って?」
「うん。何かしたいこととか。」
「したいこと・・・そうだな。」
(・・・一つしかない・・・いや、なかった・・・。)
見ている側の伊識にはよく分かっている。
広奏は、伊識の足指をじっと見つめたまま
「伊識・・・・好きな人とか、いないの?」
と、不意を突いてきた。その言葉に、伊識は
「・・・へ?」
としか返せなかった。
(なんとまぁ、間抜けなツラで間抜けな返事をしたもんだ・・・。)
伊識は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「好きな人、いるならさ。中学、卒業しちゃったら、別れ別れになっちゃうよ・・・。」
ぱちん。広奏が思い出したかのように止まっていた手を動かして伊識の爪を切る。
「・・・いや、まぁ、その・・・何だ。」
ぱちん。ぱちん。
「え、と・・・・伊識?」
「・・・ん。」
なんと言って良いか、言葉に詰まる。
「・・・・。」
「・・・。」
微妙な空気がしばし流れる。
「ご、ごめんね、伊識。変なこと聞いちゃったね、ボク。アッハハ~。気にしないで。」
広奏の方が先に沈黙に耐えきれなくなって口を開く。
「・・・」
「伊識、足の爪、キレイな形だね。」
さっきの質問はまるでなかったかのように、そっと足の甲を手で支えて、広奏が伊識の足の爪を見つめる。
「ボクの爪、ちょっと巻き爪気味だから、うらやま・・・・。」
「・・・いる、よ。」
「・・・・え?」
思わず伊識を見返す広奏。
「いる・・・よ、好きな人。俺にも。」
「そ、そ・・・・なの?」
それを聞いてきたのは広奏の方なのだが、その当人が動揺しまくっている。
「ああ・・・ずっと、ずっと、いつから好きか分からないくらい・・・そんな子がいる・・・。そうだな、受験終わったら、告白でもするかな。」
伊識も、思わず口を滑らせてしまう。
(勢い、だったかな・・・このとき・・・。)
「そう、なんだ・・・・。」
「ああ。」
互いの顔など見ることができない。二人とも、火照った顔を互いにそらしあって、うつむいている。
「ふ、ふ~ん、そうなんだぁ、へぇ~・・・・同じ学校の子?」
「・・・ああ、同じ学校。同じクラス。」
また思わず正直に答えてしまう。
「へぇ、全然気付かなかったよ・・・・どんな、女の子なの?」
「・・・。」
「伊識?」
「・・・。」
「伊識?」
(はっきり、言っちまえば良かったんだろうか・・・。)
伊識は握りこぶしを、心臓の鼓動を押さえつけるように胸に押し当てた。
「あ、ああ、そう。うん、そう。女の子。」
「・・・・え?」
「女の子、だよ。」
一瞬ではあるが、広奏の目がわずかばかり見開かれたのを、見ている側の伊識ははっきりと確認できた。
広奏の動揺はすさまじく、爪を切ることも忘れて、伊識の足の親指をムニムニ揉んでいる。くすぐったさを感じる余裕も無く、伊識は広奏にさせるがまま、じっとしていた。
「そ、そうだよ~そりゃ女の子だよね~分かってるよ~伊識。あはは、変な伊識、あはは。」
「・・・お、おぅ・・・。」
「うん・・・・。」
「・・・。」
「・・・・。」
「・・・。」
「ねえ、その伊識の好きな人って、どんな人なの?」
しばらくの沈黙の後、広奏が尋ねる。
「そう、だな・・・まず見た目は・・・。」
「うんうん、見た目は?」
「すげぇ、可愛い。もうそれ以外に言いようが、ない。」
また、広奏の身体が固まってしまう。
「笑顔とか向けられると、もう本当に、可愛すぎて、息が詰まって、窒息しそうになるときがある。」
「ふ、ふぅん、そっかぁ。」
片方の足の爪はもはや切り終えているようだったが、広奏は、それでも伊識の足を離さず、わざと時間をかけるように、今度はヤスリで爪の形を整え始める。
「でもさ、それは伊識がその人のこと好きだからさ、愛情補正、入ってるでしょ?エヘヘ~のろけられてるね、ボク。」
「・・・。」
「伊識?」
「・・・あぁ、入ってる。」
「う、うん・・・・そーだよね~。」
「入ってるよ、その補正とやら。ずっとずーっと、好きだったんだから。入りまくりだ。」
努めて場の雰囲気を重くしないようにふるまう広奏に反比例するかのように、伊識は真剣に深刻に、重いオーラを何層にもわたって身にまとい続けるのをやめなかった。
(困らせたよな・・・広奏のこと。)
見ている方の伊識はジリジリした気分になる。
「本当に、何もかもが、可愛いんだよ。」
「うん、うん、そっかそっか~。」
「普段の、何気ない仕草とか。」
「そーなんだー。」
「何気なくない仕草も。」
「・・・・。」
広奏の顔は真っ赤である。
「俺には全然釣り合わないの、分かってるけど、さ。」
「そんなこと、ないよ・・・・。」
「いや、俺は・・・。」
「そんなことないよ、伊識・・・・髪型とか服装とか、わざと無頓着にしてるだけなの、ボク、知ってるんだから・・・・。」
「・・・買い被り過ぎだ。」
「伊識は自分を知らなさすぎるよ・・・・みんなが伊識のことに気付いちゃったら、ボク・・・・ボクなんて・・・・。」
広奏はうつむいて、肩を震わせている。泣いているのか、と心配になった伊識が広奏に向かって手を伸ばしかけたそのときに、広奏は顔を上げて、エヘヘ、と言ってはみるものの、どう見てもいつもとは違う笑顔を浮かべた。
(広奏・・・お前・・・。)
広奏にこんな無理な笑顔をさせている。見ている伊識のほうがつらい。
「じゃあさ、伊識の好きな人、見た目以外では?どこが好きなの?」
「・・・優しいんだ。とにかく優しい。」
「そっか。優しい女の子、いいよね~。」
「・・・ああ、そうだな。」
「・・・・うん。」
「・・・。」
「・・・・あとは?」
「あと・・・料理が上手い。お菓子作りも。」
「お菓子?どんな?」
「・・・クッキー、とか。信じられないくらい、美味いのを作る。」
「ふ、ふぅん。クッキーかぁ。」
(よりによって、クッキーかい・・・。)
自分がかつて発した言葉ながら呆れてしまう。
「でも、それも愛情補正、でしょ?」
そう言って、広奏は、思い出したように、また止まってしまっていた手を動かす。伊識の爪を再びヤスリで整え始めた。
「そんなことない。客観的に、誰が食べても最高に美味いんだよ。」
(それはその通りだ。)
見ている伊識はウンウンとうなずく。
そう、広奏が焼いてくれたクッキーを自宅に持ち帰って、弟の槙也がそれを目ざとく見つけて、母親と一緒につまみ食いされてしまったときがあったのだ。
いつもならしらばっくれる槙也が、その後母親と一緒に伊識の部屋に来て、半べそで『ごめんなさい、お兄ちゃんのお菓子、黙って食べちゃって、ごめんなさい。』と謝り、母親からも『まさかあんな高級なお菓子だとは思わなかったの。ごめんね、伊識。どこのお店の?また買ってきて。今度は家族みんなの分も。』と言われたことがあった。
「まぁ、とにかく俺以外の人間だって大絶賛するようなお菓子なんだよ。」
そう答える伊識に、広奏は
「・・・・ねぇ、ボクの作るクッキーと比べて、どう?どっちの方が美味しい?」
と難しい質問を飛ばしてくる。
「・・・。」
答えがないのを答えと察した広奏は、少しさびしげに目を伏せた。
「そっかぁ、やっぱり、だめかぁ・・・・ボクのクッキー美味しくな・・・・。」
「同じ。」
「・・・・え?」
「同じくらい、の美味しさ。」
これまたシンプルではあるが難しい答えである。広奏はなんとも複雑でぎこちない笑顔を伊識に向けた。
「・・・・そっか。でも知らなかったよ。同じクラスに、伊識にそんなふうにクッキー作ってくれてる女の子がいたなんて。」
(いるわけ、ないだろ・・・。)
「・・・ああ、いるんだ。」
「うん、うん。ボクそういうの鈍いから、アハハ・・・・。」
「・・・いるんだよ。ずっと、いつからか分かんないくらい、ずっと前から。いつも俺の隣にいてくれて、俺だけに向けてくれる笑顔・・・ってつい思っちゃう、ような・・・。」
「・・・・伊識。」
「優しくて、俺の言うバカなこと、ついやっちまうこれまたバカなこと、全部ニコニコ笑顔で、許してくれて・・・心配させてばかりで・・・俺、勘違いしてたかもな。」
「勘違い?」
伊識は、顔を上げて、真っ直ぐに広奏の横顔を見た。その視線の直撃を肌で感じて、広奏がもう何度目だろうか、ピタ、と固まってしまう。
「え・・・・っと・・・・伊識。こっちの足は、終わり。今度はそっちの足だよ。」
見つめられているのは分かっているが、見返せずにうつむいている広奏に
「氷岬。」
と呼びかける。
「うん・・・・あのね伊識、今度はそっちの足、出して・・・・。」
「氷岬。」
「・・・・。」
「氷岬。」
「・・・・はい。」
広奏が、ようやく顔を上げて、伊識を見つめ返す。その目は潤みきっていて、今にも涙がひとしずく、こぼれ落ちそうになっていた
「俺が守っているんだって、思ってた。違ってた・・・俺の方が、守られてたんだ・・・その笑顔に・・・その・・・優しさ、とかに・・・。」
もう、言葉を止められなかった。
「これからもずっと、隣にいてくれさえしたら、って思ってた。それで十分だと・・・違ってた。自分をごまかしてた。分かってたんだ、もうとっくの昔から。」
伊識は自分の心臓のあたりを指さした。
「隣にいてくれれば。そう思うだけで、この辺りが締め付けられるようになる時があるんだ。」
「伊識・・・・。」
「自分にウソはつけない・・・。」
「・・・・。」
「・・・つけないよ、もう・・・。」
「・・・・。」
「・・・。」
伊識は黙って、爪を切り終えた方の足を広奏の太ももから静かに下ろして引っ込め、もう片方の足をこれもまた静かに広奏に差し出す。
「・・・・じゃ、切るからね。」
広奏は伊識の足を持って、そっと自分の太ももの上に乗せた。
ぱちん、ぱちん。
「でも、さ。伊識。」
ぱちん。穏やかな、優しい広奏の声。
「・・・うん。」
相変わらず重い伊識の返事。
「その子は、脈なし、かもしれないよ?」
ぱちん。
「脈なし・・・?」
「うん・・・・だって、伊識がそばにいて、そんなに思い続けているなら、気付かないわけ、ないだろうから、さ。」
ぱちん。
「・・・そうか。」
「そうだよ。それらしい素振り、何も見せないなんて・・・・ひどいよ。ホントは、冷たい子なのかも。」
ぱちん。
「・・・そう、かな・・・。」
「そうだよ。あきらめた方が・・・・良いんじゃないかな?」
ぱちん。ぱちん。ぱち。切り終えて、広奏はその必要があるのかどうか分からないヤスリがけにまたも取り掛かる。
「・・・。」
「・・・・。」
「・・・。」
しばらく、爪にショリショリとヤスリをかける音が響いてから、広奏は元気良く
「さ!終わったよ、伊識。お待たせ、お茶にしよう。下から取ってくるね。」
と言って立ち上がる。伊識に顔を見られないように、避けるように身体をひねって、部屋の出口に向かう広奏。
それを何かがクン・・・と引き留めた。
「いし・・・・る?」
「・・・。」
広奏の真新しい、薄青色のシャツの長い裾を、伊識の手が掴んでいた。広奏はその場で固まってしまう。
「・・・・。」
「・・・。」
「伊識、ごめんね。」
天井を見上げて、何か言いかけて止まり、また言いかけては止まり、をさんざん繰り返してから、伊識に背中を向けたまま、ようやくのこと、意を決して言葉を絞り出す広奏。
「本当にごめん。意地悪な・・・・余計なこと言っちゃったね。でも、伊識のつらそうな顔見るの、ボクもつらかったから・・・・。」
そう言って、広奏は部屋から出て行こうと再び歩き出したが、伊識はそのすそをしっかり掴んで離さず、またクン、と引っ張られてしまう。
「お願い、伊識。これじゃ取りに行けな・・・・。」
「・・・俺・・・は・・・。」
「伊識?」
「そうだと・・・したら、もう俺は、この先、誰とも一緒には・・・ならない。」
掴んだすそを、さらにぎゅっと握る。強く引っ張られたわけでも何でもないが、伊識の力を敏感に察して、広奏はピク、と身体を震わせた。
「もう、この先一生、こんなに人を好きになることなんて、ないと思うから、俺。」
「・・・・。」
一瞬の静寂ののち、広奏がそれを破る。
「な、何言ってるの、伊識・・・・アハハ、大げさだよ・・・・ボクたち、まだ中学生なんだから・・・・。」
明るくふるまう広奏に、伊識は首を横に力強く何度も振った。
「分かるんだ。」
「いやアハハ、伊識そんな。」
「分かるんだ。」
「・・・・。」
広奏はまたも言葉に詰まって、息を飲んでから、わざとらしいほどの明るさで
「・・・・うん、うん。それなら、それで良いよ~。」
と返してくる。
「・・・。」
「じゃあさ、お茶とお菓子、下から取ってくるからね・・・・服、離して・・・・。」
「・・・。」
広奏の背に向けて、ほんのわずか、伊識はまた首を横に振った。
広奏の唇が震える。
「あ、あのさ、伊識。」
うつむいて、シャツの胸のあたりをギュッと握りしめる広奏。
「その・・・・女の子、なんだよね?伊識の好きな、その子って?」
(広奏を困らせてるのは分かってる・・・。)
そう、分かっていた。分かっていたのだが、止められなかった。もっとも、今止めようとしたところで、そもそもこれは現実にあったことを夢で追いかけて、傍から眺めているだけなのだから変えようもない。
(ごめん、広奏。困らせたのは分かってるけど、でも、言ったことに後悔はないよ。)
中学生の柊城伊識は、微動だにせず
「女の子・・・だよ。」
と答えた。迷いはなかったはずだが、ひと息に言い切れず、ほんの少し言いよどんだ、その一瞬の間に、万感の思いが込められていたことをよく知っている高校生の柊城伊識は、ただ唇を噛むしかなかった。
「・・・・伊識、離して。お願い。」
伊識の答えなどまるでなかったかのように、広奏が懇願する。
「離して・・・・ね?」
「・・・。」
しばらくの間があってから、伊識はようやく広奏の服のすそから、指を一本一本、引き剥がすようにゆっくりと外す。
「・・・・。」
広奏は、無言で部屋を出て行った。
(行った、か・・・。)
見ている側の伊識は、ここにきて『ホゥ』と吐息を漏らす。
(何か、見てるだけで緊張した、けど・・・でも、結局は・・・。)
伊識は、目を閉じて首を横に振った。そこにはあきらめの混じった、ある意味おだやかな表情が浮かんでいる。
そう、このあとお茶とクッキーを持って戻ってきた広奏は、直前の出来事などまるでなかったかのように、無理に作ったのではない、いつも通りの明るさで伊識に接してきたのだ。
(要するに、俺、振られたってことだよな。)
あまりにも平然とした広奏の素振りに、伊識ももう何も言えなくて、結局のところ受験が終わってからも何もできず、何も言わず、ここまで来たのだ。
(まあ、でも、振られて。これで良かったんだよな、きっと・・・。)
第三者の立場でこうして見ると、その場の勢いがあったとはいえ、相当に踏み込んで話したものだと思うが、でもそれも広奏にかわされてしまったし、伊識にとってはちょっと恥ずかしい、甘酸っぱい思い出程度に留めておけば良かったことだろうし、実際に伊識が記憶していることというのはこれがすべてだった、のだが。
(あ、あれ?何で・・・?)
伊識の視点はそこで終わることなく、驚いたことに広奏の部屋にいる伊識を残して、広奏の背中をそのまま追いかけ続けた。
(どうなってんだ・・・。)
伊識の疑問などほったらかしに、伊識の目は部屋を出て階段をトントンと降りていく広奏の背後を、相変わらず俯瞰の位置から追って行く。
広奏の背中は思った以上に華奢で小さく感じられた。後ろに残してきた何かを振り切るように、急いで下りていき、まるで何かが間に合わないことを恐れるかのように、急ぎ足で廊下を抜け、息せき切ってリビングのドアを開けて、パタン、と閉める。それと同時に、広奏は両手で顔を覆い、そのままその場にくず折れるようにペタンと座り込んでしまった。
「う・・・・うぅ・・・・。」
すぐにすすり泣きがリビングに響き渡る。両手で抑え切れなかった涙の雫が一滴、二滴、シャツに落ちて染みを作る。
(広奏・・・涙・・・。)
だいぶ前から泣いていたのだということにようやく気付く。伊識は、それをただ呆けたように見つめるしかなかった。思わず手を伸ばすが、広奏の肩に触れようとしたその手は、広奏の身体をすり抜けてしまう。
「う・・・・うぁ・・・・る・・・・し・・・・る・・・・いしる・・・・。」
必死に、二階まで聞こえないように、声を押し殺して泣いている。
「・・・・いしる・・・・いし・・・・る・・・・いしるぅ・・・・。」
伊識は、そんな広奏の肩をそっと抱く。
(広奏、泣かないでくれよ・・・。)
もちろん、触れることはできない。できないが、広奏を包み込むように、伊識もまた泣きそうな顔で抱きしめる。
(困らせる、どころの話じゃなかったんだな・・・。)
何も分かっていなかった自分のバカさ加減に、今更ながら腹が立って仕方がなかった。
伊識の名を何度も何度も呼び続ける広奏の声がやまない。
(最低だ、俺・・・。)
自分がこれまでどれほど陰で広奏を泣かせてきたのか。あらためて思い知らされる。
(ごめん・・・ごめんな、広奏。そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん・・・ごめん・・・広奏・・・。)
・
・
・
・
「広奏!・・・ごめ・・・。」
自分のうわごとで唐突に目覚めた。
「う・・・あ・・・?」
寝ぼけた声を発する。
しばらくぼんやり虚空を見つめてから、伊識は
「何で俺、泣いてるんだろ・・・。」
とひとりつぶやいて、両の目から流れる涙をぬぐった。
「何か、夢を・・・。」
とても切ない夢を見ていた気がする。
でも、思い出せない。
(何の夢・・・そうだ、俺、何だか知らない、よく分からない世界に・・・エレク・・・シス、だっけ?)
ようやくのこと思い出したのはそっちの方だった。
(とりあえず・・・この部屋に暖炉はないみたいだな。)
伊識は、涙を拭った腕を恐る恐るどけて、ゆっくりとまぶたを開いて、外界に目を向ける。
そこには、壁に張ってある見慣れたポスターとカレンダー、机、そして壁の掛け時計などがあって、つまりはそこが日本にある別段どうということはない一軒家ではあるが、伊識にとっては大切な、自宅の自分の部屋であることを確信して、『はぁ~・・・』と、魂が抜けていってしまうのではないかというほどのため息をついた。
(良かった・・・今度こそ自分の部屋の、自分のベッドだ。)
伊識はソロリと起き上がる。
(やっぱりあれは夢だったんだ。そりゃそうだよな。)
だったらもっと無茶苦茶なことやっておくのだったか、などと思いつつ、布団を剥ぐ。
そして自分が身に着けているものが『荒い織りだが肌には優しい、素朴な』あの素材で作られたものであることに気づいて、それまでの安堵は一瞬で吹っ飛び、みるみる顔は青ざめて『うわぁ!』と声を上げ、『ゲッソリ』という形容がこれほど似合う男はこの地上にいないと評されるような顔になった。
「マジかよ、オイ。俺・・・ホントに、あの世界に。」
そこまでつぶやいてから、少しだけ冷静さを取り戻して、そういえば最後に自分は倒れて、確か飲み物の中に何らかの毒を仕込まれていたらしいことなどを思い出し、慌ててベッドから飛び起きて体の異常を確認した。
(特におかしなところは・・・ないか。)
外見は問題なかった。中身の方も、気分が悪いとかいうことは無かった。それほど害のある飲み物でもなかったのだろう。
不安は残るものの、今のところはどうしようもない。再びベッドの縁に腰を下ろした。
そのとき、階段を勢いよくダンダンと駆け上がってくる音が聞こえてきた。
(やっべぇ、槙也が来る!)
兄貴大好きな弟、小学五年の柊城槙也(ヒイラギ・マキヤ)は、たいていノックも無しにドアを壁にぶち当てる勢いで伊識の部屋に乗り込み、伊識のベッドに『ど~ん!』と馬乗りになって伊識を起こすのが常だった。
今ここで、こんな中途半端に異世界風だか何だかよく分からない格好を見られるのは非常にまずい気がして、慌てて布団を再びひっかぶったのと、伊識の部屋のドアがバン、と開いたのがほぼ同時だった。
「おっはよ~兄ぃ!」
言うが早いか、布団の上からいつも通り、ドーンと伊識に乗っかってくる。
「うわっぷ・・・お、おはよ、槙也・・・。」
布団を被ったまま、伊識が返事をする。
「あれ~何かいつもと反応違うね、兄ぃ。」
布団から慌ててはい出てこないことを訝しがる槙也。
「どうかしたの?熱?」
手を布団に無造作に突っ込んで、伊識のおでこを探ってくる。
「あー何でもない何でもない。大丈夫だから!」
「う~ん、そう?ならいいけど。」
槙也はあっさりと引き下がって、ベッドから降りた。
「早く起きてね。ごはん、テーブルにあるからね。今日、朝練あるから。先に行くね。」
と言い残して、槙也は伊識の部屋を出ていく。
「あ、ああ、分かった。サンキュ。」
布団から顔を出す。部屋から出ていく間際の槙也の後ろ姿がチラリと見えた。
「気をつけてな・・・槙也、お前もしかして風邪か?」
心なしか槙也の声がいつもと違う気がして、そう声をかけたが、聞こえなかったようで返事はなく、バタバタという足音が響いた後、玄関ドアの開閉音がして、それきり家の中はシン・・・と静まり返ってしまった。
(あの後ろ姿・・・あんな服、槙也持ってたっけ?)
ベッドからはい出る。着ていた服を脱いで、やっぱりこの異世界の服はどこかに隠さなくてはと本能的に感じて、ベッドの隙間に押し込む。
(・・・まだちょっとだけなら時間あるだろう。朝メシの前に。)
全裸のまま、伊識はシャワーを浴びるために階下へと降りて行った。
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