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第三章 「目覚め」

 (う・・・う、ん・・・。)


 自分が眠りから覚めようとしていることをはっきり悟りながら目覚める瞬間というのも、たまにあるよな、と思いながら、伊識は目覚めつつあった。

 ベッドか布団か、とにかくそういった類のものに横たわっている自分を意識して


 (ああ、あれはやっぱり夢だったんだ。)


 と思い至り、『あ〜良かった良かった』と思いつつ、でも何となく脇腹に感じる違和感に不安を募らせ、さらには自分が寝ているベッドの、敷かれているものや掛けられているもの、枕などの材質が、何となく自分の部屋のいつものベッドのそれとは違うんじゃなかろうかという感じもしつつ、でも認めたくなくて頑なに目を閉じてはいたものの、さらに「パチパチ」と、木が燃えるような音がして


 (火事か!?)


 と急速に意識が目覚めに向かってしまい、伊識はガバっと跳ね起きた。


 (ウソだろ・・・こういうのは夢から覚めたら元の世界に戻ってるのがお約束だろうに・・・。)


 伊識は頭をブンブン左右に振ってから、もう一度周囲を見渡すが、別に状況が変化することもなく、つまりそこはまったく見ず知らずの部屋だった。


 窓にはカーテンらしきものが引かれている。恐らく夜であろう。伊識のベッドの反対側の壁に暖炉があって、パチパチと薪の燃える音がする。これまでの人生で暖炉を実際に見たことはあったものの、使われているところを経験するのは初めてだった。


 (けっこう、暖かいもんなんだな。)


 部屋の明かりと言ってはその暖炉だけだった。目が慣れるにつれ、ベッドの足元に一人、女の子がいることに気付いた。地べたに座り、伊識の寝ているベッドの端に組んだ腕を置き、その上に自分の頭をのせて、スウスウと静かな寝息を立てていた。


 あらためて伊識は自分自身の姿を確認してみる。もはやパジャマ姿ではなく、伊識の知らない、荒い織目なのだが肌に心地よい素材の布地で作られた肌着のようなものを着ていた。布団をめくると、下半身もおそらく同じ素材で作られたと思われる、だぼっとしたモモヒキのような服を着ていて、いったい誰が自分のパジャマを脱がせてこの服を着せたのだろうかという考えを頭から必死に追い出してから、そっと上半身の服の裾をまくって傷口を確認した。


 包帯でも巻かれているのかと思ったが、そうではなく、ものすごく大きな絆創膏のようなものが脇腹に張り付けられているきりだった。光弾がかすめた腕にも脇腹のより小さめのものが貼られている。


 (なんでだろう・・・。)


 脇腹を貫通して、あれほど出血していたのに、今はそれほどの痛みはなく、軽い違和感がある程度だった。


 (魔法世界の治癒術ってやつなのかな・・・。)


 それも気になるが、伊識にはもっと気がかりなことがあった。恐る恐る、下半身のモモヒキをめくってみる。


 (あちゃ~)


 右手で顔を覆う。


 (パンツまで・・・履き替えられちまってるよ。)


 誰がそれをしたのか。足元でスヤスヤ寝ている少女を横目にチラと見て


 (んなわけない、んなわけない)


 と、伊識はまた頭をブンブン振って、そのことを考えないようにしたところに、腹がグウ、と鳴ってしまった。


 少女は起きそうにもない。


 伊識は室内を見回したが、食べるものは何もなさそうだった。ただ、机の上にコップと、水差しのようなものがある。空腹なだけではなく、喉も乾いていたから、水差しをいったん手に取ってはみたものの、果たしてこれは飲んでも良いものなのかどうか、頭の中でグルグルし出して、結局元の位置に水差しを戻し、それからそっとベッドから起き出して、少女に近づいて軽く肩を揺り動かしたが、熟睡していてまったく起きなかったので、水差しの脇に置かれていた膝掛のようなものを少女の肩にかけてやってから、伊識はそっと部屋を出た。


 廊下は薄暗かった。左方は同じような扉がいくつも続いていて、その奥は完全な暗闇で何も見えない。


 (それなりに大きい建物なんだな・・・。)


 何で自分がこんな所にいるのか。夢の続きなのか何なのか、分からなくなって、伊識は軽くめまいのごときものを覚えながら、今度は廊下の右方を見やる。左方と同じく、扉が何枚も続いてはいたが、こっちは廊下の最奥に、階下へと続く階段があるようだった。しかも階下から明かりが漏れている。耳を澄ますと、かすかではあるが人々の話し声のような、にぎやかな声と、あとこっちの方が伊識にとっては重要だったが、カチャカチャと、食器の触れ合うような音も聞こえて来て、伊識の腹はまたグウと鳴ってしまい、そこまでくればもうどちらに進むべきかは自明のことで、伊識はそっと自分が出てきた部屋の扉を閉めると、右方の階段へと向かった。


 階段までたどり着くと、人々の話し声がはっきりと聞こえてきた。何を話しているかまでは分からないものの、多くの者が集っている感じで、楽し気で賑やかな雰囲気である。伊識はフラフラと、半ば吸い込まれるようにして階段を・・・そもそも自分が建物の何階にいたのかも知らなかったが、とにかく一フロア下に降り、廊下の左右を見渡すと、右方を少し進んだところに部屋の入り口があって、その入り口には扉が無く、人々の声はそこから聞こえていて、食べ物の匂いもそこから漂ってきていて、伊識はそこに吸い込まれていく。


 さすがにどんな人間たちがいるものか想像もつかなかったから、はじめはそ~っと、入口の端から覗き込んでみると、要するにそこはこの建物の食堂のようなところで、室内はかなり広く、先ほどの戦闘で見かけた甲冑の戦士やマントを着た軽装の兵士などがたくさんいた。戦場にいたときと同じ格好の者もいたが、大抵の戦士、兵士はある程度の武装は脱ぎ捨てていて、男の中には伊識と同じような肌着に近い格好の者もいた。


 奥の方に配膳のための長テーブルのようなものがあって、それは伊識に中学生の頃の給食時間の光景を思い出させた。


 (この室内に自分が入って良いもなのかどうか。)


 ためらわれたものの、空腹には勝てず、顔だけではなく上半身も室内から見える程度に覗き込んでみると、奥のテーブルに座っていた戦士らしき男が、伊識のことに気づいて、その横にいたマントの兵士らしき人物も気づき、そしてその横も、その横も・・・と、あっという間に室内の人間すべてが伊識の存在に気づいて、入口で固まっている伊識に一瞬で全員の視線が注がれることとなった。


 さっきまでの喧噪がウソのように、室内が静まり返る。


 (何なんだ・・・俺のことどう思ってるんだろう。)


 みな、何とも推し量りづらい顔を浮かべている。別に追い出そうというような敵意はなさそうだ、と感じた伊識は、もうここまで自分に注目が集まってしまったのだからと、なかばヤケ気味になって、部屋の入口にその全身を現し、ひとつ深呼吸をしてから、さも自分がこの部屋に入るのは当然、というような雰囲気を醸し出しつつスタスタと室内に入った。


 目的は一つ、あの一番奥の、食べ物の置いてある長テーブルである。意地汚いと思われるかもしれないが、よくよく考えてみれば何かを口にしたのは広奏が数学のテストで勝ったご褒美にくれた『ギリギリさん』が最後だったのだ。


 (まあ、この世界がもし夢だったとしたら、)


 それはそれで、ここにいるもの皆が自分の夢の中の架空の存在なのだから、食べ物しか見えていない今の自分がどう思われようとかまわない、そう伊識は自分に都合よく結論づけて・・・つまりは『この世界が夢でなかったとしたら』という考えは頭から完全に排除して、ひたすら部屋の奥を目指して所狭しと置かれたテーブルと椅子を縫うようにして進む。心なしか、みな伊識が通りやすいように椅子を引いたりなどしてくれる。


 ようやく長テーブルにたどり着いた。


 いわゆる『給食当番』のような存在であろうか、頭に三角巾を巻いている少女が長テーブルを挟んだ向こう側で、お玉のようなものを持って立っている。そばで暖炉の薪が勢いよく燃えているせいもあるだろうが、ぽおっと、頬を赤くして伊識をじっと見上げている。


 (あれ、この子・・・)


 最前の戦闘で、伊識のそばで対になる戦士だけでも助けようとバリアを張っていた兵士かと思われた。今はマントは羽織っておらず、伊識が着ているのと同じような、目は粗いが肌触りはとても良い服、しかもこの兵士の好みなのだろうか、二回りくらい大きなサイズのものを着ていた。


 (え・・・っと・・・。)


 何と言えば良いのか分からない。伊識もまた、顔を赤くして、大きな鍋に指先を向けて、もといた世界・・・日本であれば『ああこの人これ食べたいんだろうな。』と相手が察するような表情を作った。


 (この世界で通じる身振りかな・・・。)


 相変わらずぽおっとした表情で伊識を見上げている少女に、通じないだろうとは思ったが、日本語で


 「この食事、少し分けてくれないかな?」


 と頼んでみた。


 「・・・!」


 伊識がそう口に出した途端、周囲が騒がしくなった。まず、目の前の少女が膝から崩れ落ちてしまいそうになり、慌てて長テーブルに手をついて、それでも手にした木製のお玉はかろうじて落とすことはなく、地面に倒れ込むまいと必死に耐えている、そんな少女の姿を見て、それまで静かに固唾を飲んで状況を見ていた周囲の戦士や兵士の多くが椅子をガタガタと音を立てながら慌てふためき出す。


 (やべっ・・・まずいよな、これは。)


 肩をすくめて、恐る恐る、『ほら、自分は何も敵意なんて持っていませんよ?』という表情をしながら、両手を上げて『私は無害ですよ~。』という仕草を作りながら伊識が振り返ると、大半の戦士、兵士は立ち上がっており、皆怒りの表情を浮かべているとばかり伊識は想像していたが、怒っているというよりも、むしろそれはどちらかというと驚愕とか、恐怖のそれのようだった。


 「そのまま、静かに。大丈夫。」


 唐突に声がして、振り返ると、崩れかけた少女は、何とかお玉を持った方の右手を長テーブルについて、その右手だけで体を支えながら、左手を高く上げて立ち上がった仲間を制止させていた。


 「し、しかし将軍!」

 「大丈夫・・・だ。」


 (将軍?このお玉持った女の子が?)


 先ほどの戦闘のときと同じく、相手の言うことが理解できる。発せられる言葉は全く理解できないが、脳に直接届くような感じなのも先ほどとまったく同じだった。


 そして、かえって理解できてしまうがゆえに『なぜにこの子が将軍?他にもっと屈強でガチムチの連中いるのに。』と、さらなる混乱が伊識を襲うが、とにもかくにも自分が何かしてしまったことを謝らなくては、と判断した伊識は

 「ご・・・ごめんよ。きっと俺のせい・・・。」

 と言いかけたが、言い終わらないうちに少女はまた

 「はううぅ・・・。」

 と悶えるように悲鳴を上げて、膝が崩れそうになる。


 (え・・・何なんだ?)


 周囲が、背後がまた騒がしくなる。ひとまずしゃべらない方が良さそうだと思い、伊識は仕方なく心配そうな表情で少女を見つめつつ、テーブル越しに手を差し出そうとしたが、少女はそんな伊識を制して、何とか自力で立ち上がると、ヨタヨタと数歩歩いて、テーブルに積まれた木製のトレーのようなものを一枚、手に取り、これまた木製のお椀に大なべの中の料理をなみなみと注いでトレーに置き、おそらく水と思われる液体の入ったコップと、あとクラッカーのような薄い板状の食べ物をお椀のそばに添えると、うつむいたままテーブル越しに伊識に食べ物を差し出した。表情はうかがい知れないが、耳まで真っ赤になっているのがはっきり分かった。


 伊識は黙ってトレーを受け取った。お椀の中に入っているのはおそらく伊識の住む世界で言うところのシチューのようなものだろう。良い匂いが立ち込めてくる。あらためて伊識は自身、胃が引きつるほどの空腹であることを思い知らされた。


「あ・・・あ、あり、がとう。」


 お礼の言葉くらいは言っても大丈夫だろうと思って『将軍』と呼ばれる少女に声をかけたのだが、それは伊識の考え違いだったらしい。


 「う・・・はあ・・・ん・・・。」


 顔を真っ赤にして、少女はこれまで以上に激しく身をくねらせる。服を着ているのに、まるで裸を見られたかのように・・・もし裸だとしたら見られたくないと思われる部位を服の上から手で隠しながら、今度こそ本当に地べたに崩れ落ちてしまった。


 「ちょっ・・・。」


 テーブル越しに身を乗り出して少女の倒れた辺りを見下ろそうとする伊識の肩を、後ろから誰かがポンと叩いた。


 「彼女は大丈夫。心配ありません。」


 振り返ると、そこには、黒い髪に赤い目の戦士がいた。忘れようもない。たしかいま身もだえている少女と一緒に戦っていた女戦士である。


 「・・・ぁ。」


 開きかけた伊識の口に戦士がそっと手をあてる。


 「お願いです、決してしゃべらないでください。私を、彼女と同じ目に合わせたくなければ。」


 倒れた少女に視線を送りながら、女戦士が伊識の肩をポンポンと叩く。


 「・・・。」


 穏やかに微笑むその表情から、この事態は深刻ではないのかも、と察して、伊識は言われた通りにした。


 「こっちです。」


 女戦士が伊識に空いている席を指さす。思わず『分かった。』言いかけて、伊識は慌てて頭をブンブンと振ると、あらためて女戦士に向かってうなずく所作だけ返した。


 「そうです。その感じでお願いします。その『ソーザイア』の言語は、我々には危険ですので・・・。」


 (『惣菜屋・・・。』)


 伊識は示された席に、少女が用意してくれた食事を置いて、席に着く。


 (そうだ、惣菜屋・・・あのとき、敵・・・なのかどうか分からないけど、相手方の戦士もそう言ってたよな。)


 半裸に近い状態まで彼女たちが服を脱いだ光景が思い出され、伊識は顔を赤くしてまたブンブンと頭を振った。


 そんな伊識に


 「どうぞ。召し上がってください。」


 と言って、黒髪に赤い目の戦士は目の前の食事を指差した。


 そうだった。とにかく空腹だったのだ。伊識は目を閉じて、心の中で『いただきます』と言ってからスプーンを手に取って、そこに至ってからようやく『これは俺が食っても腹を壊さない物なのか?』という不安が頭をかすめたが、生物の本能がそれを退け、つまりは空腹に勝てず、まずはシチューのような食べ物を一口、口に運んだ。


 (うま・・・。)


 「口に合いますか、それは良かったです。」


 伊識の表情から察したらしく、女戦士がニコニコとほほ笑みながら伊識に語りかける。もう彼女は食べ終えたのだろう、飲み物だけを手元に置いていた。


 周囲の者たちは、先ほどの部屋中が凍りついた状態からは脱していたが、それでもチラチラと、女戦士と伊識のいる席を遠巻きにして、食事の続きをしたり、静かに会話をしたりしている。


 実際には伊識たちのことが気になって仕方ないようではあったが。


 しばらく夢中で食べて、一通り食べ終えて、ほっと一息ついて水を飲み終えるのを待ってから、女戦士が口を開いた。


 「自己紹介がまだでした。私の名前はファノーム。正式にはティアルーン・ペイトリ・ファノームといいます。一応、この軍の将軍を務めています。あそこで倒れている、あの者と一緒に。」


 そう言ってファノームは、周りの者の介助を受けている女兵士を見やった。三角巾が、目元までズルっと落ちてしまっている。


 「ご覧になれば分かると思いますが、将軍なんて偉そうに名乗るほど、この軍は大きくも立派でもありません。こんな辺境の地で軍も何も・・・ここにいるほとんどの者は平時は農民です。世界が危機に瀕している今、皆でできることをやっていく、そんなところです。」


 それから急にファノームは真顔になって、居ずまいを正して伊識に相対した。伊識も気圧されて、食べ終えた食器を脇によけて、同じく背筋を伸ばす。

 聞きたいことは山ほどあったが、口を開けば何が起こるか分からない。


 「おそらく、お互いに同じことを考えているとは思いますが。」


 厳粛ではあるが親しみは失わない調子でファノームが口を開く。


 「あなたにはいろいろ聞きたいことがあります。あなたも聞きたいことがあるでしょうし、話したいこともあるでしょう。だが、もう十分お分かりと思いますが、」


 ファノームがグイッと身を乗り出した。ファノームも、戦場にいた時の兵装から、伊識と同じようなラフな服に着替えている。


 「・・・。」


 どうしても、チラチラと見え隠れする胸の谷間のあたりに目が行ってしまう。気付いているのかいないのか、とにかくファノームは話を続けた。


 「あなたがご存知かどうか、分かりませんが、この世界にはさまざまな魔法があります。ほとんどの人間は魔法を使えます。もちろん、向き不向きはありますが。一般的なのは、呪文を詠唱する・・・言葉を発することで発動する魔法もありますが、それには何らかの条件が必要です。思いを、言葉にするだけでは普通は魔法が発動したりはせず・・・通常の魔法には、手で印を結んだり、杖や護符に込められた力を解放したり、人にあらざる者との契約だったり、といった、言葉以外に何らかのことをしなくてはいけない、そういう条件が必要です。」


 ここまでひと息に話して、ファノームは飲み物を一口飲んだ。つられて伊識も一口、自分の飲み物を口に運ぶ。


 「ただ、あなたの発する言葉には、そうした条件というものが一切ない、ように私には見えます。つまり言葉と、その背後にある意識だけで純粋に力を発揮できるその言葉、それを我々は『ソーザイア』の言語と呼んでいるのです。六百年前の、両帝暦が始まるきっかけを作った魔法使いに、同じことができるものがいたそうで・・・私も書物から伝え聞いただけなのですが。」


 そこまで話すと、ファノームはコップの残りをグイッと飲み干した。


 「さっきあなたが私のパートナー・・・彼女はセスといいますが、そのセスに何か言って、そのあとあの子がいきなり崩れ落ちたでしょう?」


 伊識はうなずいた。


 「きっとあなたは、セスにお願いする気持ちとか、仲良くなりたいとか、食事をくれないかなとか、思ったでしょう?そして、食事をもらって『ありがたい』という、お礼めいた言葉を、あなたの母国の言葉で発したのではないでしょうか?」


 また伊識はうなずいた。喋りたくてしょうがなかったが、我慢するしかなかった。


 「やはりそうなんですね。あなたはご自分の力が分かってはいないようですが。きっと、彼女への・・・セスへ、まあ会ったばかりで特別な思いも何もないでしょうが、普通に、彼女への感謝とか、好意とか、どちらかといえばプラスの感情ですね、そういう心地よい感情をたくさん乗せて、何らかのお礼の言葉を伝えたのでしょう。あなたにとってはただそれだけのことですが、あなたのその言葉には、その心地よい感情をまるで魔法のように何百倍、何千倍、もしかしたら何億倍にもなっているかもしれない、そうやって増幅させる力があって、その過程を経て、それがセスへと送られたわけです。」


 (つまり・・・?)


 何だか分からないがドギマギしてしまう、そんな伊識に対してファノームは少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。


 「つまりあなたの言葉によって、セスは、あーまぁつまり・・・下世話な言い方ですが、要するに『立っていられないほど気持ちよくさせられちゃった』わけです・・・あ~言っちゃいました。ちょっとやっぱりこれ、恥ずかしいですね、言葉にすると。」


 ファノームはその手のことには精通している風を装っておどけた感じで話したが、その実ものすごく照れて気恥ずかしそうなのが、赤く染まった頬やオーバー過ぎる身振り手振りから感じられた。


 「話を戻しますとですね、我々の話している言語を、あなたが話せれば良いのですが。たぶん話せないでしょう?」


 うなずく伊識。ファノームもうなずいた。


 「戦場での姿恰好からして、あなたはこの地の人間ではないような気がします・・・ここはですね、エレクシス、分かりますか?エ・レ・ク・シ・ス、という地域で、この地域で話される言葉は『エレクシス語』というのですが、聞いたことはないでしょうか。」


 伊識は、腕を組んでその言葉を思い出そうとするが、脳ミソの中のどの引き出しにも入っていなかった。


 「分からないですか。無理されなくてけっこうです。で、ここからが本題です。あなたの名前だけでも教えてもらえませんか。これから声に出してあなたの名前を名乗ってほしいんです。もう察していると思いますが、できる限りというか、絶対に何の感情も込めずに言ってもらいたいんです。」


 (名前を・・・感情を込めずに・・・?)


 普通、名乗るときに何か感情を込めたりするだろうか、と不思議そうな顔をする伊識。ファノームは、そんな伊識の思いを察したように、説明を続けた。


 「自己紹介のときだって、何らかの感情はこもります。『相手に受け入れられたい』とか『好意を持ってほしい』とか、『よろしくお願いします』とか。無意識のうちにそういう感情がわいているものです。そういう気持ちを、できる限り封印して、フラットな状態で言ってほしいんです。『ありがとう』の言葉一つでセスを腰砕けにしたのですから、あなたは。」


 伊識はファノームから視線を外して、しばし考えた。


 半分は考えるフリだったが。


 にわかには信じがたいが、ここにいる全員が示し合わせて伊識をかつごうとしているのでない限り、ファノームの言う通りなのだろう。


 (まぁでも、名前ぐらい伝えておかないと、この先いろいろ面倒だろう・・・って、この先って・・・そうだよ。俺は元の世界に、日本にそのうち戻れるのか?)


 「準備はいいですか?ではお願いします。あなたの名前を・・・いいですか、名前だけです。『よろしく。』とか『はじめまして』とか、そういうのは要らないです。何の気持ちも込めずに。」


 自分の名前を名乗るだけで、こんなに緊張したことはない。伊識は、目を閉じて深呼吸を一度してから、ゆっくりと口を開いた。


 「・・・ヒイラギ・・・イシル・・・。」


 そう言った刹那。フワッと、伊識を中心に、それまでの張りつめられていた空気を打ち消すかのように、何か、そう本当に『ふんわりとした何か』としか言いようのない空気が波のようにファノームに向かって伝播し、ファノームを包み込む、ような感じが伊識にも分かった。


 気づいていなかっただけで、セスのときも同じようなことが起こっていたのだろう。


 「は・・・な、何?うぅ・・・この・・・あうう。」


 先ほどのセスのように、ファノームもまたヘナヘナと椅子から床に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえている。


 (やべっ、何かマズった?)


 セスのように崩れ落ちるところまではいかないまでも、伊識の言葉の波動の直撃は今回も強烈だったようで、ファノームの頬が赤く染まったと思ったら、あっというまに顔じゅうが真っ赤になって、セスのときと同じように恥ずかしそうに身を揉んでいる。


 「くうう・・・ダメぇ・・・。」


 ダメぇも何も、伊識は何もしていないのだが、ファノームはうるんだ瞳で伊識を恨めしそうに見つめてくる。伊識も何だか恥ずかしい、不思議な気分になった。


 「感情を殺してもこれなのか・・・セスは、一体どれほどの・・・」


 「あ、だ・・・大丈夫?」


 あまりにも苦しそうなファノームの姿に、思わずそう声をかけ、手を差し出したが、それは明らかな伊識の誤りだった。


 「ああっダメっ。しゃべっちゃダメなの!どうしたらいいの、私・・・あぅ。」


 髪を振り乱して、これまでの努力もむなしく、結局ファノームは床にヘナヘナと腰を落としてしまった。


 「お願い・・・これ以上いじわるしないで、お願い。」

 「・・・。」


 別に何も気に障ることをしようとしたわけではないし、いじわるしようとしたわけでもないが、それを言葉で伝えることができない。伊識はファノームに向かって伸ばしかけた腕を、力なく下ろすしかなかった。


 「将軍、お気を確かに。」


 一人、女の戦士がファノームに近寄り、肩を貸した。完全に腰が抜けてしまったような、いわゆるへっぴり腰でファノームは立ち上がる。その姿は今後『将軍』としてこの軍団を率いる上で非常にマイナスになるだろうなと伊識は感じた。


 「だから言ったのです、将軍ティアルーン。この者は、あまりにも違いすぎる。何も分かっていない。」


 もう一人、男の戦士が近づいてきて、ファノームの前で膝をついて様子をうかがう。


 「かつての偉大なる魔法使いとは、全然。」


 男の戦士は、伊識を一瞥してそう言った。明らかに馬鹿にするような視線だったが、言い返すことができないのだから今は相手にしても仕方がない。


 (それにしても、ホント何だろう、ソーザイアって・・・まさかマジで惣菜屋?何かお惣菜を売ってる店がこの世界のどこかに・・・あるのかなあ・・・ないよなあ。)


 何も質問できないのだから自分で考えてみるしかない。伊識は考えを巡らせてみる。


 ファノームはファノームで、男の戦士と口論している。


 「滅多なことを言うな。」

 「しかし、やはり信用できません。」


 (魔法使い・・・か。)


 「口を慎めと言っているのだ。こちらの話していることの意味を全部この方は理解しているんだぞ。」

 「ええ、だから聞こえるように話しているんですよ。神に近しい者である大魔法使いが、これではあまりに無知が過ぎます。」

 「歴史書をもっと読め。先代も、はじめはこの世界に戸惑われることがあったと書いてある。」

 「しかし、先代は・・・先代のソーザイアは、少なくともこのような・・・将軍を・・・その・・・あ~・・・辱めるような真似は。」


 (何度聞いても『惣菜屋』としか聞こえないな・・・まあ、確かにファノームみたいのが惣菜屋で働いていたら、連日盛況かも、な・・・。)


 看板娘として働くファノームの姿を想像して、伊識は目を閉じて一人ウンウンとうなずくのだが、その想像のファノームの姿はすぐに広奏にとって変わってしまう。


 伊識は目を閉じたまま苦笑いを浮かべる。やっぱり、どうしても一番な気がかりは氷岬広奏だった。


 (・・・どうしてるかな、氷岬・・・。)


 もしかしたらもう会えないのではないか。そんな伊識の不安をよそに、ファノームと男の戦士の口論が続く。


 「わ、私は別に辱めなど受けてはおらぬわっ。」


 ファノームは顔を真っ赤にして大声を上げる。


 男の戦士もそんなファノームの表情に、上気した顔をそらして、見下した視線を伊識に向ける。


 「しかしですよ、将軍・・・そもそもこの者、『対(つい)の名』を持っていなかったではないですか。ヒイラギとイシル。この2つだけしか持っていない。」


 そう言って、男の戦士は伊識の正面に立った。その表情からは、不信、反感、軽い敵意、憎悪・・・そして何とも計りがたい畏怖の念といった感情を読み取ることができた。


 つまり複雑に入り混じりすぎていてよく分からない表情だったわけある。


 「失礼。私はスタヴィト・カラ・バシュティンと申します。」


 一応それなりの敬意は保ちつつ、バシュティンと名乗った男は軽く会釈する。伊識も会釈を返した。


 「あなたの『対の名』は?お伺いしたい。」


 (『ツイノナ』?・・・って何だっけ?)


 この世界でも、相手の言うことが分からないときに浮かべる表情は変わらないらしい。伊識のその顔を見て、スタヴィト・カラ・バシュティンと名乗った相手はあからさまに嘲りの表情を浮かべた。


 「そら、言わんことではありませんよ、将軍。『対の名』も知りませんよ。こいつ。」


 「下がれバシュティン!無礼だぞ!」


 ありったけの力で男の戦士を両手で押しのけて、再びファノームが伊識の前に立つ。先ほど伊識に食らわせられた打撃からはだいぶ回復したようであるが、まだ足は若干内股で、生まれたての子ヤギを連想させた。


 (どう見ても、不遜な感じに見えるよな、俺・・・)


 一軍の将にこの所業である。何も言うことができない自分がもどかしくて仕方がない。


 「バシュティンの・・・我が部下の非礼をお許しください、ソーザイア。」


 ファノームは、ス・・・っと、音を立てずに片膝を床につき、右手で握りこぶしを作るとそれを自分の鎖骨の上に置き、頭を下げてから、指を・・・親指と人差し指と中指だけを『フワっ』と開いて肩に乗せる仕草をした。何気ない所作だったが、繊細な動きが要求されるもののように見えた。


 「『対の名』というのはですね、ソーザイア・イシル・・・。」


 (え?俺もやっぱり惣菜屋なの?・・・惣菜屋・・・。)


 「将軍!こいつにソーザイアの名など。しかも最敬礼をこんな奴に・・・。」


 鎖骨に手を当て指をフワリと広げるあのしぐさはどうやら最敬礼だったらしい。


 ファノームはめんどくさそうに片手を上げて男の戦士の言葉を封じた。


 「『対の名』とは、男であれば女の名、女であれば男の名のことを指します。フェルローナ出現の際、性別反転が起こっても困らないように、もう一つの名を用意しておくのです。」


 (???・・・まったく理解できないんですが・・・。)


 ファノームは説明を続ける。


 「この世界に生きる者は皆、生まれる前に、男として生まれたときの名と、女として生まれたときの名の両方を名付け親から用意されます。私の姓名、ティアルーン・ペイトリ・ファノームのうち、最初のティアルーンは姓です。女として生まれたのでファノームが実際の名で、ペイトリというのが男として生まれたときに付けられるはずだった名なのです。」


 (あ、なるほど、そういうことね・・・。)


 何となく伊識も理解できた。


 (つまりさっきのバシュティンは・・・スタヴィト・カラ・バシュティンだから、女に生まれていたら『カラ』が実際の名になっていたわけか。)


 「通常、対の名は姓と名の間に入れます。もし私が男として生まれたならティアルーン・ファノーム・ペイトリという順番になって、名はペイトリになっていたのです。あなたが先ほど名乗られたヒイラギ・イシルとは、ヒイラギが苗字で、イシルが名ですか?」


 伊識はうなずいた。


 「そうですか・・・あなたはお持ちですか、対の名を?あなたが女として生まれていたとしたらつけられていたはずの名を・・・。」


 (え、う~ん・・・。)


 悩みつつも、伊識はとりあえずうなずいて、かつて自分の母親に、自分の名前の由来を聞いたときに


 「あなたが女の子として生まれていたときの名前も用意していたのよ。」


 という話をされた時のことを思い出した。


 (でも、あれはなあ・・・。)


 大して思い出したくもない過去の記憶である。何しろそのとき母親は


 「あなたのこと、女の子なら『にょくまむ』って名づけるつもりだったのよ。」


 と平然と言ってのけたのだった。


 「ウソをつけ。」


 親に向かってこんな言い方をしたことを後悔する気持ちもあって、思い出したくない思い出なのだが、とにかくそのときは反射的にそんな言葉を口に出してしまったのだった。


 「あら、ホントよ。お父さんと相談して、漢字も決めてたんだから。」


 伊識の返答に気分を害することもなく、伊識の母は、ペンと紙を用意して『匿真無』と大書し、ご丁寧にそこに「にょくまむ」と振り仮名を振った。


 「・・・マジか。」


 げんなりする伊識に母親は


 「あなたの『伊識』っていう名前だって、本当は魚醤そのままの漢字で名付けたかったのよ。」

 母親は今度は『魚汁』と大書した。


 「・・・。」


 自分の名前が魚醤由来であることは知っていたが、女として生まれていても魚醤から逃れられない運命だった衝撃に、伊識は何も言うことができなかった。


 そんな伊識に母親は追い打ちをかけるように


 「お父さんとお母さんは、今もそうだけど、あのころ本当に魚醤にはまってたのよ。」


 としみじみと言ったのだった。


 「じゃ、槙也は?弟の名前は何で魚醤と関係ないの?」


 「ああ、その頃はマキアートにはまっていたからよ。マキアートのマキア。で、『槙也(マキヤ)』。ね、これで分かった?」


 そんな会話を、たしかしたはずである。


 (自分の名前、嫌いじゃないけどな・・・。)


 頻繁に『伊織(イオリ)』と間違えられる面倒くささはあったが、『伊識』という名前はむしろ気に入っている。


 (しかし、にょくまむは、なぁ・・・まぁでもいっか、けっこう可愛くていい名前かも、にょくまむ。あれが俺の対の名と言えば、対の名か。)


 それを伝えれば良いのだろう、そう思って口を開きかけた伊識に


 「ま、待ってください、ソーザイア。感情をこめちゃダメです。」


 と、ファノームが慌てて制する。


 (そうだった。・・・う~ん、どうしよう。)


 ふと、伊識は自身の飲みかけのコップに目をやった。中にはまだ半分くらい水が入っている。


 (あんまりお行儀よくないケド・・・。)


 クイ、と一口飲んでから、伊識はコップに右手の人差し指を浸した。

 ファノームもすぐに察してくれた。


 「ああ、なるほど確かに。書いてもらえば声に出す必要はないですね。」


 ほっとした表情を浮かべている。


 漢字を、この世界の住人が理解できるとは到底思えないが、自分に対の名があることを理解してもらえれば相手も納得するのだろう、そう思って、伊識は何の気なしに、無垢の木で作られたテーブルの上に『匿真夢』と、水で濡らした指で書き上げようとしたのだが、『匿』という文字を書いただけで、ブワッ、と、これまで以上に強烈な空気の変化というのだろうか、とにかく得体の知れない何かが巻き起こり、それとともに伊識の書いた『匿』の文字が光り輝き、さらにそれだけでは済まず、その光はそのまま空中に浮かびあがり、それを中心としてすさまじい光の渦巻のようなものが発生し、部屋の中にいた者はみな光に包まれて伊識の視界から消える。


 (・・・な、何だ?)


 光が多少弱まり、伊識が目を開けると、部屋中の者がみなセスやファノームのように腰が抜けてヘナヘナと地面に倒れこんでしまっている光景が目に飛び込んできた。


 「今のは・・・ううっ、何だこの感覚・・・神聖文字の魔法術か?」


 「いや違う・・・昔見たことがある。神聖文字じゃない。神文字だ・・・神がお使いになる文字、神そのもの・・・ショテイ・ニョクマムの・・・こんな力がまだあったとは・・・。」


 「まさか!ショテイは神話の人物。何万年前の話を!しかもその文字を使いこなすなど!」


 (何だよ、またかよ・・・しかも・・・ニョクマムって。)


 何の偶然の一致なのだろうか。よく分からないが、書いてはいけないものを書いてしまったらしい。伊識は残りの文字を書くのはやめて、めいめい勝手に地面にのた打ち回りながら恍惚の表情を浮かべている者たちをどうしたらよいものか分からず呆然と突っ立って見ていたが


 (あれ?あれれ?何だろう、俺・・・)


 と、今度は伊識の体に変化が起こった。急に体がふらつき出す。立っていられずに、そのまま地面に膝をつく。


 急速に意識が遠のいていく。


 (マジかよ・・・自分にもかかるのか、この魔法は。使えねえな・・・。)


 気を失う寸前、伊識はファノームの


 「貴様、ソーザイアの飲み物に何を入れた!」


 と叫ぶ声と、男の戦士・・・バシュティンと名乗っていた戦士の


 「試したのだ!」


 と返す声が聞こえる。


 どうやら、自分で自分に魔法をかけたわけではなさそうだったが、それが分かったところで身動きができないのは変わらない。


 「この世界を救うお方かも知れないのに!」


 ファノームの悲鳴のような叫び。


 「この程度のことに引っかかってるようで、何がソーザイアだ!断じてこいつはソーザイアなどではない!」


 目の前でしゃべっているのに、バシュティンの言葉が遠くから聞こえてくるような感覚。


 (何でもいいからもう解放してくれよ、俺は惣菜屋じゃない・・・あ~でもこのまま死ぬのか、俺?まあいいか、きっと全部夢だろうから・・・夢、だよな?)


 伊識の得意とする無気力さがここでもいかんなく発揮されようとしていた。


 (もういいよ、どうにでも。)


 騒がしい周囲をよそに、そっと目を閉じて、それと同時に伊識の意識は完全に途切れてしまった。

読了ありがとうございます。

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