第十五章 「最初の一撃、そして 後編」
「ヒトの姿で五、六回も連続で強大な力を使ったんだから、気絶しても仕方ないわ。」
なんだか冷たい、いつもの口調。逆に伊識は安心した。
「そ、そうか・・・て、え、五、六回?」
広奏にはお願い事を二回しかしていないはずである。
微凪は呆れた表情でフウとため息をついた。
「あなたを回復させる分も含めてよ。氷岬さんが力を使ってね。いくら金網がクッションになっていても、あれだけ激しくぶつかって、しかも木刀と鉄パイプで叩かれて、痛みも傷もきれいになくなってる理由、分かるでしょう?」
あらためて全身をしげしげと見やる。確かに、最初はすごい痛さだったが、打撲の痛みも、ハレもアザも何もない。
「・・・悪かったわよ。」
きまり悪そうにそれだけ言って、微凪はプイと横を向いた。
「い、いや・・・っと、俺の方こそ、いろいろとゴメン。」
「いろいろって?どのいろいろ?」
横を向いたまま、目だけチラッとこちらに向けて、微凪が聞いてくる。
「い、いろいろは、いろいろだけど・・・広奏のこと。急にあんなことになって、びっくりした。」
伊識が眠る広奏をいとおしそうに見やる。
「委員長に戦いを仕掛けたこと、委員長を傷つけたこと。広奏を許してやってほしいんだ。」
「ふぅん、そのことね。まあいいわ。」
やっぱりそっちのコトなのね、と伊識には聞こえないくらいの声で付け足す。
「それから・・・あと、俺が広奏に・・・その、何だ、こ、告白する場面に居合わせさせた。本当は誰もいないところで、広奏と二人きりでと思ったけど。」
「まあ、それは、そうね。」
微凪は心のザワつきをまた別な心で抑え込んだ。
「へ、変なトコ、見せちまって、ゴメン。でも、ここで言わないといけなかっ・・・。」
「いいわ、分かってる。」
微凪は最後まで言わせなかった。
「氷岬さんの性別が確定してしまう前に言わなくては、あなたの本気を示すことができなかった。そのくらい、分かるわ。」
「・・・ゴメン。」
「それは、まぁ・・・いいの。それよりも。」
そう言って、微凪は伊識の目の前でしゃがみ込む。
「な、な、何?委員長・・・。」
そのまましゃがむとスカートの中が見えてしまうから、両手でスカートの裾を抱え込みながらしゃがんで、だから別に何も見えたりはしていないのだが、その所作にドギマギして慌てている伊識をマジマジと見つめながら、微凪は
「どうやって?」
と聞いてきた。
「どうやって・・・?って、何のこと?」
「決まってるじゃない、氷岬さんのこと。どうしてユールーだと分かったの?あなた本当は・・・。」
「ああ、そのこと。そりゃ分かるよ。」
伊識に膝枕されて、安心しきって眠る広奏に上着をかけなおしてやりながら、伊識はどうしてもちょっと得意げになってしまうのを抑えきれない感じで微凪に説明した。
「まずは『間』だよ。『・・・・伊識』って、俺を呼ぶときの『・・・・』の間の長さとか、タイミングがまったく一緒。あのヒャレンの神殿で、最初に立ち上がって俺に『・・・・ソーザイア』って呼びかけたとき分かったってのは、ウソじゃない。しかも最初は『・・・・ソーザイア』って頑張って呼んでたのに、いつの間にか『・・・・イシル』に呼び方変わってたし。」
「それだけ?それだけでユールーが氷岬さんだって思ったの?」
「いや他にも・・・指先の動かし方とか、首をこう、傾げる仕草とか、背後からこっそり俺のこと見る時の視線とか、俺の上着のすそをギュッと掴むその掴み方とか、俺のこと見上げてくるときに見せるポ〜っとした表情とか、そういうクセ、数え上げりゃキリないよ。」
伊識は広奏のおでこに手を当てた。
「広奏とは、もう十数年の付き合いなんだから。」
「・・・そう。」
私はあなたと六万年の付き合いなんだけどね・・・言いかけた言葉を飲み込む。
「あとは、やっぱり名前かな。ユールーっていう。」
「名前?」
「そう、ユールー。漢字で書けば、こう。」
伊識は校舎屋上の地面に指で『魚露』という漢字をなぞり書いた。
「・・・魚の・・・ツユ?」
「そう、サカナのツユ。これでユールーと読むんだ。魚醤の一種なんだよ。」
伊識は眠っている広奏を見つめながら
「俺の、イシルっていう名前に合わせて自分の名前も魚醤から取ったんじゃないかな、広奏は。」
と言って、照れたような笑顔を浮かべた。
「詳しいのね、魚醤に。」
微凪は、心の中ではいろんな気持ちが千々に乱れていたが、表向きの口調は自分でも嫌になるほど冷静だった。
「そりゃあ、詳しくもなるよ。俺、女に生まれていたら『ニョクマム』って名付けられるところだったし。今のイシルって名前だって『伊識』じゃなくて本気で『魚汁』の漢字をあてがわれる寸前までいったらしいし。これだけ魚醤、魚醤、言われたら、そりゃちょっとは自分でも調べ・・・って、え、委員長・・・え?」
眠っている広奏の頭上で、微凪は伊識の片頬に手をあてて、唇を近づける。
「え、あ・・・と・・・。」
そのまま、頬に唇が触れる・・・かと思われたが、ギリギリのところで、微凪の唇は伊識の身体のどこにも触れずに離れた。
「勘違いしないで。」
と、言う割には微凪の顔は耳まで真っ赤だった。
「これは、ホントに、そのあの、何というか、か、感謝のしるし、よ。」
今はまだね・・・心の中では相変わらずそう言っていて、その心の中の自分を叱り付けて、表に出ないように必死に押さえつける。
「そ、そう、か。うん。ありがとう。でも広奏が・・・。」
また二人が戦うところを想像して青くなる。
「大丈夫よ。そんなことにはならない。そもそも、触れてないでしょう?」
「そ、そう・・・だな。」
最初から触れないようにしていた、というよりも、触れる寸前に何かためらいがあって、その場で引き返したような気がする。
「・・・。」
「・・・。」
しばらくの沈黙の後、伊識が口を開く。
「そ、そうだ、委員長。広奏の言ってたことは?委員長と俺の関係って本当に・・・。」
「ええ、切れてるわ。氷岬さんの言う通りよ。ソーザイア・イシルとソードラスティングの関係は、完全に切れている。」
微凪は目を閉じて、胸に手を当てる。
「この・・・うまく言えないんだけど、この六万年の間、ずっとこの辺に、」
と言って、微凪は手を当てていた胸のあたりを指さした。
「この辺りに打ち込まれていた・・・クサビのようなものが、なくなっているの・・・。」
「委員長・・・。」
これが六万年を生きたものが見せる表情なのかと思わせる、何とも言えない顔を浮かべる微凪。伊識の胸に何かが刺さり、その何かこそが微凪にさっきまで刺さっていたクサビなんじゃなかろうか、とも思うが、それをあれこれ言う前に、伊識は自身の疑問をさらにぶつけてみた。
「じゃ、じゃあさ、何で性別反転が元に戻ってないんだ?委員長と俺が来世前世でつながってたからこそ、この反転が・・・。」
「それはね、きっと・・・そうね、『ご褒美かも。』って言った氷岬さんは、案外と的を射ているのかも、ね。」
と言った。
「ご褒美、って。そりゃまたどういう・・・。」
「だって柊城くん、氷岬さんが女の子であってほしいでしょう?」
「いや、うん、それはそうだけど、だからと言って・・・。」
「すべてのことは、もう一度エレクシスに行けば、分かることよ、きっと。」
微凪が困ったような、もどかしいような、複雑な顔をしている。
(委員長も実は知らないのか?それとも・・・?)
何か言葉を濁したことは分かったが、それは自身が知らないことに対してなのか、知っていることに対してなのか。
「そっか・・・まあ、またいずれ、なんだな。」
伊識ももうそれ以上は追及しなかった。
「そうね、いずれまた。」
「・・・もう、帰ろう。これ以上は、広奏が風邪ひく。」
「ええ、そうね。」
微凪に手伝ってもらって、伊識は広奏をおぶった。ムニャムニャと、良くは聞き取れないがなんだか幸せそうな寝言を言って、広奏は伊識の背中に密着すると、すぐにまたスウ、と寝息を立てた。
「行こう。」
屋上からの階段を降りた。
昇降口まで向かう途中、いくつか教室の明かりがついていた。どうやら進学組の三年生が補講を受けているらしい。
三人は、未だ開きっぱなしとなっている校門から、誰にもとがめられずに堂々と下校した。
「じゃあ、えっと・・・。」
微凪は電車通学ではないから、校門を出たところで別れるのかと思っていたが、微凪は伊識が『また明日、学校で。』と言うよりも早く
「駅まで送るわ。」
と言ってきた。
「あ、うん・・・。」
女の子に送らせるというのも気が引けたが、微凪は普通の女の子ではないし、広奏との戦闘も見た後だったし、それに微凪の言葉には有無を言わさぬ何かがあって、伊識はその申し出を素直に受け入れた。
聞きたいことがまだあったせいもある。
「あのさ、委員長。」
駅に向かって歩き出すとすぐに伊識は質問を始めた。
「なに?」
「さっき広奏が気を失う前に、エレクシスの古代語で何か言ってたでしょ、委員長に。あれって何て言ったの?」
「ああ、あれね。そうね・・・。」
伊識が広奏をおぶっているから、微凪が広奏の木刀を持っていたが、これ見よがしに持っていると怪しまれるので、背中に隠し持つようにして歩いている。
傍から見れば、手を後ろに組んで、機嫌よさそうに歩いていると見えたことだろう。
実際、今の微凪はけっこう機嫌が良いようではあったが。
「今度、氷岬さんに会ったときに『時築微凪に頬にキスされかけた』って、言ってみるといいわ。」
「え、ちょ、いやいやいやいや。そんなこと言えるわけ。」
「いいえ、聞いてみるべきよ。そのときに氷岬さんがどう答えるか・・・それがさっきのあなたの質問への答えよ。」
「・・・そうなのか。分かった。」
全っ然、分からない。今この場で教えてくれれば良いのに、と思ったものの
(委員長にだけ伝えた広奏の言葉を委員長が俺に教えることをためらったのか?確かに、俺に伝えるべきは委員長ではなく広奏本人かも、な。)
と思い直して
「やっぱり委員長は思慮深いんだね。」
と言うと、微凪は顔を赤くして
「バカなこと言わないで。」
と言って、顔をプイっと背けた。
「もう一つ、聞きたいんだけどさ、夏木はこの世界に固定された?残されてる?」
「そのこと・・・。ええ、そうね・・・。」
またはぐらかされるのかな、と思っていると
「槙也(マキア)ちゃんは・・・。」
と、いきなり伊識の元・弟、現・妹の話題を振ってきた。
「弟から妹になって、どう?何か変わった?」
「どうも何も・・・朝、俺を起こすとき、これまでは布団の上に馬乗りになるだけだったけど、妹になってからは、布団の中に潜り込んでくるようになってきた。」
朝、目覚めると布団の中にマキアがいて、伊識のお腹の辺りでスウスウ寝息を立てているのだ。
「本当に参る。今日は潜り込んでないなと思ったら、背中側に密着していたり。」
「今の氷岬さんみたいに?」
「う、うん。まあ、そうだな・・・。」
胸の大きさは違うが、と言いかけてやめたが、微凪は察したようでシラーっとした目つきを向けてくる。
「ま、まあそんな感じで困ってる、かな、ハハハ。」
「そうね。前に言った通りでしょ、ブラコンぶりが加速するって。」
少し前を歩く微凪が、くるりと回って振り返る。フワッと、長い髪が広がる。
「これからは、もっとすごくなるわよ。ライバルも増えて。」
「ライバル・・・誰のこと?広奏か?広奏なら・・・。」
「違うわ、分からない?フフ・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・あ・・・うん。」
かすかではあったもの、微凪がいつものいたずらっぽい笑みを浮かべるだけではなく、声を上げて笑うのを聞いたのはこれが初めてかもしれず、そのことが目下のところ一番の驚愕だったのだが、よけいなことは言わずに黙っていると
「氷岬さんが一体どうやって夏木さんのことをこの世界に固定したのか。・・・ごくごく自然に、矛盾が出ないように存在させようとしたのか・・・。」
と、微凪が独り言のようにつぶやく。
「さっきの氷岬さんの詠唱、ね。あのエレクシスの古代語魔法で、何をしたかというと、」
「・・・お、おう。」
身構える伊識に相対するように、微凪ももったいぶっておもむろに口を開く。
「夏木さんを、あなたの双子の妹にしたのよ。」
一瞬、理解ができなかった。しばらくしてから、ようやく伊識は
「・・・・・・え、うそ?」
と言った。
「ウソついてどうするのよ。夏木さんのフルネームは柊城夏木、になったわ。苗字がそのまま名前に。」
「・・・本気で?」
もう、どんな言葉を返して良いか分からない。
(同居なんてしたら、しかも身内なんぞになられたら、命いくつあっても足りないんじゃなかろうか、俺・・・。)
背筋が寒くなる。
「本気よ。さっきの夏木さんの古代語魔法の詠唱、要約すると『我が現出せしナツキをヒイラギイシルと双生の者に在り直させるべし。』とか、そんな感じよ。」
実際には『柊城伊識にとって全宇宙で唯一無二の存在である我、氷岬広奏』とか、『本妻を氷岬広奏とする柊城伊識』だとか、散々関係ない修飾語句を羅列していたのだがそれはまあ当然のことながらすべてカットして説明した。
「いやいや、しかし!」
「マキアちゃんもあなたのご両親も、夏木さんがいるのをごく自然に受け入れている、というより、最初からあなたたちは三人のきょうだいということで認識されているから。大丈夫。」
「いやいや、大丈夫じゃないって!」
伊識の狼狽を完全に無視して微凪は言葉を続けた。
「さすがは神、ユールーとしか言いようがないわ。いちばん、矛盾なく、自然にこの世界に夏木さんを残す方法として、最も矛盾する相手のそばに居させてあげること・・・。」
私にはできなかいかな・・・と微凪は伊識には聞こえないほどの声でつぶやく。
「・・・ぐ・・・ま、まあ、そうか・・・そうかも、な。」
たしかに微凪の言う通りかもしれない。夏木を消さないでほしいと望んだのは自分でもある。
(どうにかなるか・・・。)
いきなり双子の妹が誕生した、という事実に最初は頭がクラクラしたが、伊識お得意の、流され気質、よく言えば三層構造くらいある寛容さで包み込んだ理解力で、事実を受け入れることにした。
「ちなみに、彼女も相当のブラコン。マキアちゃんと張り合うことになると思うから、気を付けてね。」
ライバルというのは夏木のことか、と伊識は理解した。
それにしても。
「気を付けるったって、どう気を付けりゃ・・・それに・・・。」
伊識は夏木と一日だけ同じクラスで過ごした日のこと・・・大半の時間、自分に対して三日月の目を向けていた夏木との出来事をかいつまんで説明した。
「・・・ということで、俺には敵意しか向けないと思うんだけど。」
「何だ、そんなことを心配していたの?問題ないわ。安心して。」
「安心て。そもそも委員長、夏木を知ってるの?会ったことあるの?」
「いいえ、教室でちらっと見ただけ。でも分かるわ。それで十分。」
「そうかなー。」
『まあ、六万年も生きてきたんだから、人を見る目は十分なのだろうな。』とも思うものの、不安しかない。
そんな感じで話しながら歩いていると、あの、例の惣菜屋が見えてきた。
前に一人で遅い時間に立ち寄ったときと同じように、まだ店は開いていた。
「・・・。」
急に立ち止まる伊識。微凪も立ち止まり、振り返る。
「どうしたの?」
「いや・・・あー、つまり、ここが、あの当たり棒をゲットした店なんだよ。ソーザイアの剣の素。」
「え・・・そう、なんだ。」
微凪も知らなかったらしく、心底驚いた顔をしている。
広奏を背中に背負ったまま、外から覗き見ると、あの時と同じ、目深に帽子をかぶったおじいさんがちょこんとレジの前に座っている。
「こ、こん、ばん・・・は・・・。」
声をかけてみる。
「おやおや、こんばんは。何だい、またこんな遅い時間に。今日は一人じゃないんだねぇ?」
「はい・・・。」
「そちらのお嬢さんは、え~っと、はじめてのお客さんかねぇ?」
老人は、眼鏡をかけ直してシゲシゲと微凪を見やった。
「あなた、はじめて・・・かねぇ?」
「は、はい・・・。」
「そうかい、そうかい。おや〜広奏ちゃん寝ちゃって〜。おんぶしてるのかい。なにかい、疲れることしたのかい?」
「ええ、まあ。」
まさか木刀と鉄パイプで戦ったから、とも言えず、曖昧に返事するしかない。
「そうそう。前に『ケン』がどうとか言ってかたねぇ。割引券だか〜引換券だか〜で。」
話し相手を求めていたようで、老人は矢継ぎ早に語りかけてくる。伊識は立ち去るタイミングを失った。
「『ケン』は、広奏ちゃんが持っとったかね?」
「あ、ええ、はい・・・持っていました。」
うそはついていない。剣となったギリギリさんの当たり棒は、もとは広奏が持っていたのだから。
「そうか、広奏ちゃんがねえ、持っとったか。良かった、良かった。」
「・・・。」
老人は、こちらが黙り込もうが何だろうがお構いなしに話し続けてくる。
「いつでも、使いに来ると良いぞ、ケンをな。」
「・・・はい・・・。」
もうこの辺で切り上げて出よう。伊識は店内の壁にかかった時計をチラリと見た。
「実はもう、使いました。」
突如として、微凪が老人との会話を引き継いだ。
(え、ちょ・・・委員長?)
まさか微凪がこのタイミングで会話に割って入るとは、伊識も全然想定していなかった。
「使いました、剣を・・・。」
「ほう?うちの店でかの〜?確かうちの店では最近は誰もケン、使っておらんはずだが。」
「ええ、すみません。別のところで使ったんです。」
「ほう、そうかね〜。別の店でかい。」
老人は別段気分を害している様子でもなかった。
(ちょっと、委員長!何を・・・。)
伊識が小声で制したが、微凪はかまわずに話し続けた。
「ここからうんと遠い、誰も知らないようなところで、ケンを使いました。氷岬さ・・・広奏さんの力も借りて。」
「そうか、そうか。そりゃ良かったの~。」
「はい。」
「そうか、ケンをなあ・・・広奏・・・ちゃんが・・・ヒロ・・・ユ・・・。」
言いかけて、老人は黙りこくって、微凪は驚愕の表情になった。
「今、何て・・・?あなたは・・・・・・!」
老人にたたみかける微凪。
「委員長。」
伊識が微凪の袖を引っ張る。
「邪魔しないで!」
振り返った微凪の表情は、こわいほどに真剣そのものだった。
が、その微凪を見つめる伊識の顔は、それを上回るほどに本気で、微凪は勢いを殺されて、たじろいだ。
「委員長、ここまでにしよう。」
すぐに伊識は穏やかな表情に戻って、優しく微凪を諭す。
「でも。今この人・・・。」
エレクシスのことになると微凪はちょっと周りが見えなくなるな、と伊識はあらためて思い知らされた。
「それを、いまここで解き明かすことに、どういう意味が?」
「それは・・・。」
そんな二人のやり取りの間に、老人はふと微凪の手にしているものに気付いた。
「おや、それは木刀かねぇ?」
老人が微凪に声をかける。
「・・・そうです。」
微凪が答えるより早く、伊識が口をはさむ。
「これは広奏のなんです。じゃ、また・・・行こう、委員長。」
伊識は老人に背を向けた。
「ちょ、ちょっと、柊城くん・・・。」
出て行こうとする伊識。それをあわてて追いかけようとする微凪の背中に
「待ちなさい。」
と老人が声をかける。
それまでの柔らかな口調と少し違うその調子に、伊識も微凪も立ち止まった。
「待ちなさい・・・懐かしい、わしも持っておるよ。」
老人は、スク、と立ち上がると、店のレジ台の下から、木刀を取り出した。
「え・・・あの・・・。」
「わしも昔、木刀をやっておっての。ばあさんは今でも道場をやっとる。」
「え・・・。」
「そこのお嬢さん、構えてごらん。」
老人は、狭い店内で木刀を片手で構えた。
「いえ、あの私は・・・木刀を習っているのは、氷岬さ・・・。」
「さあ。」
有無を言わせない感じで、仕方なく微凪は、老人に相対する形で木刀を両手で構えた。
「ほう、筋が良さそうじゃの。ばあさんの道場で習ってみたらどうじゃ?」
「あ、いえ・・・。」
老人は伊識を横目で見る。
「どうじゃの?」
伊識に向かって『何か分かるか?』という視線を向けてくる。
「えっと・・・。」
老人が片手で木刀を持っている、それはすぐに分かる。普通は微凪のように両手で構えるのではないだろうか。
(それにその片手・・・。)
答えるべきなのだろうか。心は迷うが、それとは関係なく言葉が先に口をついて出てしまう。
「おじいさん、左利きでしたよね。なぜ、片手、しかも利き腕でない右手で剣を?」
前に店に一人できたとき、老人が書き物をしていたところを覚えていた。確か、左手で書いていたはずである。
「ほう、気付くかね。少年も、筋が良いの。では、行くぞい。」
老人は音も無く突如として微凪の懐に飛び込む。
「・・・!」
いつもの感じとはまるで違う。高校の屋上で、広奏と渡り合った微凪を見た後では、その微凪に何もする間も与えなかったこの老人の動きはまさに神業に見えた。
いともたやすく、老人は微凪のわき腹に、利き腕の左手を押し当てる仕草をした。
「あ・・・。」
微凪は何が起こったかまったく理解できていないようだった。
「わしとわしのばあさんがやっていた道場ではの、何でもありのルールじゃったよ。」
微凪からス、と離れ、構えも解く。
すでに老人はいつもの緩慢な動きに戻っていた。
「悪かったの、お嬢ちゃん。」
「・・・。」
呆然と立ち尽くす微凪。背筋に冷たいものが走る。
それは伊識も同じだった。
「良いかの。利き腕ではない方の手で武器を構えている者がいたら、利き腕の方が何をしようとしているか、よく注意しておくことじゃ。」
「・・・なぜ。」
振り絞るように、微凪が言葉を発する。
「なぜ、それを私たちに?」
「はて、なぜかのう・・・。」
老人は後ろ手に木刀を持って、思案する。
「昔取った杵柄、懐かしくなっただけ、かの。」
老人はクルリと背を向けて、店の奥に戻っていく。
「老人の戯れにつき合わせた。」
「あ、あなたの、」
微凪がその背に声をかける。
「あなたの奥様がやっている道場は、どこに・・・。」
「南澄辺駅のそばじゃよ。」
「南澄辺・・・。」
それはここから三駅、例の古ぼけたショッピングモールがある駅である。
「広奏さんは、あなたの奥さんの道場に通っていませんか?何か聞いていませんか?」
「はて・・・聞かんな。道場のことは、女房はわしに何も話さん。最近は習いに来る子も減ったらしいからの。興味があるならいつでも行ってみると良い。『北雲流木刀術』という道場じゃよ。」
さ、店じまい店じまい、と老人はつぶやいて、まるで何事もなかったかのように、店先のノボリをしまい始める。
「北雲・・・。」
もうドンピシャとしか言いようがない。全てが都合良く収まろうとする不思議な力。
「お前さんたちも、気をつけてお帰り。」
「おじいさ・・・あなた・・・バシ・・・。」
そこまで言いかけたとき、伊識が微凪の前に立ちはだかった。
「柊城くん、どいて!」
「帰ろう、委員長。」
「でも・・・!」
「帰ろう。」
伊識は目を閉じて、静かに首を横に振った。
「今日はここまでにしようよ。このおじいさんには、あの世界の記憶はない。」
「でも、あの世界にいたバシュティンも左利きだった!このおじいさんも。・・・それにさっき、ユール・・・。」
「ああ、俺もそう思うよ。この人が、そうだと思う。」
「だったら!」
伊識は穏やかな笑みを浮かべて微凪を見つめた。
「柊城くん・・・でも。」
口ではまだ抵抗するものの、伊識の表情は、微凪の中の焦りや不安を、洗い流すのに十分だった。
(ああ、この人は・・・きっと私なんかよりずっとずっと、分かっている・・・。)
そう思えて仕方ない表情。
六万年近くの間、誰にも得たことのない感情に襲われて、微凪は口をつぐむしかなかった。
「本当に、委員長は一生懸命。それは分かる、でも、」
伊識は後ろをチラリと見た。
「このおじいさんを・・・バシュティンだと・・・それをいま思い出させて、それでどうするの?」
「・・・それは・・・。」
あとに続く言葉が何もなかった。
「ね、だから、帰ろう?」
伊識が静かに微笑む。
微凪は黙ってうつむいた。
伊識は、よいしょ、と広奏を背負い直してから、老人の背中に向かって
「すみません、また来ます。今度は広奏も起きているときに。」
と言って、店を出て行った。
微凪もペコリと老人にお辞儀して、伊識のあとに従った。
「ああ、またおいで。」
老人は何事もなかったかのように、振り返りもせずそう言って、いそいそと店じまいを続けた。
「・・・。」
「・・・。」
二人は、しばらく黙って歩いた。他に人通りもなく、二人の足音だけが響く。
例の公園を通り過ぎたあたりで、先に口を開いたのは、伊識だった。
「ごめん。」
「・・・。」
返事のない微凪に『あ~やっぱり、怒ってないにしても気分害してるだろうな。』と思っているところへ
「・・・何で、謝るの・・・?」
と微凪が尋ねる。
「それは・・・。」
伊識は少しだけ逡巡してから、やおら口を開いた。
「・・・あのおじいさんは、潜在的に持っているだけだと思った。かつての自分の中の何かを。委員長に対しても最初態度が少しおかしかった。初めて会ったんじゃない何かを委員長に感じてた気がする。でも、それが何なのかまでは分かっていない。あれ以上は、おじいさんを・・・バシュティンを混乱させるだけだと。」
「・・・。」
「だから、止めた。ごめん。」
「・・・。」
「委員長、怒ってるよね?ゴメン、エレクシスを・・・。」
「違うの。もう謝らないで。あなたの判断が最善だと思うわ。頭に血が上ってた、私・・・。」
「・・・。」
徐々に徐々に、じんわりと坂道に差し掛かったのが分かる。広奏を背負ったままではキツイかと思ったが、いざ登り始めると、それほどの苦労はなかった。
「さっきのおじいさんの助言は、またエレクシスに行くことがあれば、そこで役立つこと、なのかな?」
自身に問いかけるような伊識の疑問。
つまりそれは自分が誰かと戦うということかもしれない。誰とだろう。不安が募る。
「・・・きっとそうね。」
微凪も伊識の言葉に同意する。伊識は、ん、と小さく相槌を打つ。
「これから、エレクシスや、この地球で何が起こるのかは俺は分かんない、分かんないけど。でも、せめて今は、この世界でのファノームやバシュティンには、平和に、穏やかに余生を過ごしていて欲しいんだ。」
「ファノーム・・・そうね。」
微凪は手にした木刀をキュッと掴んだ。なぜバシュティンだけでなくファノームの名前まで出したのかは、微凪にも容易に理解できた。伊識も微凪が理解できていることを理解した。
「うん。道場の・・・あのおじいさんの妻は、ファノームなんだろう、きっと。」
「そう、かもしれないわね。願望も入ってるでしょ?そうあって欲しいな、っていう?」
「いや・・・確実にそうだと思う。」
「どうしてそう思うの?」
「似ていた、というか、同じだった。」
「同じ?」
「うん。向こうの世界で見たファノームの動きと、広奏がさっき委員長と戦った時に見せた動きは同じ気がした。師匠のクセが伝わってるというか、そんな感じ。俺は剣術なんて全然、ド素人だけど。」
「・・・。」
「ハズレ、かな?」
「いえ、私もそう思うわ。さすがね、ソーザイア。」
それは微凪の本心だった。本当に。微凪より遥かにいろんなことを理解している。
(もう、全てを任せて、頼りたい・・・。)
微凪は歩きながら、前のめりになって、地面にある小石をコツ、と蹴った。
「いや、素人の勘だよ。委員長の言うとおり、願望も入ってる。」
坂道の途中まで来て、伊識は立ち止まって振り返る。
惣菜屋の老人が、ガラガラとシャッターを閉めているところが小さく見える。
「たとえ、エレクシスと関係ないこの地球で、だったとしても、ファノームとバシュティンが夫婦になってるってことが。」
目から一筋の涙がこぼれそうになるのを必死にとどめようとする。
「良かった・・・エレクシスで、あの二人がその後どうなってるのかは分からないけど、でも何か良かったって気がするんだ。前世だか来世だかは知らないけど。」
「・・・ええ。」
その後に『そうね、あなたの言う通りね。』と言いたかったが、微凪は自分でも知らず言葉にするのをためらって言えなかった。
「何で泣きそうになるんだろ。エレクシスにいたときもそうだった。ファノームと、バシュティン。あの二人のことを思うとき・・・。」
なぜか感極まってしまう。
「柊城くん・・・。」
広奏を背負っているから、手が自由にならない伊識の代わりに、微凪が伊識の涙を拭ってくれた。
「ごめん、委員長。ありがとう。」
黙って首を横に振る微凪。
「なぜ、ファノームやバシュティンがこっちの世界に・・・俺のせいなのかな。」
「・・・。」
伊識だって、もちろん分かっている。
「大半の人間の前世来世は、アリなんだろ?なんでこんなに、しかも同時代に、何人もの人間が人間に転生を?ありえないんだろ?宝くじの一等百万回連続で当たる確率より低い確率の転生が、こんなにも?」
「・・・。」
どう考えたって、伊識の転移が関係しているのだ。
すべてが柊城伊識を中心に回っている。それを否定しても仕方がない。
そして、その原因を起こしたことに広奏が関わっているのかもしれないことに、伊識がまったく言及しないことに、微凪の心がちくっと痛む。痛みながらも
「私にも分からない。」
と、そう答えるので精一杯だった。
「・・・そっか。」
微凪の返答には、逆にきっとそれは分かっていないはずはないのだが、言葉で簡単に説明できる類のものでもないのだろう、ということを伊識に理解させるに十分なものだった。
「氷岬さんがユールーだということも分からなかったのよ、私。六万年も生きてきて・・・。」
それはもっともらしい理由ではある。ただ、どれだけ長く生きようともそれを見抜くことは微凪にはできなかっただろう。
(それは、俺にしか分からないこと。他の誰にも、それだけは譲らない。)
微凪のせいではない。
そんな伊識の思いとは別に、微凪は
(でも、きっと違う・・・この一連のすべてを起こしたのは・・・氷岬さんではないのかも・・・?)
とも考える。
微凪にも本当にそこは分からない。剣にならなかった自分の人生を歩むのは、これが初めてなのだ。
伊識は坂を上りきったところで立ち止まって、また振り返って公園の方を見た。
今は暗くて、何もよく見えはしなかったが。
(良かったね~伊識。それは伊識の当たりだから、あげるよ~。)
ギリギリさんの当たり棒を手にした伊識に、満面の笑みで遠くから声を張り上げた広奏。
「どうしたの?」
微凪も立ち止まって振り返る。
「いや、まあ、何だその・・・。」
伊識は顔を赤くしながらも
「広奏がずっと俺を守ってくれていたんだなって、ようやく分かった。俺、勘違いしてた。」
「・・・そう?」
違うんじゃないかしら、という微凪の口調。伊識は顔をブンブンとふりたかったが、広奏が背中にいたのでプンプン程度に振るのを抑えた。
「俺が、広奏を守っているんだと勘違いしてた・・・俺の方が一方的に広奏を守っていると。広奏は守られる立場だと。とんでもない勘違い。最低だよ、俺は。」
「・・・そうね。一方的、ではないかもしれない。でも、氷岬さんを守れるのは、あなただけよ。今までも、これからも、ずっと、ずっと。」
あの世界を救う、少なくともバランスを保っておくためには、伊識が必要だし、きっと広奏も必要なのだ。
「あんなに強い広奏が?」
「とぼけちゃダメ。分かってるでしょう?」
「・・・。」
微凪をはぐらかすことはできない。
確かに、広奏には綱渡りの綱どころか、クモの糸くらい細い線の上でバランスを取っている危うさがある。
「氷岬さんは、あなたしか見ていない。でも、その氷岬さんがエレクシスを救うカギになっていると思うわ。あなたと同じくらい、ね。」
続けて
「だから始末に困るわ。」
とつぶやく。
伊識は、微凪の最後の言葉には答えずに、遠くにある公園の方をぼんやりと見つめたまま、半ば独り言のように
「これから、また何か起こるとしても、今はまだ、やっぱり広奏にはいつもの笑顔でいて欲しい。バシュティンとファノームにも、平穏であって欲しいんだ。」
と言って、微凪の横顔に視線を向ける。
「そしてね・・・。」
じっと、微凪を見つめる伊識。
「な・・・何?」
たじろぐ微凪。
「委員長にも、そうあってほしいんだ。」
「・・・。」
「戻りたいと・・・無限に生きる剣に戻りたいと思ってる?」
「・・・。」
微凪は伊識ばりに首をブンブンと振った。長い髪がフワリフワリとそれに付き従うようになびく。
「ごめん、意地悪な質問だった。」
「ううん・・・私こそ。」
勝気な感じの微凪はどこかへ行っていた。
「あなたには、いくら感謝しても、し足りない。手順がどうだったかなんてことは関係ない。それだけは、覚えておいて。」
気づくと、微凪は伊識の制服の裾を掴んでいた。うつむいて肩を震わせている微凪はさっき戦っていた姿よりも二回りくらい小さく見える。
「六万年生きたなんて、ウソよ。」
「うん・・・え、ウソなの?」
「・・・六万年、死んだようにただ生きていただけ、私・・・でも、でもね・・・。」
微凪が顔を上げる。
「私はもう、エレクシスには行けない、いえ、行けるけど、行っても何の役にも立たない。」
「一緒にあっちに行ったときも、あんまり役に立ってなかったじゃん、委員長。」
「へ・・・く・・・?」
不意を突く伊識のまさかの一言に微凪が言葉を失う。
「なぁんて、ごめんごめん、委員長、ウソウソ。そういうことが言いたいんじゃなくて。」
伊識は照れくさそうに顔を横に向けて
「楽しんでよ、委員長。」
とポツリと言った。
「柊城くん・・・。」
「『役に立たなかった。』そりゃ当然だよ。剣にならなかったんだから。剣になることでしか、自分の役割を見つけられなかったんだから。今まで、六万年も。」
「・・・。」
「何かの役に立つことばかり考えないで欲しいんだ。自由に自分のことを何でも自分で決められる、結末の分からない、有限の存在である自分自身の、さ。」
こんな言い方は照れくさかったが、ここで言わないともう一生言えないだろう。
「委員長が六万年を過ごして、その記憶を持っていることは、忘れるなんてできないだろうし、きっとそれも大切な記憶なんだろうけど・・・縛られてほしくないんだ。満喫してよ、この世界で、青春をさ・・・ははは、青春だって。俺が青春なんて言葉、口にしてるよ、ははは・・・。」
「・・・。」
「ね、委員長。」
「・・・。」
「委員長。」
「・・・はい・・・。」
「もし、俺にちょっとでも感謝してくれているなら、剣にならなかった自分を、大切にして。エレクシスのことは心配しないでほしい。広奏と俺で何とかするから。」
「・・・。」
伊識は照れ隠しのような笑みを浮かべて微凪を見つめる。
「俺にエレクシスを託すって・・・難しいとは思うけど・・・頼りないとは思うけど、俺はともかく広奏がいるから大丈夫。」
伊識は背中でスヤスヤ眠っている広奏を振り返った。
「まだ広奏へのお願い事が残っているから。いざってときに使うよ。神様の力を。」
わざとらしく胸を張る伊識。
「他力本願だって・・・情けないやつだって、思われてもかまわない。広奏が俺を守ってくれるなら、それはホント、うれしいことだよ。今まで勘違いしてた俺を・・・。」
「・・・。」
「だから、委員長。JKとして、この世界を楽しんで。委員長は、すごい美人のJKで、おまけに頭の良いJKで、謎の転校生JKで・・・え~っとそれから・・・。」
そんな伊識の軽口に、こみ上げてきた気持ちが多少薄らいだのか、微凪が呆れてため息のような吐息を漏らす。
「JKJKって・・・バカじゃないの。頭悪い。」
いつもの微凪のしゃべり方に近い。伊識は少し安心した。
「あはは、ごめん。」
「バカ・・・でも、そうね・・・。」
微凪は、久々に長い髪を手でふわりとかき上げる、例の仕草をした。それを見て、伊識がさらに安心を深めたところに、いたずらっぽい笑みを浮かべて
「この世界を楽しめ、というなら、また氷岬さんと戦わなくちゃいけないかしら、私。」
と、先ほどのお返しとばかりに不意を突いてきた。
「へ・・・ふ・・・?」
微凪と同じように間抜けな声を上げてしまう伊識。微凪はずっと掴んでいた伊識の制服の裾を、さらにギュ、と強く掴んで、うつむいて伊識の胸にひたいをトン、と乗せた。
「え、あの、委員長?」
「・・・たし・・・だって・・・。」
「な、何?いいんちょ・・・よく聞こえな・・・。」
「私だって、六万年・・・ずっと、ずっと・・・。」
「・・・委員長?」
柊城くんを・・・ソーザイア・ニョクマムじゃない、あなたを・・・その言葉を必死に飲み込む。
「い、委員長・・・。」
微凪は何も言わず、伊識にしがみついたまま、しばらくの間微動だにせず、伊識ももう何も言わずにじっと、微凪のしたいようにさせた。
「・・・。」
「・・・。」
その、六万年に比べればまばたきをする間もないほどのほんのわずかの間に、どれほどの思いが浮かんでは消えたものか、伊識は知る由もなかったが、顔を上げた微凪は、何事もなかったかのようないつもの表情に戻っていた。
「着いたわね。すぐそこが、駅でしょう?」
微凪が指差す。
「お、おう。」
「私は帰るから。見送りは、ここまででいいでしょう?じゃ、また明日。」
そう言って、微凪は表情を見られまいとスッと素早く振り返って、早足でもと来た道を引き返して逃げるように去って行こうとする。
「・・・あ、あの、委員長。」
思わず声をかける。微凪は振り返らずに立ち止まった。
「見送り、あ、ありがとう・・・また、明日。学校で。」
それだけ言うので精一杯だった。
「ええ、また明日。」
伊識に背中を向けたまま、横顔がチラリと見える程度に振り返ってそう言って、微凪はそのまままた歩き出して、去って行く。
微凪が宵闇に消えて見えなくなるまで見送ってから、伊識はよっこらしょ、と広奏を背負い直してから歩き出す。
そこから駅前までは本当にすぐで、遅い時間だったこともあって、伊識たちの通う高校以外には本当にめぼしい目的地が何もないところだったから、この時間の駅前には誰もいなかった。
「起きてるか、広奏。」
駅前のロータリー、などと呼んでよいのかどうかも分からないほどの場所で立ち止まって、伊識は背中に声をかけてみる。
「・・・・。」
返事はない。伊識はフウ、と息をついて、空を見上げる。
いつもより星が多いように感じた。
(広奏が起きるまで、待つかな・・・。)
このままの状態で電車に乗るのは大変だから、と理由付けしてはみるものの、心の奥底では背中にムニュムニュ容赦なくあたっている広奏の柔らかいそれをもう少し堪能していたいという気持ちというかスケベ心もあって、まぁおそらくきっとそっちの方が本音だったろう。伊識は目を閉じて、フウヤレヤレという感じで静かにフルフルと頭を左右に振った。
「ごめんな、広奏・・・。」
広奏をおぶったたまま、いつになく真顔になって伊識がつぶやく。
「力を使うってことは、こんなにも消耗するものなんだな・・・全部、俺のために・・・って、これまたうぬぼれだな、ハハ・・・。」
誰もいない駅前に、伊識の言葉だけが虚しく響く。背中からは何の返事もなく、スウスウという静かな寝息だけが聞こえてくる。
「お前が女の子だったら・・・って、心の中でずっとそう思い続けてきた。ほんと、その回数を知ったらきっと引くだろうな、広奏・・・。その願いが今、奇跡的に叶って・・・叶って・・・。」
地面に視線を落とす。街灯が、二人の影を割と長めに映している。
「中身はもちろんだけど、外見も本当に俺好みで、すげぇ、うれしいし、満たされてる・・・。」
駅の構内放送が伊識たちのいるところまで響いてくる。
「でも、ホント正直さ、男の子だったときのお前も、懐かしい。会いたいよ、また・・・何なんだろうな、この気持ち・・・。」
どうやらこれから来る電車はこの駅を通過するらしい。それを伝える駅員のアナウンスが聞こえてくる。
「お前のこと、ずっとずっと好きで、それは今も変わらない・・・いや、好きなんていう言葉では言い尽くせない。お前のすべてを独り占めしていたい。女の子のときはもちろん、男の子のときのお前も・・・お前のことになると、ホント欲張りになるらしい、俺は。」
ハハハ、と照れ隠しに乾いた笑い声を発する。
広奏が寝ている今だからこそ言える、と、話すのに夢中になって、伊識は何かがほんのわずかピクリと動いたことにも気づかなかった。
「正直、夏木がお前の隣にいるだけで、本当に心がざわついたよ・・・。」
涙が出そうになって、伊識は慌てて深呼吸をして、感情を落ち着けた。
「お前のこと・・・失わないで本当に、良かった。」
何で失うと思ったのだろうか。分からない。でも、剣の答えを間違えたら、もう会えなかったのではないかという気持ちが拭えない。ヒャレンの頂上で神殿の縁に手をかけて落ちそうになっていた時ですら震えなかった足が震え、すくむ。広奏を背負っていなかったら地べたに崩れ落ちていたかもしれない。
「ずっと、隣にいてくれさえしたら、もう何もいらないよ、俺・・・。」
駅からは、白線の内側に下がるようにというアナウンスが繰り返されている。
「きっと、お前が俺のこと好きっていう以上に、お前のこと好きだっていう自信、あるよ、俺。」
広奏が眠っているから好き勝手に本音を言える、そう思ってしゃべっていたから『それはありえないことだよ。』という背中からの声に伊識は一瞬気付くのが遅れた。
「だからな、広奏・・・って、え?」
その一瞬の遅れのうちに、さっきまで伊識が背負っていたはずの広奏が、気付けば伊識の前にちょこんと立っていた。
うつむいて、顔は耳まで真っ赤で、表情は見えなかった。
「え、広奏、起き・・・てたのか。」
「・・・・。」
広奏は、しっかと伊識にしがみついて、コク、と頷いた。
「ハハ、広奏、あのつまりその・・・。」
動揺しまくる伊識に、広奏は一言二言、伊識の理解できないエレクシス語をつぶやく。
それは、学校の屋上で気を失う寸前に微凪に語りかけたときの言葉と同じだった。
「そ、そうそう、その言葉・・・なんて意味なんだ?」
ス・・・と、広奏は伊識の胸元に片手を添える。
「これはね、伊識。『唇は、渡さない。』って、いう意味なんだよ。」
「そ、そうなのか・・・って、つまりそれはどういう・・・。」
「ん、こういうこと。」
最後まで言わせずに、広奏はス・・・っとその小さな手を伊識の頬に当てて、そしてさもそれが当然であるかのように伊識の唇に自分の唇を重ねていた。
「・・・!?」
広奏の、あったかくてしっとりとした唇が伊識の口を塞ぐ。
いつもの伊識なら、ここですぐに広奏を引き離して『い、いきなり何を・・・もっとこう、自分大事に・・・。』とか言うところなのだろうが、何しろ伊識の方だって十年以上もの間『隣のコイツが女の子だったら・・・』と夢想し続けて、その夢想が現実だったらまずしたい、と思い続けていたことが今まさに現実となったわけだし、微凪には申し訳ないけど『あ~やっぱり俺のファーストキスは広奏だったんだ。良かった、広奏で。』という安堵の気持ちもあって、そんな様々な思いが心の内を駆け抜ける今の伊識に広奏の唇を引き剥がせるはずもなく、むしろ自分から広奏を引き寄せるようにギュッと抱きしめて、身体も唇も離さなかったし、広奏は広奏で伊識のそんな想いを察したのか、一瞬身体をピクンと震わせて身を委ねてくる。
ゴー、ガー、と、通過の電車が通り過ぎていく音がする。二人はその間も固く抱き合って、お互いの唇も離さなかった。
・・・・
・・・
・・
・
どのくらいの時が過ぎただろうか、ごく自然にキスを解いてから、先に言葉を発したのは広奏の方だった。
「伊識が、いけないんだからね。」
拗ねたような声。とりあえず伊識は
「お、おう・・・。」
とだけ返事をしておく。
伊識は分かっている。こういうふうに言うときの広奏は、本当に伊識が悪いなどとは思っていないことを。
広奏は頬を染めて、俯きながら
「ほんとはもっとずっとおんぶしてもらおうと思ってたのに。」
と言ってまた伊識にキュッと抱きつく。
「こんなに伊識からの想い・・・・伝えられたら、もう寝たふりなんてしていられないよ。」
広奏は伊識の胸に顔を埋めた。
「伊識が悪いんだからね。」
「お、おう。ご、ごめん・・・。」
押し切られるように、今度は思わず謝ってしまった。
伊識を責める言葉の割には広奏の表情はいたって穏やかで、上機嫌で、悪戯っぽい笑みを浮かべて伊識を見上げてくる。
「ふふ・・・・キス、しちゃったね、伊識。」
「お、おう・・・だな・・・。」
「えへへ、伊識、ファーストキス?」
「お、おう・・・はじ・・・めて、だ。」
「ボクもだよ。ボクも、はじめて。」
そう言って広奏はまた頬を伊識の胸のあたりに押し当ててスリスリしてくる。ずっと密着しっぱなしだったが、夜の駅前には気にするような通行人は誰もいなかった。
「そ、そうか。」
広奏がファーストキスだったことに驚く。
(まあ、人間よりはるかに長く生きる神様っていっても、キスは初めてってことか・・・いやいや、そもそも神様がキスすることなんてないのか。あれ?今の広奏は神様?神の記憶を持っている・・・?神が人間である俺にキスしたのか・・・。)
今さらのことであるが、ようやく思い至り、頭の中が混乱でグルグルしてきた。
それを見透かすかのように、広奏は
「あの世界の神様は、この世界の神様とちょっと違う。」
と言った。
「エレクシスの神は・・・・決定的に神様は人ではないんだけど、人に近い。それに、今のぼくは、広奏だから。守護神ユールーとは違う。伊識とソードラスティングが違うのと一緒。それからもう一つ・・・・。」
周囲には誰もいないし、そうする意味があったのかどうかわからないが、広奏は伊識に目いっぱい顔を近づけて、声をひそめて
「時の流れに騙されないで。それは絶対的なものではないから。」
と言った。
「お、おう。」
全然意味が分からなかったが、そう返事する意外に途はない感じだった。
「そんなことより、伊識!」
急にまた広奏が大きな声を上げる。
「は、はい?」
張り上げた声とは対照的に、エヘヘ、と言って広奏はまた深く、深く抱きついてくる。
二人が一つになってしまいそうな感覚に、伊識は体も心もクラクラッとなる。
「伊識、ぼくのこと『お前』って、呼んでた!」
「あ、そ、それは・・・。」
そうだった。寝ているとばかり思って背負っていた広奏は、実はちゃっかり起きていたのだから、さんざん『お前、お前』と呼んでいたのもばれているわけである。
「あのその、ゴ、ゴメン。」
さすがにそんな呼び方をされるのは気に障ったのだろうと思ってアワアワする伊識などおかまいなしに、広奏は伊識を見上げて
「ううん、違うよ・・・ぼくのことは好きに呼んでくれてかまわない。」
と言ってまたムギュっと抱きついてくる。
「えへへ・・・伊識、ボクのこと『お前』って、呼んだね〜。」
抱きついたまま、伊識の耳元に唇を近づける。
「伊識、大好きだよ・・・・大好き。」
広奏の吐息が耳に吹きかかる。
「あ、あ、広奏・・・。」
どうにかなってしまいそうな感覚。それを呼び戻すかのように、広奏は
「もう、何も怖くないよ、伊識。この先、伊識と何があっても、もう、怖くない。」
と囁く。
「広奏・・・。」
やはり何かある、あるいはあったのだろうという、神を来世とする者の言葉。
「やっぱり、伊識とボクは、またあの世界に行かなくてはいけないんだろうけど・・・・でも、もう大丈夫。ボクが守る、伊識を。」
「・・・。」
伊識を守る・・・その言葉とは裏腹に広奏の体は小刻みに震えていて、伊識はその震えを止めたくてまたぎゅっと広奏を強く抱く。
(とぼけないで。分かってるでしょう?)
微凪の言葉が思い出される。
「え~、まもなく二番線に・・・。」
駅の構内アナウンスが聞こえてくる。伊識たちの乗る方面の電車が来るという予告だった。
「伊識・・・電車。」
「お、おう・・・。」
正確な時刻は確認していないが、もうだいぶ遅い時間だし、本当はいま来たこの電車に乗らなくてはいけないのだろうとは分かっている。
いろいろなことが頭を去来するが、とりあえず今はもう少しこのままでいたくて、伊識が
「あのさ、」
と言っただけで、広奏はすぐに
「うん、いいよ。」
と返事した。
「悪い。」
「ううん、うれしいよ・・・。」
・・・・
・・・
・・
・
目を閉じて、広奏は伊識にすべて任せる。
伊識は広奏をずっと離さない。
結局二人は、三本あとの電車に乗るまで、誰もいない駅前で二人きり、ずっとそうしていたのだった。
読了ありがとうございます。