第十二章 「広奏とユールー、二度目の出会い」
伊識の声が聞こえる。
「そうだと・・・したら、もう俺は、この先、誰とも一緒にはならない。」
苦しそうな、搾り出すような、伊識の声。
「・・・・。」
広奏は伊識に背を向けてじっと立っている。
伊識が広奏の服を掴んでいるから動けないのではない。
広奏が、伊識と離れたくないと思うから、動かずにいるのだ。
(・・・・ずっと・・・・ずっと一緒にいたいよ、伊識。)
まるで広奏の心の声が聞こえたかのように、伊識が広奏の服のすそを握り締める手に力を込める。広奏はピク、と身体を震わせた。
「もう、この先一生、こんなに人を好きになることなんて、ないと思うから、俺。」
「・・・・。」
広奏の唇が震える。言いたいことは別にあった。でも、口をついて出たのは正反対の言葉だった。
「な、何言ってるの、伊識・・・・アハハ、大げさだよ・・・・ボクたち、まだ中学生なんだから・・・・。」
伊識は首を横に力強く何度も振った。
「分かるんだ。」
「いやアハハ、伊識そんな。」
あくまで明るく振舞おうとする広奏に反比例するかのように、伊識は・・・いつもの優しくて楽しくてカッコ良くて、どんなときでも自分を背中に置いて守ってくれる伊識の声は重たく、真剣そのものだった。
「分かるんだ。」
「・・・・。」
伊識をこんなにも苦しめているのが自分であることに、広奏は胸が締め付けられるような思いで、伊識に背を向けたまま眼を閉じる。無理に笑顔を作って、その笑顔に似合う声音を無理に作る。
「・・・・うん、うん。それなら、それでも良いよ~分かった分かった、伊識。」
言葉とは裏腹に、広奏は身を硬くして、両の拳をギュウっと握りしめた。
「じゃあさ、お茶とお菓子、下から取ってくるからね・・・・服、離して・・・・。」
「・・・。」
伊識はまた首を横に振った。
見えていないけれど、そんなものは見なくても分かる。
「あ、あのさ、伊識。」
うつむいて、シャツの胸のあたりを絞るように握る広奏。
「その・・・・女の子、なんだよね?伊識の好きな、その子って?」
伊識を困らせている。胸が苦しい。
(・・・・でも・・・・でも・・・・。)
つらさとはまた別に、胸が高鳴るような気持ちが抑えられない。
しばらくの間があってから、柊城伊識は、微動だにせず
「ああ、女の子・・・だよ。」
とだけ答えた。
「・・・・!」
ポゥ、っと、顔を真っ赤にしてじっと立ちつくす広奏。胸の鼓動が自分にはよく聞こえる。伊識にも聞こえてしまっていないだろうか・・・・広奏はうつむき加減で、伊識に服をつかまれるがまま、本当は振り返りたくて仕方なかったが、その思いを何とかこらえた。
「・・・・伊識、離して。お願い。」
これでは伊識の心底から吐露した思いを無視してしまうことになるのだろう、でも。
それしか言うべき言葉がなかった。
「離して・・・・ね?」
「・・・。」
しばらくの間があって、伊識はようやく広奏の服から手を離した。
「・・・・。」
広奏は、無言で部屋を出た。
そこから、どこをどうたどったのか。一階へ降りるには階段しかなくて、リビングに行くには廊下を通るしかないのだから、そこを通ったはずなのだが、その記憶が広奏にはない。
気がついたら、リビングに入ってすぐの、扉の前でくず折れるようにぺたんと座り込んで、両手で顔を覆っている自分がいた。
「う・・・・うぁ・・・・る・・・・し・・・・る・・・・いしる・・・・。」
涙が止まらない。手で顔を覆っていても、その間から涙がポタポタこぼれて、シャツを濡らす。
想いはただひたすらに柊城伊識のことだけ。胸の奥は、苦しいなどというレベルをとっくに超えている。
でも、その苦しさとは別に、相変わらず高鳴る気持ちも抑えられない。
(伊識、ボクなの?本当に?ボクで・・・・いいの?)
聞きたくて、どうしても聞けなかったその言葉。
(伊識・・・・大好き、大好きだよ、ボクも。)
伊識に苦しい想いをさせているのは分かっている。でも、それでも伊識への想いは変わらない。
つらく悲しく、そしてまたうれしさが複雑に入り混じって、それが昇華した結果、今このリビングのドアの前の姿態に結実したのである。
広奏の啜り泣きだけが響くリビング。そこに唐突に
「まったく、会うたびに、いつも泣いとるのぅ、そなたは。」
と、目の前で声がする。広奏は肩をピク、と震わせた。
(この・・・・声。)
覚えている。七年前に一度出会ったきりだったが、忘れもしない。広奏は泣くのをやめて、恐る恐る、顔を覆っていた手を外して見上げる。
「ユー・・・・ルー?」
広奏は目をみはった。七年前と変わらない、その姿。
「覚えておったか。久しぶり、と言わねばならんのだろうな。私にとっては数日前にそなたに会ったばかり、なのだがな。」
ふぅ、どっこいしょ、と言って、ユールーは広奏の隣に、広奏と同じように足をペタンと床に密着させるように正座した。
こうして並んで座っていると、まるで姉妹のようである。妹の方がしっかりしている感じ、と言えるのだろうが、その妹に見える方が齢千年近いのだから実は姉なわけで、非常にややこしい。
「まったく・・・・いきなりこんなこと言いたくはないがな、前世の君よ。」
言葉とは裏腹に、ユールーは慈しむような目つき、表情を隠さずに広奏を見た。
「あれだけ真っ向勝負で誘うような姿をさらしておいて、いざ柊城が本気を見せて返してきたら尻尾巻いて逃げ去って泣く。いったい何なのだ?」
その言葉に、広奏の眼はまた潤み始める。
「だって・・・・だって・・・・。」
また両手で顔をおおい、すすり泣く広奏。
「ボク、ずっと待ってたよ、ユールーのこと。」
責めるような口調ではない。本当に、ただただ待ちわびていたという声。
「あ~まぁ、そのことは・・・・すまなんだ。この前の・・・・七年前か、そのときは言葉が足りていなかった。いろいろ準備というか、ものには時機というものが、あってな。」
神はポリポリと頭をかいた。
「うん、うん・・・・。」
広奏は顔を手でおおったままうなずいて
「ねぇ、ボクは、どうすれば良いの?これまでやってきたことは、間違ってない?伊識と、ずっと一緒にいられる?」
と尋ねた。
「そう、さのう・・・・。」
神はわざとらしく軽く握った手を口元に持っていき、考えるポーズを取った。
「まず一つ目の質問については、」
と言って、そこでもったいぶるように一呼吸おいた。
「最善の助言がある。授けよう。」
「あるの?」
間髪いれずそう言って、広奏は手のすき間から、チラリとユールーを見た。泣いていたはずの目は、キラリと輝いている。
「ゲンキンな奴め。ああ、あるぞ。知りたいか?」
広奏は顔から手を離して、ユールーを見つめたまま、コクンとうなずいた。
「最も簡単な方法だ。今すぐ二階にいる柊城のところへとって返せ。」
「・・・・え・・・・今?」
「そうだ。」
ユールーは『こんな当たり前のことを聞き返すな』という表情をした。
「戻って、何も言わずに柊城に飛びつけ。抱きつくのだ。」
「・・・・。」
「良いか、そこで柊城の胸に顔を押し当てて、涙一滴、こぼしてみよ。」
ユールーはフフン、と言わんばかりの得意げな表情を浮かべた。
「そうすれば、このつらい物語はあっという間にハッピーエン・・・・。」
「冗談、言わないで。」
「冗談なものか。何の問題がある?そなたの涙は柊城の唯一絶対の弱点なのだぞ。」
そんなことは言われなくても分かっている。広奏はまた手で顔全体をおおって首を横に振る。
「でも・・・・でも、それじゃダメなんだよ・・・・ダメなの。」
「そなたが男のコのままだからか?」
「・・・・。」
黙りこくってしまった広奏に、神はため息をついた。
「まったく。そなたは柊城のことを何も分かっておらん。まぁあやつ自身も分かっていないのだがな。いいか、柊城はな、別にそなたが・・・・。」
「分かってる、分かってるよ。」
広奏の目にまた涙が浮かぶ。
「分かってなかったら、こんなにつらい思い、しないよ・・・・。」
「ほぅ、ではなぜだ?」
「・・・・。」
「どうしたのだ?話してみよ。」
広奏は手で覆ったままの顔を横にニ、三度振った。
「意地悪なんだね、ユールー。」
「そう見えるかの?そうさな、神はときに人間の本音と対峙する。そうでなくては救えないのだ。言ってみよ。」
「・・・・ボクは、伊識の望む姿で、伊識のそばにずっといたい。そのチャンスがあるなら、迷わない。それだけ。」
「そう、か。本当に、そうなのか?」
「・・・・うん。」
「まぁ、よかろう。」
ほぅ、と息を吐いて、ユールーは広奏の頭に『ポン』と手を乗せた。
「木刀術は、続けておるか?」
広奏はまだ顔から手を離せず、火照った頬にグーの手を押し当てたまま、コクンとうなずいた。
「それは何より。少しは強くなったか?」
広奏は首を横に小さく振った。
「全然、ダメ。本気の師匠には、三回に一回くらいしか勝てない。」
「・・・・本当か?」
「うん・・・・。」
「・・・・。」
「ユールー?」
押し黙ってしまった神を不思議に思って広奏が見やると、ユールーは心底驚きの表情を浮かべていた。驚愕の表情と言っても良い。
「あの・・・・あのティアルーンに勝つことがあるというのか。しかも三戦して一勝二敗?とても信じられんが・・・・真実なら、それは相当に誇って良いことだ。」
「ティ・・・・アルーン?北雲先生のこと?」
「そう、北雲のことだ。エレクシス語で『北』は『ティ』、『雲』は『アルーン』だ。」
「え・・・・エレ?何?」
「エレクシス語だ。そうか・・・・もう、その時なのかの・・・・まさかここまで・・・・わずか七年で『ポトラの大剣』と勝負に持ち込めるほどになるとは、正直思わなんだ。よかろう。我が力を、いま少しそなたに授けよう。理解の助けになる。」
ユールーは広奏のおでこにそっと手を乗せ、ブツブツと、やはり広奏の知らない言葉をつぶやいた。
「少しクラッとくるかもしれんが、すぐ収まる。」
「はい・・・・うっ。」
「大丈夫、落ち着け。」
ユールーの指先がわずかに光り、その光はそのまま広奏のおでこから体内に入り込んだ。
「あぁ・・・・。」
「感じるか?我が力。我が記憶のほぼすべてと、力のほんの一部を、そなたに分け与えた。」
「うん・・・・はい。分かる。分かります。あぁ・・・・そういうこと・・・・。」
「そうだ。ティアルーン・ペイトリ・ファノーム・・・・ああ、今はティアルーン・ファノーム・ペイトリ、か。あやつの記憶だけ、元に戻す。次に道場へ行ったときは、そなたへの態度がこれまでとまったく違うものになっているだろう。面食らうなよ。」
「はい・・・・あ・・・・え、惣菜屋さんが、バシュティンなの?」
「その通りだ。あのばあさんがスタヴィト・バシュティン・カラ。だが、奴の記憶はまだ戻さん。あれはめんどくさいからな。」
ユールーはいたずらっぽい笑みを浮かべてから、すぐにまた真剣な表情に戻って
「そのうえで、残りの質問についてだが・・・・性別反転を試す。」
と言って、広奏のおでこから手を離して立ち上がった。
「ソードラスティング・・・・この言葉の意味、もう分かろう?」
神の質問に、広奏は目を見開いてコクコクとうなずいた。
「時築微凪という名の少女が、近いうちそなたの前に姿を現す。」
いまだ光を宿している指先を複雑に蠢かせて、ユールーはそれを収めた。
「この性別反転はソーザイアを見つける際の秘法だ。柊城だけが、元のまま。逆らい得る人間はソーザイアしかいないのだ。他は皆、性が変わる。そなたももちろん、な。柊城は、男。そなたは女、となる。」
それを聞いて、広奏の目がひときわキラン、と輝いた。
「・・・・いいの?」
「まぁ、そうだな。」
神はポリポリと頭をかいた。
(わたしも・・・・甘いと言わざるを得ないな。)
ユールーは両の手のひらを胸の前で開き、いかにもこれから魔法を使う、という姿勢を取った。
「良いか、これからティアルーンの記憶を戻す。戻すが・・・・。」
ユールーが広奏の目を見つめる。広奏もじっと見つめ返した。
「そうなれば、もう後戻りはできない。本当に、良いのだな?」
「うん、それでいい。」
広奏の即答。
「少しは考えてから返事をせよ。いいか、そもそもそれが柊城の望みと考えているならな、それは・・・・。」
「『分かってる』って、さっき言ったよ、ボク。」
広奏は首を横に振った。
神がため息をつく。
孫に手を焼く祖父母のようなため息を。
「そうか・・・・まぁ、そういうことなら、もう何も言うまい。」
ユールーは開いた両手を軽く握った。
「自身の目で、確かめるが良い。」
ポウ、と光珠がいくつも空中に浮かぶ。
「ただ・・・・これだけは最後まで言わせよ。苦しみ、つらい思いをするかもしれん。いや、確実にそうなる。今、柊城の元に戻る方が、どれほど・・・・。」
「ありがとう、ユールー。神様。」
神の『最後まで言わせよ』を完全に抹殺して、広奏はニッコリと微笑みながらも、決然とした意志を感じさせる視線をユールーに向けた。
「伊識が・・・・望んでいることなのと同じくらい、ううん、それ以上に、ボクが、ボクの望む姿で、伊識のそばにいたいんだよ、ずっとずっと。」
それを聞いて、ユールーはおそらく自身の誕生以来初めてであろう、『ニヤリ』という言葉がぴったりの笑みを浮かべた。
「ようやく、本音だな。前世の君よ。大変、けっこうなことだ。」
ユールーは満足そうにうなずいた。
「要するに、そなたは柊城に優しすぎるのだ。もう少し、わがままになった方が柊城も喜ぶし、何より安心するだろう・・・・では、救うとするかの。かつての自分を。言っておくが、これは皮肉ではないぞ。」
ユールーはブツブツとエレクシス語をつぶやく。
フワーっと、ユールーの手からいくつもの光の玉が拡散して、それらが一気に収束し、リビングは再びもとの状態に戻った。
「え、終わり?」
あまりにあっさりした展開に広奏は思わず神に聞いてしまう。
「そう、終わり。これで良いだろう。ファノームはエレクシスの記憶を取り戻した。性別反転のやり方は、ファノームが知っておるからの。」
今度はユールー自身が、不思議な光に包まれる。
「ユールー・・・・どうしたの?」
「もう、戻らねばならない時ということだ。用が済めばすぐに戻される。七年前もそうだったろう?ちょっと待つという度量がないようでな・・・・。」
「う、うん・・・・。」
度量がないのは誰なのか。戸惑う広奏に、軽く手を振りつつ、ユールーは広奏に背を向けた。
「そうそう、ここでの会話の間、時は止めてある。だから安心して、落ち着いて二階に戻れば良い。お茶とクッキーを忘れぬように。柊城は何も不思議に思わないだろう・・・・わたしがそなたのクッキーを食べ損ねたことは非常に残念ではあるが。」
そう言う間にも、伊識が転移した時と同じようにユールーが光に包まれていく。
(これで良かったの、だよな?)
早く転移してしまって欲しい、迷いの表情を浮かべてしまう前に。ユールーは目を閉じた。
(また会おう、氷岬広奏・・・・前世の君よ。これから、とんでもない苦難が待ち受けるだろう。それを口にしたところで、そなたの選択は変わらなんだろうから、もう余計なことは言うまい。しかし・・・・この先知るだろう。柊城は決してそなたを裏切らない。が・・・・。)
涙をこらえるように、ユールーは唇をキュッと結んだ。
(何があっても、柊城はそなたを心から信じているし、裏切らない・・・・たとえそなたが柊城を裏切るようなことがあっても、だ。思い知るだろう。柊城が・・・・ニョクマムが、どれほど・・・・。)
ユールーは、すべての言葉を飲み込んで、広奏を振り返りもせず
「惚れた男のためにこの秘法まで持ち出すことになろうとはな・・・・それとな、あまりソードラスティングとケンカするでないぞ。」
と言い残して、その直後に『フォン』という音とともに静かに消えた。
「・・・・。」
目の前に起こった状況にしばし呆然としていたが、やがて広奏は立ち上がり、お茶と、手作りのクッキーをお盆に乗せる。
「・・・・。」
その横顔には、何とも言えない表情が浮かぶ。
もちろんそれは、さっき二階から駆け下りてきた時とは真逆の、完全なる正の感情。これまでずっと抱き続けてきた伊識への想いを、正直に、ありのままにぶつけられることへの喜びと希望。
「♪~。」
リビングのドアを開けて、トントンと軽快な足音を立てて二階へ向かう。伊識の元へと。
「ボク・・・・ボクね、伊識。」
上機嫌で、小さくつぶやく。
「ボクね、女の子になるよ、伊識。」
頬を赤らめる、氷岬広奏。
「伊識好みの、女の子でありますように。」
・
・
・
・
その願いは、別に望まなくともかなう類のものであったろう。
そう、まさに異世界の神が危惧とともに指摘したにも関わらず、氷岬広奏は、最後の最後まで、そのすべての思いを柊城伊識に向けることにしか終始しなかった。
それがどんな結末を産むのか。神の言う『苦難』とはどれほどのものなのか。裏切るとは何か。
それはまた別なお話。
とにもかくにも、柊城伊識を中心とした、地球と異世界、人間と神の交わる最初の小さな冒険はこれで終わったのである。