第十一章 「ソーザイアの剣 後編」
「魔界の扉が、緒帝ニョクマムより数万年、幾度目かの開放を見ようとしている。」
守護神ユールーは上方の魔界の扉を見もせずに、ただまっすぐに伊識に視線を向けて語っている。
「ソーザイアとなるべき者よ・・・・剣を、ここに。」
(え、もう?)
思わず言葉が、しかも日本語で出そうになって、伊識はあわてて自分の口を手で塞いだ。
(神に向かって『え、もう?』なんて聞き返すのはさすがにないよな。しかも日本語・・・。)
守護神ユールーは、そんな伊識のあわてっぷりにはまったく興味のない様子で言葉を繋いだ。
「緒帝ニョクマムよりもたらされし最強の剣、『永遠に続く剣』を、ここに顕現させよ、ヒイラギ・ニョクマム・イシル。」
(『永遠に続く剣』・・・。)
微凪から直接その言葉を聞かされたことはないが、気を失っている彼女に触れたとき、その言葉は何度も出てきた。どの時代のソーザイアたちも、剣をその名で呼ぶのが常だった。
(その、永遠に続いている剣というのが・・・つまり・・・。)
チラリと、微凪に視線を向ける。てっきりうつむいているものと思っていたのだが、油断した。
微凪は、いつの間にか顔を上げてまっすぐにこちらを見ていて、もろに目が合ってしまった。
じっと、伊識を見ている。今にも泣き出しそうに目が潤んでいて、長いまつげが震えているのが伊識のいる所からでも分かった。
「・・・。」
「・・・。」
お互いに何を考えているのか、言葉を交わさずとも、目で理解できてしまったと確信して、今さらながら視線を向けたことを後悔したが、もはやどうしようもない。
「・・・・イシル。」
ユールーが促してくる。これまでの無機質な話し方に、少しだけ感情がこもった声だった。
ユールーの、神の感情の波というかオーラのようなものを受けて、伊識も焦りを感じる。
(どうしよう・・・どうしよう・・・。)
微凪に別れを告げる言葉さえもかけることができないのか、と思ったそのとき
「何かが来ます。」
と、それほど大きくはないがよく通る声がして、振り返るとフェネイエが神殿の縁から崖の下方を指差している。
「散開、攻撃に備えてください。おそらく飛龍です。」
そう言って、自身もまた光の防護壁を張る。
セスはじめ、他の対の兵も同じように丸い光の防護壁を作って、自身と対の戦士を包み込む。みな、二年前に伊識が見たものよりもはるかに立派な光のバリアだった。
「くそっ、こんなときに!」
バシュティン他、ファノーム配下の戦士、対の兵も剣を構え、防御体勢を取る。
「ユールー様っ。」
「私は大丈夫。」
ユールーはファノームの呼びかけに冷静に答えて、
「いったん、ここから離れよ。」
と、これまた冷静に伊識を促すが、そう言われてハイそうですかと立ち去ることなどできるはずもない。
「あナたも、ココ、離れる。みんナのトコ、行く、一緒に。」
伊識の呼びかけにユールーは首を横に振った。
「私は、神殿を離れることはできない。」
「デも・・・。」
「私は大丈夫。」
「・・・。」
伊識も身構える。みなあわただしく動き回っているが、その周囲にまったく変化はない。
(こんなに静かなのに、本当に何か来るのか?)
何もないじゃないか、と伊識が少し気を抜きかけた次の瞬間、ゴウッ、というすさまじい音がして、崖下から神殿の縁ギリギリを通って一体の飛行物体が垂直に飛び出してきた。あまりにいきなりの出来事である。伊識は反射的にユールーの手を掴んで背中につかせた。風圧で飛ばされないよう、その場で踏ん張る。神の体に許しもなく触っても良いかどうかなど、考えている暇はなかった。
(あれが、飛龍?全然、見えなかったけど・・・。)
飛行物体は一体にとどまらずその後も続けて何体も飛び出してくる。最初は手を握っていただけだったが、ユールーの方から伊識の背中にしがみついてくる。ついさっき『私は大丈夫』と冷静に言っていたのは何だったのかと思いつつも、とにかく二人で飛ばされないよう踏ん張るしかなかった。伊識にしがみつきながら、ユールーが何か言っていたようだが、全然聞こえなかった。
しばらく踏ん張って耐えた後、再び静寂が訪れて、おそるおそる伊識が顔を上げると、神殿を囲むようにして十数体はあろうかという飛行物体が浮遊していた。
これが、フェネイエが言っていたところの飛龍であろう。
翼だけ優雅にはためかせて空中に静止している。伊識は、ただ純粋に美しいなと思った。
(確かに、ファンタジー世界でよく見る、ドラゴンみたいだ。)
飛ぶのに特化したタイプなのだろう、ものすごく細身で、そのためか翼の面積が異様に大きく見えるドラゴンだった。
(人が・・・乗っている?)
それぞれの飛龍には、背に人がまたがっている。馬と同様、鞍のようなものが龍の背に置かれ、そこに人が乗って、これもまた馬と同じように手綱のようなものを手にして、それで操縦しているようだった。
鞍は二席分用意されていて、後席には対の兵らしき者が乗っていた。
(ポトラの・・・敵・・・ライナ?)
「貴様、霊峰に魔物で乗り込むなど・・・。」
ファノームの苦々しげな声が聞こえる。
「はっはっ、久しぶりだな、ティアルーン。そう、使えるものは何でも使う主義でね。飛龍は初めてだったが、思ったより飼いならすのは簡単だったぞ。魔界の魔物は、役に立つ、ははは。」
飛龍にまたがる戦士がファノームに答える。兜を目深に被っているため表情は分からないが、意気揚々といった感がよく伝わってくる。
(この声・・・まさか・・・。)
「貴様らこそここに何の用だ?」
馬鹿にした口調で飛龍の戦士が逆に質問してくる。
「ここに用があるのは我々の方だ。神殿を破壊する。世界を作り変えるのだ。」
戦士はそこまで声高に言ってから、今度は一転、誰にも聞こえない小さな声で『我が王統復活のためにな・・・。』と付け加えた。
「緒帝の築いた神殿を破壊?何をバカな!」
バシュティンが叫ぶ。
「どちらがバカだ。そもそも、何のための神殿だ?『永遠に続く剣』を得る唯一の者、ソーザイアのための神殿だろう?魔界の扉がこれほどまで開きながら、そのソーザイアがいないではないか?」
龍の戦士のリーダーは、目深に被った兜を上方にはね上げて、顔を見せる。戦士としては動きにくいだろうに、腰まである長い髪も兜から派手に広がった。
後方の対の兵も、それに併せてマントのフードを外す。
(ああ、やっぱりだ・・・。)
伊識にとっては忘れようにも忘れられない髪の色だった
「分かるか?駒が足りてないんだよ、ソーザイアの候補はどうした?二年前の、あの不思議な男・・・ソーザ・・・。」
そこまで言って、ようやく、龍の戦士は守護神ユールーのわきにいる、他とまったく出で立ちの違う者の存在に目の焦点を合わせることができたようで、言葉を失い、ただただ息を飲んでいるのが伊識のいる所からもはっきり分かった。みるみるうちに表情が一変していく。
「ら、イ・・・ナ・・・さん?らイな、はぅうる、ハウん、さん?」
伊識がたどたどしく呼びかけると、赤い髪の女戦士は、あっという間に顔が真っ赤になり、あわててまた兜を目深にかぶり直そうとしてその兜を落っことしてしまい、かろうじて飛龍の尻尾が奈落の底に落ちる寸前の兜をキャッチしていた。
「き、ききき、きき・・・貴様、なぜ、こ、ここに!あ、あのとき、あのあのあの・・・。」
すさまじい動転ぶりである。後席の対の兵も同様に手を空中で振り回しながら、二人でアワアワしている。その動き、その表情は、伊識に素っ裸になる寸前まで服を脱がされた、あのときと同じだった。それを思い出して、伊識の顔も赤くなる。
(しかしまあ・・・そんなに強烈な出来事だったんだな・・・無理もないが。)
伊識にとっては一週間前のことだったが、彼女たちにとっては二年前の出来事のはずである。ここまでのトラウマを残したのか、と伊識は申し訳なく思った。
「ななな、何しに、こ、ここここ、ここに来た・・・どうやって・・・。」
「あ、あノ・・・。」
何をどう言えば良いものか、分からないまま、空中に浮かぶライナに向かってとりあえず足を一歩前に踏み出したのだが、そのとき急に伊識は強烈なめまいに襲われた。
(な、何だ?立っていられないぞ、あれ?)
平衡感覚を失い、それは最初の転移の際、バシュティンに一服盛られたときと同じような感覚だったので『もしかして、このタイミングで元の世界に戻されるのか?』と思って焦ったが、周囲の者たちも『うわっ』と声を上げていたので、この感覚は自分だけではない、と理解できたものの、そこでようやく自分自身ではなく、地面そのものが傾いていて、平衡感覚を失っていたのだと気付いた。
だが、それに気づいたところで状況が好転するわけでもない。
(おい、シャレになってねえぞ!)
ほんのちょっと重心の位置がずれてしまったヤジロベエのように、神殿の床の岩盤が断崖の方にゆっくり傾き始めていた。
「うわ、うわわワ・・・。」
そのままノホホンとしていたらあっという間に奈落の底に落ちてしまう。岩盤の、あるかなきくぼみにかろうじて指を引っ掛ける。
(くうう・・・爪、はがれるー!)
伊識の必死の抵抗などお構いなしに、、継ぎ目に指を引っ掛けているだけでは、もはや自重に耐えられないほどに傾きはあっという間に大きくなっていく。
「つかまれ、ソーザイア!」
見上げると、ファノームとバシュティンがいる。ファノームが石畳の縁に手を掛けて、手を伸ばし、その手をバシュティンが掴んで、伊識に向けて手を伸ばしている。
セスとフェネイエが、二人に魔力で力を与えてくれているようで、そうでなければこの絶望的な状況に、人間の物理的な腕の力だけでは耐えられなかっただろう。
「う・・・っくっ。」
飛龍が不気味に周囲を飛び交い、いやでも注意が殺がれる。
「上を見ろ!まずい!魔界の扉から・・・あれのせいで傾き出したんだ!早く!」
誰かが叫んでいる。かまってなどいられないのだが、無理に見上げて確認すると、魔界の扉から、これまでのチョロチョロと出てきている魔物の類とは明らかに違う、薄暗い色をした巨大な何かとしか言いようがないものが出現しようとしている。
「クソ、最悪だ・・・。」
「ああ・・・フェルローナが・・・。」
(フェルローナ?)
どこかで聞いた気もする。
「早く、俺の手を掴め!ローナが完全に露出したら、本当に終わる!」
これまで以上に必死なバシュティンの表情を見て、伊識も必死に手を伸ばす。
「く・・・。」
もう少しでバシュティンの手をつかめる、と思ったそのとき、グワン、と再び激しい振幅が起こる。今度は神殿が元の状態に戻りかけて、それだけなら良かったのだが、シーソーのようにまた急に崖側に傾き始めたのである。
この不意打ちのような動きに、ファノームが耐えられなかった。
「ああ・・・。」
ファノームの手が、縁から外れてしまう。必然的に、バシュティンも支えてくれるものが何もなくなり、二人とも伊識に向けて落下してくる。
(うおお・・・。ここは流されちゃダメなトコだ!)
伊識は人生最大の根性を発揮して、かろうじてバシュティンの腕はつかめたが、ファノームは伊識のわきをすり抜けて、あっという間に神殿の崖側の縁から落下して、見えなくなってしまった。
「将軍!」
ファノームを追いかけてセスも神殿の急坂を転げ落ち、これまた瞬く間に姿が見えなくなる。
伊識の腕も限界だったようで、継ぎ目に引っ掛けていた指はあっさり外れてしまい、バシュティンとともにズザー・・・と傾いた神殿を滑り下りたが、かろうじて神殿の崖側の縁で手を掛けて、同じくギリギリのところで耐えたバシュティンと並んでぶら下がる格好となり、かろうじて落下は踏みとどまった。
そこで、神殿の岩盤はまた元に戻るような感じでグワン、と揺れて、少し崖側に傾いてはいるものの、ほぼ元の位置に戻った。
ファノームとセス、二人が落ちて行った先をチラリと見やる。
「ヒイイ・・・。」
人生で、ヒイイ、と言ったのは初めてだった。あまりの恐怖にそれ以上の言葉が出てこない。
まさに奈落の底である。眼下には霧なのか雲なのかよく分からないが、とにかく視界は遮られ、その下はよく見えない。エレクシスの地理の講義のときに『霊峰ヒャレンの高さはエベレスト以上』と微凪が言っていたのを思い出す。
(ファノーム・・・セス・・・。)
ここから落ちたら確実に・・・と思っていると、隣で同じくぶら下がっているバシュティンが
「いるぜ、あそこに。」
と言って、アゴで指し示す先をよく見ると、断崖絶壁のところどころにある、かろうじて平坦と言える場所に作られている人工的な石畳の上にファノームとセスがいるのが見えた。よく見れば、神殿の簡易版のような石畳が眼下のあちこちにあって、何でそんなものが作られたのかはまったく分からないが、ともかくファノームとセスは運良くか、自力でか、石畳の一つに無事着地したらしい。
「さすが、我らが将軍、しぶといぜ・・・ホント。」
「・・・。」
たしかにそうとも言えるだろう。ただし、その周囲には興奮しきった飛龍が何体も取り巻いて、すさまじい鳴き声を発しながらファノームとセスに襲いかかろうとしている。
「落下は避けられたが、アレじゃまずいな・・・。」
バシュティンが苦虫を噛み潰したような表情でつぶやく。
「何トカ、今助ケ・・・。」
と、伊識が身をよじったところに
「どうやって助けるのよ!まず自分の心配しなさい!」
と声がして、見上げると微凪が伊識に向かって手を伸ばしていた。
「いいんちょ・・・。」
「お願い、もう十分よ。『言葉』を使って。」
微凪が泣き出しそうな表情でさらに腕を伸ばす。
「フェルローナも来る・・・魔界の扉、教えたでしょ?ローナはソーザイアを狙うのよ・・・このままじゃ死んじゃう、柊城くん・・・。」
微凪のとなりにはユールーがいる。こちらは微凪とは対照的に無表情で見下ろしている。
「・・・・イシル。」
催促しているのだろうか。何を求めているかまったく分からない、あまりに無機的な声。そのユールーの隣にはフェネイエがいて、ぶら下がっているバシュティンを光の球で包み込んでいる。
伊識は目を閉じて、覚悟を決める。
(広奏・・・そうなんだな?・・・そうだよな・・・そう。お前の教えてくれたことに従うよ・・・。)
誰にも理解できない、だから心の中でだけに留めたその言葉を発さずにすべて飲み込んで、伊識は再び目を開けた。
「早く、柊城くん。」
「いいんちょ、ゴメん。ありがト。」
「え、何言って・・・。」
伊識は横を向くと、体をひねって、同じくぶら下がっているバシュティンの方を向いた。
「バシュティン、君ト、フェネイエ、あそこに送る、これから。」
伊識は片手を縁から外した。
「柊城くん、ダメ!危ない!」
微凪の叫びを無視して、伊識は片手でファノームたちのいる所を指差した。ファノームとセスは、必死に飛龍に立ち向かっているが、いかんせん足場が悪く、防戦一方だった。
「送るって、状況分かってんのか、お前?どうやって?」
「『言葉』、使う。『言葉』で、君トフェねいエ、瞬間移動、させる。」
「瞬間移動・・・って、そんなこと・・・ああそうか、まあ、できるか、お前なら。」
バシュティンがニヤリと笑う。
「でもお前、剣を手に入れるまではその力、使わないんじゃなかったのか?」
バシュティンの意地悪な質問に、伊識も同じくちょっと意味深な笑みを浮かべて
「うん、だカラ、これから、剣ヲ宣言、するヨ。」
と言って、微凪を見上げる。
「剣ヲ、宣言するヨ?」
もう一度力を込めて言う。微凪は、何とも言えない表情を浮かべて伊識を見つめ返す。
伊識は視線をユールーに転じた。
こんな神殿の縁でぶら下がった状態で、数百年ぶりに出現するこの世界の楔とも言える剣の答えを言っても良いものでしょうか、と目で訴える。
「・・・・かまわない。火急のとき。」
ユールーはあくまでも無機的に答えた。
微凪が伊識に手を伸ばす。
「分かった、もう分かったから、とにかくあなたを引っ張り上げてから・・・。」
「時間がないヨ、委員長。ぶら下がったまま、ココデ言う。」
「時間がどうしたって?」
突然、空中にバサッバサッという派手な翼の音がして、振り返るとそこには飛龍にのったライナがいた。
飛龍は、空中で器用にホバリングして静止状態を保ちつつ、ぶら下がるだけで必死の伊識の背後にぴたりとつく。
「終わりだ、ソーザイア。ここで背後から斬りかかられたら、いかにソーザイアと言えども。」
ニヤリと笑うのだが、どこか引きつっているような、苦しそうな感じが否めない。
「ライナ!卑怯な!」
バシュティンが叫ぶが、ライナはそれに対してフンと鼻で笑って無視して、伊識に向かって語りかける。
「ど、どうだ、ソーザイア。もし、あの・・・あなた様・・・じゃない、お前が、慈悲を乞うなら、この龍の背中に乗せてやっても良いぞ。そのままライナまで一緒に連れ帰ってやる。これから私・・・じゃない、ライナ帝国のために尽くすというなら、助けてやらないことも・・・。」
伊識が振り返って、ライナをまっすぐに見つめる。その目に射抜かれて、途端にライナは顔を赤らめてそっぽを向く。
「な、なんだ、不満か?なら、ライナ本国では私付きの騎士待遇に・・・わ、わたわた、私だけの・・・。」
「ら、イナ、さん。」
「は、はいっ。な、なな、な、何ですか、ソーザイア?」
ライナの顔はもう真っ赤である。こんな深刻な状況下ではあったが、周囲の者たちは、ライナの背後に控えている対の兵ともどもアワアワしている二人を見て『あ~こりゃ駄目だ、ライナの王女』という顔をしている。
「勝手ナお願い、分かってる、分かってるけど、少しだけ、待っててホシイ。」
「待って?・・・って、何ホントに勝手なことを!剣を出すつもり?そんなの・・・。」
「出せるか分からないんだヨ。でも、剣、出せてもダメでも、必ずライなさんにお礼、する。」
「お、おおおおお?お、お礼って?」
ライナは本当に分かりやすくタジタジとなっている。
「お礼、する・・・。」
「だから、具体的にどんなお礼よ!」
「お礼・・・。」
「だ、か、ら!」
「おレ・・・。」
「あ~もう分かったわよ!いいわよ!忘れないでよ、お礼!きっちり返してもらうわよ!」
その光景を見て、ポトラ側もライナ側も『はぁ~。』っともう何度目になるか分からないため息をつく。
その中には、言葉一つでライナ王女を説得し切った伊識に対する感嘆のため息もあったようではあるが。
ともかく、伊識が不在にしていた期間のライナ王女のポトラに対する攻勢は、本気ではないのだな、という風情が伊識にも感じられた。何となくそれを分かっていたからこそ、伊識の方も思い切って『ちょっと待ってほしい。』と言ってみたわけだが。
「ありがと、ライ・・・わわっ。」
ズルッと、縁を掴んでいた方の手が滑って、慌てて手を換えて、何とか持ちこたえた。
もっとも、落ちそうになった伊識に真っ先に反応したのがライナで、おそらく落ちたとしても彼女が飛龍を使って伊識を助けたことだろう。
「ぐ・・・気を付けろ。」
バシュティンが伊識に呼びかける。フェネイエが防御してくれているとはいえ、つらそうだった。
「フェルローナが出てこようとしている。その圧がすごい。落ちるなよ!」
「分かた、バシュティン。」
体勢を整えて、伊識はあらためて微凪を見上げた。
「じゃ、イクヨ、委員長。」
伊識が微凪に語りかける。いつになく真剣な眼差し。
「柊城くん・・・。」
それ以上の言葉が出てこなかった。初代のニョクマムから数えて数万年、先代のニョクマムからもすでに六百年の時が過ぎている。それほどの時を経て、また微凪は、剣になろうとしているのだ。辛く、苦しい剣の運命を。
「ごめンね、いいんちょ。」
伊識の申し訳なさそうな表情。
微凪は何も言わずに首を横に振った。
(柊城くんは、すべて分かっている・・・。)
なぜか、今この瞬間が永遠の別れの時だというのに、ここまで事あるごとに涙ぐんできた微凪の目はウソのように乾いて、笑顔まで浮かべることができた。
(私も、もう覚悟できたよ、柊城くん。)
伊識はユールーの方に顔を向けた。ユールーが、ほんのわずか、顔を傾けてうなずく。
(柊城くんは何も悪くない・・・これはもう決められたことなのだから・・・。)
伊識は、片手でぶら下がったまま、自由な方の手を動かす。
その手が、その指が微凪をさして『お前が剣だ』と言えば決着である。
(そう、人間だけじゃない。エレクシスの、この星にいる、全ての生きるものを救うため。)
「剣、は、ネ。」
伊識の動きは、まるでスローモーションの映像を見ているかのようだった。かつての、歴代のソーザイアたちの姿がそこに重なっていく。
(ありがとう、柊城くん。あなたは、私のことに気付いて、何とかしてくれようとしていた。そうでしょう?)
伊識が、動かした手を制服の胸ポケットにあてる。
(それだけで、これまでとは違う何かを。)
ここにきて、微凪の両目からみるみる涙があふれていく。
「これ・・・ナ。」
涙で伊識の動きがぼやけてよく見えない。
(ああ、もう剣に変わろうとしているのかな、私。)
微凪にはよく見えなかったが、微凪以外の、ユールーやバシュティンやフェネイエには、伊識が制服の胸ポケットから何かを取り出しているのが見えた。
(この運命から逃れられるんじゃ・・・って、そう思ったりした分・・・期待しちゃいけなかったのに、期待した分・・・。)
「それか。」
ユールーの声。
「そうそう、コレコレ。」
(ちょっとだけ、悲しいけど・・・寂しいけど。)
「これが『選びて選ばざりし』ソーざイアの剣、てことで。ヨロシかな?守護神ユーるー。」
伊識の声。
「(柊城くんが生きる間は、剣として・・・その後は、またどれほどの時が・・・)・・・ん?・・・え?・・・って・・・。」
ほんの数秒、絶句した後、ようやく状況に気付いた微凪の顔はみるみる赤くなり、周囲の、下で戦っているファノームとセス、飛龍たちまでも一瞬硬直してしまうほどの怒声が響き渡る。
「はあ!今、なんて言ったのよ?あんた!」
微凪は、一回言うだけでは足りなかったのか、再度、三倍増の声量で
「はあ?」
と叫び、その声は魔界の扉まで届き、何だか微凪の身体から不思議なオーラみたいなものまでほとばしりだして、それは出現しようとしていたフェルローナの動きまで完全にピタッと止めてしまったほどで、後にその場を目撃したものたちは
「さすが、ソーザイアの対の兵になるお方は違っていた。」
と後世語り継ぐほどのものであった。
フェルローナがそれほどまでになってしまうくらいだから、ライナの飛龍などは微凪の勢いに完全に恐れをなしてしまい、ライナの制止も聞かずにバッサバッサと羽を動かして、神殿を遠巻きに眺めるような位置にまで移動してしまった。
事態を認識した微凪の絶叫が止まらない。
「あんた、何してくれてんのよ!何なのよ、それは!」
伊識がぶら下がっている状況でなかったら、確実に伊識ににじり寄って、胸ぐらをつかむくらいのことはしたであろう。
「これ・・・は、ギリギリさん、の、アタリぼー。」
伊識は微凪によく見えるよう、当たり棒に印字された文面を突き出して見せた。
『ウフン、大当たりよ。買ったお店でギリギリさん一本と交換してね、ウフン。普通のギリギリさんだけよ、ウフン。大人のセクシーギリギリさんダイナマイトとは、ウフン、交換できないの、ウフン。』
「うふんガ、多いでショ?」
「バカ!そんな文章はどうでも良いのよ!・・・何で、それが答えなのよ、バカ!剣は、剣はね・・・。」
思わず手で顔を覆ってしまう。
(剣は、私なのよ!あなたはそれを分かっていたはずなのに!)
そう叫ぼうとするのだが言葉が出ない。
(何を、選んだというの?)
理解が追いつかない。まさかそんな答えを伊識が用意しているとは思わなかった。
「広奏が、くれた、コレ。」
プラーンと、相も変わらず縁に手をかけてぶら下がった危険な状況下で、うれしそうにニコニコ、エヘラエヘラと笑っている伊識。
微凪は茫然自失一歩手前でどうにかこらえる。
「何、考えてるのよ、バカ!本物のバカ!エレクシスの・・・この世界の未来が・・・。」
伊識は何も言わず、微凪を見つめている。
(そんなことは分かっているよ。)
と言わんばかりの伊識の表情。
(柊城くんが・・・ソーザイアが、私を選ばない・・・。)
緒帝ニョクマムより数万年の間、一度も起こらなかった『微凪ではないものを剣として選ぶ。』というこの状況。しかもそれが氷菓子の当たり棒なのである。怒りを通り越して呆れてしまう。
伊識の気持ちは痛いほど伝わってくる。微凪をこの苦しい宿命から解放したかったのだろう。しかしその選択は、必然的にこの世界が滅ぶということでもある。
(それは、決してあってはならないこと・・・意味のないことなのよ!)
本当は、伊識の出した答えの意味をもっとここでよく吟味すべきだった。そのことで微凪はのちに何度もこの場面を思い返しては後悔するのだが、そのときの微凪は、世界の崩壊のことで頭がいっぱいだった。
「世界が・・・世界が終わる・・・。」
まさに微凪の言う通りで、上空ではフェルローナが不気味な咆哮を轟かせて活動を再開し、悪魔の片腕とでもいうのだろうか、暗黒のオーラに包まれた手を扉からこちら側に突き出してくる。恐ろしいほどに先端のとがった指のようなものが見える。すさまじい暴風が巻き起こり、これまで以上の圧が下界の人間にかかり、神殿がまた急にガクン、と傾いて、それまでどうにか耐えていたバシュティンは
「うをっ!」
と叫んで縁から手を滑らせて落ちていく。
「バシュティン様!」
と言いながらフェネイエも後を追うように落ちて行ってしまう。
「バシュティン!フェネイエ!」
と叫ぶ伊識自身、人の心配をしている場合では本当に無かったようで
「あうっ、あワワ・・・落チ・・・ウヒョヒョ・・ムヒョッ、あおぅっ。」
と、ソーザイア候補者にあるまじき、最大級に情けない風情を見せつけつつズルッと手を縁から外して、いともあっさりと落ちて行ってしまう。
あとには、誰もいない神殿の縁があるのみ。残された微凪は、今度こそ茫然自失の態となって、うつろな目でそのまま神殿の石畳にへたり込む。傾きが多少元に戻っていなかったら、微凪も落っこちてしまっていたことだろう。
「あ、ああ・・・。」
自分自身が剣になる痛みとは異質の、深く深く突き刺さる得体のしれない感情が微凪の心を嵐のように駆け巡る。
「なぜ、なぜこんな・・・。」
身を乗り出して下を見る。ファノームとセスが相変わらず狭い石畳の上で飛龍と戦っている。伊識たちが落ちていくところを二人は目撃していたようで、落ちて行った先を絶望的な表情で見つつ何事か叫んでいるものの、目の前の飛龍たちをさばくのに手いっぱいでそれ以上のことはできない。
伊識たち三人が消えた先は厚い雲に覆われていて何も見えなかった。
「柊城くん・・・あなたがいなければ、もう終わり・・・。」
虚ろな目で天を仰ぐ。フェルローナの黒い影が信じられないほど巨大に迫ろうとしている。
「本当に、もうこれで終わり・・・。」
「そうでもない。」
微凪の背後で無機質な声がした。
ユールーだった。
微凪はその声がした方へとゆっくり振り返り、呆けたような表情で守護神を一瞥して、そして何も言わずにまた向き直って、伊識の落ちて行った先にうつろな視線を向け、ブツブツと言葉を投げかける。
「・・・柊城くん・・・これからどうすれば・・・。」
「そうでもない。」
「あなたは、この世界を救わなくてはいけなかったのよ、それをどうして・・・。」
「そうでもない。」
「・・・。」
「そうでもない。」
「・・・貴様。」
さすがに四度も同じことを言われ、無視し続けることができなかった。『自分には関係ない。』というその態度も、微凪の癇に思い切り障った。
「そうでもな・・・。」
「黙れ、この下級神!」
虚ろな目つきを一変させた、すさまじい怒りの形相で微凪が振り向きざまに叫ぶ。
ユールーは、言葉と同様に表情も無機質なまま、ぼんやりと立っているばかりだった。
「貴様ごとき、ヒヨッコの神には分からないだろうがな、この世界で!ソーザイアが目覚めないということが・・・!」
「そうでもない。」
「黙れと言っているの!」
微凪は怒りに任せて両の手に巨大な火球を一つずつ作り、連続でユールーに向けて投げつける。後に、その場を見ていた者たちが
「さすがは、ソーザイアの対の兵。」
と語り継ぐほどの速さと威力とを持った攻撃ではあったが、それがユールーに直撃し、爆球がユールーを包み、光が収まって、かすり傷ひとつない己の姿を再びユールーが現す。その場にいた者たちが
「やはり、下級神とは言え神は神。すばらしい防御力。」
と語り継ぐことになる威厳をユールーは周囲に放った。
「ソード・ラスティング・・・・。」
何事もなかったかのように無機質な声でユールーが微凪に語りかける。
「ここまでの、そなたの所業、すべて忘れてやろう。」
「・・・何を・・・!」
「ただ・・・・初めての状況とはいえ、五万八千と・・・・三百六十七年だったか・・・・それほどまで生きてきて、まだそこまで取り乱すのか・・・・。」
ユールーは、フッ、と一つ息を吐いた。その姿に、また微凪は苛立ちをつのらせる。
「取り乱して何が悪い!私の使命を理解しない、齢千年にも満たぬ神ごときに・・・。」
ユールーが『静まれ。』と言う代わりに片手をあげる。別に何ということもない仕草だったが、そのちょっとした神の仕草に気圧されて、微凪は口をつぐんだ。
「その言葉も、忘れてくれよう・・・・神に非ざる者は、どこまで生きても、やはり神に非ず、ということか。それはもしかしたら喜ぶべきことかもしれないが。」
まあ、神も同じくな、とユールーは最後に自嘲気味に小さくつぶやいてから、スッと目を細めて、微凪を指さした。
正確には、微凪の背後を指し示していた。
「見るが良い。そうでもない、そうでもないのだぞ、時築微凪。ソード・ラスティング。」
ユールーの不思議な雰囲気に気圧されて、まるで操られたかのように、後ろを振り返る。
「あ・・・。」
そこには、落ちて行ったはずの伊識が、浮いている自身をまだ完全にコントロールできてはいない感じで、両手をアワアワとバタつかせてはいたものの、確かに宙にフヨフヨと浮かんでいたのである。
「柊城くん・・・!」
伊識の両脇には、バシュティンとファノームが浮かんでいる。
すべてが伊識の力によるものだと微凪が理解したのは、バシュティンとファノームが意識を失っていたから、ということもあるが、それよりも何よりも、柊城伊識の右手に、あの剣が握られていたからである。
(ソーザイアの・・・剣!)
なぜ自分を選ばなかったのに、剣がここに現れているのか。
その混乱に拍車をかけるように、微凪は伊識の手にした剣をよくよく見つめて、固唾を飲んだ。
(緒帝・・・ニョクマム様の剣・・・ああ!)
刀身に若干の反り返りのある、ソーザイアの神剣。実に緒帝ニョクマム以来のことだった。
「よ、よゥ、いいんちょ。」
微凪の内心をよそに、落ちて行ったときと変わらず、カッコ悪く手足を振り回してバランスを取るのに四苦八苦しながら、ニコニコ、ヘラヘラと笑う伊識。
「色んナ意味デ、当たり、なのカ?このギリギリ、さん。」
手にした剣を微凪に向けて掲げる。金属光沢のある、わずかにカーブした刀身が、ほとんど無色と言って良い炎に包まれている。その無色の光は、見る者の位置に応じて無数の色合いを現出していく。
何者をも惹きこまずにはいられない、美しい武器だった。
「選びて選ばざる・・・選ばずして選びし剣、これだヨネ?」
この当たりくじつきの氷菓子は、自分で当たりを引き当てたわけではない。広奏に好きなほうを選んでもらった。選んでいないけど、広奏が選択することは自分が選んだことになる。
(選んだようで選んでない、選んでいないのに選んだ。これだろ、答えは。)
ただそんな小難しい、屁理屈めいた堂々巡りの話をエレクシス語で説明などできない。とりあえず『これだヨネ?』くらいしか言いようがない。
伊識の問いかけに、微凪は返す言葉もなく、目を見開いて剣を見つめるばかりだった。
(そして委員長、君も。)
微凪に向かって伊識がエヘラ、と微笑む。
(委員長を選ばないってことは、すべてを捨てて委員長を選ぶってことになるわけで。二重の意味がかかってたんだね、広奏のヒントには・・・広奏、これが正解、だろう?)
別にそこに広奏がいるわけではないが、伊識は空を見上げて広奏に語りかける。そこには広奏の姿はもちろんないが、伊識にはその声が聞こえる。『そう、そうだよ、よくやったね伊識、さすがボクの伊識。大好きだよ、伊識・・・・ボクのすべて。伊識さえいれば、もう何も・・・・。』という、伊識の脚色が入りまくった広奏の声が。きっと広奏は頭を撫でてくれることだろう。それを想像して、伊識の微笑みはかなり気持ち悪いニヤつきに変わっていく。
(・・・って、あれ?広奏の声、今本当に聞こえた?・・・やっぱり広奏、お前・・・。)
「・・・・イシル。」
ユールーが二人の間に割って入り、伊識の両脇で浮かぶ二人を指さす。
バシュティンとフェネイエ、宙に浮かぶ二人は意識を失ったまま、まだ目を覚ましていない。
伊識はユールーに向かってうなずいて、今は多少コントロールできるようになった力を使って、バシュティンとフェネイエを自分の前に移動させて、並べて浮かせると、今回この世界にやって来てはじめての日本語を発した。
「バシュティンとフェネイエは起きる。」
その瞬間、周囲の空気に明らかな変化が起きて、何かに突き動かされたかのように、二人は瞬時に目覚めた。
「え・・・あ・・・ソーザイア・・・様?」
「う・・・ここは・・・え、マジか・・・その剣。」
はじめは状況を十分には把握できていない二人だったが、伊識の手に握られている剣を認めると、驚愕の表情を浮かべて、剣と伊識をかわるがわる見つめる。
「説明、アト。時間、ナイ。君らで、ファノームたち、助ケル。」
伊識は再びエレクシス語に戻してそう言うと、深く息を吸ってから、この世界に来て二度目の日本語を発する。
「バシュティンとフェネイエはファノームとセスのいるあの石畳へ瞬間移動する。」
言葉にすると本当に単純かつ直接的で、魔法というにはあまりに風情がなさすぎる詠唱だったが、ともかくも伊識がその言葉を言い終えた瞬間、二人は伊識の目の前から消えて、ファノームたちのいる石畳にその姿を現したのである。
瞬間移動に成功して、伊識はホッと肩で息をつく。
(ファノームとセスは頼む・・・。)
到着するや否や、ファノームとセスを守りながらバシュティンとフェネイエが飛龍と交戦し始めたのを見届けてから、伊識はようやく自らの身体を神殿に着地させた。
地面に足をつけたのは実に久しぶりのことである。
伊識は微凪の前に立った。
「・・・え、あ・・・。」
それだけ言うので精いっぱいで、あとは言葉にならずにポオッとした表情で伊識を見つめる微凪との間に、再びユールーが割って入った。
「・・・・イシル、もう本当に時間が無い。」
「ユールー・・・サマ。」
「『様』など要らぬ。ユールーと呼んでくれて良い。」
心なしか、無機質一辺倒だったその口調に、今は若干の感情がこもり、ほんの少しではあるが表情にも変化が出てき始めているように見えた。
「その剣だが、扱いは慎重に。緒帝ニョクマムの『サイセイノケン』だと思う、それは。私も初めて見るから、断言はできんが。」
「『サイセイノ・・・ケン』?」
伊識がそういった瞬間、手にした剣はひときわ光り輝き、すさまじい圧を周囲に放つ。
「うおっ!」
「扱いは慎重にと言ったろう。私も含めて、そなた以外の者が『サイセイノケン』と言うのと、『言葉』の使い手たるそなたが言うのとでは全然違うのだ。」
「あ・・・ソッカ・・・。」
そうだった。伊識の放つ日本語はすべて強力な魔法の効果となって現れるのだ。
「口に出してはならん、心に留めよ。いいか、『サイセイの剣』だ、それは。分かるか?」
(サイセイ?・・・サイセイ・・・。)
伊識の脳内に『再生』という漢字が浮かぶ。
(再生・・・何かを復活させるとか、そういう力を持った剣、てこと?)
神には何でもお見通しなのか、ユールーは黙って首を横に振った。
「そうではない。残念ながらその剣の持つ力は再生とは正反対なのだ・・・・石を砕く・・・・『砕石』という言葉がそなたの国にはあるだろう?」
伊識は首を縦に振った。
「その『石』という字を『星』に置き換えよ。それがサイセイの剣の意味するところだ。」
伊識は剣を持っていない方の手をあごに乗せて、考える。
(砕石・・・砕星・・・砕く、星を・・・星を砕く?星を破壊する?・・・って、え、マジで、これが?)
伊識の表情がみるみる青ざめ、ユールーがうなずく。
「そう、だから扱いに気をつけよ。その剣の、ちょっとした一振りで、この星が跡形もなくなる、かもしれない。」
(早く言ってくれよ!)
その場で固まるよりない伊識に近づいて、ユールーは背後から抱きついた。
「ゆ、ゆールー様?」
「『様』は要らぬと言ったろう?いいから、じっとしておれ。こっちを見るでない。」
神とは思えないほど真っ赤なユールーの横顔がチラリとだけ見えた。
「は、ハイ・・・。」
背後から手を伸ばして、剣を握る伊識の手に、ユールーはそっと自身の手を添えた。
「その剣を振ると、刀身からすさまじいエネルギーの弾丸のようなものが発射される、はず。」
試してみよう、そう言ってユールーは空の彼方、魔界の扉からまったく方向違いのところを指さした。
「あのあたりに向けて、剣を振ってみよ。軽く、本当に軽くで良い。」
ユールーは伊識に添えていた手をいったん離して、剣を振る仕草をしてみせてから、またそそくさと伊識の手に自らの手を添える。
背後から抱きつかなくとも、横に立つくらいでも良いのではないだろうか、と伊識は思ったが、神に意見するのははばかられて黙っていた。
「やさしく、そっとな。」
片手は伊識の手に添えたまま、もう片方の手で伊識の制服の裾をギュッと掴む。
伊識はうなずいて、剣を握りなおして、ホウ、と深い息を一つ吐いてから、空に向けて伝説の剣を『これはただのギリギリさんの棒、これはギリギリさんの棒・・・』と暗示をかけながら、軽く、そっと振ってみた。
実体がある剣にもかかわらず、重さはほとんどないため、剣の扱いを知らない伊識にも制御は簡単だった。
ヴァ・・・ン、と伊識の剣を中心に突風が巻き起こり、そこから火の玉というか、光の玉というか、ともかくも何らかの高エネルギー体が真っ直ぐに空に向かって飛んでいく。霊峰の頂上にいない者の方がその光景をよりはっきりと見ることができたようで、実際霊峰ヒャレンの山頂を眺めることのできるふもとの村や町ではどこも
「あの光の筋はいったい何だ?」
と大騒ぎになっていたのだが、張本人の伊識がそのことを知るはずもなく、ただただ目の前の光景に驚くばかりであった。
(すげぇ・・・!)
空一面を覆っている黒雲に到達した巨大なエネルギーの塊は、雲中にもぐり込んでから一瞬の静寂の間を持った後、すさまじい轟音とともに、内側から信じがたい速度で厚い雲のすべてを吹き飛ばしてしまった。そのエネルギー弾はその後も消滅することなくひたすらに真っ直ぐ飛んでいき、宇宙の彼方へ去っていく刹那、最後にキラン、とひときわの光を放って、消えていった。
(・・・空の彼方に何かが光って消えてくの、アニメ以外で初めて見た・・・。)
後には、真っ青な空が広がるばかりとなった。
「やり方は分かったな?」
ユールーが、呆然と驚愕の入り混じった表情の伊識を覗き込んで、念を押してくる。
「次は、あれだ。」
ユールーが真上の魔界の扉を指さす。真っ黒な穴がぽっかりと開いている。晴れ渡る空とのコントラストが激しく、厚い黒雲の中にあった時よりもより一層の不気味さを感じさせた。
「もう、ローナも気づいているだろう。一度で決めて、外さぬよう。」
ユールーが伊識の制服の裾を離して抱擁を解く。
伊識は、少し離れたところで呆けたように見つめるばかりの微凪を振り返った。
少し、ためらわれた。
(何万年もの間、ずっと続けてきた使命が終わるというのは、どういうものなんだろう・・・。)
ただの人間、しかも平凡な地方の一高校生の自分にはまったく想像もつかない。
(まぁでも、ここまで来てしまった以上は。委員長、終わらせるよ。)
伊識は真上を見上げて、手にした剣の刃先を地面に向けて構え、いったん静止した。
(フェルローナ・・・どんな相手だったんだろう・・・別に俺自身は恨みはないんだけど、一度だけ、攻撃するよ。)
ゴメンな、と小さくつぶやいてからは、何のためらいも、もったいぶることもなく、スッと真上に剣を振った。
先ほどよりも少し溜めを大きくし、速度も多少上げて振るうと、最初の試し打ちとは比べ物にならないほど巨大な光弾が魔界の扉へと再び真っ直ぐに飛んでいく。霊峰を遠くに見る町や村の人々にとって、その眺めはとてつもなく壮麗で、実際それは長く後代に語り継がれることとなる光条となった。
「到達した。」
ユールーが静かに言った。真下にいるのでいつ当たったのか分かりにくいが、神が言うのだから間違いないのだろう、そう思って伊識は空にどんな変化が起こるのか、見上げていると、ドン、という衝突音がして、それから
「あだだだだ・・・・いった~。」
という、舌足らずな声が、霊峰を中心として、けっこうな範囲まで響き渡った。
(何だ、あの声?)
伊識を含め、皆がシーンとなっていると、さらに
「いたたたた、ダメダメ、退却、退却ぅ~。」
という声がして、魔界の扉からなかば飛び出ようとしていた魔物の巨大な影は急速に小さくなり、扉もそれに合わせてみるみる縮小して、何とも情けない感じの『ぽむっ』という音とともに完全に消滅してしまい、あとには何もない、雲一つない快晴の空が広がるばかりとなった。
(????)
しばしの静寂。その後、霊峰の山頂は歓喜の声に包まれた。
「やった、やった!封印した!」
「勝った、んだよな。」
「扉は閉ざされた!」
ポトラの兵士たちが快哉を上げている。
(え、え~・・・マジで?)
そう思っているのはどうやら伊識だけのようで、みな喜びを爆発させ続けてお祭り騒ぎとなるばかりであった。
仕方がないので伊識はとりあえず隣にいたユールーに
「アノ、これで終わルっすか?終わリデすか?」
と聞いてみる。
「そう、終わった。」
ユールーはあっさりと回答した。
「よくやった、ソーザイア。」
ユールーの口辺がほんの少し『クスッ』と微笑むように動いたようにも見えた。
「エト、アノ・・・やけにアッケナいんですけど・・・あと、フェルローナ?でしたけ?何だかすごい幼い、女の子みたいな声だっ・・・。」
「だまされてはならぬ。」
ユールーがピシリと言った。
「悪魔の声音には、気をつけよ。その見た目にもな。ソーザイア。」
フェルローナの『見た目』にまで言及するということはユールーはフェルローナに会ったことがあるのかと伊識は疑問に思ったが、ユールーは
「それにな、」
と続けて、伊識に質問する間を与えなかった。周囲の喜びに沸く兵士たちに視線を向ける。
「そなたにとっては呆気ないのかもしれないが、エレクシスの民は、そなたが二年前に消えてからも、ずっと耐えて待ってきたのだ。」
伊識も、振り返って兵士たちに視線を向けた。抱き合って喜んでいる者がいる。仲間の形見なのだろうか、何かを握りしめて滂沱の涙を流している者もいる。
「この間に、大切な者をなくした者も多い。皆、辛い思いをしてきたのだ。」
「・・・。」
軽はずみなことを口にしてしまったと後悔して
「あノ・・・。」
と言いかけた伊識に
「分かっている。」
と、やはり最後まで言わせずに、ユールーは崖の下方を指し示した。
「そなたはよくやった。何も分からず、思い通りにならない中で、最善の決断をしたのだ。救える者を、すべてすくい上げたのだ。」
ユールーの示す先には、石畳の上で、バシュティンに抱きかかえられたファノームと、フェネイエに身体を預けているセスがいた。
二人とも目を閉じていたが、苦しそうな表情の中にも肩を上下させて息をしているのが遠目でも分かって、命に関わる状況ではなさそうだと理解できた。
(良かった、ともかく無事で・・・。)
何となく、視線を感じたのか、バシュティンがふと見上げてきた。
伊識と目が合う。
「・・・。」
「・・・。」
しばらくの間、ただじっと見つめてくるばかりで、バシュティンの表情からは何を考えているものか、伊識には皆目わからなかった。
(もしかして、もしかしてまだ何か怒ってるのか、バシュティン。)
伊識がそんな不安を感じるほど長い間があってから、ようやくバシュティンは、硬い表情のまま、右手の拳を左の鎖骨にあてて、その拳から、三本の指をフワっと繊細に開き、そっと肩に乗せた。
(バシュティン・・・。)
伊識もバシュティンに向けて、たどたどしくも同じように拳を鎖骨にあてて最敬礼を返した。
バシュティンが唇をわずかに動かして何か言っている。何を言っているかは分からない。だがその双眸から、とめどなく涙があふれ出したのは分かった。
「・・・。」
伊識は、知らずフッと笑顔をバシュティンに向ける。バシュティンも涙が止まらないまま、ニッと、笑顔を向けた。また、何か言っている。
「何を言ってるのか分からないけど・・・バシュティン・・・でも、いつかきっと・・・。」
「大団円のところ悪いのだがな・・・どうやら今はここまでのようだ。」
ユールーがつぶやく。
「エ・・・?」
なぜ、と思う間もなく、伊識の周りに、小さく静かに、しかし確実に円形の青白い光が生じ始め、身体が宙に浮き上がる。
「え、コレ・・・!」
この世界に来る時の、コンビニ前でのあの光と同じなのはすぐに理解できた。
「名残惜しいかも知れないが、戻るタイミング、ということのようだな。」
(ウソ、まじで?)
早すぎるよと思うが、自分ではどうにもならないことはこれまでの経験でよく分かっている。
地球に、日本に戻るのか、と思った刹那、微凪のことを思い出した。
(そうだよ、委員長!委員長と一緒に戻らないと!)
振り返ると、いまだに放心状態で立ち尽くしている微凪がいた。その元に駆け寄ろうとしたところで、行く手を一頭の飛竜が阻んだ。
「行かせるか!」
飛竜の背には、ライナと、ライナの対の兵が乗っている。ライナはすでに抜刀していたが、本気でないのはそのモジモジした姿から容易に分かる。
「ソーザイア、わ、私は、待ってて、やった・・・ん、だ・・・ぞ・・・。」
ライナは伊識と微凪との間で飛龍を空中に静止させた。
「ちょ・・・待って!」
光の輪は徐々に強くなっている。事情を知らないライナはこの機を逃してなるものかとばかりに飛龍の背中ごしに伊識を睨み付けようとするのだが、やはりどこか迫力に欠けている。
「ダメ、ライナさん。今は。」
とりあえず説得を試みるが、ライナははなから聞き入れる素振りもない。
「だまされないからな、ソーザイア。またそうやって逃げるつもりだろう?」
フフン、としたり顔のライナ。
(まずい、このままじゃ・・・委員長じゃなくて異世界の王女を日本に連れ帰ることになってしまう、のか?いやいやいやいや・・・。)
そんな伊識の焦りをよそに、ライナは顔を赤らめて
「な、なあ・・・お、おれおれ、お礼、してくれるんだろう?な、何だったら、この後、い、いいい、一緒に、我が国までどうかな?そこでじっくり、お、お礼ってのを・・・。」
「ライナさん。ホントに、時間ナイ。」
伊識は、だいぶ制御が利くようになった力を使い、右手に持った剣を舵のように扱って、それなりにスイスイと移動して、飛竜に乗るライナと同じ視線の高さで静止してから、無造作にライナの方へ横にスライドするようにして近づいた。
「な、なな、何?ソー・・・。」
頭から湯気が立ち込めそうなライナ。しかしかまっていられない。
(時間がないんだ・・・王女に無礼な真似だとは思うけど・・・ゴメン、ライナさん。)
伊識はさらに接近して、ライナの耳元に口を当てた。
「え、ちょっ・・・。」
耳に息が吹きかかるほどの至近で
「ありがとう、ライナさん。」
と、ライナにだけ聞こえるように、小さく日本語で囁く。
「うぅ・・・あぅ・・・。」
それだけで十分だった。ライナは全身の力が抜けてふにゃふにゃになり、後ろに乗っていた対の兵がその身を支える。飛竜の背に乗っていなかったら、完全に腰砕けになっていたことだろう。
伊識は、次にライナを支えている対の兵に向き直った。
「な・・・?」
身構える対の兵に
「あナタ、名前、ナニ?」
と、再び言葉をエレクシス語に戻して尋ねる。
「あ、あの・・・え、と、スクゥナ・・・エル・クルー・スクゥナと・・・。」
「ありがとう、スクゥナさん。・・・ライナ王女のコトを頼むね。」
間髪を入れずにスクゥナにも容赦なく日本語で語りかける。
「は、はう、はうぅ・・・。」
スクゥナと名乗る兵士も、あっという間にライナと同じ状態になってしまった。
伊識は再びライナに向き直る。
「ごめん、もう行かなくてはいけないんだ。また、必ず会いに来るから。そのときに必ずお礼する。それで勘弁して。ね?」
「あああっ・・・う、うん・・・ハイ・・・あぅ・・・お願いです、一度だけで良いですから、王族名ではなく、下の名で・・・『ウィズ』とお呼びください・・・。」
「『ウィズ』?あれ、確かライナさんの名前は『ハウン』では?」
「ライナ・ハウール・ウィズハウ。『ウィズハウ』が我が真名なのです。ほとんど明かすことのない名です・・・。」
「良いのかい?そんな大切な名を。」
「はい、お願いです、イシルさ・・・。」
「うん、うん、ウィズ。良い名だね。」
「あ、ああっ、うぁん!イ、イシルさま・・・。」
頭をポンポンと撫でられて、ライナ・ウィズは身体に電気が走ったかのように、背筋をのけぞらせてビクンビクンと震えた。
スクゥナの頭もポムポムと撫でる。同じ結果が生まれた。
「もう、その辺にしておいてやれ。」
若干イラついたような口調でユールーが割り込んだ。
「一国の王女とその対の兵を、皆の前で失禁に追い込むつもりか?」
ユールーは、神殿の縁で、未だ放心状態にあった微凪の肩を抱いて支えていた。
「急ぐのだ。」
ユールーに促されて、伊識はライナとスクゥナの元を去ろうとしたが、二人は伊識の服の裾を掴んで離さなかった。
「あ、あぁ・・・ソーザ・・・イシルさま、ウィズずっとお待ちしております。」
「あ、あの、スクゥナ、も・・・。」
骨抜きの二人が伊識に追いすがる。
と、そこにクイクイ、と伊識の服の裾を引っ張るものがいた。
「ん?・・・お?」
振り返ると、そこには飛龍が・・・ライナ・ウィズとスクゥナの乗る飛龍の顔があった。
飛龍は、伊識の顔をじっと見つめ、小さく『クォン』と鳴いた。
(覚えて・・・覚えていてください。)
脳に直接語りかけてくるその声。
(え、飛龍、これは君の声?)
(はい・・・マスダ・ソーザイア。我が名はフェンネス・ガルムと申します。これだけでも、どうかぜひ。)
飛龍はまだ何かを伝えたいようだったが、もうこれ以上は本当に時間がない。
「ごめんな、飛龍。君とも、今度またじっくり。」
伊識はポンポンと、飛龍の頭も撫でてやった。
「覚えておくよ、フェンネス・ガルム・・・じゃあ、また、ウィズさん、スクゥナさん。」
最後にとどめの言葉を二人に追加する。
「今度、来るときまで、あまりポトラの国といがみあわないでね。」
「あぅ、あ、は、はい・・・。」
「は、はぃ・・・。」
消え入りそうな二人の声。
伊識は踵を返して、ユールーのいる神殿の縁へと戻り、微凪をユールーから引き取った。
「この世界の後のことは任せよ。」
すでに伊識の周りには例の光の柱が浮かび上がってきている。
「気をつけてな。」
それだけ言い残して、ユールーは光の柱の外側に出て行こうとする。
「ありがとう、守護神ユールー。」
伊識はその背中に向かって日本語で声を掛けた。
立ち止まって、ユールーがゆっくりと振り返る。
「ほう・・・・私にソーザイアの言葉を使うか。しかし、神には効かぬよ、その力は。」
最初にこの神殿で出会ったときと同じ、無機的な表情と機械のような声音に戻っている。伊識は『ハハハ』と照れたような作り笑いを発した。
「ハハ・・・いや、うん・・・そうじゃないんだ。そんなつもりじゃなくて、母国の言葉で、日本語でちゃんとあなたにお礼をと。本当に、心から。」
そう言う間にも、あのコンビニ前の時と同じように、光の柱の不思議な共鳴音が伊識を包む。その壮麗な眺めに、その場にいたものはみな圧倒されて、ただただ魂を抜かれたような表情で見つめるばかりだった。
「ありがとう、ユールー。この世界の平和が続くこと、祈ってる!」
その言葉に、ユールーはかすかにうなずく。
「それから・・・広・・・て・・・こと・・・。」
最後は共鳴音にかき消されてほとんど聞こえなかったが、伊識は最後に何か言葉を残して、抱きかかえた微凪とともに、来た時と同じように、最後にひときわ甲高い『フォン・・・』という音を残して、消え去った。
「行ったか・・・・。」
二人の転移を見届けると、ユールーはフウ、と肩で息をして、顔を上げる。青い空がずっとずっと、遥か彼方まで、雲ひとつなく広がっている。
(閉ざされたのだな、魔界の扉が。一応は。)
空を見上げたまま、しんみりとした気分に浸りたいところだったが、ちょうどユールーの視線の先には、伊識に骨抜きにされて飛竜の背中にもたれながらグデーっとなっているライナとスクゥナがいて、彼女たちのヘニョヘニョの姿態は良くも悪くも周囲の雰囲気をぶち壊す。
「やれやれ・・・・。」
そうつぶやいて、一歩、足を前に踏み出そうとして、ユールーはその一歩を踏み出す力をまったく出せずに、そのまま地面にペタンと座り込んでしまった。
ドッと、顔から汗が吹き出る。
(これほどまでに、危なかったということか。)
身動きひとつ意のままにならない。足だけでなく、全身が小刻みに震える。
(うぅ・・・・ギリギリだった。あともう一言・・・・ほんのちょっとでも何か言われていたら終わっていた・・・・。)
汗が一向に収まらない。顔も身体も、火照りきっている。荒い息をつく。
(ソーザイアの言葉とは、これほどまでに破壊的だったのか・・・・まさに、神をも追い詰める・・・・。)
ポトラの兵士たちが再び神殿に集まってくる。中心でへたり込むように座っているユールーを囲むように、めいめい神殿の縁に立つ。
(ううっ・・・・もうちょっとで、漏らしちゃうところだったよぉ・・・・。)
これ以上情けない姿は見せられない、そう思ってユールーは立ち上がろうとしたのだが、その実まだまったく足に力が入らず、膝がわずかに地面から浮いたところで、あわわわ、はうぅ、と小さく悲鳴を上げて、再びペタンと、神殿の真ん中で座り込んでしまう。
その横に、飛竜が音もなくスッと、着地する。
その背中に乗るライナとスクゥナは、相変わらずヘニョヘニョの姿態のまま、飛竜にしがみついている。
「ガルムか・・・・。」
へたり込んだまま、ユールーは背中で飛龍に声をかける。
(はい、守護神。大丈夫ですか?)
「気遣いはいらぬ。そなたもご苦労であった。」
(いえ・・・。)
「どうした?言いたいことがあるのか?」
飛龍はクォン、とひと鳴きした。
(差し出口ではありますが、気付いておられたのではないでしょうか?)
「気付く?何をだ?」
(お戯れを、守護神。あなたのことですよ。)
「イシルが?そう・・・・かのう?」
疑念を抱くような返答のわりに、ユールーの言い方には少しだけうれしそうな響きがあった。
(ええ、最後にあなたを見つめていたときのソーザイアは・・・何ら変わりませんでしたよ。)
「そう見えたか・・・・。」
相変わらず無機的なユールーの表情の中に、ほんのちょっぴりの微笑みも混じる。
(それに、守護神、あなただって。呼び方も、それにあのしがみつき方も。あのときのあなたの声。ソーザイアには聞こえずとも、私には聞こえておりました)
「・・・・。」
(その言葉遣いも、仕草も、寸分違わなかったかと・・・。)
「今はもう何も言ってくれるな、ガルム、後生だ。」
ユールーは、耳まで真っ赤だった。
(はい。余計なことを。)
「いや・・・・そなたも話したかったろう、ソーザイアと。すまないな。」
(すぐにまた、会えますよ。それまで、この王女と対の戦士は、私が。)
飛龍はその身を少し揺すって、背中に乗る二人がずり落ちないように位置を直した。
「そう、そうだな、頼む。それから・・・・すまない。ちょっと、借りるぞ。」
守護神ユールーは、飛龍の脚にしっかとしがみついて、かろうじて立ち上がり、ポンポンと、飛龍のわき腹をいたわるように軽く叩いて、伊識が消えた辺りを、やはりほんのちょっぴり、口辺を微かに歪める程度の笑みをたたえながら見つめる。
伊識の消えた空間の、その先には、どこまでも続く青い空。雲ひとつない空。
「さあ、ここからだぞ、氷岬広奏。」
神の矜持で、何とか涙を堪えている、潤みきったユールーの瞳。
「選んだ道を、進むが良い。進むが良いのだ。どれほど辛い目に会うか、それはこの私にももはや分からぬが・・・・おそらく相当に苦しむだろう。すまない・・・・。」
それでも、こらえきれずに涙がひとすじだけ、頬を伝っていく。
「それでも・・・・何があっても、そなたの隣にはいつもイシルがいる。」
うつむく神の頬から顎につたう涙が両目から、涙がポタ、とこぼれ、服のすそに落ちる。
「イシルがいる・・・・何があっても、だ。」
その涙に答えるかのように、飛龍がまたクォン、とひときわ大きな鳴き声を発した。
「頑張れ・・・・頑張れ、氷岬広奏。かつて男のコであった、女のコよ。」
読了ありがとうございます。