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第一章 「静かに来る季節」

 (あ~あ、今横にいるコイツが女の子だったらなぁ・・・。)


 これまでの人生で何度も何度も心に浮かべるものの、口に出して言ったことはただの一度もないこの思いを、今日もやっぱり心の中に浮かべながら、柊城伊識ヒイラギ・イシルは無意識のうちに


 「ふぅ~。」


とため息をついた。


 「もう、伊識、またため息ついてるよ。」


 口をとがらせながら、『横にいるコイツ』であるところの男子・氷岬広奏ヒミサキ・ヒロカは、クルリと回り込んで、伊識の進路を塞ぐように立った。


 「だ、大丈夫だよ・・・氷岬。俺のため息は幸せ逃げないから。」

 「え~ホントかな~。」


 いつもの、高校の帰り道。


 後ろ手にかばんを持ち、大きな瞳で上目づかいに、伊識のことを気遣うように、そして心配そうに、優しく見つめてくる。


 (ううっ・・・かえすがえすも、本当にコイツは男なのか?)


 伊識のため息をたしなめようととがらせていた広奏の唇が柔らかくなる。同時に伊識を案じる表情にも次第に変化が現れ、柔らかくなった唇は何かを言おうとして少し動きかけて止まり、また動きかけては止まる。


 (・・・駄目だ・・・可愛すぎる。)


 広奏の見せる、あらゆる仕草に心を全部持って行かれそうになる。柊城伊識は、それに抗うかのように少し後ずさりするのだが、氷岬広奏はそれを許してはくれず、さらに心配そうな表情で伊識が後ろに下がった距離以上の間合いを詰めてくるのだった。


 「ため息。ついてたのか、俺。」


 我ながら前後が繋がらない台詞だとは思うが、何か言わないと間が持たない。


 「うん、しっかりついてたよ。どうかしたの?」

 「な、何でも・・・ねぇよ・・・。」


 まさか『目の前にいるお前が女の子だったらな、とあれこれ・・・そう、とんでもないレベルのところまで考えていました。』などと言えるはずもなく、伊識は頬を赤く染めて、目を逸らしながら答えるので精いっぱいだった。


 「ホントに?ホントに何でもない?」


 絶妙の上目づかいで伊識を見つめてくる。


 (う・・・やめろっ!やめてくれ、頼むマジでっ・・・!)


 心の中ではそう絶叫している。しかし、口をついて出たのは


 「あ、ああ・・・なんでもない。ホントホント。」


 という、うわべだけは至極落ち着いているようにみえる言葉。


 心の中をすべて見透かされているのではないかと、気が気ではない。


 「・・・・ボク、伊識に何かしたんじゃない?傷つけるようなこと言ったかな?」


 さらなる広奏の追求。真剣な眼差しでまっすぐに見つめられると、どうして良いか分からなくなる。


 「いやいや、ないない。何も言われてない、されてない。」


 一方的に妄想してるのは俺の方だから、という言葉を飲み込む。

 

 今の伊識の思いをすべてぶちまけたら、きっと広奏を傷つけることになる。


 そんなことは決して言えない。


 「ん~、ならまぁ良いけど。」


 恥ずかしそうにしながらも、背伸びをして真っ直ぐに伊識を見つめて、エヘヘ、と笑う広奏。


 (あ~この表情・・・うう・・・何でそんな顔するんだよ・・・。)


 ギリギリまで顔を近づけて、にっこり微笑んでから、広奏はまた伊識の隣の位置に戻り、二人で歩きだす。


 「・・・。」


 危なかった。本当に、危なかった。

 広奏に見つからないように、小さな仕草で胸を撫でおろす。


 「そうだ、伊識。テスト。」


 広奏はそんな伊識の挙動には気付かなかったのか、不意に話題を変えてくる。


 「お、おう・・・テストな、うん。」


 伊識にとってはありがたかった。


 (これ以上さっきみたいに迫られてたら、本当にどうにかなっちまうからな・・・。)


 広奏はニコニコ笑顔で


 「数学のテスト、今日返ってきたよね。いつもの勝負、しようよ。」


 と言って、自分のかばんを開けて、中をガサゴソ探り出す。


 「また数学で勝負するのか?」

 「うん、数学で勝負、する。」


 拳を握り締める広奏に、伊識は


 「入学してから今まで、数学俺に全敗だよな、氷岬。中間期末だけじゃなく、小テストとかも全部含めて。」


 と冷徹に指摘する。


 「ぐ・・・そうだけど。」

 「氷岬、文系科目の方が得意なんだから、そっちで勝負の方が良いんじゃないか?」

 「それはダメ!理系科目で伊識に勝たなくちゃ意味がないんだから。」


 今度こそ勝つ、と両手で握り拳を作り、天を仰いで拳を突き上げるのだが、そんな仕草の何もかも、伊識にとっては何だか可愛いものが何やら可愛いことをしているようにしか映らない。


 「・・・そうか。」


 広奏のそんな可愛さ全開の姿から目を逸らしつつ、伊識は考える。純粋に伊識に分がある理系科目のテスト勝負で勝ちたいという気持ちも、それはもちろんあるのだろうが


 (・・・何だかんだ、俺に花を持たせようと、してるんじゃなかろうか。)


 と勘ぐってもしまうのだ。


 それを広奏の優しさ、と言うには抵抗もあるし、ちょっと自意識過剰気味だろうとも思うし、それが事実だとしたら、過保護にされすぎだろ、とも思うが、広奏にそうされるのは全然嫌な気分ではない。というよりうれしい。


 自惚れかも知れないが、そういう気もするのだ。


 (あーあ、本当に、コイツが女の子で、俺の彼女だったらなあ・・・。)


 思わずまたため息をつきそうになるのをすんでのところでこらえる。


 「さ、伊識も答案、出して出して。」

 「あ、ああ。」


 伊識がかばんをあさり出す。奥底から、見るも無残にクッシャクシャに丸められた、かつて答案用紙だったものがひと玉、取り出される。


 「もう、またそんな丸めちゃって、伊識。」

 「いいんだよ、終わったもんはどうでも。」

 「うん、でも、ちゃんと取っておいてね、お願い。これも伊識とボクの思い出なんだから、ね?」

 「お、おう・・・。」


 じっと見つめられれば、そう返事するだけで精一杯の伊識だった。


 「じゃ、いつも通りでいいね。」


 広奏が立ち止まって、目の前の店を指さす。


 そこは二人がよく立ち寄る惣菜屋だった。内も外も、お世辞にもきれいとは言い難い。食べ物を扱っているのに堂々と店内で猫を飼っていて、保健所の指導とかどうなってるのか心配になる。


 実際のところ、伊識と広奏が通う高校の生徒たちは、正規の通学路の途中にある、はるかにきれいで品ぞろえも豊富なコンビニを利用していて、きっとこの古ぼけた惣菜屋をわざわざ遠回りまでして利用しているのは伊識と広奏だけだろう。


 店先には、まさにその店にピッタリとよく似合う、おそらく何十年も昔からずっと使われているんじゃなかろうかというアイスクリーム専用の冷凍庫がデン、と置かれている。


 「いつも通り、ってことは、負けた方が『ギリギリさん』おごりってことだな。」

 「うん。じゃあいくよ・・・せえのっ。」


 いきなりの広奏のかけ声。


 「うぉっ・・・ちょ、ちょっと待て、氷岬。」


 あわてて丸めた答案を広げる伊識。


 二人は、お互いに見えるように腕を交差させて、相手の胸元に答案用紙を突き出し合った。


 広奏・・・84点。伊識・・・92点。


 「くうっ、負けたっ。」


 ムキ~と、声に出してはいないのだがまさにそんな感じの叫び声をあげているかのような表情を見せる広奏。そんな広奏の表情も、伊識の心をざわつかせる。


 学校では決して見せない、伊識しか知らない顔だった。


 「い、いや、でもすごいな。氷岬の80点台って、はじめて見たぞ。これまでで最少点差だ。」

 「う~そうだけど、そうだけどっ、勝たなくちゃ意味がないっ。今回こそはと思ったのに。」


 広奏はギュッと目を閉じて、腕をバタつかせる。


 (・・・可愛いな、広奏・・・本当に・・・何でコイツは・・・女の子じゃないんだ?おかしくないか?そうだよ、間違ってるよ、絶対。)


 そんな伊識の勝手な思いはさておき、広奏はしばしの興奮状態からさめると、やおら冷静に、チョコチョコと歩いて、惣菜屋の店先の、冷凍庫の前に立った。


 「何味にする?」


 伊識に向かって振り返りながら、広奏が慣れた手つきで冷凍庫の扉をスライドさせる。


 「何味って・・・定番の一種類しかここ置いてないだろ?・・・てか、今回、氷岬かなり頑張ったから、俺がおごってもいいんだけど・・・。」

 「ダメダメ、そんなの、ボクが買うよ。ほら行こう。」


 『ギリギリさん』の『パーフェクトセンシュアル味』を2本、冷凍庫から取り出しながら、広奏がごく自然に伊識の腕を絡め取る。


 「あっ、ちょっ・・・自分で歩けるから。」


 顔がみるみる火照っていくのが自分でもはっきりと感じられる。


 振りほどくことができず、伊識は広奏に引っ張られるまま、店内に入っていった。


 「あら~いらっしゃい~お二人さん。今日はコロッケ~じゃ~ないのね~。」


 レジ前にちょこんと正座して、書き物をしていた店主の老婆がニコニコと話しかけてくる。


 「こんにちは~、おばあちゃん~うん~今日は~『ギリギリさん』だよ~。」


 この老婆と話すとき、広奏の口調は必ず老婆と同じになってしまうのだった。


 「あ~そうなのね~。試験の後の『いつもの』ね~この前試験終わったと思ったのに~。ホント日が過ぎるのは早いわね~広奏ちゃん~また負けちゃったのね~。」

 「うん~エヘヘ~。」

 「・・・。」


 この二人が会話しているときに伊識が割って入る余地はない。しかも広奏に腕を組まれて、身動きもできない。


 黙って突っ立ったまま、二人の会話を傾聴するしかないのがこの店での儀式のようになっている。


 その儀式を厳かに済ませてから、会計をして店の外に出る。


 そこで広奏が伊識の腕をようやく解放してくれた。


 (また、いろいろと危なかった・・・。)


 そっと、小さな仕草で胸を撫で下ろす伊識。


 「公園で食べようよ、『ギリギリさん』、ね?」


 指さす広奏。道路を挟んで、惣菜屋のはす向かいのあたりに公園がある。


 「お、おぉ。食うか、『ギリギリさん』・・・。」

 「うん。行こ。」


 広奏がまた伊識の腕を取る。


 「あ、ちょ、だから自分で歩けるって・・・。」

 「早く、行こ。溶けちゃうよ、『ギリギリさん』。」


 そう、『ギリギリさん』・・・この、低年齢層向けにしては妙に艶めかしくて目のやり場に困るイラストが描かれた当たりくじ付きの安価な氷菓子。これこそが、二人にとって、惣菜屋の老婆が『いつもの』と言ってしまうくらい、中間期末テストは言うに及ばず、ちょっとした小テストにおいても、その勝負の敗者が勝者へと捧げる貢ぎ物なのだった。


 つまりは広奏が常に伊識に貢いでいるわけだが。


 「はい、伊識。どっちか一本。選んで。」


 広奏が両手に持ったギリギリさんを伊識に差し出す。


 「どっちでもいいよ。てかどっちも同じ味だろ。」

 「どっちかが当たってるかもよ。ちゃんと選ばなきゃ。」

 「う~ん、どっちでも。」

 「もう~しょうがないなぁ・・・じゃあこっちね。はい。」

 「ああ、サンキュ。」

 「座って食べよ。」


 公園のベンチに並んで腰かけた。


 バリバリと音を立てて、色っぽくエロっちいギリギリさんのイラストが描かれた包みを破る。


 「・・・。」

 「もう、伊識。『ギリギリさん』のエッチぃイラスト、見すぎだよ。」

 「お、う、うん・・・いや。」


 図星を突かれて伊識が言いよどむ。


 「おっきいよね。ギリギリさんの胸って。」


 広奏が伊識の持っている包みのイラストを指さしてそう言い


 「お、おう・・・そうだな。」


 と伊識も返す。


 「形も良くて、やーらかそうだし。」


 さらなる広奏の言及に


 「あ、ああ、そう・・・かな。」


 と伊識もさらに返す。


 広奏も伊識も年頃の健全な男子なのだから、異性のいない場所で同性同士、その程度の会話をするのは別段どうということもないことだ、と伊識も分かってはいる。


 分かってはいるのだが、どうしても他の男子とその手の話をするのとはちょっと違う緊張感が伊識の中に生まれざるを得ないのだった。


 「伊識、胸おっきい子、好き?」

 「お、おう・・・まあどっちかと言えば。」


 (お前がもし女だったら・・・そんな贅沢は言わない。小さくても大きくても、どちらでも・・・。)


 もちろん、それを口に出して言うことはできないし、しない。


 広奏はそんな伊識をまったく邪気のないコロコロした笑顔で見つめてくる。


 「ふうん、そっかあ。ね、やっぱりさ、腕組んで、胸当たったりとか、そういうのが良い?」


 くいっと、広奏がいたずらっぽく伊識の腕を取って、胸のあたりに押し付ける仕草をする。もちろん、広奏は男子だから当たる胸はなく、制服の胸ポケットが触れる程度である。


 だがそれでも、伊識の心臓の鼓動は最高潮に達して『あ~くそっ。何でコイツ女じゃないんだよ!』と、天に向かって叫び出しそうになる思いにいくつもの蓋をして必死にこらえる。


 「・・・おう、まあ、そういうシチュエーション、良いかも、な・・・。」


 まともに広奏を見ることができず、顔を少しだけ広奏からそらして、うつむき加減で伊識は冷静さを装いつつそう返事するので精いっぱいだった。


 「・・・・うん。」


 何が『うん』なのかよく分からないが、とにかくそれだけ言うと、なぜだか広奏も頬を染めて、ごく自然にスッと、伊識の腕をようやく解放してくれた。


 サク、サク、と、しばらくは二人で氷菓子を食べる音だけが響く。


 十月とはいえ、それなりに温かい日だった。


 (ギリギリさん日和だな・・・。)


 伊識は空を見上げて心の中でつぶやく。


 (ギリギリさん日和・・・のどかな・・・。)


 中間考査もまあまあ無事に終わり、穏やかな、伊識の心中はいざ知らず、表向きは何事もない、ある晴れた秋の日。


 (こんなふうに氷岬と過ごせる日が来るとはな。)


 しみじみとそう思う。そしてさらにまたしみじみと


 (氷岬が女だったらな・・・。)


 という思いが頭をもたげる。穏やかな秋の日にふさわしくない、ゲスな思考だ、と伊識は頭をブンブン振ってその思いを追い出さなくてはならない。


 そんなブンブンしている伊識を、広奏が不思議そうに見ている。そうやって、横からじっと見つめられるだけで、伊識の顔はみるみる赤くなっていく。


 (氷岬とは、いつから知り合いだったんだっけ、俺・・・。)


 伊識にもよく思い出せない。気がついたらそばにいた、という感じで、まぁ要するに幼馴染と言える間柄なのだろうが、小学5年の時に久しぶりに同じクラスになって、広奏が周囲から


 「氷岬さんて、けっこう可愛いよね。」

 「ホント、女みてー。」

 「スカートはいたら絶対女の子に見えると思う。」


 などと、男女を意識し始める小学校高学年特有のそんな時期にそんなはやし立てられ方をされ、その程度であればまぁまだ平穏の範疇に入っていたのかもしれないが、そのうち次第にエスカレートして、ヒロカという名前のことでからかう輩が出てきたり、いたずらのラブレターが机の中に入っていたり、本気で女物の服を着せようとしたり、女男(オンナオトコ)とかはやし立てられたりして、広奏が何も言い返せずじっと席に座ってうつむいているのをいいことにますますクラスメートが調子に乗る、そんなときに机を『バンッ』と音を立てて立ち上がり


 「てめえら、いい加減にしろっ。」


 と怒鳴りつけ、それに対しても


 「なにムキになってるんだよ。まさかお前、氷岬のこと好きなのかよ。」

 「よく一緒にいるもんなー。」

 「告っちまえよ~。」


 とさらにからかわれて、なんだとコノヤロー、と取っ組み合いのけんかにまで発展し、担任の教師に怒られ、帰りの会でそのことを議題にされてしまう、それが柊城伊識の役割であり、日常だったのである。


 思い返せば、何であんなに熱く広奏をかばい続けたのか。


 そもそも伊識は、自他ともに認める無気力な、とまでは言わないにしても、それほど何かに入れあげることなく、自分というものもあまり主張せず、周りで何か意見する者がいれば『まあ、そうかな。』という感じで流されていくタイプの人間である。小学校、中学校ともに通知表では『積極性』の評価はおおかた低く推移していたし、昔から変わらず座右の銘は『あきらめて、そこでさっさと試合終了』である。


 高校生となった今ではそれがさらに顕著で、現在、広奏と一緒に通っているこの高校に進学を決めたのも、中学2年のときの学校の帰り道での広奏との取りとめもない話の最中、不意に進路の話になったときに


 「誰も知らない、遠いところに進学したい・・・・知り合いのいないところがいい。」


 と広奏が言い出して、それから伊識をじっと見つめてきた、その目にいつもとは違う何か特別なものが宿っていて、それに気圧された伊識が


 「あ、ああ・・・そうか、へえ・・・じゃ俺も、同じとこにしよっかな、ははは・・・あっそうか。氷岬は知り合いいない方が・・・。」


 とまで言いかけたときに広奏がうつむき加減で首を横に数度振って、伊識の制服の裾をそっと、しかし力強く『むんず』と掴んで


 「・・・・伊識は、別・・・・とく・・・・べつ・・・・なの。」


 と、小さく、本当に聞こえないくらいの、でも伊識にはハッキリと伝わる声で返してきて、それで決まった進学先だったのである。


 つまり伊識にとって高校とは『どこでも良い』ものだったのだ。ただしそれには『広奏が自分と一緒に通いたいと言ってくれる高校であれば』という枕詞がつく。実際、広奏が自分と一緒の高校に行きたいと言ってくれなかったらどうしようと、そっちの方が気がかりだったのだ。


 そんな感じだったから、小学校時代に引き続いて、中学の頃の広奏も、しばらくはけっこうなからかいの対象であり続け、そしてそれを阻止する役割をもまた伊識は担い続けてきたのだ。『しばらく』と書いたのは、その状況が中学校生活も後半に入って、少しずつ変化してきたからである。周囲の広奏を見る目に明らかな変化が生じてきて、有体に言ってしまえば、広奏の可愛さがあまりもあまりで


 『あれ?氷岬って、実は単に女の子っぽいってだけじゃないんじゃね?』

 『性別超えて、段違い?』


 と、ようやく気付き始めたのである。しかもそれは、どこか近寄りがたい、見る者の背中と言わずその全身をゾクッとさせるような可愛さであった。ずっと外見のことでからかわれ続けて、人間関係に対して臆病になってしまった広奏が、自分からは決して周囲に溶け込もうとしないこともそれに拍車をかけた。


 性別を問わず、クラスの生徒たちは、それまでの反動もあって、好意や憧れや嫉妬、これまでの広奏への言動の後悔、などといった複雑な思いをすべて鍋にぶち込んで、アクを一切取らずに煮詰めきった得体の知れない煮物のごときものへと昇華させて広奏を見つめ出したのである。


 そしてそこに登場するのが伊識なのだ。広奏は決して孤独でも孤高でもなかった。周囲の広奏への視線がどんなに変化しようとも、広奏の伊識へのそれは何も変わらなかった、ように伊識には思えたし、思いたかった。広奏以外の者と断絶しているわけではないから、そこそこの付き合いを保ちながら、伊識以外の者と断絶している広奏から依存と言っても良いほど全面的に頼られる、そんな伊識の立ち位置も常に微妙なものだったが、持ち前の流され体質がその辺を適当に受け流すのに役立ったのかもしれない。


 広奏をからかう輩がそうした経緯で根絶されてからも、広奏自身はずっと伊識にしか心を開かなかった。いろんな意味で広奏に関心を抱く者もいたがまさに時すでに遅しで、誰も広奏に話しかけるどころか、近づくこともできなかった。


 広奏は、伊識がいない教室ではいつも伏し目がちに、不安そうな表情でうつむいて席に座っている。本当にはかなく、美しく、たちまちのうちにフッと透き通って消え入りそうな姿、などという表現が大げさではないほど、周囲の生徒は広奏に対してそのような思いを込めた視線を投げかけていたのである。


 広奏一人の、そうした激烈なオーラが展開されているある種の緊張状態は、伊識が教室に現れるとたちまちのうちに別な緊張感へと変貌していく。つまり、広奏と伊識の二人だけの世界が展開され、何者も寄せ付けなくなるという類のそれである。


 伊識の姿を目にするや否や、広奏はパッと明るい表情を浮かべて、伊識の元へ駆け寄り、そこからはもう伊識にべったりで、離れない。中学のころは席替えがあったが、何回席替えをしようとも広奏と伊識の座席位置は隣同士で完全に固定、が暗黙の了解だった。


 そんな二人に対して、もはやとやかく言う者など完全にいなくなってしまったわけである。クラス内での孤立というような問題も何もなかった。それほど、二人の関係は別次元の高みにまでのぼってしまっていたのである。


 そうして中学三年という受験学年を迎え、それもあっという間に後半に入り、みな自分自身の進路のことで頭がいっぱいとなり、広奏と伊識も同じ中学の生徒が誰も受験しない少し遠方の公立高校、しかも普通科のクラスの中に一つだけ「総合国際科」という、一見何をどう勉強するのかよく分からない、しかしその科は一クラスしかないから三年間クラス替えが無いという、広奏にとって理想的な進路を見つけ出し、そこを突破するのに少し成績が不足していた広奏の勉強を伊識が毎日見てやり、二人そろって合格したのである。


 入学してすぐに伊識はこの進学先が広奏にとって真にベストな選択であったことを悟った。その理由として、まずはクラスメートの誰もが広奏の過去を知らないこと。これはまぁそういうところを選んだのだから当然である。そして学科選択。総合国際科というのは、つまるところ外国語教育に力を入れた人文系の学科で、理系科目が苦手な広奏にとってはこれも幸いした。


 伊識自身は別に外国語や人文科目は好きでも嫌いでもなかったが、とにかく広奏がうれしそうにしていたからそれだけで良かった。


 三年間ずっと伊識とクラスが離れ離れになることがないということは広奏の心の安定に相当寄与したようで、中学の頃よりも格段に学校生活を楽しんでいると伊識の目には見えたし、やはり伊識を頼むところは相変わらずだったが、交友関係も、本当にわずかではあったが広がった。クラス替えがない、というと何かのきっかけで孤立して地獄のような三年間になってしまう可能性もあったが、ありがたいことにこの総合国際科にはそういう状況を生まないように努力しようとする生徒が多く、だから広奏も伊識も、やはり立ち位置は多少特殊ではあったが、それなりにクラスの中で受け入れられつつ、高一の二学期のこの時期まで平穏無事に過ごすことができたのである・・・。


 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


 「・・・・ねえ、伊識、聞いてる?」

 「え、あ・・・お、おう。聞いてる聞いてる。」

 「嘘。聞いてなかったでしょ。ギリギリさん、溶けてるよ。」


 責めているようで全然責めていない、怒っていても優しい、いつもの声。


 伊識の指に流れたアイスを、広奏の指がすくう。


 「あ、悪い。」


 何だかもうドギマギして、顔が真っ赤になり、まともに広奏の顔を見ることができない。


 「しょうがないんだから。」


 広奏がすくったアイスをそのまま自分の舌でペロッとなめた。

 

 そんな姿態を見せられて、ドギマギがさらに加速する。


 (何か・・・。)


 何だかいつもより、広奏の伊識に対する態度が、積極的な感じがするな、とも思う。


 (どうしてだろう?何かあったかな?)


 思い当たるフシがない。


 「そうそう、だからね、さっきから話してたコト。隣のクラスの。」

 「あ、ああ、隣のクラスね。」


 隣のクラスの・・・何だろ?と伊識の心の中の慌てふためきを知ってか知らずか


 「そう、隣のクラスの時築(シヅキ)さん。」


 と広奏がもう一度説明してくれた。


 「ああ、確か二学期からの転入生・・・だっけ?」


 その噂なら伊識も耳にしたことがある。


 「うん、時築微凪(シヅキ・ミナギ)さんって、いうんだよ。高校で、しかもこんな中途半端な時期に転入するなんて、珍しいよね。」


 たしかにそうだ、と伊識も思った。伊識はまだ見かけたことはないが


 「隣のクラスに、とんでもない美少女が転入してきたらしい。」


 と総合国際科でも噂になっていた。


 「何かね、クラス委員にもなったらしいよ、時築さん。」

 「え、そうなのか?」

 「うん。元の委員が骨折して、しばらく入院することになって、それで。クラス委員代理って感じかな?」

 「へえ・・・でも転入生がいきなりクラス委員の代役って。すごいな。」

 「うん。まぁ見た目だけで選ばれたわけじゃないだろうけど、あれだけ美人なら、目立つしね。勉強もスポーツもすごくできるらしくて。」

 「ふぅん・・・。」


 何で広奏は急にこんな隣のクラスの生徒の話を始めたのか、そもそもこの情報をどこから仕入れたのか・・・と伊識が疑問に思ったその刹那


 「あ、いっけない。今日は練習、一時間早かったんだ!」


 と叫んで、広奏は公園のベンチから飛び上がった。


 「例のチャンバラごっこか。」

 「もう、チャンバラごっこじゃないよ。ちゃんと『北雲流木刀術』って、呼んでよね。」


 広奏がわざとらしくぷくっとほっぺを膨らませた。


 中学校までの広奏は伊識以外の生徒とまったくなじまなかったから、部活動にも当然のように参加してこなかったわけだが、校外で習い事をしていた。それが木刀を使った武術で『恥ずかしいから見に来ないで、お願い』と広奏にくぎを刺されていたので伊識は一度も練習を見に行ったりしたことはないが、小学生の頃から週に三、四回ほど、律儀に通っているのだった。


 (まぁ、そうは言ってもなぁ・・・。)


 とても木刀を振り回しているような腕っぷしをしていない。腕だけではなく、体つき全体に、男を感じさせる要素がまったくない。


 知らない人間が私服姿の広奏を見たら百人中百人が


 「女の子だよね?」


 という問いをそもそも発することもなく女の子前提で話をし始めるだろうし、今みたいに男子の制服を着ていても、百人中百人が


 「男装した女の子でしょ?」


 と返してくることは確実で、その後


 『そうだよ、やっぱり女の子だよね?』

 『あなたもそう思ってました?いや実は私もでして。』

 『超絶可愛いよね。』


 と、あとから二十人程度は余計なのがワラワラ集まってくるので最終的には百人中百二十人ほどに膨れ上がる、それが氷岬広奏の容姿なのだった。


 木刀術、などと言っても、本当にチャンバラ程度のお遊びなのだろうと伊識が思うのも無理はない。


 「ごめんね、伊識。練習行かなくちゃ。先に行くね。」


 ベンチから立ち上がり、パタパタと制服をはたいて、カバンを手に取り、広奏は急ぎ足で公園の出口に向かった。


 「あ・・・。」

 「いいよ、伊識。今日バイトでしょ。伊識も気を付けてね。」

 「あ、ああ。」


 一緒に駅までは付き合おうか、と言おうとしたその言葉を、広奏はみなまで聞かず、『あ』の一言だけですべて理解して言葉を返してくる。昔ながらの付き合いのなせるワザなのだろうが、そんな『自分のコト何でも分かってくれている』広奏に伊識は心を揺さぶられて、それがまた例によって『あー何でコイツは女じゃないんだよ!俺の彼女じゃないんだよ!』という心の叫びとなって、心の中に響き渡る。が、表向きは平静に


 「じゃ、またな。氷岬も気を付け・・・。」


 と言いかけて、伊識は手にしたギリギリさんの、食べ終えてむき出しになった木の棒に目をやり、そこに押された焼印の文字を読み取る。


 『ウフン、大当たりよ。買ったお店でギリギリさん一本と交換してね、ウフン。普通のギリギリさんだけよ、ウフン。『大人のセクシーギリギリさんダイナマイト』とは、ウフン、交換できないの、ウフン。』


 (何だ、こりゃ・・・ウフン多いな。)


 伊識は公園を出ていこうとする広奏に


 「お~い、俺のギリギリさん、当たったぜ~。」


 と叫ぶ。


 広奏が買ってくれたものなんだからこの当たりは広奏の権利、だからこの棒は広奏にやるよ、ということを身振り手振りで何とか伝えようとする伊識に、広奏は振り返って


 「良かったね~伊識~。それは伊識の当たりだから、あげるよ~。」


 と言って、手を振ってきた。


 「お、おう、そうか・・・サンキュー。」


 伊識はそう言って、ギリギリさんを持った方の手で、広奏に力なく手を振り返した。


 なぜ『力なく』だったかというと、広奏の手の振り方、全体の仕草、遠くからでも分かる優しげな表情が、まさに別れ際の恋人が見せるそれみたいで、また心の中で


 (あーくそっ、何であいつは女じゃないんだ・・・!)


 という思いが頭をもたげ、それで心がまたいっぱいになってしまい、手を振る動作に集中できなかったから、である。


 そしてまた、ブンブン、と頭を振る。


 (結局、俺が一番最低なんだよな・・・。)


 小学生、中学生の時分に広奏の周りではやし立てていた連中のように、伊識は広奏に


 「お前って、女の子みたいだよな。てか、女の子そのものだよな。」


 と口に出して言ったことはこれまでの人生で一度もない。心の中では何十万、何百万回と繰り返していたが。


 広奏が女の子みたいで、女の子であってほしくて、本当に可愛くて、優しくて、自分の彼女だったら・・・という思いは、伊識が他の誰にも負けずに持っている自信がある。


 ただ、口に出しては言わないだけで。


 (俺も、他の、広奏をからかっていた連中と同じ・・・いやそれ以下だ。)


 広奏を守るため、というより、自分と同じ考えを持つ同類に対する敵意から『いい加減にしろっ。』と立ち向かったのではないかと、成長してある程度冷静に自己分析ができるようになってから思い至るようになっていた。


 そして自己嫌悪に陥るわけである。


 (広奏、ごめんな・・・俺、お前のこと・・・そもそも、とっくにフラれてるはずなのにな・・・。)


 自分で自分のことが分からなくなってくる。ブンブンと頭を振って、自分のゲンコツで自分の頭をゴツン、と殴りつける。

 そのまましばらくの間、遠くなる広奏の姿を見送って、伊識はベトつきの残るギリギリさんの棒を見つめる。


 (交換はまぁ・・・いいや。)


 二本目を食べられないような胃袋ではなかったが、広奏から譲られたこの当たり棒を手離す気になどなるはずもない。


 伊識は公園の水場に向かった。


 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


 広奏は広奏で、公園を出てからは一心不乱に前を向いて歩いていたものの、どうしても我慢できなくなって振り返り、遠くに見える公園に目をやる。等間隔に並ぶ木々の間から、伊識の姿をまだ見ることができた。


 洗い場でギリギリさんの棒を洗い、ブンブンとその棒を振って水気を切り、ハンカチでふいてから、律儀に制服の上着の胸ポケットにしまう伊識の一部始終の動作を見届けてから、広奏は、うつむき加減で、小さな声で何事かをつぶやく。


 それは声の大きさからして伊識には絶対聞こえないはずなのだが、まるで聞かれてしまったかのように、頬を赤らめて、踵を返して駆け出す。


 「ん?」


 何かの気配を感じて、伊識も再び振り返る。


 公園の木々の間から、一生懸命に駆けていく広奏の後ろ姿が見えた。


 「氷岬、まだあんなとこにいたのか・・・間に合うのか?」


 伊識は公園内に設置された柱時計に目をやり、まだバイトまで少し時間があることを確認し、再びベンチに腰掛けて、しばらくぼんやりすることにした。


 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


 「はぁ、はぁっ・・・・はぁっ、はァッ・・・・。」


 広奏は、ほぼ全力に近い速度で駆けながら、まだ火照る頬を両手で押さえつつ、さっき伊識には聞こえなかっただろう言葉を、息を切らしながらも、何度も小さな声で繰り返す。


 「あのね、伊識・・・・ボクもね、ボクも・・・・ずっと『自分が女の子だったらな。』って、思っていたんだよ・・・・それでね・・・・それで、伊識がボクの・・・・その、あの・・・・ボクだけの・・・・。」


 その先が言えない。何度も何度も途中までのそのつぶやきを繰り返す。そして最後に


 「伊識・・・・好き。大好き・・・・だよ。」


 と言って、広奏の頬はさらに赤く染まり、それまで我慢して瞳にためていた涙が一筋、頬をつたった。


 「待ってて、伊識。」


 広奏の言葉は、現実には伊識に届いていなかったと断言できる。物理的に不可能な距離からの囁きなのだから当然である。


 当然であるはずなのだが、公園に一人残された伊識は


 「あれ?・・・なんか体、熱いな・・・熱でもあんのかな、俺・・・。」


 と、広奏と同じくらい頬を赤らめつつ、不思議な何かを感じ取ったりもしていたのである。


読了ありがとうございます。万人受けする話ではないことは重々承知ですし、何より作者の文章力が最悪なのも重々承知です。お読みいただいた方には本当に感謝しかありません。

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