03.
「なっ、何を……義姉上っ……!?」
何って──じいさんが、私の夢の中で、生き返ったのだ。それも、ずいぶんと若返って。そんなの、抱きしめてもうどこにも行かせないしか手はなかろう。
「じいさん、会いたかった……もう決して、離すもんか……」
「っブフォッ!」
まるで誰かが吹き出すような雑音が聞こえてきたが──そんなの構うものか。
冷たくなっていない、あたたかい身体。
──満鶴さんだ。間違いなく、満鶴さんだ。
私の背中に、その腕が回されることはなかろうとも──もう決して、離してやるものか。
「……ゲールズ」
「っは、はい」
「あっ、義姉上……早く離れてください!」
すると、無粋にもゲールズとやらと仮の弟が、二人がかりで引き剥がそうとしてくるが──絶対に、何がなんでも、離すものか。
生涯連れ添ったじいさんを亡くして、もうあんな辛い思いはごめんだ。
「……もう、私をおいて逝かないでくれ」
私がそう呟いた、その瞬間──突然、頭から全身をサーッと何か冷たい液体が流れ落ちていく感覚に、思考が止まった。
吃驚して思わず満鶴さんから離れるが──衣装に少しだけかかってしまっている。
私はといえば頭からつま先まで濡れそぼっているが──目の前の顔を見たとき、そんなことはどうでもよくなった。
──赤い。
ほっぺただけでなく、耳まで、赤く染まっている。
それに見開かれたその目は、ゆらゆらと動揺で揺れている。
満鶴さんのこんな顔は、見たことがない。
「……ジル?」
しかし、そのたった一言ですぐに、その身体はサッと離れていってしまった。
「あろうことか、婚約者の騎士に盛るとは……」
その下品な台詞に、見上げれば──嘲笑うように歪んだ唇。
氷のように冷え切った碧色の瞳。
「……かの公爵家に一人、気狂いが紛れこんでいるようだ」
その右手には傾けられた水差し。
その侮辱の言葉──この冷たさ──だんだんと震えていく身体──逆に熱を帯びていく身体──頭から水をかけられ、辱められたという屈辱。
すべてが本物だった。
静まり返った部屋に、ドアのノック音がやけに響く。
「入れ」
ドアが開く音がして、誰かが入ってきた。
「……これは王太子様。いらっしゃったとはつゆ知らず、失礼いたしました」
「よい。おまえの娘に、用があるのだろう」
王太子はそう言いながら笑みを深くする。
その視線の先を辿れば、おれと同じ燃えるような赤毛に、そっくりの吊り上がった目。
これまた高級そうな、小洒落た衣装を身に纏い、口髭を生やした壮年の男。
どうやらこれが私の父親らしいが、びしょ濡れになっている娘を見て何か言うことはないのか──?
王太子様のお手元を見て、何か察したのかもしれないが。
「……苦渋の決断だった」
私を真っ直ぐに見据えて放たれたそのただ一言が、どうやらこれは夢ではないらしいと悟った今──ひどく心をざわめかせる。
「ポーラルガスト家の当主として、おまえを勘当する。一時間だけおまえに与えよう。その間に荷物を纏め、この屋敷から出て行くのだ」
──何を言われているのか、よくわからない。
「それならば、手切金が欲しかろう」
王太子はカランと水差しを捨て、胸ポケットから何かを取り出した。
「たっぷり弾んでやろう。さあ、これだ」
何かを投げつけられ、それは私の目の前に落ちた。
「……。」
それは一輪の──たぶん、薔薇だった。なんか、枯れているが。
「くくっ……はーっはっは!」
そして王太子は大袈裟なくらいに腹を抱えて、大笑いしている。
とにかく一言言わせてくれ──解せぬ。
◯
夜の帳が下りた道を、一人歩く。
ハンドバッグを一つだけ携えて。
わけも分からぬまま、知らない男との交わした覚えのない婚約を破棄され、見覚えもない父親に勘当を言い渡され、路上に放り出された。
家族という面目らしいのに、父親も弟も、おそらくいるのだろう母親も、最後に誰も顔を見に来なかったし──一体この世はどうなってるんだ。
本当ならば、じいさんの葬式を終えて、今晩だけはわが家に泊まれることになっていたはずなのに、一体全体、どうしてこんなことになった?
こんな世にも奇妙な目に合うとは──まるで自分にだけ、他の人には見えないお化けが見えているかのようだ。
奇妙で恐ろしくて、心細い。
でもそれと同時に、嬉しかった。
私は自由だ。
丈夫な足があり、若さも元気もある。
だから、どこへでも行けるだろう。
それだけで万々歳だ。
それに今の私は器量が良い──これは儲けものだ。
宿屋だってすぐに見つかるだろう。
そこで、これからどう出るか作戦を練ろう。
すべてはあの、若かりし頃の満鶴さんと再び結ばれるためだ。
とりあえず、通りがかった人たちに手当たりしだい、まちまでの道を聞いたので、この道で合っていると思うのだが──まだ、ひとつの灯りも見えてこない。
あの屋敷を出る前に一度時間を確認したら、夕方の6時10分だった。
あれから一時間ほど歩いている気がするから、今は夜の7時頃か?
もはや人通りもなくなり、月明かりだけが頼りだ──と思っていたら、後ろのほうから足音が聞こえてきた。
異様に早い足音だ。だんだん近付いてくる。先を急いでいるのだろうか──いやでも、申し訳ないが、この道で本当に合っているのか確かめておきたい。
そう思い、振り返ろうとした瞬間、息が出来なくなった。
まるで大蛇が巻きつくように、何かが──恐らく人の腕が、巻きつけられ、締めつけられ──
追い剥ぎか?!
その腕を振り解こうと必死にもがくが、相手の力が強すぎる──!
「ゔっ……ガッ……」
苦しい──息が出来ない──!
遠のいていく意識の中、足が引き摺られ、どこかへと移動させられていることだけが分かった。
もう駄目だ、気絶している内に身ぐるみ全部剥がされる──と思ったとき、突然、首の圧迫がなくなった。
解放された。
必死で呼吸するが、思わず咳込んでしまう。
とにかく、逃げなくては──そう思い足を踏み出した瞬間、暗くて見えなかったが、「シュッ」という、何か、まるで──時代劇で侍が鞘を抜くときのような音が響き渡り、まだ目の前に誰かいるのだと悟った。
──咳き込んでいたときハンドバッグくらい奪えたはずなのに、それはまだ手元にある。
これは追い剥ぎではない。
私を、殺すつもりで──
そう理解した瞬間、恐怖だけがあった。
逃げる隙も、後退る隙さえも与えられなかった。
何かが切り裂かれる音と共に、瞬時に強烈な痛みに襲われていた。
痛い、痛い、痛い。
左胸が痛くて熱い。
どくどくと血が脈打っては、噴き出していく感覚。
死にたくない──
まだ死にたくない──
「っア゛……」
じいさんが死んで、私も早くそっちに連れていってくれだなんて思っていたのに──死に際になって、これだ。
とんだ馬鹿だな、私。
「ま、まだ……っカハッ……」
まだ私は死ねないんだ、と威勢を張るつもりが、吐き出されたのは濃密な鉄の味だった。
全身の痺れと、薄れゆく意識の中で、私はあのぬくもりをもう一度だけ、と願った。