騎士が闇に堕ちるとき
初めて会った時、ランちゃんはまるで濡れ鼠のようだった。
娼館の前で立ち尽くす彼女に一時目を奪われて、けれど声をかけることは出来なかった。俺の目的は娼館の中にあって、それにきっと俺なんかに声をかけられたら今でさえ辛そうな彼女が更に可哀想になってしまうと思った。
結局、その日も童貞を卒業することはできず、俺は娼館を出ることになった。王都内やその周辺の街の娼館ではもう一通り門前払いされた後だ。別に性欲を発散したいわけじゃない。もちろんそれが叶えば僥倖だが、それよりもただ一度でいいから女性を抱いてみたかった。恐らくプライベートでは一生叶わない願いだろう。それでも、人肌を求めた。女の子と素肌を晒して抱きしめ合うのが夢だった。馬鹿みたいだと思われても仕方がないけれど、そのために給料を貯めて馬に乗って片道丸一日かかるここにやってきた。
絶望に暮れていた俺に声をかける人がいた。柔らかな女性の声。後ろから聞こえたそれに振り返れば、先程店先で立ち尽くしていた女性だった。俺を心配して声をかけてくれたらしい。俺は彼女を無視してしまった己が酷く恥ずかしくなった。
娼館の中に居たような華やかな美人ではないけれど、誰にでも好かれそうな可愛らしい人。そして、見ず知らずの俺にも声をかけてくれるような優しい人。
俺は彼女がこの娼館の従業員だと希望を抱いた。期待した。けれど、彼女の真実は残酷で、その日の食事にも寝床にも困っていて、目の前の娼館で働くことを断られた後だった。
俺にその身を買ってくれと願わなければならないほどに切羽詰まっているのだと言うことがわかった。けれど、そんなの彼女が望んでいる筈もない。確かに俺はお人好しだと言われるし、女の子には免疫もないから頼られたりしたら滅茶苦茶弱い。
それでも、ここで彼女の弱みにつけ込んでまで、彼女を好きにしたいと思えるほど俺は落ちぶれているつもりはなかった。
もし叶うならば、今だけの関係じゃなくて、これからも彼女と仲良くしたいと思った。邪な思いよりも確かに俺は彼女を助けてあげたいと思った。
それが、どうしたことだろう。
最近、俺の理性は彼女によってグラグラと揺さぶられ続けていた。試されているのか?と思うほど。彼女は俺に抱きついたり、一緒のベッドで寝ようとしたり、と明らかに友人以上のスキンシップを求めてくる。
けれど、俺は知っているのだ。
彼女が俺に引け目を感じていると言うことを。傍若無人に振る舞いながらも、その裏で俺に嫌われたくないって、思ってくれていることを知っている。
それは、きっと俺が彼女にした経済的支援のせいだと言うことも。だからこそ、彼女は俺にその身を差し出そうとするのだろう。友人という言葉をかさに確かに彼女の生活に介入し過ぎたかもしれないけれど、そんなことを彼女に気にしてもらいたいわけじゃない。
心から、彼女が俺の友人としてそばにいてくれるだけで、俺にとっては十分すぎるほど。むしろ、返したりないほどの喜びをくれた。
そんな彼女に手を出すなんて、そんなこと絶対にしたくない。彼女に会うまでの俺はなんて馬鹿だったのだろう。好きでもない女の子を抱いたところで虚しいだけだと、どうしてわからなかったのか。こんなにも恋焦がれる存在がいて、その存在が少しでも幸せでいられる手助けが出来るなら、肉体的な触れ合いなど不要とさえ思えるのだということを、俺は知ってしまった。
高鳴る心臓も、彼女を思って張り詰めるそこも、馬鹿みたいに吹き出す汗も、全て彼女だけだ。それでも、俺は彼女に不幸にだけはなって欲しくなかった。俺なんかに、引け目を感じて、その体を差し出す必要なんてないんだ。いずれ彼女は自由に愛する人を見つけて、その相手と愛を育めばいい。俺はその時友人として彼女のことを祝福できればそれでいい。彼女は明るくて少しわがままで優しくてとても甘えん坊だ。きっと男は多かれ少なかれ魅力的な彼女に惹かれるだろう。彼女に愛されて、愛を返さない男なんてきっといない。もし居たら、そしたら、その時は、俺が彼女を慰めてやればいい。俺は彼女の友人として。
「ランちゃ…」
ランちゃんの働くお店の前、彼女の仕事が終わる時間に合わせて俺はそこを訪れていた。もう夜も遅い。王都内とはいえ、女の子一人で街を歩かせるのは危ない。決してそこまでこの王都の治安は悪くはないので、迎えに来てしまう理由は自分よがりでしかないのだが。
一昨日、気まずい別れ方をしてしまった彼女となんとか仲直りがしたくて俺はここを訪れていた。
お店から出てきた彼女は1人ではなかった。2人の大柄な男に挟まれ、そしてその2人の腕に両腕をそれぞれ絡めている。笑顔を浮かべて楽しそうに話をする3人を俺は呆然と見送る。
俺の発した声は彼女に届くことなく街に消えた。
わかってる。彼女があんな風に腕を絡めることは俺に対しても良くあるから。それは単なる親愛の証でしかなくて、友達に対して気軽にすることだ。
けれど、見せつけられた現実に、胸が痛むのも事実だ。
普通に可愛らしい彼女と、俺ほどではないけれど不細工な3人の組み合わせは明らかに人目を引いていた。彼女があの2人にどのような感情を抱いているのかは知らないが、きっとあの2人の男達は彼女に好意を寄せているだろう。
俺は思わず3人の後を追い掛けていた。
彼女は誰に対してもわりとスキンシップが激しいから、あの2人が彼女に不埒なことを考えるかもしれないと不安になった。
彼女の力ではあの大柄な男2人にはどう抵抗しても敵わないだろう。もし、彼女の願わない何かが起きれば俺が助けなければ。
彼女と2人の男は近くの酒場でお酒を飲んで楽しそうに過ごしていた。俺が危惧したような何かは起きることなく、夜中に近くなって3人は酒場を後にした。彼女の家まで2人が送り届け、彼女はへにゃりと笑って手を振って別れた2人を見送る。
その無防備な笑顔を見て、2人は早く部屋の中に入れと促している。その気持ちはよくわかった。
バタンと彼女が部屋の中に姿を消し、辺りに静けさが落ちる。俺は嫉妬に狂いそうな己を律して、帰宅の途についた。
俺はなんて、なんて残酷なことを願ってしまったのだろう。あの2人に襲われた彼女を颯爽と助けて、彼女に世間の厳しさを知らしめてやりたいだなんて。
どう考えても、おかしい。
彼女には誰よりも何よりも幸せでいてもらいたいのに。不幸になんてあって欲しくないのに。




