ここでしか会えない君へ
「はい、今日はここまで。期末、赤点とったら夏休みに補習だからな」
帰りのSHRが終わり、俺はそそくさと帰り支度を始めた。
今は部活もテスト週間で休みだ。さっさと帰って、赤点を取らない程度に勉強しておきたい。
俺は凝り固まった肩を回しながら、チラッと同じクラスのある女子を見やる。
(一緒に勉強とかしてみたいなー……)
水木七海。
女友達と楽しそうに談笑している、健康的に日焼けした肌と、ポニーテールが特徴的な女の子だ。
男子相手でも変にキャラを作ったりせず、ざっくばらんな態度をとってくれるところから、学年でも密かに、いやかなり人気が高い、と俺は見ている。
(誘ってみるか? いやでも接点ないしな。いきなりいったらヤバい奴って思われそうだし……)
女友達も多い水木は、いつ見ても同じ女テニやクラスメイトの女子に囲まれている。
あの輪に単身で切り込み、勉強会に誘うのはなかなかハードルが高かった。
俺は水木にも聞こえる声量で、さりげなく近くの男友達に話しかける。
「な、なあ。勉強会やりたくね? クラスの皆でさ」
「え? いや、俺今日デートだから。すまん」
(リア充が……)
すげなく断られ、友達はスリッパをパタパタと鳴らしながら帰ってしまった。
くそ、テスト週間だぞ。勉強しろよ。
心の中で悪態をついていると、水木の視線がこちらを向いていることに気がついた。
とりあえず、にこっと笑顔を作ると、水木もはにかむように微笑んでくれた。
(うわ――めっちゃ可愛いなやっぱ)
ドキドキと高鳴る胸を押さえつつ、俺は天井を仰ぐ。
もう、今日はこれだけで十分だ。
友達と別れて教室を出ていく水木を、幸せな気持ちで見送った。
と、そのときスマホの画面にラインの通知があった。
何の気なしに目をやると、思わず飛び上がりそうになる。
『ななみ:お疲れ! これから暇? 勉強会しない?』
(……もしかして水木か!?)
大急ぎでグループラインのメンバーを確認すると、やはり同一人物だった。
アイコンの画像も、設定しているBGMも同じだ。
まさか、さっきの俺の台詞を聞いてくれたんだろうか。
俺は震える手で返信文を打ち込む。
『鈴見ケント:お疲れ! 全然いいよ!』
一日千秋の思いで返信を待っていると、二分ほどで返答がきた。
『ななみ:図書室で勉強するから数学教えてくれない? ベクトル分かんないんだよね』
俺は思わず苦笑した。
文系の水木は、数学Cの範囲であるベクトルをやる必要はない。
あんまり数学が得意ではなさそうだし、勘違いしているのだろう。
しかし、もしかしたら理系への転向を考えているのかもしれないし、塾で習ったから教えることはできる。
野暮なことは言わない方がいいだろう。
『鈴見ケント:おけ! すぐ行くわ』
俺はウキウキしながら図書室への道を急いだ。
時刻は午後四時二十分。
窓から見える空は、燃えるように赤かった。
◆
(……おっそいな。何してんだ?)
一時間後。
俺は図書室の机に勉強道具を広げ、黙々と課題に取り組んでいた。
すでに時刻は午後五時を大きく回り、下校時間の六時になろうとしている。
あれからすぐに図書室に来たが、水木の姿はなかった。
五分おきに返信がないかチェックしているものの、
『ななみ:待ってるから』
という短いメッセージが返ってきただけだ。
(まあ、急用ができたとかだろ。別に大したことじゃない)
そう言い聞かせつつも、ため息が漏れるのは抑えようがない。
せっかく憧れの水木と、同じ机で勉強できるチャンスが巡ってきたと思ったのに。
上手く話せば、毎晩ラインをする仲になれたかもしれない。
ひょっとすると、遊びに誘えるようになったりして。
そんなありえたかもしれない空想が。次々に脳裏に浮かんでは消えていった。
(女テニで組んで、俺をネタにしようってことじゃないよな?)
ふとそんな可能性に思い至り、俺は背筋が寒くなった。
もちろん、水木本人はそんな真似はしないだろう。
だが、女テニにはたちの悪い女子が何人かいる。
そいつらが水木のスマホを取り上げ、俺をここに呼び出した……という筋書きも、完全には否定できない。
俺は居ても立っても居られなくなり、もう一度図書室中を探し回った。
その手のドッキリは、仕掛け相手(要するに俺)をどこかから観察しているはずだからだ。
そうでなければ、ドッキリとして成立しない。
しかし、これも外れだった。
高校の図書室に、もともと隠れられる場所なんてほとんどない。
つまり、ドッキリの線も消えたわけだ。
(……いや。待てよ。もしかして自習室の方か?)
俺はハッとして立ち上がった。
図書室から直接入れる小部屋のことだ。
昔は図書室とつながっていたらしいが、最近になって壁を増築し、別の部屋に分けたらしい。
あそこは自習スペースとも呼ばれているから、一応図書室と言えないこともない。
急いで荷物をまとめ、自習室のドアを開ける。
「もう、遅いよ」
「わ、悪い。ずっとこっちにいてさ……」
すると、窓際の机についていたポニーテールの女の子が、むっとしたようにこちらをにらんでくる。
怒った顔も可愛いな、なんて思いながら、俺は水木の対面に座った。
机は一定の間隔で仕切りが設けられているので、利用者同士が視界に入ることはない。
本当は隣にいきたいが、今自習室にいるのは俺と水木だけだ。さすがに気が引ける。
と思っていたら、水木がこちらをにゅっと覗き込んできた。
真っ赤な夕日をバックにした水木の顔は、いつもよりずっと大人びてみえた。
「なんでそっち?」
「え?」
「そこじゃ教えてもらえないじゃん。隣来なよ」
「お、おう……」
(うおおおおマジかよ! いいのか!? カップルみたいじゃね!?)
頭の中で大騒ぎしながら、俺は水木の隣に勉強道具を運んでいった。
「じゃ、先生よろしく。ここの問題なんだけどさ――」
教室のときと同じ調子で、水木は気安く椅子をこちらに寄せてきた。
一人用の机を二人で使っているため、肩同士が触れ合いそうだ。
(夢じゃないのか? こんなに近くで水木と話せるなんて)
問題文を読み上げる小さな口。
垂れた前髪を耳にかけ直すしなやかな指。
唇から紡がれる言葉は、鈴の音のように耳触りがいい。
と、俺は水木の服装に目を留めた。
もう七月なのに、水木は制服の上から厚手のカーディガンを羽織っていたのだ。
「それ、脱げば?」
「え?」
「暑くね?」
「……ううん。わたし寒いからこれでいい」
「マジ? なら冷房切るわ」
「え、いいの? ありがとね」
花が咲くように笑顔になる水木。
本当は今でも暑かったが、仕方あるまい。
俺は空調パネルのところに行き、電源ボタンを押した。
温度設定は二十七度。ほとんど外気温と変わらないほどだ。
これで寒いとは一体どういうことなのか。
まあ、男子の俺が暑がりなだけだろう。
俺は深く考えずにきびすを返す。
もう三十分もしないうちに下校時刻になる。
今日というこの時間をめいっぱい楽しまなくては。
と、水木は窓際に立ち尽くし、外の景色を眺めていた。
「何見てんだ?」
「話あるんだけど、いい?」
近づこうとすると、先に水木が振り返った。
また夕日が逆光になっていて、表情はよく見えない。
けれど、真剣な面持ちを浮かべていることだけはおぼろげに分かった。
普通、『話がある』なんて前置きをする時点で、よほどの用件であることは明白だ。
どくん、と心臓が跳ね上がり、頭に血が上り始める。
おいおい、本当にこんなことあるのかよ?
「あのね、わたし、ずっと前から、その……」
「う、うん」
肝心な部分を言いよどみ、手をもじもじしながら水木は下を向いてしまう。
な、何だ? 焦らさないでくれよ。もうすぐチャイム鳴るぞ。
ていうか、告白だよな? これ。
ここにきて肩透かし食らわすのはなしだろ、なあ。
俺は頬を伝う汗を、腕で乱暴に拭う。
と、そこで俺はあることに気がついた。
汗を拭こうとしてうつむいた拍子に、水木の足元に目がいったのだ。
白のハイソックスに上履き。
うちの高校は何年か前から、校内では専用のスリッパを男女ともに履くことになっている。
靴下も、そのタイミングで汚れが目立つ白から黒にするよう校則で指定された。
今、校内で上履きを履いている生徒なんて、一人もいないはずだ。
(……なんで上履きなんだ?)
何気なくそう思いながら、顔を上げようとしたそのときだった。
ガラガラ! とやかましい音を立てて、背後にある引き戸が開いたのだ。
驚きのあまり十センチくらい飛び上がった俺は、後ずさりながら振り向いた。
そして、唖然として目を見開く。
「……水木?」
「マジごめん! ずーっと部活の先輩に捕まっててさ。一年がたるんでるから何とかしろとかって、もうめっちゃ言ってくるのよ。マジごめんね!」
「ああいや、その……」
そこにいたのは、紛れもない水木七海その人だった。
顔の前で両手を合わせ、必死に謝ってくる。
見間違えるはずもない。本物だ。
俺は恐る恐る背後を振り返った。
ついさっきまで話していた水木七海は、もうどこにもいなかった。
「あのさ、水木って双子とかじゃないよな?」
「え? うち一人っ子だけど。前も話したよね?」
「ああ、だよな。うん。悪い」
俺は愛想笑いを浮かべながら、両手をこすり合わせた。
真夏なのに、手足の先が凍えたように冷たかった。
「勉強会、明日にしないか? ベクトルだっけ? 聞きたかったのって」
「ベクトル? うち文系だからそんなのやんないよ」
「あー……そりゃそうだわ。ははは、悪い」
「もう、鈴見くんボケすぎ」
二の腕のあたりを小突かれ、俺は苦笑いする。
脇の下がじっとりと汗で濡れているのを感じた。
一秒でも早く、この部屋から抜け出したかった。
ぐわんぐわんと揺れる視界の中、俺はやっとの思いで勉強道具を広げていた机にたどり着く。
ノートを手にとったとき、俺は心臓が止まるかと思った。
開いていたページに、何者かからの伝言が残されていたのだ。
『ずっといっしょ』
とんでもない筆圧で書かれた文字は、何ページ後ろにも渡って強烈な書き跡を刻み込んでいる。
俺はノートを丸めてゴミ箱に叩き込み、シャーペンも教科書も一緒くたにスクールバッグの中に押し込んだ。
手元が狂い、消しゴムが遠くに飛んでいったが、かまっている余裕はない。
「どうしたの? そんなに急いで」
「なんでもない。今日、晩飯家族で食いに行く約束だったんだ。早く帰らないと」
心配そうに近寄ってきた水木にそう返し、俺はスクールバッグを背負った。
足早に部屋を横切り、ドアに手をかける。
だが、開かなかった。
右にも左にもピクリとも動かない。
水木が入ってきたときにはすんなり開いたのに。
俺ははっとして壁にかかった時計に目をやった。
長針がカチリと十二を指し、まさに午後六時になったところ。
鳴るはずのチャイムは、鳴らなかった。
「ずっと一緒でしょ?」
上履きで床を踏みしめる音が、ゆっくりと近づいてくる。