ドクター伏見の生態記録
ペタ スー ペタ スー…
伏見さん来ますね
マイコは廊下からの独特な足音を聞き分け独り言のように言った。足音と同時にビニール袋の擦れる音も特徴のひとつだ。
ハエ研ドクターの伏見は昼過ぎに登校し、夕方にゼミがないときにはみんなが帰ろうとする頃に現れ、明け方帰宅するという昼夜逆転の生活を送っている。登校時には決まって1.5Lコーラを所持している。伏見の足音に付随するビニール音はこのコーラが入れられているためである。
伏見の足音のペタ、は単なる歩行の一歩ではない。体を前傾させて反射で繰り出される支えのペタであり、このペタが遅すぎると転んでしまい、早すぎるとただの歩行になってしまうというもので、伏見の足音はこの究極の一歩の連続で生じるものなのである。
伏見のこの足音は、一聞すると何かを引きずるようなホラー的な音だが、実は夜の麻雀と実験に1日のエネルギーを費やす伏見が編み出した究極の省エネな歩き方なのだと、マイコは分析した。マイコは以前、学部生の頃の伏見の写真を見たことがある。長身なうえに細身で格好良く、このままだったなら普通に彼女が居てもおかしくないと思われる人になっていただろうと素直に思えた。しかし今や昼夜逆転な上にコーラ1日1.5L、食べるものといえば一人でカップ麺か、夕飯の友とパスタ、スタ丼、ラーメンで、不健康道まっしぐらである。たまに食する健康食といえば研究室で行われる芋煮会や忘年会で振る舞われる鍋くらいなもので、この生活を何年も送っている伏見はとっぷりと緩んだ肉に包まれているのである。
そんな伏見の生態はマイコにとって興味深いものであった。学生部屋での座る位置は最も離れた距離にあり、伏見と同学年の滝野はマイコがハエ研に配属になった当初からよく話しかけてくれ、それ故マイコも滝野に気兼ねなく話しかけるが、伏見は普段から目を合わせることも話しかけることも殆どなかった。それでも距離を置かれていて居心地が悪いという感じはなく、目を合わせたり話さなくてもそれが自然で親しみをおぼえるくらいなのだ。なぜだろう、マイコはそんな伏見のどこに魅力があるのか不思議だった。
滝野のように、人とコミュニケーションをとって仲を深めなくても、伏見のもつ雰囲気で距離を縮めることが出来ているということなのだろうか。
ハエ研には飼育瓶洗いの他に餌作りの当番がある。使い終えた大量の飼育瓶を洗浄した次の週の月曜に、助教授を含むハエ研メンバー全員が飼育しているすべてのハエの餌を当番ひとりが作るという過酷な仕事である。飼育瓶洗いと餌作り、どちらがマシかというのはメンバーによって回答が異なるくらいに両方ともキツイのである。前の週に洗った大量の飼育瓶にショウジョウバエの大好きな酵母を入れた寒天培地を分注するのだが、大鍋にコトコト煮込まれる餌からはモァっと胸やけするような酵母の匂いが絶えず発生し、実験室中に充満する。マイコはこの臭いが苦手だったが、体にも吸着し不快で仕方がなかった。ハエ研には実験室が2つあり、餌作りや瓶洗いをする実験室ではない方にマイコ個人の実験机がある。もしもう一方の実験室だったなら、自分が当番ではない時にも酵母臭が全身にまとわりつき、実験をするというモチベーションダダ下がりの月曜日を毎週過ごすことになる。
マイコがハエ研に配属になって初めての餌作り当番の時のことだった。助教授直々の指導のもと、問題なく飼育瓶何百本分の餌の分注をこなした。
花咲さん上手いやないのぉ
ふぅん なかなか初めてでこんなに同じ量をパッパッと入れられないのよ、いまだに下手くそなヤツもいるからなぁ
ふぅん リズム感があるのかなぁ
助教授にお褒めの言葉をいただいてマイコは安堵した。初めてのことがあると緊張して口内炎が出来たり胃痛がしたりと何日も前から頭の中の大部分を占めて気にしてしまう性分なのだ。
餌作りの終わりが見え始めると、
「もうええやろ 最後の片付けまでしっかりやっとけよな ほんじゃ」
とペタペタ足を踏み鳴らして助教授は実験室を去っていった。
ありがとうございましたー
マイコはもうすぐこの過酷な当番が終わるという解放感をじわりと感じつつ、とろっとした餌がまとわりついた鍋を洗い続けた。寸胴鍋の底には焦げ付いた餌がしぶとく居座っていてなかなか手がやける。洗い残しがあるとズボラだのテキトーな人間だのというレッテルを貼られてしまうのではないかという自分への評価が気になるために、マイコは焦げ餌と闘っていた。
餌との闘いに勝利したマイコはできたての艶々な餌が入れられた大量の瓶をクリーンベンチへ積み上げ、スライド扉を下げてめでたく終了した。この時を待っていたとマイコは達成感で胸がいっぱいだった。
全身に酵母臭をまとわせて学生部屋へ戻ると、滝野が「おつかれー」といち早く労いの言葉をかけた。滝野のそんな自然な気配りは上やくそう、いやエリクサー級だなとRPG派のマイコは心の中で大きく頷いた。
餌作り当番のときは何時間も業務に仕えるため、遠い自宅から通っているマイコの場合、電車やバスの時間から逆算して正味1、2時間の残り時間に実験はできないのであった。そもそも任務中は何時間も立ったままのために疲労困憊で実験をする体力も気力もないのである。
過酷な労働を終えたのだからすぐさま帰って良い気もするが、助教授に「もう帰ったのかぁ」なんて言われたら、文句も言わずひたむきに努力し、しかも餌の出来が良いという評価が下がってしまうおそれがあるため、帰りたい気持ちを抑えてもうしばらく研究室にいることにした。マイコはとりあえず明日実験で使用するハエたちに挨拶に行った。マイコは狭くて殆ど人と会わないハエの保管部屋に居るのが好きだった。ハエ研メンバーそれぞれに升目のあるステンレス製のカゴが与えられていて、そこにそれぞれの研究に必要な遺伝子型のハエの飼育瓶が収まっている。マイコはメンバーのカゴをさらりと見渡した。最近研究室で見掛けない井口冬子のカゴは全滅した飼育瓶が半数以上を占め、死骸だらけでカビが生えている地獄のような飼育瓶内に瀕死状態のハエがちらほら見られた。「あきらめないでね」とマイコは生き残りの勇者たちにエールを送った。井口冬子の次に見掛けない伊藤のカゴには必要最低限と考えられる程少ない本数がカゴの中に悠々と佇んでいた。「らしいな」と呟き上段を覗くと、そこはドクターの伏見と滝野のカゴがいくつも並んでいた。100本以上はある飼育瓶だが、百種類の遺伝子型のショウジョウバエが飼育されているわけではない。近々実験で使う予定の遺伝子型のハエは増やしておく必要があるのだ。マイコの場合は蛹になりたての個体を解剖するのだが、飼育瓶にいるハエが全て実験のタイミングに蛹になりたての状態になるわけではないため、飼育瓶を増やして実験に使える個体数を稼がなければならない。以前、2本の飼育瓶から蛹になりたての個体を解剖しようと試みたら、思ったよりもハエたちの成長が遅く、6個体しか集まらなかったことがあった。これでは助教授に「ちょっと少ないんじゃなあい?ガツンとやってよねぇ」とぼやかれるのが目にみえていたので、後日同じ実験を再びするはめになった。マイコはそれ以来、5本は揃えておくようにしていた。伏見と滝野の飼育瓶はさすがドクターと思わせる程に用意周到であった。使用予定の遺伝子型の飼育瓶は10本程準備されている。
あれ、新しい
マイコは滝野のカゴに真新しい艶やかな餌が入った飼育瓶を見つけた。先程出来上がったばかりの飼育瓶の中から、冷めてしっかり固まったものを取り出して早速使っていたのだ。新しくて柔らかそうな餌にショウジョウバエたちは嬉しそうに群がっていて、いくつか卵も産み付けられていた。マイコは、自分の作った餌を滝野とショウジョウバエたちが心待ちにしていたのだと知り嬉しくなった。「お待たせしました」マイコはハエたちに微笑みかけた。
ようやく視線が自分のカゴに留まり、マイコはここへ来た目的を思い出した。
「どれどれぇ…うん うんうん いけそうだね」と5本の飼育瓶を取り出し、幼虫たちの数や成長の具合をさらりと観察して満足気に頷いた。
それじゃ 明日お願いしますね
ハエたちに振り回され続けているマイコは神様に祈るかのように飼育瓶内のハエたちに手を合わせた。そして、「失礼しましたー」と誰もいない部屋に挨拶をして去った。
学生部屋へ戻ると助教授がマグカップを片手に立っていた。額には口元にあるはずの防塵マスクが装着されていた。伏見と研究か雑談かの話をしているようだったが、マイコを見るなり「おっ どや 実験進んでる!?」と毎度の挨拶を口にした。進んでるも何もさっきまで餌作りに立ち会ってたんだから進んでないの分かるでしょ、とムッとしたのでいつもよりぶっきらぼうに「今日は餌作りの当番なので」と冷たく言い放った。
なんやぁ つめたいじゃぁないのぉ なぁ
と助教授は伏見に同意を求めた。伏見は困ったような笑みを浮かべて「はぁ まぁ…」と小声で言い、マイコと助教授の顔をちらりと見た。「いつも通りです!」と露骨な苛立ちの顔つきでマイコは伏見と助教授の前を横切った。「お疲れさまでした!」上着を羽織り小さめの黒いボストンバッグを肩から掛けて、マイコは折り返しまた逆方向から伏見と助教授の前を横切った。助教授のからみは毎度鬱陶しいが、今回に限っては帰るきっかけを貰ったので内心は穏やかだった。
先週からの瓶洗い、昨日の餌作りの後も地味に当番の業務はあった。餌が十分に乾いた新しい飼育瓶1本ずつにスポンジの蓋をしていくという作業である。もちろんこれらの蓋も使いまわしで、実は瓶洗い当番の時に蓋を洗濯機で洗い、食器用の簡易的な乾燥機で乾かすという小さな仕事を並行してやっているのである。井口冬子の洗った蓋には洗い残しの蛹が付着していることが度々あり、以前その様を見た松井が、「うわぁ 信用できねぇな あの人が洗った蓋。 もしこれが原因で異物混入したら実験台無しだよ 怖ぇ」と不満を漏らしていた。自分はそう思われないようにしようと意気込んでクリーンベンチのある実験室へ入ったマイコは積み上げられた新餌の飼育瓶を見て昨日とは違う様子にしばし立ち尽くした。何かが違う、と昨日最後に見た脳内の映像と比べ、早々に答えが見つかった。
トイレットペーパー!
実は、クリーンベンチ内に餌瓶を積む際、異物が入り込まないように瓶の口を覆うようにしてトイレットペーパーを挟んで積み重ねることになっていたのだ。この場合の遺物とは殆どがショウジョウバエを意味する。ハエ研周辺は出所不明のショウジョウバエが普通に飛んでいる。おそらく古い飼育瓶から新しい飼育瓶へハエたちを入れ換える際に世に放たれた流浪ハエであろう。そんな遺伝子型不明のハエが未使用の飼育瓶に入り込んで産卵し、飛び去り、そうとは知らずに特定の遺伝子型のハエたちを移し入れようものなら、その者の実験データは「嘘」になってしまう。しかも別の遺伝子型が混ざり込んでいることに気付けなかった場合、想定していた結果と実際のデータが合わないのは何故かという議論に無駄な時間を費やしてしまうのである。トイレットペーパーでふわりと覆うだけという異物混入防止の面からみたら脆弱な蓋だが、瓶内の餌を乾かさなければならないため、通気性と安全性を考えてのトイレットペーパーなのであろう。マイコは助教授からはそのことは伝えられていなかったが、先輩たちの行動から知っていた情報だった。
「忘れてたぁ」とマイコは悔しそうに呟き、新餌を待っているハエ研メンバーたちのために黙々と蓋をしていった。「それにしてもいったい誰がやってくれたんだろ?」と蓋をする手の勢いはそのままで頭の中でトイレットペーパーを挟んでくれたヒーローを探していた。早々に新餌を手にした滝野のならば、トイレットペーパーを挟んでいない事実をマイコに告げるだろうとマイコは確信していた。昨日会った人を探していくと次に思い浮かべたのは伏見だった。「伏見さん?いやぁそんな面倒なことやらなそう」と首を傾げながらとりあえず伏見はヒーロー保留の身となった。「やっぱり滝野のさんかなぁ?いち早く新しい飼育瓶使ってたし。あぁ言い忘れてたけど…とか言うかもしれないし…」日頃から口に出して脳内の情報処理をするマイコは脳内処理の速度と比例して飼育瓶の蓋処理を次々にこなしていった。
「よしっ終わった!」と勢い良く立ち上がり、すぐさま大量の飼育瓶をゼミの部屋へ運んだ。ゼミの部屋のホワイトボードの左端にはメンバーそれぞれの新餌オーダー数が記されている。新餌をメンバー個々のカゴに必要数入れたらめでたく当番終了である。新餌をすでに使っている滝野のオーダー数の横には「-3」と記されている。
ぅはよーっす
ホワイトボードを確認しているマイコの後ろからゆっくりな足音と共に声がした。「滝野のさんおはよーございますぅ」振り返る前にその足音のリズムと声で正体は分かっていた。朝の滝野はまだ覚醒していないため、頭が左右にふらふら揺れがちである。
餌もらっていっていい?
自身のリュックを背負ったまま滝野は自分の名前シールが貼られた餌カゴをカチャカチャいわせながら運んでいった。
あ、滝野さん!あの…
マイコが呼び止めると滝野はまだ寝ぼけたようなとろんとした顔つきで振り返った。
あの、クリーンベンチの餌瓶にトイレットペーパーを挟んでくれたのは滝野さんですか?
と早口に言うと、「あぁ あれね、」とリュックを下ろしながらヒーローの正体をすんなりと告げた。
伏見くんだよ
意外な名前にマイコは「え!!」と瞬時に反応した。「伏見くんがね、実験するときに見掛けて、これはいかん、てさ。」滝野は大したことないかのように話しながら瓶の本数を数えていた。伏見の実験机はクリーンベンチの隣にあった。研究を大事に考えている者にとっては当たり前の行動なのだろうが、マイコはなんだか嬉しくなった。そして餌瓶の分配を終えると財布を握りしめて外へ出ていった。
十数分後、マイコはスーパーの袋をシャカシャカいわせて学生部屋へ戻った。部屋には依然として滝野しかいないが、その滝野も机の上に湯をいれたカップ麺を置いて席を外している。
伏見の机は滝野の隣である。論文や書籍等の研究資料が机の輪郭に沿って乱雑に置かれており、中央にかろうじてパソコンを置けるスペースが確保されている。マイコはその貴重なスペースに、先程購入してきた伏見へのお礼の品を袋から出して並べた。1.5Lと500mlのコーラである。並べ終えたときに滝野がちょうど戻ってきた。「え、コーラ?」うっすら笑いながら後ろを通りすぎた。マイコは「はい!トイレットペーパーのお礼です!」と言いながら軽い足取りで自分の席に戻った。マイコも昼食にしようとパソコンを起動させながらサンドウィッチを取り出した。フィルムを剥がしていると、伏見が前傾姿勢の全体重をかけて学生部屋の扉を開けた。扉のすぐ目の前が伏見の机であるため、「あれ?な、なに これ。どーしたの?」と周囲にいる滝野とマイコの方を見渡した。見慣れた物が思いがけずに自分の机の上に置いてあることに動揺していた。マイコはすかさずトイレットペーパーのお礼のために自分がやったことを告げた。伏見は「え?あぁ お礼なんて別にいいのに…あ、でもいただきます…」とマイコの方を見て恥ずかしそうに言った。その目が優しい笑みを浮かべていたことにマイコは嬉しくなった。
マイコの分析結果、伏見は研究室の保護者的なおじいちゃんでもあり、穏やかな癒しを与えるゴールデン・レトリーバーのようでもある、と結論付けた。