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むし子  作者: はやし りょう
7/12

先輩の心の内は果たして!?

マイコのひとつ上の学年に、伊藤という優秀な学生がいる。

優秀というのは、予備校時代に数学と物理が東大レベルのクラスにいたということで、ハエ研での研究成果が優秀というわけではない。顔は良いのだが、ボソボソと聞こえるか聞こえないか、どちらかというと聞こえないレベルの音量で話すことや、家庭教師に力を注ぎ、自身にとって重要な研究は二の次で、一週間の研究の進捗を発表するゼミでは毎度、小股一歩ほどしか進んでいないという変わり者である。変わり者揃いのハエ研の中で、研究に対する熱意がダントツに低く、優秀な頭脳ゆえに、おそらく修士論文までにあげておくべき最低限の研究データはどれほどか計算済みであるために、わずかな研究時間で修士課程を修了しようという省エネ計画なのだろう。


マイコはハエ研に入りたての頃、そんな伊藤を近寄りがたくそれ故に何を考えているかわからない不思議な人としか思っていなかった。きっと英語で書かれた科学論文を解釈できないような頭の悪いマイコのことを軽蔑しているに違いないと、伊藤はそれくらい冷徹な人間だと勝手に思っていた為、マイコから伊藤に話しかけることは殆どなかった。


ある時、マイコがその日の分の飼育ビン洗いを終えて帰宅しようと荷物をまとめて学生部屋を後にすると、階段で背後からボソボソと聞こえてきた。


俺も帰るから送って行こうか


そう聞こえた気がするけれど判然としないので振り返ってみると、ちらりと一瞬目が合った。

伊藤だ。

よく状況が飲み込めないマイコだったが、伊藤さんも帰りですか。と当たり障りのない返答をしてみた。


途中の駅までだけどね。乗り換え一回減るから。


伊藤のボソボソ声をすばやく反芻して、どうやらマイコを途中の駅まで送っていってくれる、という内容のようだと解釈した。


え、でも伊藤さんってバイクですよね?


伊藤の愛車はスーパーカブだった。それに2人乗り!?それは恐いぞ、とマイコは青ざめた。というのも、マイコは小学校低学年の頃に近所のお姉さんの自転車の荷台に無理矢理乗せられ、恐さのあまりにお姉さんの体につかまっていた手を離してしまい落下して擦り傷で血だらけになった経験があるのだ。

そのために2人乗りには抵抗があった。


今日は車。


それよりも前から何か喋っていた感じだったがマイコが聞き取れたのはこの部分のみだった。


あ、車で来ることもあるんですね。ありがとうございます。


伊藤に対して偏見はあったが、先輩の有難いお誘いに断る理由もないので物は試しに乗せてもらうことにした。ここで断ったら伊藤がもっとずっと遠くの人間になってしまいますます近づけなくなると思ったのだ。

普段殆ど関わりのない伊藤と車内でどんな会話をすれば良いのか、いささか不安がよぎったがそれよりもイレギュラーな出来事にマイコは胸を躍らせていた。


伊藤の車は古いタイプのもので、特にこれといって特徴的な風ではないため、素敵な車ですね、なんて言った日にはなんて見え透いた嘘をついてしまったのだと後悔の念に駆られるに違いない。きっと普段乗っている伊藤の両親も、伊藤同様に地味な感じなのだろうとマイコは勝手に想像した。


マイコは片道2時間半の電車通学で3回の乗り換えをしている。3回目の乗り換えはたった1駅であるため、最後の路線で運転見合わせの時には東京の入り組んだ路線図とその入り組んだ先に立てられた大学を恨むのであった。


今どこ走ってるか分かる?


またもや話の冒頭を聞き逃した。マイコは頭をフル回転させおおよその話題を類推したが、ひょっとすると話題の全てがこの一文かもしれないと思い落ち着いて小さく復唱してみた。


今どこ…あ、えと横浜あたりですかぁ?


普通に正解するとつまらないだろうと、マイコは咄嗟に行き過ぎた回答をした。


え!? 横浜!?


伊藤は静かな声で驚いた。きっと普段から小声の伊藤にとっては大きな驚きの反応なのだろう。マイコはそんな伊藤を見て少し嬉しくなった。普段は雑音の中で殆ど聞き取れない伊藤の声が、二人だけの車内ではちゃんと聞き取れることにマイコは安心した。道中、伊藤の好きな芸人のラジオを聞いた。ふふふと静かに笑う伊藤だが、実はこれは大笑いしているのだとマイコは伊藤を密かに分析していた。


ここで降りて。


車が踏切手前で停車したと思ったら、そこは普段マイコが電車で通過する駅だった。電車内からホームしか見たことがなかったため、改札前で降ろされたときはどこの駅か分からなかったし、慣れないホームで電車を待つのもなんだかそわそわした。


電車を待ちながらマイコは伊藤との会話を回想していた。無言のまま時が過ぎるという最悪の事態も考えていたが、伊藤の好きな芸人のラジオ番組を録音したMDを聞いたりと、思いの外穏やかに時が過ぎたことに安堵した。そして、マイコだけに向けられた声や表情を思い出し、少し恥ずかしくなった。

伊藤との距離が一気に縮まった気がして、マイコの胸は温かくなった。


伊藤が心底傾倒しているアーティストがいた。夏や海を連想させる楽曲が多く、国内には根強いファンがたくさんいる。マイコもそのアーティストのCDを1枚くらいは持っていたが、マイコの携帯オーディオプレイヤーには入っていなかった。何度か伊藤に送ってもらう中で、伊藤お薦めの楽曲を聞くことが多くなり、いつしかマイコのプレイヤーにも1曲入るようになった。淡い夏の青春を唄うその曲は、マイコの心を映しているかのようだった。


お互いに相手はいる。それなのに送りを誘うのは何故なのか、好意がなければわざわざそんなことをしないのでは、とマイコは彼氏そっちのけで考えた。

ゼミが終わり、夜までかかる実験の待ち時間には暗い景色を見ながらあの1曲を聞いてはうっとりとし、その姿はまるで恋に悩むヒロインかのようであった。


ハエ研には顕微鏡予約係がいる。顕微鏡といっても普段からハエの解剖で使っているアナログなものではなく、この大学に一台しかないハイテクなレーザー顕微鏡のことである。ハエ研とは違い、いくつもの企業と共同研究をするような立派な研究室が所有しているため、使用したい時にはメールで空き状況の確認をとり、有り難く貸して戴くのだ。

そんな予約係をマイコが担当していた。

ひとつ上の学年に井口冬子というかなり個性の強い先輩がいる。本当なら博士課程1年になっているはずの在学年数なのだが、大学へ殆ど来ないというレアキャラなのだ。それ故、専門科目の単位は足りず、自身の研究も滞っているため未だに修士課程なのである。マイコは昔からこの手のレアキャラに好かれる傾向があり、井口冬子が研究室に来たときにはよく相手をしていた。アンチレアキャラな他のメンバーの目を気にせず、マイコはレアキャラの素性を知る絶好の機会を楽しんでいた。

井口冬子は単なる怠惰な学生ではない。博士号をもつ聡明な父のもと育てられたのだが、兄の精神的な病で井口冬子の日常が脅かされているのだ。以前、深夜に冬子の兄が暴れ、冬子は研究室に逃げてきたことがあると、本人から聞いたことがあった。レアキャラの素性を知るという好奇心の他に、家庭環境の同情からマイコは冬子と友好的にしているのである。そんなレアキャラと仲良くしている姿を見て、研究室のメンバーはマイコのことを、「猛獣遣い」と呼んでいた。


ある時、井口冬子がマイコに、明日の午後って顕微鏡空いてるかな?とたずねた。冬子は殆ど学校へ来ないレアキャラなので、顕微鏡の予約をしていても当たり前のようにすっぽかすのである。そのため、マイコは冬子に、本当に使いますか?と疑いの目を向けた。冬子は目を泳がせて、


ええっと午前に予約して来なかったら何か色々と文句言われそうだけど、午後なら使わなかったとしてもまぁいいかなって…


と勝手な解釈を告げた。


午前でも午後でも予約したらちゃんと来て使ってください!空いていたら他に使いたい人がいるかもしれないんですから!


と語気を強めてマイコは冬子に諭すように言った。そして、私が朝に電話して起こしてあげますから、明日の午前に予約入れておきますね!それから、顕微鏡の後は実験を進めてくださいね! と続けた。マイコは冬子に同情の念を抱いていたため、お節介ながらも研究を進めてちゃんと卒業し、長い大学院生活を終わらせて次に進んで欲しいと思っていた。

そんなやりとりの直後、ピピッとメールの着信があった。見ると斜め前に座っている伊藤からであった。


尊敬します。


その短い言葉に一瞬固まったマイコだったが、おそらく皆がレアキャラと関わるのを敬遠してきてマイコのようにズバリと間違いを指摘できることに尊敬する、ということなのだろうとすばやく解釈した。皆がいる中で隠れてメールでやりとりをする仲となったことに内心嬉しさと恥ずかしさが計り知れなかったがそれらを押し殺して、


それはどうもありがとうございます。


と、かなり素っ気ない文面をドキドキしながら送った。

マイコは顕微鏡予約のためのメール文を真剣な表情で打ち込んだ。でもそれは、顕微鏡予約業務に真剣であったのではなく、取り乱している心を落ち着かせるために半ば無理矢理、業務に集中したのであった。


では、お疲れ様でした!


マイコはスタッと立ち上がり、逃げるように学生部屋を出ていった。

1階へ向かう階段の途中でまたピピッとメールの着信があった。


送るから外で待ってて


せっかく抑え込んだマイコの心がリバウンドのように爆発した。

ぎゅっと目を閉じて心を鎮めようとし始めたところにスタスタと伊藤が現れた。


マイコは気恥ずかしさを感じて会釈ついでに目をそらした。

伊藤はいつもと変わらず、すぐそこに停めてあるから、と靴に履き替えてマイコより先に外へ出た。

マイコは、何度もありがとうございます、と

伊藤の心を探るように小さな声で言った。


いやぁ マイコちゃんすごいよ


お邪魔します、とマイコが車に乗り込むや否や伊藤にしては弾んだ声で言った。


みんなが井口さんと距離を置いているだけで、意外と踏み込んでも大丈夫ですよ?


へへっと照れ臭そうに言うと、


やだよ 関わりたくないし


かろうじて聞こえるくらいの音量で、バックしながら伊藤が言った。伊藤はバックするときに助手席の背もたれに肘をついて後ろを見るため、マイコの顔と伊藤の顔との距離が近くなりマイコは毎回ドキドキするのだった。


この日もいつもと同様に録音したラジオを聞き、お決まりのここはどこでしょうクイズにとんちんかんな回答をした。けれど、マイコはいつもよりも伊藤との距離を探っていた。これまで遠すぎず近すぎずの安全な距離を保っていたが、もう少し近づいていいのだろうかと伊藤の見えない心の内を良い方に解釈しつつあった。


はい、ここまでね


気づくといつも車を降りる踏み切り前に着いていた。もうすぐホームに電車が来るためカンカンカンと急かすように警報音が鳴っていた。

ここで突然、伊藤にキスしたらどうなるだろうか、、、。思い立ったら即行動したくなるマイコは身を乗り出しかけたが、その後の気まずさの不安がよぎったのと、その場の雰囲気に流されて軽率な行動はしてはならないという、いつになく安全牌な結論に至ったのでいつも通り、ありがとうございましたと礼を言って立ち去った。


人気のないホームにはもったいない程に眩しい照明に照らされながら夜空を見上げた。

あの時、心に素直になって行動していたらどうなっていただろう。伊藤は驚くだろうが、その後どう反応しただろう。素っ気なくするか、それとも、、、。マイコはそれとも、の方に想いを巡らせ勝手に恥ずかしくなった。

結局は理性が勇気に勝ってしまったから本当のところは謎のままだが、マイコは妄想で淡い恋心を楽しんでいた。


少し遅れて到着した電車に乗り込むと、携帯オーディオプレイヤーのイヤホンを装着し、もう少しトキメキに浸るべく伊藤の好きな曲を大音量で聴いた。


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