彼氏様、言葉選びは慎重に!
マイコと彼氏との距離は基本遠いが、時には人並みに近い時もある。
こういう時は週末のデートだけでなく、平日の大学に居るときにも学生食堂で昼食を共にしたり、放課後に彼氏宅へ行ったりと毎日のように会うのである。
飛騨曰く、そんなときのマイコは穏やかで話しかけやすいが、一方彼氏との距離が開いたときはトゲトゲしているらしい。それは彼氏ネタの話を振った際のマイコの反応で、今マイコがどちらの状況なのかが分かるというのだ。
クリスマス近くなるとマイコと彼氏の距離は縮まる。クリスマスは彼氏と過ごすものと思っているマイコは自然と気持ちが彼氏の方へ向くのである。
実験の合間にクリスマスの日をどう過ごすかと学生部屋のパソコンで調べていたら、有名な楽団によるクラシックコンサートに釘付けになった。マイコはクラシックが大好きだった。
すぐさま空き状況を調べたが、クリスマスまで1ヶ月をきった今となっては空席なんてあるはずもなかった。
行きたかったなぁ…
マイコは自分の行動の遅さを悔やんだ。
また今年も適当な映画と少しばかり洒落たレストランでディナーという無難なコースとなるのか、とクリスマスが少しつまらなくなった。
そこへ彼氏から電話があった。絶妙なタイミングで、話題はクリスマスをどう過ごすか、というタイムリーなものだった。
バレーなんてどう?
マイコは彼氏の言葉に絶句した。
クラシック好きなマイコに対し、彼氏は趣味でフットサルチームに所属する程にサッカーが好きだった。そのため、彼氏の口から「バレー」と聞いた時には、「やはりそうか」と、自分と彼氏との釣り合いの悪さにひどく落胆した。
バレーって…なんでクリスマスにバレーなんて観るの!?
という心の叫びをぐっと堪えて、
バレーかぁ…それじゃないのがいいかなぁ
私も他探してみるね、じゃまた。
落ち着いた口調をギリギリ維持して、通話終了ボタンをちから一杯に押した。
ほんっと わかってないんだから
マイコは明らかに苛立ちながらコンサート情報をスクロールし続けた。
ふとマイコの手が止まった。
これだ!
マイコはぐんぐんと詳細を吸い込むようにして見た。
12月25日、18時開演、東京公演、クラシックバレエのくるみ割り人形…
これ以上にない条件でマイコの心はふるふると震えた。
クラシックバレエは有名な海外バレエ団によるもので、メインではないにしても生のオーケストラ演奏も聴ける。
これ、サイコーだ!!!
バレエは敷居が高いのか、座席はけっこう残っていた。興奮気味のマイコは迷わずS席を二人分購入し、その勢いで彼氏に電話した。
バレエどう?クラシックバレエ!くるみ割り人形なの!
彼氏の反応を待たずにマイコは条件を列挙した。
全てを言い終えると、呼吸を整えるために沈黙した。
さっきバレエじゃない方がいいって言ってなかった?
彼氏は不思議そうに尋ねた。
え?あのこれはクラシックバレエだよ?スポーツのバレーじゃないよ!?…
と言い終えた直後に、マイコの頭の中でさっきの彼氏が言った「バレー」が「バレエ」に変換された。
あれ!もしかしてさっきバレーって言ったのクラシックバレエのことだったの!?スポーツのバレーじゃなくて!?
彼氏は、でたでたマイコの天然が、と言わんばかりに、
あったりめーだよ!!!だれがクリスマスにスポーツのバレーを観ようなんて言うんだよ!!
呆れたような、そんなマイコが愛おしいような感情で彼氏は笑って言った。
あぁ そっかぁ ごめんごめん、てっきり…。
あ、じゃ、そういうことならクリスマスはバレエでOKってことでいいよね?
マイコは恥ずかしい気持ちをすぐさま吹き飛ばしてクリスマスの予定を確定した。
それじゃねー
そしていつものように一方的に電話を切った。
クリスマスの予定がようやく決まり、マイコの気持ちは落ち着いた。そろそろ実験のことを考えるか、と頭の片隅に小さくなっていたショウジョウバエたちの空間を広げた。
どう、しっかりやってるぅ?
全てお見通しだ、と言わんばかりのニヤケ顔で助教授がマグカップ片手に近寄ってきた。
はい。やってます。大丈夫です。
マイコは反射的にそう言い、背を向けた。
なぁに、冷たいじゃないのぉ。
クリスマスもいいけど、実験ですよ、実験。
頑張ってよねぇ。
助教授の呟きは、マイコの遠い背中に辿り着く前に空中で分解された。
この週末、マイコは早速、彼氏へのクリスマスプレゼントを買いに行った。誕生日、バレンタイン、クリスマスというイベントには必ずプレゼントを用意することは、マイコの母親の影響である。マイコの母親はイベント毎に、別にいらないわよ、と言いつつも毎回その日が近くなると、私これが欲しいのよね、と催促をしてくる。プレゼントをあげる側としては欲しいものを事前に言ってもらえた方が助かる。実際にマイコが小さいときに父親と選んだブローチが好みに合わず、肩が凝るからブローチは要らない、返却してきて。とプレゼントしてすぐさま言われたことがある。プレゼントしても喜ばれないこともある、ということを小学校低学年で残酷にも知ったのである。そもそも、父親と母親のセンスが合わないというのが大きな原因であった。
マイコはお気に入りのアクセサリー店で手頃なチェーンを購入した。半年前の彼氏の誕生日に少し値の張るペンダントトップをプレゼントしたため、それに合うチェーンを次にプレゼントしようと考えていたのだ。手頃といっても1万5千円は学生には痛い出費であったが、マイコにとってクリスマスイベントを成功させるためには必要な材料であった。
数週間後、マイコにとって今年最後となるイベントが開催された。
クリスマスだし、クラシックバレエの観劇、ということで普段よりも上品な装いで待ち合わせ場所の駅改札付近に立っていた。
少し遅れて、彼氏が現れた。まぁ仕方がないが、マイコよりは冴えない格好であった。しかし、以前にクラシックコンサートを共に鑑賞した予備校時代の友人は、大遅刻し2曲目から登場の挙げ句に、着古したジーンズに古い泥の付いたスニーカーというラフ過ぎる格好で、マイコはひどくショックを受けたことがあるため、それと比べたら彼氏の服装は合格点であった。
午後からの観劇に備えて、軽めの昼食をとった。
マイコのイベント成功のひとつを担うプレゼント贈呈の時でもあった。
これ、前にプレゼントしたペンダントトップに合うと思って…。
マイコは控えめに両手で小さな紙袋を差し出した。
あ、ありがとう。貰えると思わなかったよ。
んじゃ、今日のバレエ代、俺が持つよ。
彼氏は嬉しそうな顔でさらりと言った。一方マイコの表情は瞬時に曇った。
「貰えると思わなかったよ?」何言ってんの?イベント毎に欠かさずプレゼントしてるのに?そんなわけないじゃない。
そして急遽思い付きました、って感じの「バレエ代俺持つよ」これ無いわぁ。こっちは前々から考えて準備してるのに、よくそんな無計画です発言できるね。マジであり得ないわコイツ。
マイコの心の中は否の感情が収まらなかった。さらに連動して、以前夕飯デートの帰りに彼氏に投げ掛けた質問を思い出した。「子供できちゃったらどうする?」と何気なく問うと、彼氏は「いやぁ 親に別れさせられると思うよ」と即答した。この時もマイコは内心、絶句した。できた子供をどうする云々ではなく、別れなきゃならない、というなんとも無責任な回答で、しかも親に別れさせられるというのは、明らかに親>マイコの比重である。子供ができたから結婚しよう、というよく耳にする甘い言葉や覚悟の言葉は彼氏には遠い話なのだろう。
さらに、最後に「でもどうせ長く付き合ってるなら、結婚したいと思ってるよ」と、さも良いこと言った!という風にどや顔の彼氏を見て、マイコは無理だな、とまたひとつ別れへの距離が縮まったことを確信したのだ。どうせ、って何だよ…。
そんなことを思い出したマイコの気分は白けていったけれども、傍から見てクリスマスを楽しんでいるカップルという演出を成功させるため、内心は封印し、割りきってクラシックバレエを心から楽しむことにした。
彼氏の罪悪感のない言葉選びの悪さに、マイコの彼氏に対する否の心はどんどん大きく積み重ねられ大きくなっていった。それがぐしゃりと崩れるのは、そう先の話でもないのだろうと、マイコは冷静に分析していた。