いつまでも続け!夕飯の友。
ハエ研では2ヶ月に1度程度、飼育ビンの洗浄と餌作りが当番で回ってくる。10人程の学生が順に担当していくわけだが、たいてい木、金にビン洗い、翌週の月曜に餌作りとなり、当番の週は憂鬱なのと実験がストップするのとで、普段愛想よく振る舞えるマイコでも悪人のような面構えになることがある。
そんな鬱な感情を紛らわすかのように爆音でロックやクラシックを聴くことが常だった。マイコの内に潜んでいるイライラを他のメンバーは感じとっているのか、そのうるささに文句を言う者はいなかった。
金曜の昼にはビン洗いを終えたいマイコは、木曜に終バスを乗り過ごす覚悟で夜まで1日中無になって洗い続けた。
午後7時、疲労で無愛想なマイコの元へドクターの滝野と伏見、マスター2年の新垣が笑顔でやってきた。
突然の来訪に、マイコは無愛想な顔を一瞬で先輩向けの笑顔に変えた。
ご飯食べに行くんですか?
というマイコの問いかけに重なるように滝野が話を切り出した。
これからメシ食いに行くんだけど、困ったことにスタ丼とラーメンで迷ってるんだよ。本当はラーメンにしたいんだけど、男の意地で3日連続のスタ丼を攻めなきゃいけないってのもあるしね。そこでね、マイコちゃんとじゃんけんして、オレらが負けたらラーメンにしようと思うんだ。
普段はそれぞれ研究に真面目な学生だが、仲良しが集まるとふざけた方向に行きたがる習性がある。ラーメンがいいなら素直にそうしたらいいじゃないかと心で思いつつも、ここは先輩のおふざけに付き合ってあげることにした。
私が勝てばいいんですよね?
私は何をだせば…
マイコが困惑した表情を見せると新垣がふわっと近寄ってきてこう囁いた。
マイコちゃん、オレらはチョキ的なものを出すからね。チョキ的なものだよ。
え、チョキ的なもの、ですか?的なものって…
変に問題を難しく考えてしまったマイコは、「的なもの」というワードが引っ掛かり、チョキ的なもの=チョキではないもの、という変換をした。
じゃーんけーん、、、ポン!
マイコがグーを出すと思っていた3人は、目の前に出されたパーの手に言葉を失った。
え、なんで!?マイコちゃんっっチョキ的なものだすよって言ったじゃん!!
新垣が意外過ぎて笑いながら真相を突き止めようとした。
ごめんなさいっごめんなさいっっ
滝野がチョキを出した瞬間に、やってしまった…と「チョキ的なもの」の解釈が間違っていたことを悔やんだ。
チョキ的なものって、チョキじゃないってことなんだと思っちゃって…
なんじゃそりゃのマイコの返答に一同はそんな子もいるのかと不思議そうな顔をした。
本当にごめんなさいっ
3日連続スタ丼でごめんなさいっ
でも男の意地でいってらっしゃい!
よくわからないがマイコにスタ丼エールをもらった3人はふわふわとした足取りで階段を降りていった。
はぁやってしまった…
と少しのあいだ罪悪感に囚われていたマイコだったが、目の前に広がる大量の飼育ビンを目にして、また無になってひたすらに洗い続けた。
滝野と伏見、新垣は一人暮らしで、よく3人で夕食を共にしている。
ラーメンやスタ丼を食べに行くときもあれば、研究室でスパゲティを茹でるときもある。このスパゲティができるまでの様子がマイコは大好きだった。ルールはこうである。3人が各々食べる分のパスタと混ぜるだけのパスタソースを机の上に出す。そして恒例のじゃんけんだ。敗者が3人分のパスタを実験用のタイマーを用いて正確に茹で、盛り付ける。その間勝者は我関せず、自分の好きなことをしている。マイコは緊迫したじゃんけんのシーンが、何度みても楽しく微笑ましく、この3人の関係がずっと続くといいなと思うのであった。
膨大な飼育ビンを機械的にさばきながら、他人の思い出に浸っていると、3人が戻ってきた。
早いですね?スタ丼って離れてませんでしたっけ?
スタ丼屋の距離と食事の時間を考えてやけに早い帰りに、先程の失態を忘れたかのような軽い口調でマイコは尋ねた。
いやぁ スタ丼行く途中にラーメン屋があるじゃん?そこでやっぱさ、ラーメン食べたくなっちゃってさ、ねぇ?
全て言わなくても分かるだろうと結論をマイコに委ねた新垣は、これじゃぁじゃんけんの意味がなかったじゃない!というマイコの怒りが飛んで来るかもしれないと他2人の顔を見て、怒りの矛先を3分割させた。
よかったじゃないですか、食べたいものが食べられて。
責任を感じていたマイコはじゃんけんの結果を無視されたことよりも、自分に責任がなくなったことに安堵し、心から笑顔で返した。
私もお腹すいたからもう帰りますね。
そう言ってガシャガシャとビンを片付けた。ギリギリ明日の昼には終わるだろうと、残りのビン達を眺めてウンと頷き、研究室を後にした。
お疲れ様ー
お疲れー
お疲れ様。
3人3様の挨拶にマイコの心は温かくなった。
大学の裏門を出ると道路を挟んで向かいにラーメン屋が見えた。暗い空に温かな光が漏れたガラス戸の向こうに3人が仲睦まじくラーメンをすする姿を想像し、この平和が続きますようにと穏やかな気持ちになって駅へ向かって歩き始めた。
ぐぐぐぅ きゅるるるる
顔が見えないことを良いことに夜道に腹音をためらいなく轟かせるマイコであった。
今日の夜ご飯はなんだろなー♪
しばらく会っていない彼氏のアパートを軽快な足取りで通り過ぎていった。マイコの頭は3人の先輩たちと夕飯と飼育ビンのことでいっぱいだった。