ハエ研盗難事件!
俺の固定液がない!
実験室でもマイコの席の隣は飛騨であった。
同じ時間に実験をするのはあまりないことだったが、あぁ卒論発表が近いのかとこのふざけた男でも多少はわきまえているのだとマイコは変に感心した。他の研究室では毎日実験するのが当たり前なのに、マイコたちが属するハエ研は実験のシフトが重ならないようにしているかのように常にそれぞれが実験室を貸し切り状態で使用しているのだ。そのため隣に実験している人がいるといつもと勝手が違い落ち着かないマイコなのである。
固定液?前回使いきったんじゃないの?
マイコは自分の棚にあった固定液のビーカーを手にとって顕微鏡の隣にコンっと置いた。
私が盗ったんじゃないと証明するかのようにマイコの字で書かれたラベルが飛騨の方へ向くようにビーカーを回すと、飛騨はそれを見ながらおかしいなぁと首をかしげた。
仕方がないと納得のいかぬまま飛騨は新しい固定液を作り始めた。マイコは、ふざけた飛騨のことだから自分で使ったことを忘れているだけだろうと特に気にとめず、顕微鏡下でショウジョウバエの幼虫を解剖し続けた。
マイコの実験は途中、抗体染色のために2時間空く。その間に昼食を済ませてしまおうとタイマーを持って学生部屋へ戻った。するとなにやらドクターの滝野とマイコと同期の松井が真剣な話をしていた。
おかしいと思わない?
まぁ そうっすね
マイコは話の邪魔にならぬよう、二人の視界に極力入らないように忍び足で席に着いた。昼食に用意していたサンドイッチが学生部屋の扉付近に佇む冷蔵庫内にあることを席に座ってから気づいた。松井の後ろを背中を壁に擦りながらやっと辿り着いたのに、またすぐにそれを繰り返すとなると、話し込んでいる二人の気が散ってしまうのではないかと妙に神経質に考えたマイコは、サンドイッチを取りに行くのをしばらく見合せ、用もないのにパソコンを開いた。
マイコが無駄にマウスをカチャカチャ鳴らしていると、
まぁ オレのは古かったから使って貰っちゃって全然よかったんすけど。逆に本当に固定できてんのかな?って思っちゃいますよ。
松井はそう言ってふははと笑った。
どうやら滝野と松井は盗まれた固定液の話をしているようだ。
それならば飛騨の固定液が盗まれたという件も間違いではないのかも、とマイコはどうせ飛騨のことだから、と聞き流していたことを申し訳なく思った。
マイコちゃんのは?
突然、松井が話を振ってきた。
その聞き方だと、マイコが盗み聞きしていてパソコンに集中していないことがバレていたというわけで、マイコは恥ずかしくなった。
えっ 固定液が盗まれたって話?私のは大丈夫だったけど、飛騨くんがナイナイって困ってたよ
松井と滝野は顔を見合わせて、
誰なんだろうね?
滝野がマイコに優しい口調で言った。
滝野は濃い目のしっかりとした顔つきで、たまに過激なことを言ったりするのだが、今のようにとぼけた表情でふんわりと優しい口調になる時もある。マイコはそういうときの滝野が好きだった。好きといっても滝野の中で好きな部分ということで、恋愛感情というわけではない。滝野の彼女ともマイコは知り合いなため、そもそもそんな感情は生じないのであった。
そのうちに飛騨が学生部屋の扉を開け、やる気の無さそうな足取りで入ってきた。滝野はニヤニヤしながら、
飛騨も盗まれたの?
とオレは全てを知っている風な表情で飛騨を見た。
え、なんで知ってるんすか?滝野さんもやられたんすか?なんなんすかね?オレこの間作ったばかりなのに…
と苦笑いしながらタイマーを机の上にトンと置いて、
マイコさん、なんかカップ麺ありますか?売ってください。
と捨てられた子犬のような顔で100円を差し出してきたので、疑った謝罪を込めて298円の豪華なカップ麺を渡した。
え、いいんすか!?これ100円じゃ買えないヤツっすよね?
飛騨は無邪気に嬉しそうな顔をした。
いいよ、私買ってはみたけどたぶんこれ食べないから。
マイコはそう言うと松井の後ろを通って冷蔵庫へサンドイッチを取りに行った。少し損はしたが、サンドイッチを取りに行くチャンスができたのでマイコ的にはチャラとなった。
ようやく昼食をとれると安堵しながらサンドイッチの包材をペリペリと剥がしていると、ペタペタペタと足音が近づいてきた。マイコは反射で心がムッとしたが気にしないように意識してサンドイッチにかぶりついた。
どうやぁ!
ニヤニヤしながら助教授が学生部屋へ入ってきた。
どうやぁもくそもない。どうしていつもマイコがサンドイッチを食べるときに近寄ってくるのか。ショウジョウバエと同じじゃないかと思ったが、いやいやショウジョウバエの方が断然かわいいぞ、と心の中でツッコんだ。
どう?すすんでる?
助教授が松井をターゲットに見つめた。
いやぁ どうっすかね、今、固定液を盗むヤツがいるって話をしてたんすよ。
松井は助教授から目線を反らし席に着いた。
なんやぁ 固定液?みんな盗まれたのか?
助教授が自分と目を合わせてくれる人を探すように話を向けた。
運悪くサンドイッチを頬張るマイコと目が合ってしまった。マイコは小さく舌打ちして、
盗まれた人もいる、という話です。
と、いつものように素っ気なく返した。
助教授はそんな冷たい扱いにも屈せず話を進めた。
盗むってどう盗むのぉ?作って部屋出た隙に盗むんか?
助教授は空いている席にトスッと座った。
パソコンを起動させている滝野がくるっと振り向いて、
次の日になくなったんですよ。
と穏やかに応えた。
なんやぁ?固定液作って、実験して、その翌日になくなってるってことぉ?えぇ?お前ら前の日の固定液使って実験してるんかぁ?
助教授の顔がニヤけ始めた。
やめてよねぇ 実験で使う試薬は、毎回その日に作ってよねぇ?なぁに はぁ~ いやんなっちゃうね~ 毎回ちゃんと作れよなぁ! はぁ~ 困っちゃうよねぇ~
ニヤけ半分呆れながら助教授は学生部屋から出ていった。
固定液の犯人探しの論点からズレてしまったため、結局犯人は分からぬままであり、むしろ盗んだ犯人よりも、固定液を毎回作っていないことが問題という結論になってしまった。
話の終結が思わぬ方向へ行ったので、学生たちはそれぞれ中断していた自分のことを続けた。
マイコはいつの間にかサンドイッチを食べきっていた。いつも買っているハムレタスサンドより奮発してハムカツサンドにしたのに、話のせいで味わうことなく食道を通過したようだ。
犯人も分からなければ味も分からない。
これではハムカツサンドがうかばれない、とマイコはハムになった豚を申し訳なく思った。
おはよーございまーす
空気を入れ換えるかのように、4年生の浜口かなが現れた。もう昼だよ、という松井の声かけに、エヘヘぇとだらしなく笑った。
実験しにきたの?珍しいじゃん
湯が沸騰するのを待っている飛騨がとりあえずの挨拶という風に話しかけた。
ここでも浜口かなはフヘヘェとだらしなく笑った。その笑いはどういう言葉の代わりなのだろうか、いや、特に意味はなく単に言葉のやりとりをするのが面倒だから笑って済ませているのだろうとマイコは、浜口かなの作る見えない壁のようなものを感じた。
浜口かなはバタバタと実験部屋へ移動し、明瞭な回答を得られなかった飛騨は特に気にすることなくカップ麺に湯を注いだ。
これウマイっすね
飛騨の無防備な笑顔はたまにマイコの心に刺さった。その笑顔、彼女以外に見せちゃだめでしょ、勘違いする女の子は多いだろうなぁと彼氏が居なかったら自分もきっとその女子たちの中に含まれてるだろうなと思いながら、そう?それはよかったね。の返事でその思いを包み隠した。
ごちそうさまでした!!!
小学生のような勢いで食べ終え、マイコに礼を言うと、飛騨も足早に実験部屋へ移動した。
すると10分もしないうちに飛騨が学生部屋へ戻ってきた。
早いね?実験終わったの?
マイコが戻りの早い飛騨が気になり声をかけた。
浜口でした。アイツが固定液盗ったんすよ。
えぇっ!?とそれぞれのことを進めていた面々が一気に飛騨を見た。
え、なんで分かったの?
詳細が気になるマイコが話を進めた。
オレ、さっき昼前に固定液作ったばかりじゃないですか。それで、食べ終わってから戻ったらもう空になってたんすよ。それで隣で実験してた浜口見たら固定液入ってたから聞いたんすよ。その固定液、自分でつくった?って。そしたら、えー作ったよぉって笑ってるから、オレの盗んだでしょ。って言ったんすよ。そしたら白状しました。
へぇ簡単に白状したんだな
松井が呆れた顔で言った。浜口が犯人だと聞いて誰もが意外とは思わなかった。彼女の危険な部分をそれぞれがなんとなく感じ取っていたのだろう。
その話を隣の部屋で聞いていた助教授がペタペタと入ってきて、浜口さん呼んでこい、と笑みのない顔で言ったので、飛騨が静かに立ち去り、すぐに浜口かなを連れてきた。
浜口かなは何か言われる覚悟の表情で助教授の前に立った。
浜口さん、試薬は自分で作らんといかんよ。他のやつがちゃんとした割合で作ってるか分からんからな。ちゃんとしてなかった場合、自分のデータが不確かなものになってしまう。他人を信用したらアカンよ。
そう言うと助教授は自分の部屋へ戻っていった。他人のものを盗む行為を叱るのではなく、他人の作った試薬は危険だ、という助教授の話に、一同は腑に落ちない感情を背中に表しながらそれぞれの作業を進めていた。