第二話 ミラーハウス
「ここがミラーハウス」
白茶けた外装に、半ば朽ちた看板。営業時はキラキラと派手な電飾で彩られていたはずだが、その電飾はすべて割れてしまっている。
入り口は封鎖されておらず、黒々と口を開けている。
土埃のたまったコンクリートの上には落ち葉が吹きだまり、あちこちに小山を作っている。
ペンキのはげかけた壁に、投げ捨てられるように無造作に置かれた行列を整理するためのポール。肝試しや探検に来た者が遊んだのだろうか、花火の残骸や、割れた瓶が散乱している。
これは夜に来てうっかり転んだら大怪我をしてしまいそうだ。
深緑色をした破片を見つめながら、アヤは連れてこられたのが夜でなくてよかったと胸をなで下ろした。
「さて、探さなきゃね」
昼間とは言え、電気の通っていない屋内は真っ暗だろう。
アヤは鞄の中からスマホを取り出し、懐中電灯の代わりにライトをつけた。
「お……じゃま、しまぁーす」
なんとなくそんな言葉が口をつく。
これで返事がかえってきたら怖いな、などと余計なことまで考えてしまう。
ミラーハウスの中は入ってすぐが広いホールになっていて、思ったほど暗くはなかった。が、ライトがなくても歩けるほどには明るくなかった。
天井や壁にあいた穴から日光が入り込み、アヤの立てた埃が空中を舞うのをキラキラと照らしていた。
中はそれほど荒らされた形跡がなかった。
ライトで床を照らしても外にあったようなガラス瓶の破片は全く見当たらない。ただ、湿気に黒ずんだらしい木製の床があるだけだ。
ライトを正面に向ければ、そこはもう鏡の世界。白いライトが鏡に反射してまぶしい。
アヤは目を細めながらライトを下に向けた。
しばらくすれば突然のまぶしい光にくらんだ目が元通りに視力を回復した。
――荒らされていないのは、そこが本物の心霊スポットだから。
ネットのどこかで読んだ文が頭にぽっと浮かんでしまった。
――裏野ドリームランドには、邪悪な霊の吹きだまりになっている。特に怖いのはドリームキャッスルにメリーゴーラウンド、アクアツアー、ジェットコースター、観覧車に……ミラーハウス。
思い出してはダメだと思うほど、記憶から怪談話が引きずり出されてくる。
怪談好きの中で裏野ドリームランドは特別な存在なのか、ひとつのアトラクションにいくつもの怪談が存在するほどの人気だ。
それらはネットの片隅でまことしやかに囁かれている。
まだここが運営されていた頃から、廃墟となった現在にいたるまで、ずっと、ずっと。
――ミラーハウスに入った者は、別人になる。
ミラーハウスに関する怪談のうち、一番有名な噂。
なぜ別人になるのか、ミラーハウスの中でなにが起きるというのか。全く語られたりはしない。
まぁ、入った人間と出た人間が違うというのなら、出てきた人間は怪異側の存在と言うことになるわけだし、そんな秘密を誰に打ち明けるはずもない。
怪談が不鮮明なことがさらに信憑性を高めているのかもしれない。
そう思い立った途端、じっとりと汗ばんだ肌に鳥肌が立った。
幽霊なんているわけない。
いや、でも、もしかしたら……いるかもしれない。
そんな堂々巡りが足を鈍らせたが、いるかいないかわからない幽霊よりも、レイナと吉田にどやされるほうが怖い。
結局、アヤは鏡だらけの空間へと足を踏み出した。
ホールより一段と暗い。
(鏡は見ない。鏡は見ない……)
心の中で呪文のように繰り返しながら、彼女は埃の積み重なった床を照らして歩き続ける。
うつむいて床ばかり見て歩くのは、落とし物を見つけるためばかりではない。重なった影の中になにかとんでもなく怖いものを見てしまわないためだ。そして、それを誤魔化すように、鏡を見たらまぶしくて目がくらむからだと自らに納得させる。
もし天井から雨漏りのひとしずく落ちて彼女の頭に落ちたなら、飛び上がって逃げ出しただろう。そんな一触即発の状態だった。
白々とした床の埃を見ていて、ふと気がついた。
「足跡が……ない?」
おかしい。
レイナたちが来たのはつい最近だと言う。ならこんなにきれいに埃が積もっているはずがない。どんなにそっと歩いたって足跡がつくはずだ。
とするなら、ここまで入り込んではいないということだ。
探す範囲は短くて済む。
「こっちじゃないのか。戻ろ」
アヤは入り口と書かれているほうから入ったのだが、レイナたちは出口側から侵入したのだろう。急いでホールへ戻り、出口から入り直そうと思ったのだ。
くるりと振り向きざま、彼女はぎくり、と身をこわばらせた。
光が当たった鏡の中に、白いなにかを見た気がしたのだ。
気のせいだと思い直して一歩を踏み出そうとしたアヤの耳元で――
「もう、帰っちゃうの?」
笑いを含んだような女の声がした。聞き間違いなどではないほど、明瞭な声だ。
「ひぅ」
悲鳴は悲鳴にならなかった。みるみる顔から血の気が引き、指先がブルブルと震える。
「ねぇ、聞こえてるんでしょ? 返事くらいしてよ。ここに人が来るなんて久々なんだからさあ」
楽しげな声は涼やかで、こんな場所で聞いたのでなければきっと美声だと聞き入っただろう。
「あ、もしかして、怖い? 大丈夫だよぉ。私、何にもしないから。見た目だって……ちょっと青白いかもしれないけど、たぶん普通。怖くない、怖くない」
ずいぶんと饒舌な幽霊だ。
普通だ、怖くないと言いながら、本当はとても異様な姿をしているかもしれない。大丈夫と言われておいそれと振り向けるものか。
「あ……お、お邪魔して、ごめ……ごめんな、さい。私、あの……」
「あー知ってるよ。知ってる。さっき中央ゲートで騒いでたもんね。友だちの落とし物、探しに来たんでしょ?」
何で知っているのか? とは思ったが、尋ねる勇気はない。
ただ、床を見つめてこくこくと頷くのが精一杯だ。
「友だち思いねぇ、あなた。――ところで、それ。つけっぱなしだとスマホの充電、切れちゃうよ? 切れたら困るでしょ。ここ、普通の人には暗いよねぇ。かわいそうだからサービスして明るくしてあげる」
声の主がいうなり、あたりの鏡がぽうっと光り始めた。緑がかった白い光があたりを照らし、ライトがなくても手元が見えるほどに明るくなった。
「これで安心でしょ? ほら、道もちゃぁんと見えるもの。よかったね、いざとなったら一目散に逃げられるわよ?」
なにがおかしいのか、声の主はフフフ、と忍び笑う。
通路は大人ふたりがかろうじて並べるかどうか程度の広さしかない。
左右には鏡。彼女と鏡の間に人がひとり入りこむスペースはない。
(としたら、この声の主は……鏡の中?)
それを裏付けるように、彼女のすぐ脇の鏡の中に、女性のものらしい足が見える。
白いハイヒールには黒ずんだ汚れがべったりとついている。
見てはいけないと思うのに、視線はその足を上へ、上へとたどってしまう。
引き締まった足首、ほっそりとしたすね、膝は白いスカートに隠れているが、そのスカートもハイヒール同様、所々に黒ずんだ汚れを纏い付かせている。
アヤの歯がガチガチと音を立て始めた。真夏の午後だというのに凍えるほど寒い。いや寒いのではなく恐怖のためか。
「ねぇ、私が誰だかわかる?」
尋ねられても答えられず、その間にもアヤの視線は鏡の中に写る女の腰を、胸を、喉元を順繰りにたどっていた。
女が着ているのは白いスカートではなく、ワンピースであることがわかった。
胸から下腹にかけて、ちょうど腹の真ん中を縦に汚れが付着している。
青白く細いおとがい、形のよい青ざめた頬、紫の唇、小ぶりな鼻に、黒々とした大きな目、目の上で切りそろえられた黒髪。
「ね? 私、怖くないでしょ?」
小首をかしげて尋ねられ、アヤは思わずこくこくと頷いてしまった。
「よかった。久しぶりに会った人に怖がられたんじゃ、悲しいし?」
アヤより少し年上だろうか。だが、二十歳にはなっていない気がする。
――そういえば、噂のひとつにあったわ。ミラーハウスの……
「サカイ、さん?」
「あら、正解! 私のこと、よく知ってたわね。褒めてあげる!」
少し古風な印象の幽霊は、パチパチと手を叩いた。
なんだか幽霊らしくない幽霊で、アヤの警戒心が少しだけ薄れる。
ミラーハウスのサカイさん。
それはそれは美しい少女の霊で、だがとても恐ろしい。乱立する怪奇現象情報サイトのどこで読んだか忘れたが、一度だけ語られていた噂。
サカイさんは生前、美しい少女で、それ故に狂信的に彼女を愛した男に惨殺されたという。
逆さに吊られ、腹を割かれ、解体される自分の体を鏡で見せられ。自分を殺す男はもちろん、この世のすべてを呪って息絶えた。
奇しくも、彼女が惨殺されたその屋敷は後に取り壊されて裏野ドリームランドの一角となり、彼女が監禁されていた地下室のちょうど真上にこのミラーハウスが建った。
だから、サカイさんはミラーハウスの鏡の中で、人々を呪っているのだと。その呪いを感じてしまった者は人が変わってしまう。記事にはそう書かれていた。
サカイさんの本当の名前は誰も知らない。ただ、逆さに吊られて死んだからサカイさん。安直であり、かつ、ひどいネーミングだ。
そんな名前を呼んで気を悪くしたかもしれない。アヤは心配になったが、サカイさんは上機嫌なままだ。
「いまの高校って制服かわいいのねえ。いいなぁ」
そんなたわいもない雑談を投げかけてくる。
「あ、はぁ……ありがとうございます。生徒からはあまり評判よくないですけど」
「なにそれ! 贅沢なこと言うのねぇ。――でも、あなたのお友だちみたいに着崩したら確かに格好悪いわね。あのスカート丈、なぁに? 短すぎて下品だし、ブラウスとのバランス悪いし」
「す、すみません」
「あら、あなたが謝る必要なんてないわ」
まるで最近の若者はなっとらん! と憤慨する大人のような口ぶりの彼女に対し、アヤは訳もわからず謝ってしまった。
それから、はた、と思い至る。どうしてサカイさんはレイナと吉田のことを知っているのか、と。
だが、サカイさんがさらに質問を投げかけるので、尋ねる機会を失ってしまった。
「ところで、あのふたりは本当にあなたのお友だちなの?」
サカイさんの整った青白い顔に、一筋の凄みが混じった。
「え? あ、はい。友だち、です」
「そう……そうなのね。フフフ……お友だち」
にたり、と紫の唇が笑みを刻んだ。ねっとりとした笑みだった。
「あの子たちが言ったことは嘘よ。忘れ物なんてないわ。あなたをいたぶって遊んでるだけ」
「そ、そんなこと! きっとサカイさんが知らないうちに入って、落とし物をしたんです! だからあなたが知らないだけで……」
「あらぁ。ミラーハウスは私のお腹の中のようなものよ? 誰かが入ってきて気づかないわけないわ。特に、こぉんな騒々しい子が入ってきたら嫌でもわかるわ」
サカイさんが鏡の中で横を向き、まっすぐ前を指さした。まるで、そちらを見ろと言わんばかりに。
彼女の指先を辿れば……
「古居さん!? 吉田さん!?」