新しい一日の始まり
ゴクリ。
江楠の喉が鳴る。
俺が舌を噛んで流れた血を江楠に口移しで含ませていた。
それがどうにか喉を通っていったようだ。
変化はどうか。
様子を見守る。
ゾンビ化は……始まらないのか。
瞳が白く濁るようなことはない。今の所、だ。
ちょっとした動きも見逃さないように。
どうだ変化は……。
あった。
頬が段々と赤くなり目が焦点を取り戻したようだ。
目が合う。意識のあるような力のある目を。
だが、瞳の色がうっすらと抜けているようにも見える。
江楠の口から吐息が漏れる。
「……あんた、意外に大胆だね」
「気分はどうだ」
「最悪……。でも、ちょっと嬉しかった」
「肩、見るぞ」
ブラウスのボタンを一つ外して俺が噛んだ左肩をあらわにする。
ピンク色をしたブラジャーの肩紐が目を引くが、気にしない。気にしていない。気にならないと言えば嘘になるが、しないったらしないんだ。
「ブラ、童貞君には眩しいでしょ。いいよ別に見たって。それかストラップ外そうか?」
「あ、いや、大丈夫だそのままで」
なにが大丈夫なものか。
柔らかい素材でできたブラジャーのカップは、縁にレースの刺繍が施されている。
ピンク地に白の水玉模様。
それなりにボリューム感がある胸の膨らみ。
いかん。それより肩だ。
見れば肩の傷はまだジクジクと血がにじんでくる。
段ボールの山に突き飛ばされた神月が起き上がってきたようで、俺たちのところへふらふらとやってくる。
「いっててて。酷いよ鉄心。あの箱が空だったから気を失ったくらいで済んだけどさ」
口調はいつものと変わらないが、神月のその視線が気になる。
怯えたような、だが、それとも違う鋭い目つき。
「神月か、悪かったよ。でさ、悪かったついでにハンカチかタオルないか」
「ハンカチなら今日まだ使ってないのがあるけど、って、江楠さんどうしたの大丈夫? 鉄心なにやってんのさ、江楠さんのシャツ引ん剝いちゃったりしてさ」
神月が俺たちを見る。
俺はあぐらをかいてその上に江楠が仰向けに横たわっている。
肩を見るためとは言えシャツをはだけさせた江楠が無抵抗のまま俺の膝の上で横になっている姿というものは、はたから見ればなにやってんだって感じだよな。
「俺が、噛んだ」
「え! 大丈夫なの江楠さん」
「ええ。今はなんとか」
「さっき俺の血を飲ませたんだ。どれだけ効果があるか可能性に賭けている段階だけどな」
おっと、どう飲ませたかは口にしないでおこう。
「そうか心配だね。ゾンビ化はしなかったの? あ、はいこれハンカチ。すぐ上から救急箱持ってくるから、それまでこれで押さえておいて」
神月からハンカチを受け取り江楠の肩口に当てる。
茶色地で手拭いみたいな触り心地のハンカチ。いろんなマークがいっぱいプリントされている。
「ごめんね神月さん。これ戦国武将の家紋でしょ。大切なやつだったんじゃ」
「なに言ってんの、道具は使ってこそ意味があるんだよ。活躍の場を見つけられてハンカチも喜んでるさ」
そう言いながら神月は急いで店への階段を上っていく。
何か違和感を覚えたが、それは江楠の言葉ですぐに消えていった。
「神月さん、いい人ね」
「だろう。俺の自慢のオタメガネだ」
「なにそれ。自慢になってんの?」
「んー、さあ?」
「ぷっくくく……変なの」
「はははっ」
笑うのなんてどれくらいぶりだろう。
ゾンビ騒ぎが起きてから、こんな風にして笑うなんてことはなかったな。
変なところでツボに入った俺たちは、なぜか声を押し殺しながら笑っていた。
「江楠、瞳の色が……」
「え?」
江楠の瞳の色が抜けているのは見間違いじゃなかった。
俺が覚醒した後と同じ。
「薄い青になっている」
「うえ~。マジで? そっかあ。こんなところもあんたと同じになっちゃうなんてね。本格的にあんたのお仲間さんかあ」
「う……。悪い」
「ばーか。なに殊勝なこと言ってんのよ。これも身から出た匙ね」
「それを言うなら身から出た錆だろ」
「う……。うっさいわね! いー、だ」
江楠はしかめっ面で横に口を開く。
小さい子供みたいだ。
「神月さんに救急箱持ってきてもらうのもなんだから私たちも戻りましょっか」
「ふぅ、そうだな。そこのグラサンゾンビを防音室に放り投げておいたらな」
「判った。いいわ」
俺と江楠はグラサンゾンビを縛っているロープをつかむと、防音室まで引きずっていった。
抵抗はするが効果的な反撃ができないグラサンゾンビは、なすがままの状態で防音室に放り込まれ鎖に繋がれる。
ゆっくりと防音室のドアを閉め、外から鍵の代わりの重たい段ボール箱をいくつも積んで簡単には開けられないようにした。
「よし行くか」
俺が江楠に促すと、江楠は肩を押さえながら頷く。
「あのさ……」
「なんだよ」
江楠が俺のシャツを指でつまむ。
「私って人付き合いが苦手だからさ、仲良くなるどころか喧嘩するような友達もいないんだよね」
「そりゃそうだろ。初対面の人間にあんだけ突っかかってくれば嫌われるのも当然だと思うけどな」
「あーそれ、ごめん。あそこまで突っかかったのはあんたにだけなんだよね」
「え? なんでだよ」
「似てたんだ、その先輩に」
江楠は今まで見せたことのないような、悲しい顔で笑った。
「いやいやいや、俺そんなことしてねえし、とばっちりだろ、逆恨みだろ!」
ったく、なんだってんだよ。
じゃあなにか、あんなにきつく当たってたのはトラウマのせいだったっていうのか。
「納得いかない。下着姿くらいじゃ全然足りないな」
「そ、そうだよね。髪型とか学校とか違うし、別人だっていうのは解ってたんだけどさ。なんとなく雰囲気というか……乱暴なところ? とか。ははっ、うまく言えないな」
「初見でいったいどんな印象を持ったんだか」
「うん、ごめんね」
「そんな大人しいお前、気持ち悪いぞ」
「なによ。私のことを傷物にしたんだから、絶対責任取りなさいよね!」
そういうと江楠は俺を置いて階段を上がっていった。
階段の終わりには、救急箱を持った神月が立ちすくんでいる。
「ねえ鉄心」
「なんだよ」
ゆっくり階段を上る俺に、神月が肩をすくめてみせた。
「大変だね」
「う、うるさいっ」
俺は階段を上りきると、神月から救急箱をひったくって江楠の後を追った。
明り取りの窓から、夜の終わりを告げる光が差し込む。
それと同時に、テレビの音声が漏れ聞こえてきた。
「皆さん、絶対に家から出ないでください! 鍵をかけて外出はしないでください!」




