後から悔やむ
俺の歯が突き刺さった肩口から流れる血。
口の中に入り、鉄臭さが鼻につく。
ごくり。
溢れ出す唾液と共にそれを飲み下すと、頭の中の靄が徐々に薄れ始めた。
「あ、ああ……」
俺の言葉にならない声が漏れる。
その人間、いや江楠の目に涙が溜まっていた。
「あんたさあ、いつまで噛みついてんのよ。痛いんだから早く離してよね」
そう言われて俺が江楠の肩に噛みついていたことを再認識する。
俺に飛びついた江楠は俺に覆いかぶさるようにして乗っかっているけど、俺が肩に噛みついているから起き上がろうにも起き上がれないみたいだ。
俺は慌てて口を離す。
少し血の色をした唾液が、つうっと糸を引く。
「痛っ」
江楠が肩を押さえる。
「なに見てんのよ。そんなに女子の身体が気になるっていうの」
「うっ……。怪我させたんだ。悪いかよ、気になって」
「そういうことじゃなくてさ……。はあ、バカねあんた。こんなのほっときゃ治るわ」
俺は倒れたままで、起き上がろうとする江楠の腕をつかんだ。
「治んなかったらどうすんだよ」
「そんなの、あんたが気にすることじゃないでしょ」
「じゃあなんで俺を止めたんだ。こうなる危険だって解っていただろうに」
不意に俺と江楠の視線が重なる。
言葉はなく、二人の呼吸だけが世界のすべて。
「私もわかんない。あんたのことは乱暴で気に食わないって思ってるけど、確かに行動力があって私たちを守ってくれている」
真剣な眼差しで俺を見る。
「あんたがいなかったら多分私は死んでいた。最悪、ゾンビになってそこら辺をうろついていたと思う」
意外だった。江楠がそんな風に考えていたなんて。
「打算といえばそうなんだと思うけど、なんだかんだ言っても私はあんたのこと頼っていたんだなって。
それが目の前でどんどん壊れていくあんたを見て、どうにも怖くなっちゃってね」
「だったら、逃げればよかったのに……」
「そうだね。そうすべきだし、私もそうすればよかったって思ってるよ」
「じゃあ」
「わかんない。気がついたら、あんたを止めなきゃって身体が勝手にあんたにつかみかかっていってたんだ。あんたなんかほっときゃいいのに。壊れちゃっても私には関係ないのに」
江楠の視線が俺から外れて近くの床を眺める。
「私ね、親いないんだ。小さい頃に事故で。
今は親戚の家に住んでいるんだけど、自分で働いて独り立ちしたくてさ。手に職を付けるっていうんで今の高校に入ったんだ」
それで北工業高校なのか。
高卒だけど工業系の就職率はこのあたりでは断トツに高い。
女子で工業は珍しいと思ったけど、そういう理由があればおかしい話じゃない。
「やっぱり男子ばっかりの学校だし、偏差値もあんまり高くないからさ、言い寄ってくる男子はいっぱいいるんだけど、みんなバカばっかで、子供みたいで。まともに仕事に就いて働いて、家族を養ってっていうのも本気で言っているやつはいなくてさ」
「そりゃそうだろ。俺だって将来のことなんか全然考えていねえから……」
高校生で将来の嫁さん持ちとか重たすぎだろ。
そういう人もいるだろうが、高校を出たとして俺は生活ができるのか自信がない。
でも、すぐ働きに出るとなれば生活のことも考えるんだろうか。
「そうでしょうね。だからかなあ、付き合う人はみんな社会人。でもだいたいそういう人って奥さんがいたりするんだよね。それを私に隠しててさ、後で気づいて……」
さっきとは違う涙だろうか。江楠の目に光る物が溜まっていく。
「そんな時かな。一つ上の先輩ですっごく優しくしてくれる人がいて。ころっと傾いちゃったんだよね。
私もバカだったなあ、そんなの目的なんか決まってるのにね……」
大粒の涙がこぼれる。
俺に顔に当たるその涙が、温かくて悲しい。
「バカみたいにひょこひょこ先輩の家に行ったらさ、学校の不良たちが集まってて……。そしてみんなして一斉に……」
「もういい、黙れよ」
俺はそう言ってつかんでいた手を離す。
「お前のそんな話、聞きたくもねえ」
起き上がった江楠がつかまれていた腕をさする。
「そうだよね。ごめん」
江楠の金髪に近い茶髪のショートヘアがうなだれる。
涙と右耳のピアスがキラリと光った。
「俺だって打算だ。お前が役に立つから物資調達にも連れて行くし、今だって手伝わせてる。
江楠はなんだかんだ言って物事を冷静に考えているし、俺の気付かないところを指摘してくれる。
お前の過去なんか気にしない。興味のあるなしじゃなくて、気にしても変えられない過去は気にしても仕方がない。
それより俺は今のお前に助けられているんだ。
今のお前が必要なんだ」
頭を起こした江楠が俺の顔をまじまじと見つめる。
「江楠にはこれからも一緒に居てほしいんだ。過去のお前より、今のお前と未来を見たい」
俺は江楠の頭に軽く手を乗せた。
「そんなの、そんなの解ってるよ……。あんたは私がいないと暴走してどっか行っちゃう、もっと壊れちゃうっていうことくらいさ……」
涙声で肩を震わせる。
「ああそうだな、そうかもな。でもな江楠。生きていく方法は俺が何とかする。なんとか見つける。
だから……俺に任せろ」
江楠の目から涙が溢れ出す。
俺が涙をぬぐおうと手を伸ばした時だった。
「カハッ!」
江楠が膝をついて天井を見上げる。
大きく見開かれた目から光が急速に失われていく。
力なく開けた口からは唾液が泡となってこぼれる。
顔から生気が抜けてだんだんと白さを増す。
「江楠、江楠っ!」
「だ、だ、じょぶ……」
「大丈夫じゃねえだろ! おい! しっかりしろ!」
肩を揺するが効果がない。
ぼうっと天井を見つめるまま。
「くっそう、どうした、どうすればいい!」
俺はどうした。
津川に噛まれた時か。
有希音はどうなった。
俺は津川を噛んだ。死が訪れる前に。
「だったら。江楠、俺の腕を噛め、噛んでくれ!」
虚ろな視線の江楠に腕を差し出す。
だが動きがまったくない。
俺は自分の腕を江楠の口にあてがい押し付ける。
江楠の歯に当たって俺の腕から血が流れた。
それでも変化はない。
どうする。どうしたらいい。
俺は江楠を抱きかかえると、俺の膝の上で仰向けにする。
首が後ろに倒れ口が大きく開く。
ガリッ。
「つっ!」
自分で舌を噛むとすぐに口の中が血で溢れる。
俺は大きく開けた江楠の口に自分の口を重ね、舌を突き入れる。
それと同時に口の中で溜まっていた血と唾液が江楠の口の中に流れ込んでいく。
飲め。
飲んでくれ……。
俺は心の中で必死に叫んだ。
江楠は、ただ天井を見上げていた。




