反撃の狼煙
「よせっ、やめろっ」
絞り出してようやく声になる。
「ひひひっ。彼氏が必死だなあ! こいつは楽しいぜ」
ヒゲダルマは有希音の胸元に顔をうずめる。
有希音は目の前に男の頭が見える位置。
ぼさぼさの髪をかき分けてつむじのあたりの匂いを嗅ぐかのように、有希音が顔を付けた。
「や、やめろっ有希音っ!」
「へ?」
かりっ。
「ぐぎゃあっ! いてっなにしやがん……」
ばりっ!
「わぎゃあぁ! ひいぃっ!」
頭からの大量の出血で顔からなにから血まみれになる。
「なっ、俺の髪が!」
いや、髪どころじゃない。頭皮丸ごと有希音に噛み千切られていた。
「うぎゃあっ、うわぁあ!」
頭を押さえながらもんどりうつヒゲダルマ。
もはやその姿は血だるまだ。
厚手に剥けたため、その奥には頭蓋骨らしきものも。
「ひっ、や、やめっ」
無防備になっていた男の腹部を有希音が襲う。
引き千切られる音、破られる音。そして男の悲鳴。
そしてここは防音室。
有希音は男の腹に顔を突っ込み身体の中身を貪る。
男は血の泡を吹いて力を失った。
「有希音、有希音っ、もういいやめろっ」
俺はもがいているうちに緩くなったガムテープから腕を抜き、足に巻かれているガムテープも破り取った。
「もういいんだ、有希音……」
俺は有希音を男から引き離して自分のシャツを肩に掛ける。
臓物にまみれた顔が不気味に笑う。
「大丈夫だよ、鋼くん」
「有希音っ」
あるのか、意識が。
「禁断症状……って言っていいのかな。それが出たのかと思ったぞ」
「ううん、すごく頭ははっきりしているよ」
一瞬、目が喜びに輝いたようにも見えた。
だとすると意図してのことか。
「よし、実験は終わりだ。寂しい思いをさせたな、今鎖を解くから」
俺は感じた。背筋が寒くなったことを。
「ごめんな、有希音」
「いいよ。ゾンビ化を止められるかどうか私も判らなかったから。自由が利かないから安心できたっていうのはおかしいかな」
「そんなことはない。よく耐えたのはすげえよ」
有希音は血だまりの中から立ち上がると、俺のシャツに腕を通す。
「ありがとう鋼くん」
「いいよ気にすんな」
俺たちは防音室のドアを開けて一階へ向かう。
「ねえ鋼くん」
「ん?」
「鋼くんのシャツ、おっきいね」
腕まくりをした有希音が上目づかいで俺を見る。
「ったりめえだろ」
それだけ答えて、俺は静かにするよう人差し指を立てて自分の口元へ当てる。
有希音はただうなづいてついてくるだけだ。
少し、ドキッとしたのは秘密だけどな。
今、俺の手にはバットがある。
心許ないかもしれないが、武器がないよりはましだろう。
慎重に階段を上っていくと、一階の店舗スペースにはうっすらと明かりが灯っていた。
テーブル席から男たちの声が。
「今日はこんなことになる前から飯なんか食ってなかったからな」
「そうよねえ、昼過ぎに起きたらこんなんだったから、あたしビビっちゃったわよう。にひひ」
グラサンとオカマ言葉のガリチビがカレーを食っている。
厨房にいるおやっさんは俺たちに気付いていない。
「折角だ、食べ比べと行こうじゃないか」
グラサンがお代わりを取りに厨房へ入っていく。
「ほほう、案外いろいろあるじゃねえか。これはグリーンカレーか? そんでこっちは、おお、白いカレーか」
「あらこっちのはキーマカレーみたいね。あたし好きだわ」
男たちはおたまですくっては食べ、すくっては食べしていた。
「ああ、う……」
「うっさいわね、黙ってなさいよっ!」
オカマのガリチビにどやされるとおやっさんは言葉を失う。
「こっちのは寸胴じゃねえんだな。どれどれ……おほっ」
脇に置いてあった小さな鍋のカレーをグラサンが一口ほおばる。
「これは肉も野菜も大き目に切っていて、そのゴロゴロ感がありながらも丁寧に煮込んでいるせいか、ちっとも固くないっ!」
「ほんとだわ、それどころか口に入れたら歯を使わなくてもお肉がホロホロとほぐれていく。なんて柔らかくて繊細な仕事なの」
「あ、う……」
試作だったのだろうか。かなり念入りに作っていたようだからな。
だがそれをあんなやつらに食われちまうのは、無念だったのかもしれない。
そうは言ってもあれだけの賛辞だ。こんな時でも料理人としたらちっとは喜んでいるんじゃないかな。
「あ」
おやっさんと俺の目が合う。
俺は黙ってうなづく。
「あ、あの、厨房ではなんでしょうから、お席にお持ちしますので、はい。あちらで……」
がっつく男たちに恐る恐るおやっさんが声をかける。
「うるっせぇ、ここは俺たちが主だ。お前も俺の命令を聞いてりゃあいいんだよ」
グラサンが大きな肉切り包丁をおやっさんの目の前にちらつかせる。
「は、はい、すみません……」
おやっさんはそういうと、厨房の端に下がっていった。
ナイスだおやっさん。丁度そこは俺たちをやつらから目隠しするような位置。
厨房の反対側を見ると二階へ続く階段があり、神月たちがハサミや花瓶を持って待機していた。
下の騒ぎを聞きつけて応援に来てくれたんだろう。
俺たちは目配せをする。
「っのやろう!」
俺は勢いをつけて階段から躍り出る。
それと同時に神月たちも男たちへ向かって駆け出す。
「なっ、おめえら!」
グラサンに向かってバットを振り下ろす。
ガァンッ!
「鍋の蓋、だとっ!」
グラサンは左手に鍋の蓋、右手に肉切り包丁を持って身構える。
「ぎゃっ」
ガリチビの方は神月たちが殴りかかって取り押さえた。秒殺だな。
「ちっ、まだこんなにいるとは思わなかったぜ。二階も調べておけばよかったなあおいっ!」
グラサンが包丁を振り下ろす。
俺はそれをバットで弾き返し相手の腹に蹴りをお見舞いした。
「ぐはっ!」
蹴り飛ばされたグラサンがグラスやデカンタをなぎ倒しながら倒れる。
「もうお前は終わりだ。大人しく降参するんだな」




