もしかしてゾンビ
「ウエアアッ!」
津川の野郎、なんて怪力だ。
俺の腕をつかんだまではまあいいとして、まがりなりにも自家製武術とはいえ師範の腕前だ。
同年代の奴に筋力では負けない程度の自信はある。
「くそっ、離せよ津川っ!」
呼びかけても虚ろな目をこちらに向けたまま、意味を成さないうめき声を上げながら俺の腕にかぶりつこうとしてきた。
「瞳が白くなって……気持ち悪いぞこいつ」
津川がさらに俺の腕を引き寄せる。
血みどろの口が大きく開いた。
「いってえ!」
津川の歯が俺の腕に突き立つ。
深くはないが出血がある。
相手が引っ張る力を強めたところで、こちらもそれに合わせて今まで引っ張っていた腕を逆に押し込む。
獣に噛まれたら無理に引っ張ろうとしないで、逆に押し込んでやるくらいが傷も深くならなくていいらしい。
「うまい! 力のバランスを崩した!」
神月が喝采の声を上げる。
津川に腕を噛まれた有希音を介抱していた神月が心配そうに俺の方を見ていた。
そうだ。普通なら力のベクトルが変わったところで意表を突かれてぐらつくものだが。
「なん、だと!」
それでも津川は倒れない。
なんとか俺は津川の口から自分の腕をひきはがす。
それにしてもなんてしっかりした足腰なんだ。このまま押し倒して馬乗りになって抑え込もうと思ったが、津川の奴そんなに踏ん張りが利く奴だったか!?
これじゃあ土俵際の力士も真っ青。普段の姿からは予想もできない力だぜ。
「危ねっ!」
俺の腕を引っ張ったまま、津川はもう一度その腕に噛みつこうとする。
とっさにもう一方の手で津川の額を抑え、顔を近づけさせないようにした。
それでも下あごをぐわぐわと動かし獲物にありつこうとする。獣のような唸り声を出しながら首を近づけて。
有希音と俺の血に染められた唾液が津川の開きっぱなしの口から垂れ落ちる。
「こんにゃろ!」
俺の腕をつかんでいる津川の腕を逆に引き寄せると、俺はお返しとばかりに津川の腕へ噛みついた。
歯に伝わる皮膚の破ける感触。
口の中に溢れてくる血が鉄臭い。
でもなんだ。その鉄臭さの中に、甘ったるい何かを感じる。
普段怪我をした時の血の味とはまた違う。
舌に絡みつくような、痺れるような。
いや、今はそれどころじゃない。
まあ、腕の肉を噛みちぎる程ではないにしてもここまですればいい加減ひるむんじゃないかと思ったけど、津川のやつまったくそんな反応を見せないで、相変わらずの馬鹿力で俺の腕を噛もうとする。
よく見れば津川も腰の辺りに血の跡が。
「津川の血だとしたら、かなり出ているはず……」
その瞬間、下の方で風船が弾けるような音がしたかと思うと、津川がいきなりくずおれて膝をついた。
「力を出し過ぎてどっかの腱が断裂でもしたか」
膝かアキレス腱か。この馬鹿力に耐えられなかったのかもしれない。
脛から骨だろうか、血に混じって白いものが飛び出していた。
一瞬津川のつかむ力が弱まった隙に、俺は尻ポケットから二つ折りの財布を取り出す。
「これでも食ってなっ!」
そのまま財布を津川の口に突っ込む。
前歯が数本折れたようだが気にしないで奥へねじ込んだ。
「ムグ! ムググッ!」
必死の抵抗をするようだが、痛みを感じた様子が見られない。
何なんだこいつは。
脚は開放骨折、よくいう複雑骨折ってやつだ。腹部にも大量の血痕。折れた肋骨に砕けた前歯。
そして俺の歯形が残る腕。
これだけの傷を受けても、痛みを訴えるどころかまだ俺に噛みつこうとしている姿は異常だ。
俺は倒れた津川にまたがるようにして上に乗り、抵抗できないように首を肘で抑え手をつかむ。
津川のもう一方の手は自由になっているが、俺の背中を引っかくだけで絞め技を外そうともしない。
「鉄心、警察! 警官が来たよ! よかったあ」
神月が言うように、商店街のアーケードの遠くから人の駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「こら、君たち何をやっているんだ! 喧嘩はやめなさいっ!」
え、喧嘩? もしかして止めに入った俺が当事者扱い?
遠巻きにしていた人の輪から警察官が三人、俺たちの方に近寄ってきた。
「いやいやお巡りさん、ちょっと待ってよ。俺は別に何も」
していないわけじゃないけど、津川の野郎が有希音に噛みついたところから始まっているんだから、巻き込まれたのは俺の方だっての。
そそ、いわゆるセートーボーエーってやつ?
「何を言ってんだ、って、またお前か! 乱暴者の道場息子!」
「違うってお巡りさん、今回は俺悪くないから!」
たまに街中で暴行事件とかあるときに、よく見かける警察官も来ていた。
狭い田舎だ。暴行事件のときにはなぜか俺も近くにいることが多いから、何かと顔見知りだったりもする。
いや、だいたいが濡れ衣だし、俺悪くないし。
「目撃者もお前が一方的に暴行を加えていると証言しているんだぞ」
ああまたそのパターンか。遠くから見ていたらそうも見えるだろうなあ。
有希音に噛み付いたシーンを見逃した奴からすれば、津川はうわうわ言うだけで一方的に俺に攻撃されているようにも見えるだろう。
それにあれ。野次馬でスマホをこっちに向けている奴の多いこと多いこと。
「これって、リアル配信してる奴もいるんだろうなあ……」
「鉄心、それより有希音ちゃんだよ。救急隊員も来てくれたから、病院に連れて行かなくちゃ」
神月が有希音の心配をする。
確かに腕の肉を噛み千切られたんだからな。かなりの出血もしているようだ。
応急手当てといっても神月がシャツで腕を縛っているくらいで、止血できているかどうかも判らない。当然縫合なんてしていない。
意識の無い有希音の周りには有希音本人の血だろう。大量の赤い液体が商店街の地面を濡らしている。
「じゃあお前は調書を取るから署まで来てもらうからな」
顔見知りの警察官が津川にのしかかった俺の肩をつかむ。
おい、俺を無理矢理引き起こそうとするんじゃない。
そんなことをしたら……。
「君、大丈ぶわっ、こいつ、何をっ、こここ、公務執行妨害罪……がぎゃああ!」
マウントポジションから解放された津川が、警察官の首筋に噛みついた。
砕けて鋭利になった歯は、カミソリのような切れ味を生む。
警察官の首から大量の血が噴き出し、アーケードの天井を赤く濡らした。
夕焼け空が透けるそれは、オレンジ色から赤一色に。
噛みつかれた警察官は痙攣しながら膝を折りその場へへたり込む。
その首はあらぬ方向へ倒れ込んだ。
光を失ったその目が俺を見つめる。
「そんな目で見るなよ……」
鮮血にまみれてもなお、津川は警察官の首筋にむしゃぶりつく。
ピチャピチャクチャクチャと、粘り気のある水で遊んでいるかのような音がギャラリーの悲鳴に重なる。
「こいつっ、警官殺しの現行犯だ、抵抗するなら射殺するぞ!」
残った二人の警察官がほぼ同時にホルスターから拳銃を取り出して構えた。
何かを察知したのか津川は噛みついていた警察官の身体を放り投げ、拳銃を構えている警察官たちを見る。
「グブアア!」
吠えて近寄ろうとする津川の動きにつられてか、拳銃から爆竹のような音が聞こえた。
若い方の警察官、ビビッて撃ちやがったな。
弾は津川の肩を貫通し背後にあるショーウインドウのガラスを割り、砕けたガラスが激しい音を立てて飛び散る。
撃たれてもなお、津川は動きを止めない。
開放骨折した足を引き摺り、またしてもじわりじわりと。今度は銃を構えた警察官たちに向かってにじり寄ってくる。
「と、止まれぇ!」
言葉と同時に警察官が拳銃の引き金を引く。
弾は次々と当たるものの、津川はそれをものともしないで警察官につかみかかろうとする。
津川の手が伸びる。
後ずさりする警察官たちの目の前を津川の手が通過した。
力無くゆっくりとしたモーションで津川の手が宙を掻く。
拳銃の一発が津川の額に命中する。
後頭部が弾け飛び内容物がぶちまけられて辺りに広がった。
津川はようやく動きを止め、拳銃で撃たれた勢いのまま後ろへと倒れていく。
「なんだよこいつ……まるでゾンビじゃねえか」
俺は無意識に出た自分の言葉に、背筋の凍る思いがした。
噛まれて、噛み返してしまった鉄心。
これからどうしていくのか自分でも楽しみですが、もう噛まれちゃったから普通のゾンビものには戻れなくなっちゃいました(^_^;)