(6)
「こんばんは」
「こんばんは、どうぞ」
内心躊躇いは生じたものの表面には見せず、いつものように中へ促した。
今夜も変わらず店に現れた凌は、いつものカウンター席に腰を下ろした。
「……ええと、あれから瑞姫さんとは」
テーブルに水を差し出しながらおずおず尋ねると、振り向いた凌がこっちに視線を向けた。
「特に変わらないよ、心配しないで」
「そうですか……それは良かったです」
安心させるように笑みを浮かべたので、とりあえずは安堵した。
いつもと変わらない彼がそう言うなら本当に大丈夫のような気もする。
心配する結子にも気を遣ってくれたらしい、優しく接してくれた彼に要らぬお世話だったかもしれないと少し反省した。
結局2人の問題だ、自分が口を出すべきではなかった。
「瑞姫はああ言ってたけど、結子さんは?」
「え?」
突然凌に尋ねられ、すぐに理解できず問い返した。
「迷惑じゃない?」
続けられた言葉に、ようやくその意味に気が付いた。
おそらく毎日店に来る自分のことを迷惑かどうか聞いたのだろう。
あれほど瑞姫に咎められても平然としていた彼だが、内心は気にしていたのだろうか。
凌はわずかに懸念の表情を浮かべ、傍に立つ結子を見上げた。
「いいえ、そんなとんでもないです」
慌てて誤解を解こうと大袈裟に手をぶんぶん振った。
「この前も言いましたけど、本当に感謝してるんです。いつもありがとうございます」
安心してほしくて必死に感謝を伝えると、幸い彼の表情もすぐに和らいでくれた。
そんな彼の様子を傍で見つめた結子も安堵したが、同時に罪悪感も胸をかすめた。
凌に対し最初に苦手意識を持っていたせいで特別話しかけもしなかった自分の態度を今更後悔した。
いくら表面には見せていなくても、おそらく彼は気付いていたのだろう。
自分のせいで彼が余計な懸念を抱いたのだとしたら、店員として失格だ。
改めて自分の未熟さを痛感し内心落ち込んだ結子だが、すぐさま気持ちを切り替えた。
とりあえず今は反省は後回しだ、挽回とばかりに笑みを浮かべた。
「凌さんの方こそ、毎日魚じゃ飽きませんか? もしかしてお肉は苦手ですか?」
ずっと心にあった疑問だが、この際会話のきっかけにしようと尋ねてみた。
「いや、特に好き嫌いはないけど…………煮付けはいつも結子さんが?」
「はい、焼き魚やフライ以外の日は私が担当してます」
メインが魚の場合、うちの店は週のほとんどを煮付けで提供している。
結子には敵わないからと任されているが、反対に肉料理は新太の腕には到底敵わない。
「いつもとても美味しいです、ありがとう」
「……いえ! こちらこそ、いつもありがとうございます」
丁寧に礼を言われてしまい、思わず照れて顔を赤くしながら恐縮して返す。
どうやら結子の煮付けを気に入ってくれているらしい。
今でも飽きずに自分の作った料理を食べてくれる彼に、嬉しい気持ちと共に感謝の思いが強くこみ上げた。
今まで寡黙で近づきがたかった凌だが、今日こうして面と向かって感謝を伝えられ、彼の人柄と優しさに気付かされた。
もっと最初から勇気をもって話しかければよかったのだ。
気後れしていたせいで、今日までずいぶん遠回りしてしまった。
「……で? 俺が作ったものにはまったく興味ないわけ?」
ここにきてようやく厨房から顔を見せた新太だが話はちゃんと聞いていたらしい、不満げに凌を睨みつけた。
「そういうわけじゃないが、あいにく両方は食えない」
「もとから食う気もないくせに、よく言うよ」
凌の言い分に呆れたように言い返した。
特に好き嫌いはないのだから、確かに新太の不満もよくわかる。
さっきは凌の感謝に純粋に喜んでしまったが、新太のことを考えれば正直不憫だ。
「凌さん、良かったらたまにはお肉も食べてやってください。新太が拗ねてしまうので」
冗談を交え明るく新太をフォローしたつもりだが、凌は頷きだけで承諾し結局今日の注文も変わらなかった。
「もうこいつには期待してないよ。一生魚食ってろ」
捨て台詞を残し再び厨房に去っていってしまった新太に、一度互いの目を合わせた結子と凌は互いに苦笑を浮かべた。
少しだけ彼との距離が近づいた夜だった。
「さすがにちょっと疲れたね」
戦利品を隣の椅子に置くと、さっそく腰を下ろし足を休めた。
「でも楽しかったでしょ? スッキリした?」
「うん、スッキリした」
向かいに座った瑞姫の問いかけにすぐさま肯定し、2人で楽しく笑い合った。
店の定休日である日曜日、駅前のファッションビルのセール初日が今日だと言うので、瑞姫に誘われるまま同行した。
ここには来慣れてるらしい瑞姫に対し結子はほぼ初めてだったので、最初は自分好みの店を見つけるのも一苦労だった。
瑞姫がうまく誘導してくれ服も見立ててもらい、無事楽しい時間を過ごすことができた。
ついついおだてられるまま調子に乗り買いすぎてしまったが、瑞姫も負けじと買い込んだのでお互い様だ。
数時間あちこち店を彷徨い歩き続けたせいで、普段の立ち仕事とは違う疲労を覚えたのも楽しい経験となった。
ビル内にあるカフェでついでにお茶しようと誘われ、ようやく一休みすることにした。
「瑞姫さんはいつもここで?」
共にブレンドコーヒーと苺のタルトを注文し、ゆっくり食べながら聞いてみた。
数多く並ぶ店舗を完全把握している瑞姫はかなりの常連客に違いないはずだ。
「うん、だいたいそうかな。会社帰りにふらっと立ち寄ったり」
「ちゃんと見れた? 今日は私がいたからゆっくりできなかったでしょ?」
「そんなことないよ、すごく楽しかった。また今度一緒に来ようよ」
それまでここに寄るのは控えると嬉しそうに笑ってくれたので、頷いて笑い返した。
瑞姫が喜んでくれればそれだけで十分嬉しかった。
「結子さんは普段ここまで来ないんだよね?今日の服可愛い、すごく似合ってるよ」
「……そうかな、私はいつも適当だから。この服も店の買い物ついでに買ったものだし」
瑞姫に褒められさりげなく自分の姿を振り返ると、同時に瑞姫にも改めて視線を向ける。
いつも会う時は会社帰りでスーツ姿の彼女だが、白シャツにカーキのジャケットを羽織り、黒パンツにヒール姿の今日の恰好はシンプルだからこそ上品で、綺麗な彼女をより一際映えさせる。
瑞姫が可愛いと褒めてくれた結子はというと、チェックのシャツにカーディガン、休日にしか穿く機会がないデニム生地のロングスカートと、これでも頑張って気合を入れた結子の精一杯のお洒落だ。
「買い物はいつも1人で?」
「ううん、荷物が多いからだいたいは新太と一緒。服もついでに選んでもらったり」
基本無頓着な結子に代わり率先して選んでくれる新太はセンスもよくオシャレ男子なので、結子も安心して任せられる。
ここに越してくる前も買い物は新太とばかりしていた。
「じゃあ2人はいつも一緒か。家も同じだとさすがに飽きない?」
「それはまあお互い様だよ。私は居候の身だし…………あ、でも新太は頼りになるんだよ。意外に男らしいし」
今さら飽きる飽きないもない、新太は結子にとってすでに家族のようなものだ。
瑞姫にしっかり新太アピールも忘れず付け足しておいた。
外見は細身でやや小柄な新太は一見頼りなくも思えるが、しっかり者だし体力もある。
恋人として申し分ない、できた男性だ。
「瑞姫さんも凌さんとはずっと一緒だよね。よっぽど気が合うんだ?」
「気が合うっていうか……私は友達も少ないからさ、気付けば一緒にいるのがあいつだったって感じかな。あいつはいつも冷静だから、私みたいにすぐ頭に血が上る奴を受け止めるのが上手なんだよね」
「瑞姫さんと凌さん、見た目お似合いだから勘違いされることも多いでしょ? 実は、私も最初は2人が恋人同士だと思い込んでたし……」
「勝手に勘違いされる分には気にせず放っておく。さすがに大切な人にはちゃんと最初に訂正するけど」
瑞姫の発した言葉に結子は一瞬ピクリと反応した。
大切な人とはつまり、彼女にとって特別な人ということだろうか。
「瑞姫さん、もしかして好きな人とか? 最近恋人ができたり……」
「は? ないない、それはない。どうしたの急に」
いつの間にかいい人でもできたんじゃないかと疑念が過りハラハラと問いかけた結子に、瑞姫はおかしそうに笑ってすぐさま否定した。
どうやら幸い結子の完全な早とちりだったようだ。
「彼氏なんてここ2年くらいさっぱりだし、今は1人が気楽なんだよね。今年26歳だし、こんなにのんびりしてるのもどうかと思うんだけど」
普段は引く手数多だろう瑞姫だが、今のところ恋人を作る予定はないらしい。
はたしてこれは新太にとって吉と出るか凶と出るか、今一判断に悩むところだ。
「今は皆で会って色々話したり、今日みたいに結子さんといられることの方が大切なんだよね。そういうの、私あんまり経験ないんだ」
わずかに寂しさを滲ませた笑顔に、以前新太が話してくれた瑞姫の事情を再び思い返した。
「派手な自分の容姿は自覚してる。別に隠すつもりはないし、自分のことは嫌いじゃない。ただよく勘違いされるし、変な言いがかりつけられることもある。女の子は今でも苦手だし、かと言って男とは友情を築けない。人間関係をうまく築けない私が恋人ができても上手くいかないのは当たり前だよね…………だからさ、そのまんまの私を受け入れてくれた凌と新太はずっと特別。そして結子さんは初めて会った時から絶対友達になりたいって思わせてくれた不思議な人。私にとって大切な人」
瑞姫は、その秀でた容姿のおかげで過去にたくさん辛い思いをしてきた。
一見とても強い印象を与える彼女だが、おそらくそうではない。
いっぱい傷ついていっぱい逃げて、それでも今少しずつ前に進もうと頑張っている。
そんな彼女が出会ってまだ間もない結子には、最初から目を反らさず向き合ってくれた。
大切だと言ってくれた、そんな彼女に感謝しなければならないのはむしろ自分のほうだった。
「なんからしくないよね…………もうこの話はやめよう。ねえ結子さんはどうなの? 好きな人とか、今まで彼氏とか」
「え? いや、ないない! そんなの私は全然」
「……全然? 今までも?」
「うん、全然」
本当の話だから仕方ないが、言葉にすると余計虚しくなってきた。
わずかに驚きを浮かべた瑞姫に、急に恥ずかしくなり誤魔化すように俯いた。
「好きな人も?」
「うん……わかってる、やっぱり変だよね」
「いや、そんなことないけど…………結子さん、もしかして男が苦手とか?」
すぐさま否定してくれた瑞姫だったが、今度はやや懸念を含ませ尋ねてきた。
「ううん別に苦手じゃないよ。ただ、よくわからないだけ。この齢になって恥ずかしいんだけど……」
恋の感情が分からない、それは結子にとってとうの昔に諦めてしまった心の悩みで悲しみだった。
これまで憧れの感情は2度ほど抱いたことはあったが、結局それは恋ではなかった。
人の恋を身近で感じ、時に応援し、けれど客観的に見つめる事しかできない。
新太にだってそうだ、瑞姫のことで心配し親身になってアドバイスしても実際は自分が一番わかっていない。
恋を知らないから、彼に共感することもできない。
今まで恋人と上手くいかなかったという瑞姫が恥じる必要などない、自分はそれ以前の問題だ。
「……結子さん。きっかけがあれば、これから変わることだってあるんじゃない?」
「……え?」
「今までは単純に異性と関わる機会が少なかっただけ。結子さんを思ってくれる人が身近に現れれば、それから恋だって生まれるかもしれない」
おそらく励ましてくれたのだろう、瑞姫は前向きな言葉で明るく笑ってアドバイスしてくれた。
「どうかな、そんな奇特な人がいてくれればいいんだけど」
笑って答えた結子だったが、せっかくの瑞姫の優しさにもすでに頑なになった結子の心を溶かすことはできなかった。
ここに越してくる前、故郷にいた時も新太や仕事以外で男性と関わることなどほとんどなかった。
外見は人並程度、特別内向的でもないが積極性もない結子は告白される経験も今まで一度だってなかった。
彼氏などできるはずもない。
「結子さん大丈夫、きっと近くにいるよ」
「え?」
「もうちょっと待っててあげて、ね?」
「…………うん」
なぜか自信ありげに笑顔で断言され、とりあえず承諾したものの今一納得できず、内心大きく首を傾げた。