(5)
「あれ」
夜の営業時間、たったいま店の玄関から入ってきた客の姿を見つめた。
「こんばんは」
「こんばんは」
とりあえず近くによって挨拶すると、凌も同じ言葉を返した。
入ってすぐ玄関を閉め切ってしまったので、今日は瑞姫と一緒ではないらしい。
特に集まる予定もなかった今日だが、ふいに彼は店にやってきた。
「凌、来たんだ」
「おう」
厨房から気付いた新太の掛け声に短く答えた凌は、そのままカウンター席に座ってしまった。
とりあえず水を準備して目の前に差し出すと、厨房の新太もこっちに顔を出した。
「結子、今日はこいつ客として飯食いに来ただけだから、別に気にしなくていいよ」
てっきり新太と約束でもあったのかと思ったが、今日は食事が目的だったらしい。
「最近実家出て1人暮らし始めたんだって」
「あ、そうなんだ」
とりあえず事情は理解できた。夕食を食べに今日ここに来たのも、おそらく実家を出たせいだろう。
どうやら何も知らなかったのは結子だけのようだ。
「ごゆっくりどうぞ。どっちにしますか?」
「魚で」
凌の注文を傍で聞いた新太はそのまま再び厨房に消えていった。
その場に残された結子は何となく気まずくなり、誤魔化すように客席のテーブルを拭き始めた。
この時間ほかの客もほとんど居らず、しかも相手がこの凌だとどうにもぎこちなくなってしまう。
知り合ってすでに4か月程経過したが、頻繁に顔を合わせているにもかかわらず挨拶以外で彼と直接会話をした記憶は一度もなかった。
いつも新太か瑞姫を挟んで接していたし、ほとんど2人きりで取り残される状況など初めてだ。
今更何を話してよいかもわからず、ただいま非常に気まずい状況である。
情けないが自分から話しかける勇気もなく、けれど幸い相手も特にそのつもりはないらしい。
新太が持ってきた定食を食べ始めた凌は、そのままそこに留まった新太と話を始めた。
早々食事を済ませるとすぐに立ち上がり清算を済ませ、一言挨拶し店を出て行ってしまった。
大変失礼だが、早く帰ってくれた凌に内心安堵してしまった。
それに彼のそっけない態度から無理に気を遣い話しかける必要もないことに気付き、再びほっとした。
これから時たま今日のように店に来ることがあっても、特別構えることはないかもしれない。
あまり気にしないようにしようと割り切ることにした。
「お前…………よく飽きないよね」
目の前に座る大切な客に対して、新太は呆れ顔で呟いた。
時たまだと思い込んでいた凌の来訪だが、意外にも彼はそれ以降毎日のように店にやって来る。
結子だって新太と同じ思いだ、よく飽きないものだと最近では感心を通り越しつつある。
「客に文句言うな。どこで食おうと俺の勝手だ」
冷静に言い返した彼はいつものように目の前に出された食事を食べ始めた。
1人ふらっと夕食を食べに来て以降毎日のようにやって来る彼は、よほど魚が好きらしい。
メインの肉か魚どちらにするか問わずとも、いつも決まって魚だ。
いくら日替わりだといっても週に2度ほど同じメニューが重なることもしばしばあるし、副菜の付け合せだっていつも何かしら被るのは仕方ない。
よく飽きないものだと、結子は最近この彼が不思議でならない。
何か特別食にこだわりでもあるのだろうか、それとも逆になさ過ぎて何でも良いのだろうか。
男は肉と豪語する兄や新太を身近で見てきたので、肉には目もくれずしかも同じような食事ばかり続ける彼は結子にとってめずらしく、また新鮮でもあった。
最近大変不可思議な彼だが、結子は相変わらず接客以外ではほとんど話すこともないし、特に会話を必要としない彼の性格に助けられ自然と慣れつつもあった。
それに毎日うちで食事をしてくれる大切な常連客なのだ。
そういった意味でも凌の存在は大変有難いものだった。
呆れながらも新太と結子にとって大切な上客であった凌だが、ある日事実を知った瑞姫が突然怒り出した。
「ちょっと凌、どういうこと?」
週一恒例の集まりで新太がポロッと口にした事実に、瑞姫はすぐさま隣の凌を睨みつけた。
呆れはするかもしれないがまさか怒るとは思っていなかった新太と結子は驚き、向かいの様子をオロオロと見つめた。
鋭く睨みつけられた凌は、それでも平然と食事を続けている。
「毎日ここに来てるってこと? あり得ない、何考えてんの?」
「お前には関係ないし、お前の許可が必要とも思わない」
冷静に返した凌の態度に瑞姫の怒りはさらにヒートアップしてしまったらしい、表情が一段と険しくなった。
「私はあんたの友達として助言するの! もういい加減にしなよ」
「まあまあ瑞姫、そんな怒らなくてもいいじゃん。うちとしては助かってるんだし」
ハラハラドキドキで2人を見守っていた新太と結子だったが、瑞姫が本気で怒りだしたので新太が急いで止めに入った。
「新太がそんな甘いこと言うから、こいつが尚更つけあがるんじゃない」
「あの、瑞姫さん……新太の言う通りうちはまったく問題ないんだよ。毎日来てくれて本当に有難いくらい」
「結子さん……」
新太でも瑞姫の怒りは収まらず仕方なく加勢した結子だったが、瑞姫もようやくここで少し気持ちを静めてくれたらしい。
さっきまでの勢いを明らかになくした。
とりあえず怒りは収まったものの一気にしんと静まった場の空気に、結子と新太はどうにも気まずくなり一度互いの視線を合わせた。
結局なぜ瑞姫がこんなに怒ったのか、まったく理由がわからない。
それにあれだけ感情をぶつけられても一切動じない凌の態度も、今一不可解なものだった。
2人にしかわからない何らかの事情があるのかもしれないが、当然結子には見当もつかなかった。
「……ごめんね2人とも、気分悪くなっちゃったよね?」
「瑞姫……」
「本当私の勝手だけど、さっきのことはもう忘れて。ここからは普通に話そうよ、ね?」
瑞姫は済まなそうに笑みを浮かべると、すぐにいつもの明るさを取り戻した。
感情を引きずらない瑞姫らしい切り替えの早さに、ようやく新太も結子も安堵の息を吐いた。
瑞姫がせっかく忘れようと言ってくれたのだ。気持ちに応えようと新太はもとより結子もそれからは積極的に口を開き、盛り上げ役に徹することにした。
瑞姫は普通に笑ってくれたし、凌の態度もいつもと変わらない。
余計なお世話かもしれないがどうかこのまま仲違いしませんようにと心で願い、その日も共に帰っていった2人を見送った。
「どうしたんだろうね、今日は」
流しで食器の後片付けをしながら隣に視線を向けると、新太は手に持った皿をぼんやりと見つめていた。
「新太、どうした?」
再び声を掛けるとようやく我に返ったらしい、慌てて手を動かし始めた。
あの2人もそうだが、続くように新太の様子もなんだかおかしい。
懸念を浮かべ顔をのぞき込むと、新太は再び手を止めてしまった。
「結子…………もしかして瑞姫ってさ」
「うん」
明らかに表情暗く躊躇いがちに口を開いた新太に、若干困惑しながら先を促した。
「瑞姫ってさ、凌のこと……」
「凌さん?」
「……いいや、やっぱ何でもない」
中途半端に言葉を切り話をやめてしまうと、再び皿を洗い始めた。
新太の言葉を振り返り、結子もそれとなく彼の懸念を悟った。
ようするに新太は、瑞姫が凌に好意を抱いているんじゃないか心配しているらしい。
一体何がきっかけで突然そんな発想に至ったのか事情はわからないが、彼が今そのことで思い悩んでいる事は隣で強く感じ取った。
「馬鹿だよね俺…………完全考えすぎだよな。あいつらがそんなんじゃないって、ちゃんとわかってんのに」
心配し黙っている結子にようやく顔を上げた新太は、さっきとは打って変わって照れ笑いを浮かべた。
「あいつらが並んでるとどうしても疑っちゃうんだよね。これじゃ昔と同じだよ、結局俺全然変わってない」
「……新太、心配になるのは仕方ないことだよ。それだけ新太が瑞姫さんを好きってことじゃん、不安になるのは当たり前だよ」
新太だけじゃない、おそらくきっと恋をすれば誰だって同じだ。
子供の頃からまったく成長していないと落ち込む必要なんてない。
「うん……結子俺さ、今度は絶対あいつから逃げたくないんだ。ちゃんと好きでいたいし、あいつにも好きになってもらいたい。絶対諦めたくない」
ようやくいつもの新太らしさを取り戻してくれたらしい、自分の想いをはっきりと口にした彼は明るく笑った。
結子もただ同じように笑い頷きで答えた。