(5)
「おーい結子ちゃん、新聞ある?」
「あれ? 置いてありませんでした?」
常連客の男性が客席の端に置かれている棚をのぞき込みながら、厨房にいる結子に確認してきた。
いつも棚には毎日新聞を2部ほど常備しているはずなのだが、そこには見当たらないらしい。
とりあえず辺りを見回すと、なぜか厨房の隅の物置棚の上に無造作に追いやられていた。
「お待たせしましたー」
「ありがとう結子ちゃん。おめでとう」
「……は?」
新聞を探していた客に急いで持っていくと、優しい笑顔で感謝とお祝いの言葉をダブルで頂いてしまった。
「無理はしない方がいいよ。それに走っちゃだめだ。今が一番危ない時期だからね」
「はぁ、一体何のこと…………ギョッ!」
なぜか今度は健康そのものの結子の身体を心配され意味がわからず客を見つめると、ついでに客の背後も視界に入れた結子はギョッと目を疑った。
「お母さん、一体これは何なんですか!!」
閉店5分前、最後の客が店から出て行くと、わざわざ2階から明美を呼び出した結子は激しく怒り始めた。
「何って見ればわかるじゃない。たまっこクラブよ、たまっこクラブ。知らない?」
「一体どこの誰が定食屋でたまっこクラブを見るっていうんですか!」
昼間までは確かに棚にあったはずの漫画と新聞が忽然と姿を消し、代わりに妊娠ママのバイブル雑誌・たまっこクラブ、しかも1年分表紙見せで覆い埋め尽くされている。
中高年男性客ほぼ100%を占めるこの定食屋にもっとも相応しくない代物であることは言わずもがなだ。
こんなことを平然とやってのけるのは日本全国どこを探しても当然明美しかいない。
「だって……こうでもしないと結子ちゃん気にも留めてくれないじゃない。せっかく年間定期購読してここまで集めたのに、私悲しくって……」
「お母さん……」
ついさっきまで平然と開き直っていた明美が、突然割烹着に顔を覆ってしまった。
確かに今まで明美が頑張って店の随所に散りばめたたまっこクラブを完全無視していた結子は、明美の悲しむ姿にさすがに反省の色を滲ませた。
「……お母さん、さっきはつい怒ってしまってごめんなさい」
「結子ちゃん……」
「わかりました。せめて家に帰ってからちゃんと読みますから、もう泣かないでください。ね?」
一生懸命明美を慰めると、しかたなく棚の中のたまっこクラブを集め始めた。
「おかえり結子さん………………ところでこれは何?」
会社帰り、そのまま結子を迎えに店の外で待っていた凌は結子が重そうに抱えた紙袋を取り上げると、さっそく中身をのぞき込み尋ねた。
「たまっこクラブですよ、たまっこクラブ。知りません?」
どうやら男性の凌はたまっこクラブの存在を今まで知らなかったらしい。
とりあえずたまっこクラブの大まかな概要を説明しようとすると、その前に凌が納得したように頷いた。
「すっかり忘れてた…………確か明日は資源ゴミの日だったよね。ちょうどいい、帰りについでに出していこう」
「いえ、これは資源ゴミではなくてですね……」
「ようやく思い出した…………田舎のお義姉さんは今4人目を妊娠中だったよね。今すぐ宅配で送ってあげよう」
「いえ、田舎の義姉ではなくてですね……」
「ちゃんとわかってる…………産婦人科に寄付だよね。結子さんは家で待ってて。俺が素早く持っていく」
「いえ、産婦人科に寄付でもなくてですね……」
どんなことがあっても結子がたまっこクラブを読むとはかすりも思わないらしい。結子に必死に止められ産婦人科への寄付を渋々諦めた凌は、クローゼットの奥に収められている結子の漫画のそのまた奥底にたまっこクラブを完全密封してから深く沈みこませた。
「結子ちゃんいらっしゃい。アハハ」
「あはは…………お義母さんこんにちは」
結子が玄関ドアを開けると廊下の奥から軽やかにスキップしてやってきた義母に迎えられ、笑顔で挨拶した。
「凌君、いないよね?」
「はい、今日は」
「やったぁ! 結子ちゃん、こっちこっち」
休日の日曜日、凌に内緒でこっそりおいでと義母に誘われこっそり自宅マンションを抜け出してきたのだが、無事1人でやってきた結子に軽く飛び上がった義母に家の中へ引っ張られた。
「えっと…………この部屋は一体」
ついこの前訪れた時はごく普通のリビングだったのに、なぜか今日は突然様変わりしている。
「えへ、買っちゃった」
「買っちゃったって………………これ全部ですか!?」
義母のとんでもない軽い発言に結子は絶叫した後、すぐさま絶句した。
なぜか突然育児ルームに変貌したリビングにはベビーベットを筆頭にベビーチェア、ベビーおもちゃ、ベビー服、ベビーおむつ、ベビーカー、ベビー………………とにかく所狭しとベビーグッズ勢揃いだ。
「……あの、それでお義母さん、肝心の赤ちゃんはどこに?」
なんとか気を持ち直し、今だ育児ルームに姿が見当たらない赤ん坊は一体どこにいて誰の子供なのか恐るおそる問いかける。
「こ・こ・よ。アハハ」
「……………………」
赤子など宿してもいない結子の腹を、義母は軽ーく撫でまわした。
「こないだ結子ちゃんが家に来た時、結子ちゃんいっぱいミカン食べてたでしょ? 家の向かいの近藤さんにうちの結子ちゃんはミカン大好きなんですって話してたら、それは絶対おめでたよって。さっそくパパとお店に行って買ってきちゃった」
「……お母さん、残念ですけど私はまだ」
「結子ちゃん、よかったね。アハハ」
すっかり浮かれまくり部屋中をアハハアハハと軽く飛び跳ね回る義母には結子の声などまったく耳に入らないらしい。
どうしようと慌てふためいていると、育児ルームの隅っこに静かに座っていた義父にたった今ようやく気が付いた。
「あのお義父さん、お義母さんを止めて下さ…………ギョッ!」
よくよく見ればいつもどんより重くテンション低い義父の手にさりげなくガラガラが握られていて、結子はギョッと目を疑った。
どうやら義父もすっかりその気らしい。
「一体これは何なんだ」
こっそり家からいなくなった結子の居場所をすぐさま突きとめた凌が、いきなり育児ルームに突入してきた。
「あーあ、凌君もう来ちゃった。残念」
「凌さん……」
「いいから結子さん、とりあえずここから今すぐ出るんだ」
近くにいた結子の手をすぐさま掴んだ凌は、強引に結子を育児ルームから外に追い出した。
「父さん、母さん、はっきり言っとくが結子さんは妊娠なんかしていない。期待しても無駄だ。諦めてくれ」
すっかり浮かれまくる両親に容赦なく現実を突きつけた凌は、そのまま結子の手を引っ張り家を抜け出した。
「……………………」
自宅マンションに戻ってからもソファに座り口を噤んだままの結子に、そばに近寄った凌は静かに隣に腰を下ろした。
「結子さん、お願いだ…………もう口を開いて」
結子の顔色を窺い不安そうに見つめてくる凌に懇願され、それまでずっと彼を無視していた結子もとうとう諦めた。
「……あんな言い方はだめです。ちゃんとお2人に謝ってください」
ようやく凌に視線を向け義父母への謝罪をお願いすると、今度は凌が結子の目をそらした。
「凌さん…………お義母さんはただ勘違いしただけです」
「でも現実に子供はいない」
期待させるだけ酷だと、凌ははっきり結子に言い返した。
頑なな彼の態度に、結子の心は一気に不安が膨れ上がった。
「凌さん、私達の子供はいりませんか?」
聞きたくても今まで怖くて聞けなかった質問を、結子は今初めて凌に投げかけた。
目をそらし一向にこっちを見ない彼に、結子は答えを突き付けられた。




