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「じゃあ凌さん、行ってきますね」

 土曜日の今日、店は通常営業日である結子の朝はいつも通り早い。

 時刻はまだ7時過ぎ、玄関先まで見送ってくれる凌に振り返り笑顔で挨拶をする。


「いってらっしゃい。気を付けて」

「はい、凌さんも今日はゆっくり休んでくださいね」

「うん」 

「気分転換にどこか遠出するのも良いかもしれませんね。ドライブとか」

 せっかくの週末の休みなのだから有意義に過ごせとお節介にもアドバイスすると、凌も笑顔で頷いてくれた。

 内心ほっと安堵すると、再び挨拶を交わし家を後にした。





 結子の働く古民家定食屋は自宅マンションから徒歩3分もかからない、すぐご近所だ。

 朝も比較的早く帰宅も必ず8時を過ぎる結子にとって、通勤の楽なこの距離は大変助かっている。

 結婚してようやく半年程経過したが以前と生活はそれほど大きな変化はなく、幸い穏やかな毎日を過ごしている。  

「穏やかなのは今だけよ。子供ができたら、それこそてんてこ舞いなんだから」

 何も吐露していない結子の心の声を敏感にキャッチした明美に突然忠告され、しかたなく野菜を刻む手を止めた。


「……お母さん、子供なんてうちはまだまだですよ」

「のんびりしてたらあっという間に30過ぎちゃうわよ。安心しなさい、産まれたらここに連れてくればいいんだから」

まだ腹に宿してもいない結子の子供をすでに面倒見る気満々の明美は、とにかく孫の世話がしたくてウズウズしているらしい。

 息子の結婚まであとしばらく時間がかかるせいで、最近は結子の子供の顔を早く見せろととにかく煩い。


「どうせあいつがその気ないんでしょ。結子を独り占めしたいもんだから」 

 結子と明美のやりとりを傍で聞いていた新太が割って話に入ってきた。

 

「それでなくてもあいつ嫉妬深いんだし、子供なんてできたらそれこそ取り合いになるよ。結子の」

 子供ではなく結子の取り合いになるとさっそく凌をからかい始める新太を一睨みする。

「もう、新太ふざけないでよ。凌さんがそんなことでヤキモチ焼くわけないじゃん。子供じゃあるまいし」

 確かに新太の言う通り、凌は今のところ子供を欲しがる素振りはみせないし、話題にも出さない。

 結婚してまだ間もないのだし、焦るつもりもないのだろう。

 結子自身もそこまで子供を急ぐ気持ちはまだ湧いてこないし、呑気なようだが自然に身を任せても良いとさえ考えている。


「子供の話はここまでにして、そろそろ11時半ですよ。急ぎましょう!」

 このままではいつまでも新太と明美から逃げられない。2人にはっぱをかけ開店準備を急がせると、再びせかせかと手を動かし始めた。





「凌さん……」

 開店1分前にもかかわらず、今日最初に現れた客は結子の夫、凌だった。

 玄関を見つめ失礼にも落胆の表情を浮かべた結子は、すぐさま傍へ駆け寄った。


「こんなに早く一体何なんですか? それに、たまには気分転換に遠出もいいんじゃないかって私さっき言いましたよね? 凌さんもちゃんと頷いたじゃないですか」

 遠出どころか近場も近場、ここまで3分も歩いてないじゃないかと勢いよく不満をぶつける。

「うん、やっぱりやめたんだ。途中で全然気分が乗らなくなって……………そしたらちょうど昼になった」

 腹が減ったから店にやって来たという凌はそばで怒り始めた結子をそのままに、窓際の席にしっかり腰を落ち着けてしまった。

 おそらく梃子でも動かないだろう彼の背中を見つめ、げんなりとため息を零した。


「いいじゃない、どうせ今日は休日でお客さんも少ないんだし。凌君、いらっしゃい」

 せっかくわざわざ店まで来てくれた夫に大変辛辣な結子を宥めた明美は、代わりに凌に水を差し出し笑顔で歓迎した。

「おばさん、お邪魔します。人手が足りなかったら是非」

「あらそう? いつも悪いわねぇ」 

「凌さんいい加減にしてください! これ以上続けるならこのまま帰ってもらいますから」

 しまいには忙しければ自分を使ってくれと言い始める凌に、再びきつく叱り始めた。


 昼食を食べにやってきたというのに食事を済ませた後もしぶとく帰ろうとしない凌は、結局この日とうとう閉店時間まで店に居座り続けた。

 問題はこの日限りのことではなく結婚後ほぼ毎週繰り返しているのだから、結子が怒りたくなるのも当たり前だ。

 ただ座っているだけでは暇を持て余すと毎回手伝いを申し出る彼だが、そんなに暇なら買い物でもどこでも遊びに行けばいいものをしぶとく店に一日中居座り続けるのだから、最近結子もほとほと参ってしまった。

 いくら結子が毎回きつく叱っても、彼は全く聞き耳持たずだ。

 まさか結婚後、休日の夫の行動に頭を悩ませられるなどまったくの予想外だった。








「へぇ、そこのデパートにお勤めでしたか」

 目の前のカウンター席に座る姿を改めて振り返り、思わずうんうんと頷いた。

 平日の午後2時前、遅い昼食を摂りに店に現れた樫本という名の男性は、半年ほど前からよく訪れる常連客の1人だ。

 週2度ほど来店してくれる彼とここ最近、世間話程度に気さくに会話するようになった。

 近くの工業団地に勤める中年層の客が大半を占めているこの店で彼は20代とまだ若く、いつも仕立ての良さそうなスーツをお洒落に着こなしているので、結子にとっても気になる存在ではあった。

 毎回昼のピーク過ぎに店を訪れる樫本が工業団地ではなくこの近くの老舗デパート勤務だと教えられ、ようやく納得がいった。

 「この店はデパートからも近いし料理も美味しいから…………それに結子さんもいるし」

 樫本が照れ笑いを浮かべ料理を褒めたついでにさりげなく結子にお世辞を使ってくれたので、結子も思わず照れてしまった。


 同じ接客業であってもさすがデパート販売員は違う、結子もしっかりおだてに乗せられてしまった。


「これからも是非ごひいきにお願いします」

「うん。うちの女の子達にも宣伝しておくよ」

「女性の方はどうでしょうか…………ここは定食屋なのでおそらく好まれないかと」

 おそらく見向きもされないだろう若者女子ではなく、どうせなら中年男性に声を掛けてほしいところだが、樫本の気遣いはとても嬉しいものだった。



「樫本さんはデパートでは主に何を?」

 まだ時間に余裕があるのか食事を済ませても今だ帰る気配を見せない樫本に、とりあえず話のネタに彼の仕事内容を聞いてみる。

「入社してから去年までずっと紳士服売り場にいたんだけど、今年から催事場を担当してるんだ」

「催事場……」

「知らない? 最上階にあるんだけど。物産展とか行事もののイベント会場。今だと父の日フェアだよ」

「ああ、あそこですか」

 確か樫本の勤めるデパートの最上階はほぼ全面にわたって季節行事ごとの商品販売やイベントの開催場所として使われていたことを思い出した。

 結子もこれまで1、2度ほど物産展目的で足を運んだことがある。


「うちに用事ができた時はぜひ俺に一言声掛けて。いつでも案内するから」

 爽やかな笑顔で社交辞令まで言ってくれた樫本はわざわざスーツから自分の名刺まで取り出し、しかも裏に自分の携帯番号まで書き加え結子に手渡した。

「わざわざありがとうございます。その時はよろしくお願いします」

 たとえデパートに用事ができても仕事中の樫本を呼び出す気など端からない結子だが、親切な彼の言葉に笑顔でお礼を返した。




「あーあ、期待させちゃって…………本当、結子って罪作りだよねぇ」

 樫本が店を出たあとテーブルの片付けをする結子の傍に、それまで厨房にいた新太が近寄ってきた。

「罪作り? 何のこと?」

「まったく、全然気付いてないんだから…………さっきの樫本さんだよ、樫本さん。結子嬉しそうに笑っちゃってさぁ、樫本さん今頃有頂天だよ」

「……はぁ?」

 突然新太に呆れられ、しかもまったく身に覚えがない言われように結子もさすがにムッときた。


「ちょっと新太、変な言いがかりつけないでよ。せっかく樫本さんが気を遣ってくれたのに無下にできるわけないじゃん」

 失礼にならないよう笑顔で名刺を受け取っただけなのに、それの何がいけなかったんだと怒る結子に対し、新太は諦めたようにため息を吐き出した。


「相変わらず自覚なしだよね…………知ってた? 結子って意外にモテるんだよ」

「……は?」

「高校時代、結子の隣の席だったやつらも、結子と同じ委員だったやつらも、結子と同じバイト仲間だった1年後輩も、みんな揃って結子のこと大好きだったけど。おそらく以前結子が働いてた会社にも数人いただろうね」

「まさか、私を?」

 凌を除いて今まで男性から一度も告白など受けたことのない結子にとって到底信じられる話ではなく、当然新太に疑いの目を向けた。

「結子は誰にでも親切だから、近くにいた奴らは素朴で優しい結子に勘違いしちゃうわけ。しかも皆本気だったから、下手に告白も出来なかったんだよ」

「……………………」

 なんと自分が意外にもモテモテ女子だった事実を今頃になってようやく新太から告げられ、結子はショックで呆然と立ち尽くした。


「まったく、凌が不安になるのも無理ないよね。奥さんがこんなんじゃ、一日中店で監視したくなるあいつの気持ちも十分わかる話だよ」

 今だ呆然と立ち尽くしている結子をそのまま残し、新太はやれやれといった様子で再び厨房に引っ込んでいった。








「凌さん、できましたよー」

 いつもはキッチンに立つ結子の背後に必ずへばりついている凌の姿がめずらしく近くに見当たらず、声高めに呼びかけた。


「おまたせ結子さん……………ところでこれは何?」

 どうやら寝室にいたらしい。結子の掛け声にすぐにこっちに戻ってきた凌は笑みを浮かべ、結子に問いかけた。

「それは…………ああ、名刺ですね。お客さんの」

 凌が目の前に差し出し確認してきたそれは、確かに昼間店に来た樫本に頂いた名刺だった。

 店から帰宅前にとりあえずバックの中に移したはずだが、適当に入れてしまったせいか寝室のどこかにいつの間にか落としてしまったらしい。

「常連のお客さんがデパートにお勤めだそうで、所用があれば声を掛けてくれってとりあえず頂いたんですよ」

「へえ、そうなんだ。でも結子さん、デパートに用事なんてないよね」

「まあそうなんですけど…………とりあえずご飯食べましょうよ。冷めちゃいます」

 それでなくてもすきっ腹なのに食事前にこの話を続けるのも面倒になり、凌から名刺を受け取るとさっさとテーブルに腰を下ろした。





「あれ」

 風呂から上がり、さっきまで穿いていたジーンズを洗濯機に放り込むためポケットを手探り確認する。

 確かさっき凌から受け取った樫本の名刺を入れたと思ったのだが、見つからない。

 思い違いだったかとそのままキッチンに向い辺りを探してみたが、結局どこにも見当たらなかった。


「間違ってどこかに捨てちゃったのかなぁ………………ま、いいか」

 樫本の親切をあっという間に紛失してしまい申し訳ないが、失くしてしまったものはしょうがない。

 どうせ必要とすることもないのだし、すぐに諦め寝室に向かった。




「凌さん、どこか具合でも悪くなりました?」

 いつも一緒に風呂に入る凌だが今日に限って早々浴槽から上がってしまい、すでにベットの中に潜り込んでいる姿に慌てて声を掛けた。

 ベットの傍に近付き、横向きでまったく見えない顔をのぞき込む。


「うわぁ!」

 突然こっちに振り返った凌に思いきり身体を引っ張られ、気が付けばあっという間にベットの中に沈めこまれた。  

 驚いて悲鳴を上げた結子に覆いかぶさるように、凌が圧し掛かってくる。


「びっくりした…………もう、急に何なんですか!」

「ごめん結子さん」

 口尖らせ文句を叫ぶ結子に謝った凌は顔色も特に普段通りだったので、最初から結子を驚かせるつもりだったらしい。

 してやったりと子供のように笑う凌に、怒っていた結子もしょうがないとすぐに表情を緩めた。



「凌さん」

 じっとこっちを見つめる彼に 照れくさいながらも応えようと両手を伸ばし頬に触れる。


「結子さん」

 結子から許しを受けた凌は嬉しそうに名を呟くと、啄ばむように結子の唇にキスを落とした。



「今夜はまだ早いから、いっぱいこうしていられる」

「ほどほどで勘弁して下さい……」

    



   

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