(18)
「あの鈍感おバカ、とうとうフラれたみたいね……」
ゼイゼイ息切らせ玄関に駆け込んだ結子を出迎えたのは明美だった。
普段息子には大変辛辣な明美でさえ複雑そうに息を吐くほど、新太はひどく落ち込んでいるらしい。
「そ、それで新太は今どこに……?」
茶の間の隅で体育座りだったらまだ幸いだ、結子が慰めようもある。
「それが誰とも顔を合わせたくないみたい…………部屋に閉じ籠っちゃって」
ということは、結子の慰めさえ拒絶するほど彼はすでに瀕死の重傷らしい。
明美の言葉にショックを受けた結子だったが、すぐさま気持ちを切り替え家の中に入った。
部屋に入った結子にも反応なく、新太はベットの上で体育座りの膝に顔を埋めていた。
ピクリとも動かない姿に躊躇いつつも傍に近付く。
「新太…………瑞姫さんなんだけど」
ピクリとも動かなかった新太が瑞姫の名を出した途端ピクリと反応した。
やはり気になるのだろう、とりあえず正直に事実を伝えようと再び口を開いた。
「あの男の人は会社の同僚の人だって。確かにデートはしたけど今日一度限りの約束だったみたい」
静かに事情を説明すると、突然ガバリと顔を上げた。
「本当!?」
突然生まれた希望にキラキラと目を輝かせる新太に頷いて肯定する。
「……何だ、そっか…………何だよもう、はは」
当然勘違いしていたのだろう、深く安堵した新太は照れ笑いを浮かべ喜び始めた。
「結子、さっきはごめん…………俺すっかり動揺しちゃって」
ショックのあまり結子を置き去りにして1人帰ってしまった事を思い出したらしい。
ようやく結子にまで気を向けられるようになり気持ちを持ち直した新太にとって、やはり瑞姫の存在はそれほど大きいのだろう。
ただ首を振って答えた結子は嬉しそうに笑う新太を見つめるだけで精一杯だった。
新太に伝えていない事実がもう1つある。
これ以上彼が傷つく姿など見たくない、だからこそこれから先も知らないままでいてほしかった。
夕方5時過ぎ、夜の開店前にはまだ少し早く、店の中は音1つなく静まり返っている。
ひとり窓際の客席に座る結子はぼんやりと前を見つめていた。
「結子さん」
背後から名を呼ばれ、ようやく我に返ると慌てて振り返った。
玄関前にいつの間にか凌が立っていて、すぐさま椅子から立ち上がった。
「こんにちは、今日は早いんですね」
今日は土曜日の休日だったせいか、彼はいつもの夕食時より早く訪れた。
まだ開店前なので少し待ってもらうしかない。
「入ってもいい?」
「もちろんです、どうぞ」
遠慮深げに尋ねられ、すぐさまカウンター席を勧めた。
「この時間ならちゃんと話せると思って」
「……私ですか?」
「うん」
結局椅子を勧めても凌は座ってくれず、そのまま結子の目の前に近付いた。
「結子さん、ちょっと後ろ向いて」
「……は? 何で」
「いいから」
突然後ろを向けと言われ戸惑いを浮かべ理由を尋ねても、なぜか嬉しそうに笑って結子をやや強引に後ろ向きにさせた。
一体何なんだと若干不安に感じつつそのまま待つことにすると、一本結びの結子の髪が突然優しく引っ張られた。
「よかった、思った通りだ」
背後で安堵したように呟かれ、ようやく気付いた結子はとっさに自分の髪に触れた。
「これ……」
「見えないよね、ごめん。今日結子さんに似合いそうなの見つけたから、早くつけたくて」
おそらく一本結びの結子の髪に付けられたのはバレッタだろう。
見えないそれに手で触れ、感触を確かめた。
「この前の花火の時、結子さん髪飾りをつけてたから。可愛くて、バレッタなら普段使えると思ったんだけど」
「………………」
「……駄目かな」
凌の言葉にも沈黙のまま反応しない結子に、今度はやや心配げに問いかけた。
「……いえ、そんなことないです。わざわざありがとうございます」
正面に向き直り礼を返すと、凌もほっと安堵の表情を浮かべた。
「よかった」
「でもごめんなさい。これは受け取れません」
せっかく髪に付けてくれたバレッタをすばやく取り外すと、そのまま彼の前に差し出した。
「………………」
結子の手のひらにあるバレッタを見つめた凌は、そのまま黙ってしまった。
「凌さん、ごめんなさい」
気持ちは受け取れないと、結子はただ一言謝った。
しんと静まり返った店内に、互いの沈黙だけが続いた。
今だ受け取らないバレッタを差し出したまま、ただ俯きじっと待ち続けた。
向かいの凌が諦めの息を深く吐き出した。
「……またあいつ? それとも今度は新太? 一体いつまで気にするの?」
厳しい声が静かに耳に響き、結子の身体は一度固く強張った。
棘を含んだ彼の問いかけに何も返すことができず、ただじっと黙っていた。
口を閉ざし固まったままの結子はとうとう呆れられた。
静かに背を向けた彼は、そのまま店を出て行った。
バレッタを握りしめた手を力なく下ろすと、そのままぼんやりと立ち尽くした。
背後から微かな物音をとらえ、無意識に振り返った。
「新太……」
階段の傍に佇む新太の姿に今初めて気付いた結子は驚き、小さく名を呟いた。
新太は茫然とこっちを見つめていた。
「……一体今の何? 結子、凌のこと振ったの?」
信じられないとばかりに問われ、気まずく視線をそらした。
ようやくそこから動き出した新太は、ゆっくりと結子の傍に近寄った。
「……もしかして、俺のせい?」
目の前に立つ新太の小さな問いかけに、思わず息を吐いた。
「そんなわけないじゃん」
「でも、さっきあいつが」
「だから違うって、考えすぎだよ。もう開店だから新太も準備して」
早く厨房に行けと新太の背中を押し促すと、さっさと客席のテーブルを丁寧に拭き始めた。
自分に背を向ける結子の後ろ姿を見つめ、新太はぎゅっと固く手を握りしめた。




