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不況の煽りを受け、それまで勤めていた会社が突然倒産したのは昨年秋のことだった。
高校卒業後すぐに就職した結子は24歳まで6年間、自宅から車で1時間程距離のある印刷会社の事務員として世話になっていた。
あっけなく職無しとなりさすがにショックで一週間ほど家に引き籠っていたが、すぐに就職活動を始めた。
当時実家暮らしの結子の家族はすでに現役を引退した父と母、長男夫婦と孫数人という大家族だ。
家にいても邪魔者でしかない職無しプー太郎の居場所など存在するはずもなかった。
優しい家族はしばらくのんびりすればいいと笑って許してくれたが、何より甘え下手な自身の性格がすぐに働かなければと焦りを掻き立てた。
それでも結子の住む土地は所詮ド田舎もいいところ、働き口は少なく結局数週間職探しに困難を極めた。
精神的に参り始め、とりあえずアルバイトでも始めようかと諦めかけたちょうどその時、一本の電話が結子の携帯に入った。
結子と同じく相手も多忙だったのか、ひと月ぶりに連絡のあった親友からだった。
職無しで途方に暮れている結子の事情を何も知らない親友は、まるでタイミングを計ったように突然結子に職の誘いを入れてきた。
この際どんな仕事だって構わない、飛びつかんばかりに二つ返事で承諾してしまった。
勢い任せに即決した結子は1週間後、単身初めて地元を離れ親友のいる遠い地に降り立っていた。
生まれて初めてありったけの勇気を振り絞った、結子の新たな人生の始まりだった。
工業団地を少しばかり脇にそれた田舎町の一角に、そこだけ異彩を放つ日本家屋の古民家が存在する。
築100年以上その間何度も補修を繰り返し、今現在は味わい深い古民家定食屋として近所に定着している。
古民家の持ち主兼店主であるのがまだ若き青年、野木 新太。
もともとが祖父の家であり新太が中学生時代まで家族は定住していたが、祖父の死をきっかけに10年近く空き家となっていた。
偶然にも用事ついでにふらっと帰省した際、目を付けたのが孫の新太だった。
高校時代から長年の夢であった自分の店をこの古民家に託した。
専門学校時代のアルバイトと4年間就職しコツコツ貯め続けた有り金すべて叩いて、改装に半年費やした。
始めたのは工業団地に程近い立地条件に見合った就業者向けの定食屋。
真っ先に連絡を入れたのは、その時偶然にも職無しで途方に暮れていた親友の結子だった。
11月に入り急に気温が落ち込んだ朝、肌に触れる空気が身に染みるようになった。
裏の小さな畑からネギ数本引っこ抜き、足早に勝手口から厨房に戻る。
水道で丁寧に泥を落としてから、薬味用で小口切りに刻み始めた。
タッパーにしまい冷蔵庫に入れ終わると、リズムよく階段を下りてくる足音が響いた。
「おはよう、早いね」
「おはよう」
いつもの笑顔で挨拶をくれた新太はさっそく厨房に入りエプロンをつけると、隣の結子に並んだ。
「みそ汁なに? 豚汁?」
「残念、豚はない」
さっき朝一で作っておいた大鍋の蓋を開け、さっそく覗き込む新太に笑って答える。
具沢山のけんちん汁は昼の客に提供する分と自分達の朝ごはん用だ。
「美味しそう、よそうね」
「うん、お母さんは?」
「まだ」
新太が茶碗にみそ汁をよそい始めたので今だ下に降りてこない彼女を確認すると、まだ時間がかかるらしい。
少し経てば降りてくるだろうと、結子も一升釜から3人分のごはんをよそい始めた。
炊き立てごはんとけんちん汁、漬物に納豆、簡単質素な朝食を準備するのはいつも結子の仕事だ。
日当たりの良い特等席の客席にすべて運び終えると、ようやく階段を下りてくる元気な足音が響いた。
「おはよう! 今日も美味しそう」
「お母さん、おはようございます」
タイミング良く現れた彼女がいつもの褒め言葉と共に席に座ったので、2人も向かいに並んで腰を下ろした。
「いただきます」
時計は8時過ぎ、いつも通りの朝食時間に3人は揃って手を合わせた。
今から1年前、念願叶え亡き祖父の古民家で定食屋を始めた新太は、結子の高校からの友人だ。
高校時代、調理部に入部した結子はそこで新太と出会った。
結子が1年生当時の部員は全員で10名程度、同学年の結子と新太はその中でも唯一の1年生部員だった。
調理部初にして唯一の男子生徒である新太の存在はやはり異色であったが、意外にも入部早々その場に馴染んだのは結子より新太が先だった。
先輩方から可愛がられる新太は決して派手ではないが愛嬌があり人懐こい性格で、あっという間に女子オンリーの調理部内に溶け込んでしまった。
それまで男子とはあまり免疫がなかった結子にとって、そんな新太はどうにも苦手で近づきがたい存在でもあった。
まるで気にしていない新太は唯一同学年という近い存在の結子に平気で話しかけてくる。
しまいには何を気に入られたのか知らないが、いつの間にか友人認定されてしまっていた。
いつも楽しそうに自分に纏わりついてくる新太のペースに結子もすっかり巻き込まれ、結局はあっという間に親しい仲になってしまった。
部活動が一緒、そのうえ偶然2、3年とクラスまで一緒になり、高校時代結子と新太は常に行動を共にするようになった。
最終的に新太は調理部部長、結子は副部長を務め上げ、放課後の部活動で2人は元々得意としていた料理に一層磨きをかけた。
結子にとって趣味と家の手伝いの一環でしかなかった料理だが、新太にとってはそうではなかったらしい。
いつか自分の腕で店を構える夢を嬉しそうに結子に教えてくれた。
その時は一緒にやろうと、すっかり冗談だと信じていた新太のいつもの誘い文句に、当時は笑って頷いたものだった。
新太の夢の実現を傍で応援していた結子だったが、まさか今こうして一緒に働けるとは夢にも思っていなかった。
結子にとって新太はまるで異性を意識させない、男女の垣根を越え今も互いは一番の親友であり、そして今現在大切な仕事仲間でもある。
「ごちそうさま。さあ! 今日も一日頑張りますか」
朝食を綺麗に完食しすぐさま立ち上がった彼女を、向かいの新太は心配そうに見上げた。
「お母さん、あんまり張り切りすぎるとまた腰やっちゃうよ」
人一倍元気でパワフルな母親の持病の腰痛を懸念する息子に、確かにそうだと結子も頷く。
新太の母親であり仕事仲間の明美はいつも若々しく明るい働き者だが、すでに60歳を過ぎている。
元々新太は中学までこの古民家で家族と暮らしていたのだが、祖父の死をきっかけにそれまで単身赴任で1人家を離れていた父親の元に引っ越した。
故郷を遠く離れ新たな土地の高校で結子と出会った新太は、1年前まで結子と同じ町に家族と住んでいた。
結局故郷の古民家で店を始めるにあたって、当時定年間近だった新太の父親と明美は息子と共にこの地に舞い戻った。
定食屋に改装した古民家の二階が自宅となっており、新太と両親は今再びこの家で暮らしている。
勢い任せで新太の誘いに乗りここにやって来た結子も、ついでに居候として身を置かせてもらっていた。
新太の父親は今現在近所の農作業を手伝っているので昼間はほとんど家にいないが、母の明美は主に店の接客業と裏庭の畑で店で使う分ほどの無農薬野菜を育てている。
彼女の存在なくして今や息子の店は成り立たない、いつも元気に動き回っている明美だが時にそれが仇となり、ついこの間持病の腰を痛めたばかりだ。
「お母さん、程々に」
「そうそう、程々が一番だよ」
「まったく2人共心配性ねぇ……そんな辛気臭い顔してたんじゃ折角来てくれたお客さんに失礼じゃない」
動く度にハラハラと心配する息子と結子に、明美は呆れ顔で文句を言い始めた。
「お母さんが無駄にパワフルだから俺達の元気も奪い取ってんの。頼むからさ、ちょっとは落ち着いてよ」
「はいはいわかりましたよ。程々、程々ね…………あ! もうこんな時間じゃない、さっさと片付けちゃいましょ」
息子に宥められ程々と了解した途端、再びバタバタと慌ただしく動き始めた。
諦めに顔を合わせた結子と新太だったが、直後おかしくなり2人で一緒に笑ってしまった。
昼11時半開店に向け、午前のこの時間が一番慌ただしい。
「結子は煮付けと和え物ね、お母さん漬物出して」
指示を出すのは店主の新太、今日客に提供するメニューに合わせ各自に作業を割り振っていく。
店の開店からようやく1年が経過し、現在常連となった客は近くの工業団地の就業者が半分以上を占めている。
主に昼間がメインで中休みを挟み、夜は7時半まで営業、週末になると格段に客入りも悪くなるため日曜日が定休だ。
普通の定食屋とは違い、毎日日替わりでメインが肉と魚の2種限定メニューのみ提供している。
開店前の午前中に煮物や付け合せを拵え、昼の混雑時は厨房を新太に任せ結子は盛り付けと接客に回っている。
「結子ちゃん、そろそろ開けるよ」
「はーい」
開店1分前、最後の仕上げに客席を綺麗に拭き直すと、明美が暖簾を掛けに玄関引き戸を開けた。
ここで働き始めて1年経っても、結子はこの瞬間気持ちがグッと引き締まる。
早々歩いてやって来た2人組の客の姿を見つけ、明美の明るい声が響き渡った。
昼食時おかげさまで常に満席状態の店内は2時前になると客の姿も引き、ここからしばらく中休みに入る。
夜営業は昼間と違ってだいぶ客入りも悪くなるが、それはそれで仕方がないと店主の新太はのんびりしたものだ。
明美は2階に戻るため夜は2人で店を回しているが、十分に余裕がある。
接客に回る結子もこれから現れる客の姿をのんびりと待った。
その夜、突然現れた客は異色だった。
結子の掛け声とともに、入った途端店内をぐるりと見渡した女性客と背後に男性も続く。
「お2人様ですか? お好きな席へどうぞ」
おそらく恋人同士だろう2人組を中へ促すと、2人は窓際の席に腰を下ろした。
常連客が中年男性7割を占めるこの店で若いカップルとはめずらしい。
急いで水を準備し席に近付く結子が少しばかり緊張してしまったのは、明らかにこの男女が特異だからだ。
「魚でいい?」
簡素な品書きを見つめた女性の問いかけに、向かいの男性が頷きで返す。
「お魚の定食2つお願いします」
「はい、お待ちくださいね」
「あの」
女性の注文にさっそく厨房に向おうとすると、背後から声を掛けられた。
「ここはずっと空き家だったはずですけど、いつからこの店を?」
結子にそう尋ねた女性は、どうやらこの古民家の存在を以前から知っていたらしい。
「1年前からです…………失礼ですが、ご近所の方ですか?」
「近所ではないんですけど、昔よく遊びに来てたもんで…………最近になってここが店になってると聞いて、懐かしさに来てみたんです」
笑みを浮かべ事情を話してくれた彼女に、疑問の表情を浮かべた結子はしばし考えた。
ここは1年前まで10年近くも空き家だったのだから、彼女が遊びに来ていた時期はそれ以前の話ということだ。
ということは、もしかして…………。
「あの、少しお待ちくださいね。新太! ちょっといい?」
届くほどの声で厨房に向かって呼びかける。
「え? 新太?」
驚きを交えた彼女の声が背後から聞こえると同時に、厨房の中から新太がひょっこり顔を現した。
「やっぱり! 新太!」
「……もしかして、瑞姫? やっぱり瑞姫だ!」
勢いよく椅子から立ち上がった彼女の大きな呼びかけに、最初はポカンとしていた新太もすぐに気付いたらしい。
驚き露わに彼女に向かって名を叫んだ。
「新太!」
「瑞姫、久しぶり!」
思わず呆気にとられてしまった結子の目の前で、近くに駆け寄った2人は思い切り抱きしめ合い再会を喜び始めた。
「もう、こっちに帰ってきてたなら連絡くらいしなさいよ!」
「いや……もう忘れられてると思ってたからさ」
「馬鹿! 忘れるわけないじゃない」
「ごめんごめん」
ようやく身体を離し怒り始めた彼女に、新太は照れ笑いを浮かべ謝った。
2人のやりとりを傍でぽかんと見つめていた結子だったが、いまだ背後に座っていた彼女の連れ合いの男性が静かに椅子から腰を上げた。
「……もしかして、凌?」
「久しぶりだな、新太」
立ち上がった男性に気付いた新太が再び驚き問いかけると、男性は笑みを浮かべ新太を見つめた。