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マスク  作者: 空箱零士
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後編

 昼休み。僕は教室からカバンを持ち出し、理科講義準備室に入った。僕が所属している、新聞部の部室である。

 昼食の弁当を片手に談笑していた三人の男子が、一斉にこちらへ顔を覗かせた。部員達――全員僕と同じ、二年生である。時計を見ると、針は一時近くを指し示していた。四時間目が終わって約二十分。普段の僕だったらとっくに食事を採り始めている時間だった。

「長谷川、何でカバン持ってんの?」

 と、扉に一番近くに座る男子――石橋が聞いてきた。彼の鼻声から発せられる言葉は、何となく間延びした感じに聞こえる。僕は薄い笑みを口元に浮かべながら「飯食ったら帰るから」と返した。石橋は「ふーん」と特に興味がなさそうな風に返事をして、再び箸を動かし始めた。僕はカバンを余っている椅子の上に置き、カバンから弁当箱と水筒を取り出した。

 それから僕は、マスクを取り外した。「プハっ」と、大げさな感じに息を継ぐ。ひやりと心地よく感じる空気が、何物にも邪魔されることなく喉を通るのを感じた。

 僕は水筒の麦茶を口に含んでから、弁当箱のフタを開けた。のり弁当。一口分、ご飯を箸でつまんで食べた。手放しに「うまい!」と言えるものではなかったが、それでもそれほど悪くない味だった。

 部室――すなわち理科講義準備室は、僕を含めた部員達四人(高崎、幸田、石橋、僕)が、いつも昼休みの際に食事を採るときに利用する場所である。

 六畳くらいの広さの部屋に、理科室にあるような水道付きのテーブルが一つ置かれている。「部室になる前はほとんど空き部屋同然だったらしい」とは、今は引退した先輩の言葉だ。室内は特別に汚いという訳ではないが、床に体育座りをして平気でいられるほどに綺麗な訳でもない。初めてこの部屋に入った時は、染み付いてるような生臭さを感じたものだった。先輩を含め、先代の新聞部員もここで昼飯を食べていたそうだ。

 そのテーブルに、左右に二人づつ――僕・石橋と幸田・高崎で向かい合うように座るのがお決まりのポジションだ。しかし、間に四台のパソコンが置いてある都合上、向かいの席に座る人の顔はパソコンの隙間越しにしか見えなかった。また、そのパソコンというのが前時代的な、馬鹿みたいにでかい箱型のデスクトップパソコンで、テーブルの大部分をそれで取ってしまう。昼食用のテーブル代わりにするにはちょっと狭いのだが、キーボードをどかせば辛うじてどうにかなった。

 向かいの高崎と幸田はニュースでやっていた大臣の不祥事の話で花を咲かせ、石橋はパソコンで作業をしながら弁当を食べている。僕はただ、黙々と食事を採っていた。この時ばかりは、マスクをつけないでいられる。弁当自体も、そんなに悪くない。僕は結構食い意地が張るタイプの人間なので、ちょっとの風邪程度で食欲が失せたりはしないのだ。食事の時は大抵あまり話に参加せず、味わって食べるのだ。

 しかし、この時もまた、咳の魔の手から逃れられる訳ではなかった。

 ――ゴホッ!

 ご飯とハンバーグを咀しゃくしていた時、軽い咳が一つ漏れた。それを皮切りに、次々と咳があふれ出てくる。だんだんと強くなっていくそれは、出すまいと思っても止められるものではなかった。

 五、六回ほど出たところで咳が止まる。口元を押さえていた右手は、唾液でグチャグチャになったご飯とハンバーグがかなり付着していた。ちきしょう。これでは全然進歩がない。

 傍らに置いておいたトイレットペーパー(近くの便所からかすめて取ってきた物。うちの部活では、ティッシュペーパーの変わりにこれを使っている)を千切り、神経質にふき取った。思わずため息が漏れる。

「長谷川君、やっぱりまだその風邪酷いみたいだね」

 その時、向かいから声が聞こえた。幸田である。他人行儀にも聞こえる呼び名だが、これが彼の常なのであまり気にならない。こういう時、気を利かせた言動を取るのは、大抵彼である。彼は、僕が最も信頼している友人である。

「まあね……」

 もう一度ため息を漏らしながら僕は言った。

「結構長引いてるね、それ。いい加減のど痛いんじゃない?」

「うん……」

「まあ、今日は帰ったらゆっくり休みなよ。どうせ締め切りまではまだ時間があるし」

 今月僕が担当している記事は二つ。毎号連載している先生へのインタビューと「主張」――いわゆる「社説」である。締め切りは終業式の二日前。記事の進行状況はあまり芳しくはないが、確かにそこまで切羽詰っている状況でもない。むしろ余裕がありすぎて、仕事がだらけがちになる時期でもある。

「でもどっちにしても、風邪だけは移さないでね」

 と、幸田が苦笑い勝ちに言った時、高崎が声を上げた。

「そうそう、信吾菌が映ると男好きになっちゃうぜ!」

 それに呼応するように、隣の石橋が、さらには先ほど気を使ってくれた幸田まで、

「うわあ! そりゃ恐ろしい!」

「ヒイィ! 怖いよお!」

 と、随分芝居がかった手振りを交えながらはしゃいだ。幸田は、結構気遣いが出来る人間である反面、部員の中で一番悪乗りをしやすい人間なのだ。「いじられ役」に慣れっこな僕は、ただ「ハハハ」と苦笑いを浮かべるだけだった。頭の奥で、何かが「クラっ」と来たような気がしたが、無視した。無視したほうが賢明だった。僕のような阿呆でも、十七年も生きていれば学習能力の重要性くらいは学ぶことが出来る。こういう時に過剰反応をして、ロクな目にあった例がない。

 それからしばらく、僕は黙々と弁当を食べ続けた。六口か七口くらいの割合で咳がでて、そのたびに食事を阻害された。喉が酷く痛くなるのは相変わらずだが、もうご飯粒をテーブルに飛び散らせるようなヘマはしなかった。ご飯を半分食べたあたりで、ご飯の味に対して飽きを感じ始めた。醤油とかつお節で味付けされたそれは、結構単調で濃い目の味だから飽きが早い。時折、そのあまりの代わり映えのなさに嫌気が差しながら、それでもなお食べ続けるのは、腹が減った人間の悲しい性である。というか、本来は子である自分が文句を言えた義理ではないのだが。

 幸田と高崎は、相変わらず話を続けているようだ。気がついたら、石橋まで話に参加している。僕は自身の沈黙に咳を交えながら弁当をつまんだ。つまみ続けた。三人の愉快そうな笑い声が、狭い部室の中に高く響いた。

 やがて弁当を食べ終わり、僕は再びマスクをつけた。再び生暖かい吐息がマスクの中を泳ぎ始め、眼鏡にも曇りが生じ始めている。窮屈で、気が滅入る閉塞感が僕の口の周りを覆っていた。

 僕は何をするというでもなく、黙って肘を突いて座っていた。三人の間に広がる笑いと話し声。僕はそれに交わらなかった。いや、交われなかったと言った方が正しいだろう。

 別に彼らと気まずい関係にある訳ではない。しかし、僕はこうしている彼らとの間に、壁のようなものを感じざるを得なかったのだ。

 例えば僕が今、彼らの間に入ろうと何かを喋ろうとする。しかし、そのためにはそもそも何を喋ればいいのか分からない。

 適当な相槌を打てばいいのだろうか? 何か気のきいたことを言えばいいのだろうか? それとも……それとも……。

 こういう時、僕はいつも分からなくなる。そうして考えれば考えるほど色んなことが分からなくなってきて、終いには考えることが億劫になってしまう。そして考えることを止めた後には、まぶたにへばりつく眠気のような気の重たさと、突然足場をなくしてしまったような不安の念が残る。僕は今、非常に臆病な精神状態である。

 本心を言ってしまえば、僕は別に彼らの輪の中に入らなくてもいいと思っている。無理に輪の中に入ろうとして、的外れな発言をしてしまうほうがかえってまずい。大体、ちょっと話に参加しなかっただけで、よってたかって僕をハブにしてくるほど幼稚な連中でもないのだ。そして何より、僕は今、一人でボーっとしていたい。

 しかし、僕はこういう時、まるで幾多もの衆人に冷視されているような後ろめたさを、意識の底からくみ取らずにはいられなかった。部室内に響く話し声や笑い声、自然体で屈託のない笑顔、心の底から打ち解けあっているような彼らの空気……。そういったものが、たまに僕にとって無性に耐え難いものになるのだ。

 繰り返しになるが、僕は彼らと気まずい関係にある訳ではない。むしろ、人付き合いが苦手な僕にとって、彼らは非常に貴重な親友だとすら思っている。彼らは、学校内で孤独に対する自己防衛のために作る話相手とは違う。彼らは部活仲間であるのを抜きに考えても、非常に魅力的な人間だ。

 だからこそ、なのである。僕が彼らに言いようのない後ろめたさを感じるのは。

 僕は彼らから、色々なものを貰っている。それは何気ない会話で使われる些細な笑いから、僕の人格を形成するのにおいて大いに影響を与えるであろう出来事まで。時々、僕が彼らと一緒に高校生活を送れることを誇りに思うくらいだ。

 しかし、それに比べて自分はどうだろうか。こういうことを自分でいうのもどうかと思うが、僕が彼らに与えられるものなんて、全然ないように思われる。というか、実際にその通りなんだろうと思う。僕はほとんどの場合において、彼らの話に対し受動的なのだ。彼らが何かしらの意見を言っているのに対して、僕はただ阿呆みたいに頷くだけで。彼らのからかいに対しても、僕はただ朴念仁のように笑っているだけで。

 要するに、「僕と言う人間」が必要とされているのではない。僕と言う「役割を担う存在」が必要とされているのだ。別に、イジリのネタや対象になるという条件さえ満たしていればいいのだ。その条件さえ満たしていれば、その辺のマネキンであっても構わないのだろうとすら思うのだ。

 僕にとって彼らは数少ない、掛け替えのない友人である。しかし彼らにとっては、ただ道端に転がっているオモチャに過ぎないのかもしれない。それが僕の、彼らに対する後ろめたさであった。

 強い咳が何回か出る。風邪をこじらせてから咳をした数など、もはや数える気にならない。呼吸を整えるために、深呼吸をするように息を吸い、吐き出す。マスクの中に、息がこもった。生じる曇りによって部分的にさえぎられる視界。果物の缶詰の汁が腐ったような臭い。僕は小学校の時、「いじめっ子」から言われたことを思い出す。

 ――お前の息臭えよ、お前の息臭えよ、お前の息臭えよ…………。

 そう言いながらケラケラと笑い、背中を蹴り飛ばしてきた連中。

 こんなくだらないことに限って、いつまでも心に残り続けるものだ。

「……ね、信吾? 昨日も夜な夜な男を掘ってたんだよね?」

 その時、不意に僕に話が振られた。幸田の声。僕は反射的に「うん?」と返事をして、それからすぐにそのことを酷く後悔した。後悔するのと同時に、幸田の顔が破顔したのを確認した。

「うわあ、「うん」だって!」

 幸田が、マンモスか何かを罠で捕らえたように騒ぎ立てた。さらにそれを受けて、高崎と石橋も「うわあ!」と、ニヤケ顔にバンザイの動作で、大げさな手振りでふざけた驚きを表現する。

「流石信吾じゃーん! 昨日も、ヤナイの穴を掘って来たんでしょ?」

「は? そんな訳ないじゃん」

 完全に後手に周った形の僕は、それでも慌てて言葉を返す。あんまりにも、芸がなさすぎる返答。アサルトライフルを構えている兵士に投石で抵抗するがごときに、無益で無様なリアクションであった。

 念のために言っておくと、僕は決して男色ではない。ちょっとした気の迷いで、そういうキャラを演じてしまったのが運のツキだったのだ(その時は面白いと思ったんだ)。こういう人付き合いに関しては「狡猾」な彼らは、逆にこちらが食中毒を起こすほどにそのネタを利用してきていると言う訳であった。結局は自業自得なんだけれども。

 それとヤナイとは、五人目の二年生部員である。彼は、基本的にクラスの方で食事を採っている。こういう時に、良く引き合いに出されることからも分かる通り――部内での地位は、僕以上に非常に低い。

「え? そんな訳ある? うわっ、流石ガチホモじゃん!」

「いや、だから違うって。誰がそんな気持ち悪いことするかよ」

「いやいや、そんなに言わなくても分かってるって。信吾がヤナイに惚れてるってことくらい」

「いや、だから……」

 きりがなかった。僕はため息をつきながら、脱力したように肩を落とした。誰のものか分からない、薄い笑い声が聞こえた。ついでに咳まで出てきた。喉が痛む。

 こういう時、彼らは強引に僕にとって非常に困る方向に話を進めるのだ。部活メンバーが僕に対して行ってくるイジリの、典型的で、最もめんどくさい流れになりやすいパターンの一つである。こういうパターンでムキになった時、その先には「負け」という未来しかなかった。

「うっわー! まじキモイんだけどー! さっさと窓から飛び降りろよ!」

「ところで長谷川君、最近、頭に地肌が目立つよね?」

「えー、ゲイな上にハゲとかマジ勘弁なんだけどー!」

 僕のことは置いてけぼりで、彼らはどんどん話を盛り上げていった。僕という存在が、まるで粘土のようにグチャグチャともてあそばれる。何故なら僕はそういう役割だから。いじられキャラという、部員全員が共有する人間製のおもちゃ。まるで赤子のおもちゃのように、無邪気に振り回され続ける僕。

 マスクの中で息がこもる。息苦しさがマスクの中で漂う。

 ――こいつらは良い。こいつらは良いさ。

 僕の頭が、めまいのするほどの熱を帯び始めた。僕の頭が、ジワジワとグツグツに煮やされていく。僕は何時しか、机の下で右手の拳を固く握りしめていた。

 ああ、こいつらは良いさ。こいつらは僕と違って、人並みの学校生活――人並みの友人付き合いを送ることが出来た連中なんだ。僕のように、特別にクラスから嫌われることもなく、友人を作ることに困ることがなかった連中なんだ。だから、こういう時にどういうことが求められているのかを良く分かっているのだ。どういうことを言い、どういう表情を作り――どういう風に、僕のような弱者をこき下ろせばいいのかを。

 確かに彼らは彼らで、小中学校で苦労した来たことは知っている。特に幸田と高崎は、陰湿なイジメがゲーム感覚で横行していた中学校にいたという。幸田の方は一時期、不注意な発言からそれの対象にされていたこともあった。しかし、それでも彼らは、それらを経験として消化できる程度に豊潤な精神力を持っているのだ。僕と違って、彼らにとってそういう経験は、平穏だった日常に落とした一時的な影に過ぎないのだ。少なくともそれを、外界に対して発露することはない。それだけの、精神的な成長をしているから。それを成し遂げるだけの強固な土台を持っていたから。僕に対して行われたイジメが日常的で、精神そのものを捻じ曲げるものであったのに対して。僕の根性を、根こそぎ奪い去ったものに対して。

 彼らは、ヒューマニティー的な能力を身に付けた、自覚的な権力者なのだ。彼らはこういう時、場の雰囲気――人の考えていることを理解し、それを特定の方向に持っていく力を持っている。そしてそれをもって、場を高揚させるための扇動的な行動を取れる。あるいはそれに上手く順応出来る。そんな彼らに対して、親や学校の言う常識や道徳は通用しない。そんなものはただ、鼻であしらわれるだけだ。その癖に彼らは、そういった概念を上手に使ってくる。ましてや弱者の心など、平気で踏みにじるのだ。エンターテイメントとしての、弱者の踏みにじり方を知っているのだ。

 机の向こう側の幸田と高崎が、ニヤニヤと笑っている。隣の石橋もギャハギャハとはしゃいでいる。そして僕は憤怒と羞恥に震えながら、固い握りこぶしを作って悶えている。

 僕は思う。これが、構図なのだ、と。

 人間に関して怜悧な連中が、自分達の満足の為に、僕のような愚図な人間を好き放題に弄ぶ。そして連中は笑い満たされ、愚図は慙愧し苦渋を飲む。弱肉強食とはまさに、こういうことを言うのだろう。それは地球のように自然なことなのだ。

 それは間違ったことじゃないんだ、と僕は思っている。何故なら、それが自然に生きるということだから。自分が何かに対して充足している時、その影で誰かがその何かを得られなかったがために涙を流している。人はそういう生き方しか出来ない。

 ――でも、僕はそんな世の中が息苦しかった。弱い――精神的に未熟であるということは、そんなにも罪深いことなのだろうか? 何が何でも、排斥されなくてはならないものなのだろうか?

 この世界は、精神的な弱者に対してあまりにも冷酷すぎる。そういう人間は、社会的に排除されていく。世界(あるいは権力)に取っての理解の範疇を超えるもの――例えばイジメの対象になる人間のような「弱者」が、排斥され不幸になることに対して、あまりにも冷酷なのだ。何かの拍子で「ちょっとこれは可哀想だよ」などと、ちょっとした罪悪感が心をチクリと刺すことはあるかもしれない。しかし畢竟、最終的には彼らを排斥する側に戻ることから、「そうなることが当然である」と考えるのだ。それが、そう考えることが間違いであると思うことは――ちらりという微量なものですらすらありえない。

 僕が欲しいのは完璧な平等なんかじゃない。僕が欲しいのは、どのような人間にも、吐き気を催すような業を背負った人間にも与えられる、祈りのようにささやかな救いだった。

 三人はまだ笑い続けている。権力者と、その権力におもねることが出来た人間達の、弱者を伴った笑いを続けている。

 僕は、こんな構図が出来る世界が窮屈で。僕のように脆弱な人間に、全然救いがもたらされない世界が窮屈で、窮屈で、キュウクツデ……

 鈍い打撃音が、部屋中に響いた。笑い声がやみ、三人の視線が一斉に音のした方――僕の方を向いた。シンッという音が聞こえてきそうな、静寂。

 僕は、自らが叩きつけた右の拳を見て、すぐに、さっと顔が青ざめた。

 ――ああ、しまった。

「は、長谷川君。冗談だよもー。そんなに怒らないでよー」

 幸田が、場を取り次ぐような声を上げる。高崎が、白眼を浮かべながら顔をそむけた気がした。石橋が、苛立ちを包括した無表情になった気がした。

 ――「気がした」

 怖くて、あまりにも怖くて、直視なんて出来なかった。

 僕は、叩きつけた右手で大げさに頭を掻きながら、必死の思いで笑顔を作った。

「い、いやー参ったなあ。ごめんごめん。本当、何やってんだろうね、僕」

 ははは、参ったなあ、はははと、僕は乾いた笑いを発しつづけた。誰も何も言わない空間内で、笑い声だけが無駄に高く響く。

 本当は、分かっていたのだ。最初から全て冗談であったことくらい。これくらい、僕たちの間では当たり前になっていることじゃないか。場を和ませるためのイジりなんて、全然悪いこと何かじゃない。むしろ、こんな風にムキになって、変な行動を起こした僕の方がよっぽど、最悪だ。

 ――何が、救いが欲しいだよ。

 僕はまたしても死にたくなった。

 それを、軽率に手放しているのは、他でもない自分自身じゃないか。

 その時、昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。僕は弾かれるように、「やっべー。もうこんな時間か。早く帰らなきゃ」と早口に呟きながら、弁当箱と水筒を鞄にしまい、すぐに鞄を背負い、早足にドアノブを回して表に出た。

「じゃ、僕もう帰るから。悪いけど部活の方頑張ってねー」

 僕はそう言うと、軽く手を振って扉を閉めた。早歩きで、玄関に向かって、廊下を早歩にで歩く。鉛のような心臓がバクバクと重く高鳴り、歩みを進める足は死後硬直のように強張っている。

 何で、僕は、いつも、こうなんだ。

 マスクが無性に息苦しくて取り外す。途端に咳がとめどなく溢れ出てきて、すぐにマスクを付け直した。

 マスクが、息苦しい。


 結局この日、家に着いたのは二時ごろだった。

 帰宅途中で再び症状が悪化したため、帰宅してすぐに風邪薬を飲み、ジャージに着替えて眠りについた。薬の力か容態の悪い体調の影響か、僕は布団に入って目を閉じると、たちどころに眠りに落ちた。随分と、深い眠りだった。

 目を覚ましたのは七時ごろ。特に具合の悪い感じはしなかった。むしろ大分身体が軽くなった気がした。体調が、限りなく全快に近づいているのを感じた。ただし、咳はいまだに出ているのだが。なので取りあえず今日は、終日マスクをつけることになるだろう。

 それから食事を採り、薬を飲み、風呂に入り、久しぶりにパソコンの電源を入れた。椅子の近くでストーブがついていて、僕の体をあぶるように暖めていた。暖房と同じ理由で、僕はストーブが嫌いだった。いや、暖房と比べて直接的な暖め方な分、暖房以上に嫌いだった。一通り巡回先のサイトを回った後に行くのは、いつもの動画サイト。どうせ他に、趣味らしいものもない。いつしか父は、「おやすみ」の一言とともに二階に上がっていった。母親は、椅子に腰をかけて二時間ドラマを見ている。水曜ミステリー。ちなみに僕と母は両方リビングにいるのだが、ちょうどお互いが死角になるような場所にいる。こちらとしては心もとない感じがするが、一応、一定のプライバシーは保たれている。

 僕は特にこれといったものを見ている訳ではなかった。適当に上がっていたものを適当に目を通すだけ。それが面白ければ笑うし、つまらなければすぐに見るのをやめる。そして、特に興味を惹かれなければ、そもそも目を通そうとすらしない。それはとても、幅の狭い世界だった。二時間ドラマはとてもつまらないものだと思う僕ではあるが、退屈さに関しては僕も母のことを言えた義理ではなかった。

 無為な時間を過ごすための、色のない世界。時間という唯一無二の価値を、いたずらに朽ちさせるための時間。暇というのは、愚かな人間の背負う宿命であり、業である。

 気がつけば時刻は、十一時近くになっていた。

 そんな時、背後から母親から声がかかった。

「信吾、ちょっとやってもらいたいことがあるんだけど」

「ん? 何?」と返事をしながら立ち上がり、母親の手に持っているものを確認した。その時、僕は電流が走るように嫌な予感に見舞われた。

「ねえ信吾、ちょっとケータイで曲を取ってもらいたんだけど」

 嫌な予感が、当たった。僕の身体が、頭から芯にかけて重くなる。

 今までにも、こういうことは何度かあった。機械音痴な母が、携帯やパソコンのことに関して頼みごとをする。それが、僕にとってはとても嫌なことであった。

 あんまりにも無知すぎる母が見苦しくて、その癖にあーでもないこーでもないと何かを言ってくる。そんな母が鬱陶しかった。

 僕はため息をつきながら、

「ねえお母さん、僕さ、前にもやったよね? そういうの。いい加減やり方覚えてよ」

「ええっ、そんなの忘れちゃうよ」

「だったらせめて少しは調べるとか……」

「そんな暇ないわよ。私だって普段、家事とかで忙しいんだから」

 僕はもう一度ため息をついた。まったく、これだからおばさんってのは面倒くさい。

 ――僕もいずれはこうなるんだろうか?

 そんな嫌な想像が、僕の脳をよぎった。僕のようなつまらない人間が老いた時、それはそれは醜いことになるだろう。

「分かった。じゃあ教えながらやるから。いい?」

「うん、分かった」

 僕は母親の携帯を受け取り、画面を開く。機種は、ドコモの比較的古い奴。パッと白い光を放ちながら、待ち受け画像が浮かんできた。赤い色の花をバックに、カレンダーが表示される。デフォルトのまま。これに関してはまあ、僕も似たような状態なのであまり人のことは言わない。

 そして僕は、説明を始めた。

「いい? まず、このボタンを押してiモードを開いて……」

「iモードって何?」

 母親の、邪気のない声。分からないものは分からないのよという、悪気など微塵も感じさせない声の色。僕の眉間がピクっと動いた。

 ――まずはそこから。それがおばさんというものだ。

「……まあ簡単に言えば、携帯版のインターネットのようなものだよ」

 実のところ僕も正確な説明を出来るほどの知識を持っていないため、簡単に説明をする。多分それほど間違っていないはずだ。僕はパソコンばっかりやっているため、携帯はあまり詳しくないのだ。

「え、それってお金かかるの?」

 僕は思わず、「はあ?」と声をもらしそうになった。こいつは今更何を言いだすんだ? 百歩譲ってiモードはやらないにしても、メールくらいはやっているんだろ? 普通に考えろ普通に。

「そんなのあたりまえじゃん」

「え? ちょっと待って? ひょっとして曲を取るのもお金が必要なの?」

「……あのさあ……」

 僕は頭が痛くなった。咳が漏れて、憂鬱になる。何なんだよ一体。おばさんって人種は、ここまで頭が悪く出来てるのか? 学生時代、果たして母親はまともな教育を受けたのだろうか?

「……番組で、無料配信とかなんとか言ってた?」

「言ってなかったけど」

「じゃあそういうことだよ」

 いけない。そう思いながら、僕は声が荒がるのを抑えることが出来ない。

「仮にお母さんが曲を配信する会社の人間だったとして、タダでそれを配信するか?」

 抑制の効かない感情が、僕の眉の根をよせさせ、眼光を鋭いものにする。

 それを真っ向から受けた母の表情が、驚いているような、怒っているような――どこか悲しんでいるような、そんな風に歪む。

「……悪かったわよ。じゃあ別にいいから、続けて」

「……ったくよお……」

 僕は衝動的に毒づきながら、再び携帯の画面に向き合った。……まだ、iモードにすら繋いでなかった。

 僕は「いい? ここのボタンを……」と、再び同じことを言いながらiモードを開いた。しばらくして、マイメニューやらメニューリストやらと、色々と出てくる。正直、僕もあまり開かない。僕は、携帯は本当に全然いじらないのだ。

 と、ここまでやって僕は、ふと根本的なことを母から聞いていないことに気がつき、「そういえばお母さん」と、そのことを尋ねた。

「曲は何を取りたいの? その曲は番組のサイトで配信してる奴?」

 僕の質問の意味を分かりかねたらしい母は、「うーん」と少しばかり逡巡してから、それがドラマで流れていた曲であり、かつ番組で配信しているものであることを言い、それからその曲名を言った。

「で、念のために、出来ればアーティスト名も知りたいんだけど」

「ええっ。そんなの分からないよ。だって英語だったんだもん」

 そんなの当たり前でしょうと言わんばかりの、のん気な声。

 確かに、番組で配信してる奴なら、特に問題はないだろう。恐らく、それ専用のコーナーが用意されているだろうから。

 しかしその――あまりにも悪びれないような言い方は、僕の頭をジワジワと焙った。

 こいつは、もしその曲が番組で配信されているものでなかったらどうするつもりだったのだろう? それだけならまだ見つけようがあるが、歌のタイトルが『桜』だとか『卒業』だとか、同名のそれがいくらでもありそうなそれだったとしたら、一体どうするつもりだったんだ? 僕は数十もある候補の中から、しらみつぶしに調べなくてはならなくなるではないか。

 まさかこいつは、僕のことを若者であるというただそれだけの理由で、携帯のことなら何でも知ってる人間だとでも思ってるのだろうか? そして、仮に知っていたとして、どんなにめんどくさいことでもやってくれるスーパーマンのような人間だとでも思っているのだろうか?

 だいたい、こいつが取りたい曲とやらは、てめえで気に入ったんだという曲なのだろう? 英語だろうが何だろうが、少しはアーティストのことにも神経を使ったっていいんじゃないのか?

 マスクの中の熱い吐息が、僕の口の周りを蒸らしていた。僕の頭は、ドロドロに真っ赤で熱い感情によって茹で上がっていた。

「……じゃあさ、その番組のサイトの行き方は分かる?」

「え? それが分からないから聞いてるのに……」

「そういうのを配信してる番組は、番組の最後とかにそこへの行き方が出てくんだよ。例えばドコモだったら、メニューリスト→TV/ラジオ/雑誌→……みたいな感じにね」

「そ、そんなの知らないわよ。いちいちそんなところまで見ないし」

「じゃあ、何でその曲が番組で配信されることを知ってるわけ?」

「それはテレビで見たから……」

「まさかお母さん、番組のサイトで曲を配信しますって言っておいて、そこへの行き方を教えないような間抜けな番組があると思ってる? お母さんって、そんなことにも頭回らないくらいに頭悪いわけ?」

「そんなの……」

「っていうかさあ、行き方も分からないようなところを探させようって、ちょっと無神経すぎない? 僕だって、携帯のことなんて全然分からないんだよ?」

 言いすぎであることくらい、分かっていた。本当にその辺りのことが分かっていないから、母は僕を頼っているのだ、ということも。だいたい、最初から行き方を知っていたとしたら、最初から僕を頼りはしないだろう。それに、行き方など聞かずとも、番組のサイトに行くことくらいなんということはない。TV/ラジオ/雑誌辺りから適当に探しさえすれば、簡単に見つけられる。深くつっこんだところにまで手を伸ばしさえしなければ、母のようなおばさん連中が考えているよりも携帯の扱いははるかに簡単なのだ。

 しかし、それでも僕にはもうどうしようもなかった。僕は僕の怒りを、母にぶつけなければ気がすまなかった。なんで――なんでこの愚図はこんなことも分からないんだという苛立ち。僕は、僕の抱いている弱者への軽蔑への軽蔑が、こんな風に簡単に崩れることを思い知った。もっとも、本当は最初から分かっていたのかもしれない。結局この僕の考え方は――僕の自己防衛のために築いた、砂上の楼閣であるのかもしれないのだから。

 だから――僕はもう、感情によって吐き出されんとする言葉を、止めることが出来ない。

「そうやってすぐに人に頼る前に、他に気を使わなきゃいけないことがあるんじゃねえのか? ああ?」

 そう言って僕は、母親のことを睨みつけてやった。愚図に対しての苛立ちを一切隠すことなく、ただただ槍のような眼光を持って母の顔をねめつけてやった。

 もう、僕の視界には、怒りしか映らない。

「……いい加減にしてよ……!」

 ――母の瞳が、怒りに歪んだ。しかし、ただ鋭敏なだけのそれではなく、純度の高い悲哀が混じった、それ。救いようのない「罪」を犯した、自分の愛する人間に向けられるような感情だった。

 状況が、非常にまずい方向に流れ始めている。まるで不気味な化け物が、おどろおどろしい足音を立てながらこちらに近づいてくるように。

「ねえ、私だって、自分で出来るんなら自分でやってるのよ? でも、私じゃ全然どうしたらいいか分からないから、こうして詳しそうなあんたに頼んでるだけじゃない!」

「だったら、少しは自分で出来るようになるように努力しろよ!」

「だからそんな暇なんてないって言ってるじゃない! 私だってね、普段家事やら何やらで忙しいんだから!」

「だから、今こうしてお母さんに教えてるんだろうが!」

「だって分からないんだもの! 私はもう年なんだから、物覚えだって悪くなるの! お願いだから分かってよ!」

「何でだよ? こんなのは簡単なことだろうが! ボタンを押してiモードを開いて、目的のサイトを選んで探して……!」

「だから私にはそれが難しいの! そうやって、自分を基準に物事を決めないで!」

「そんなの……!」

 何かを言い返そうとして、しかし二の句が告げられなかった。「私にはそれが難しい」。それを言われてしまったら、僕にはもう何も言えない。

 僕が――不配慮だった?

「ねえ、出来ないなら出来ないって、教えられないなら教えられないって、ただそれだけを言えばいいだけの話じゃない。そうやって、自分の思い通りに物事が運ばないからって、八つ当たりみたいに怒ったりしないでよ!」

 僕はカッと目を見開く。何だよその言い方は? まるで、僕が自分勝手なガキンチョみたいな――みたいな? 僕の頭が、ロープ上の人間のようにグラグラと揺れ動く。

 だって実際――母の言う通りじゃないか。自分の物差しで勝手に「これくらい当然だろう?」という基準を決めて、それを押し付けた。そして、それをやぶった奴に対して、こちらで勝手に愚図判定をつける。

 ああ、まさにガキンチョ。人のことを考えられない、自分勝手な駄々っ子。ああそうだ。客観的に見ても、これは僕が全部悪い。

 ――でも、でも、でも、でも、でも……僕はそれを、認めたくなかった。

 何で、何でこんなことも分からない? 自分の馬鹿を人に押し付けるな。そんなんだからあんたはおばさんなんだよ。

 そんな稚拙な怒りの感情が、僕の頭をグルグルと低回して頭から離れない。

 ――納得しろ、僕が悪い。僕は土下座をしてでも謝らなくてはならない!

 理性的な僕が、そう言う。

 ――納得できない、僕は悪くない。コノクソババアヲブッコロス!

 感情的な僕が、そう言う。

 絶対に相容れない感情と感情が、僕の頭の中で熾烈にせめぎ会う。

 そう、僕の脳みその中を、ドロドロの肉塊に変えんとばかりに――

 

 せめぎ合う! せめぎ合う! せめぎ合う!

 

 そうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうしてそうして…………!

 

 グルグルとガチャガチャとグチャグチャとメキメキとグシャグシャとガタガタと……!

 

 沸点に達した煮詰められた僕の頭は、しかしその湯気の逃げ場を見つけられなかったが故に、収集がつかなくなっていた。このままだと僕は、気が狂いそうで狂いそうで狂いそうで……!

 だから僕は、

「ああ、悪かったよ……! 僕が、全部悪いんだろうがよお!」

 謝った。怒鳴りながら、謝った。

 ああ、僕が全部悪かったよ。そういうことにしておいてやるよ。だから、もうこれ以上何も言わないでくれよ! 僕には――高校生にもなって、駄々っ子のガキンチョ並の精神年齢にしか至らなかった僕にはもう、どうしたらいいか分からないんだよ!

 だから……もう、止めてくれよ! 頼むから、止めてくれ!

 でも、母は、

「また、そうやって嘘をつく!」

 止めてはくれなかった。ここで終わるには、お前の愚かさに不相応だと、母は怒鳴り、続行を叫んだ。

 そうして叫ぶ母親の瞳には、涙をさえ浮かべていた。愚かな息子と相対しなくてはならないという、ぶつけどころのない哀しみが発露した雫。

 ――止めてくれ、そうやって、僕の愚かさに涙するのは、止めてくれ……!

 怒りやら、恐怖やら、泣き出したいやら、生存本能やらで……もう、僕の感情は、訳が分からないものになっていた。

「そうやって、本当はちっとも悪いって思ってないくせに、信吾はそうやってすぐ、全部分かってる振りして自分が傷つかないようにしようとする! 人の言うことを受け入れるのが怖いから!」

「違う……!」

「だいたい、そのマスクの時だってそうだった! あんたの『マスクなんてつけたくない』なんてわがままが叶わなかったからって、お母さんに、扉に当り散らした!」

「違う、違う……!」

「違わない! 信吾は本当は反省なんてしてない! そうやって仮初に謝って、自分だけを可愛がって自分を守る! 信吾は――自分の非を認める気なんて、これっぽちもありはしないんだ!」

「違う! 違う! 違ううぅ!」

 僕は頭をかきむしりながら、首を激しく横に振り続けた。

 怖かった。これ以上母の言葉は聞きたくなかった。これ以上母の言葉を聞いてしまったら、母から語られる真理を聞き入れてしまったら――僕という存在が、跡形もなく霧散してしまいそうな気がした。

「何でだよ、何でそんな、そんなことを、平気で言えるんだよお! じゃあ僕は一体どうしたらいいんだよ! 土下座すれば満足かよ! 腹でも切って死ねば満足かよ! なあ、教えろよ、教えろよおおお!」

 僕は、自分を破滅へと追い込まんとする悪霊を追い払うがごときに、自分の感情を叫んだ。まるで、こちらに突っ込んでくる戦車を目の当たりにした原始人のように。

 そう、僕はただ、分からないだけだった。僕は、いつもそうだった。

 僕と話をする相手が、僕と関わる人間が、どんなことを考えてるのか、何を望んでいるのか、それが分からなくって。ちっとも分からなくって。その癖に、僕以外の人間はみんな、みんなみんなみんな、当たり前のように分かっていた。だから僕は、気がついたころにはみんなから乖離していて、排斥もされていた。空気が読めない。そんな風に言われても、じゃあ空気を読めるとはなんなのか、僕には答えを出すことが出来なかった。

 僕はいつも、自分のことしか考えていなかった。人が話をしている時も、一緒に何かをやっている時も、どこか上の空で、自分の空想の中に閉じこもっていた。それは恐らく、とても暗くて、狭い世界なのだと思う。でも、僕はそれで満足だった。その中に、無粋な他人が入り込んでくることを、何よりも嫌っていた。

 僕はみんなに対して何もしない。だから、どうかみんなも僕に何もしないでくれ。

 それが、僕のささやかな祈りだった。

 何で? それは、それが僕にとっての自然だったから。

 考えたくなかったから考えなかった訳でもなければ、考えるなと教え込まれたから考えられなかった訳でもなければ、何か特別なことがあったから考えられなくなった訳でもない。

 そうであることがただ、僕にとって当たり前だったから。

 でも、周りはそんな僕を許さなくって。自分のことだけを考えるなと、そんなお前は愚図なんだと、僕のこと責めてきた。結局のところ、絶望的なほどに周りが見えていない僕には、周りに対して違和感を抱かせないような行動を取り通すことは不可能なのだ。

 じゃあ、考えるようにしようと僕が起こした行動は、いつもおっかなびっくりな挙動で、後ろ指を差されながら笑われた。

 何で? 何で? 何で?

 分からなかったから。分からなくて、あみだクジを引くような気分で人と接してきたから。接しざるをえなかったから。でも、どうしたらいいかを教えてくれる人がいなかったから――いや、教えてくれた人は全て、僕という性格の否定を前提に講義をしたから、ある時は大いに絶望して、ある時は大いに逆恨みをしたから。

 だから、僕は、人が怖かった。そしてそれ以上に、そんな風にビクビク生きている自分が、嫌いになった。

 僕にはもう、どうしたらいいのか分からない。どうしたらいいのか、分からない。

 荒い息を、マスクの中に吐き出す中。僕の中で、だんだんと怒りの感情が薄れていっていることを自覚する。そして胸に残ったのは、底の見えない悲しみの情感だった。

 絶対に出て来るだろうと思っていた涙は、一滴たりとも出てこなかった。こらえるという挙動を動かすだけの、感情の揺さぶりすら起こらなかった。

 ――ああ、何でこう、自分は、どうしようもないんだろう。

 その時、僕の中に、他人としての僕が生まれでた。こういう時、必ず僕の中に、こういう自分が生まれる。それはきっと、現実からの浮遊なのだろうと思う。自分を、自分だと思わないことで自分を守る、魂の緊急避難。

 他人としての僕は、まるで幽霊のように僕の身体を抜け出て、僕の今の姿を見た。他人としての僕が見る今の僕の姿はまさしく、自分の思い通りにいかないことを泣き叫ぶ、駄々っ子の姿だった。

 ――僕は、こんなところで、何をやってるんだろう?

 それも、全部僕がいけないんだな、と僕は思った。母に愚かな自分を曝け出してしまった、どうしようもなく暗愚な自分が。

「お母さんは……悲しいよ。信吾が、こんな風になっちゃって。ねえ、どうしてそうなっちゃったの? お母さんの何が悪かったの? ねえ? ねえ?」

 母は、もう、怒りの表情を浮かべていなかった。ただただ、僕をじっと見つめながら、涙を流していた。彼女の僕を見る瞳には、どうしようもなさを漂わせる、哀れみの感情をさえ包括していた。

 ――ああ、僕はやっぱり、駄目なんだ。

 僕は、そんな母の姿を見て、そんな風に思考した。それは、感情というより、思考だったのだ。そんなのは、分かっていたことなのだという、思考。

 僕は、失敗の人。会う人会う人を、僕の拙い言動によって不快にしていった、僕は失敗の人。終いにはこうして親にまで嘆かれた、僕は失敗の人。さっさと死んでしまったほうが、これ以上惨めな思いをしない、生命失格。

 僕という存在が、情けなくて、情けなくて、情けない。やはり僕には、死という状態がぴったりだった。

 ……でも――

 僕は思ったのだ。それでも僕は、生きなくてはいけないのだ、と。失敗の人として、生きなくちゃいけないだ、と。

 何故なら僕は、逃避のための死を選べない、臆病な人間だから。僕がどんなに生を望まなくても、死という言葉の響きが放つ恐怖からは逃れられないから。

 それは、生命という名の呪いだった。

 僕の脳みそが紡ぐ、エセニヒリストな思考は、最終的には死からの原初的な回避を促していた。

 僕の胸を打つ心臓の一鼓動一鼓動は、生きなくてはならないという暗示のリズムだった。

 そして、その呪いを産み落としたのは、他でもない両親だった。そして、その一翼である母が、僕を失敗だと言って嘆いている……。

 失敗だと、認識された僕。失敗だと、認識している僕自身。

 それでも僕は、生きなくてはならないのだ。

 例え僕が失敗でも、不良品でも、他人を不快にさせるだけの存在だったとしても――後ろ指をさされながら、生きなくてはならないのだ。

 何故なら――それが人間という、少なくとも、それが僕という人間の、生命なのだから。

 

 ――ふざけんなよ。

 

 僕の中に、マグマのような感情が湧き上がってきた。

 僕だって、僕だって、僕だって……

 

 ――自分から望んで、僕のような人間になった訳じゃない!

 

 僕は、さめざめと泣き続ける母の胸倉を思いっきり掴んだ。「きゃっ!」という短い悲鳴。悲しみに、驚きと怯えが混じった母の瞳を、睨みつける、睨みつける、睨みつける。まるで、僕から全てを奪った、諸悪の根源と対立するかのように。

「だったら……馬鹿な僕のことで、そんな風に悲しむくらいだったら……!」

 僕は今、絶対に言ってはいけないであろう言葉を言おうとしている。

 でも、それが何だというのだろう。

 僕は確かに、失敗作だ。失敗作だからこそ、色々な惨めな目にあってきた。死にたい、死にたいと、数え切れないほどに思ってきた。それは、きっと、僕のせい。

 でも、愚かな僕という罪の根源は両親、父と母にあるのだから。この二人がいなければ、僕という愚かな人間は、産まれることがなかったのだから。

 だから――僕は、禁忌を犯す。何の躊躇もなく、なんの罪悪感もなく。

「最初っから僕なんて産むんじゃねえ! こちとらありがた迷惑なんだよ、馬鹿野郎!」

 母の目が見開かれ、急速に瞳から光が失われた。何が起こったのか分からない、分かりたくない。そんなことが言いたそうな、表情。

 しかしすぐにその瞳は、一点の感情に収束された。それは、怒り。心臓や脳幹のように、本当の致命的な部分を、ハンマーで思いっきり殴られた人間の怒りだった。

「シンゴオオオオオオオオオオオオ!!」

 叫んだが先か、ことが起きたが先か。僕は気がついたときには、左の頬に強い衝撃を受けると同時に、床に叩きつけられていた。

 僕はしばらく、何が起こったのか分からなかった。マスクの中で、熱い息が吐き出されたり、吸われたりしている。そして僕は、デウス・エクス・マキナのような唐突さで、僕は母に殴られたのだと悟った。

 悟った。

 僕はスクリと立ち上がり、母親に背を向けた。背後からは、母親の嗚咽の声が聞こえてきた。僕は音もなくリビングから出ていった。

 それから、ペタペタと足音を立てながら、らせん状の階段を昇って、僕の部屋に入った。そして、打ち上げられた魚のように、布団の上に身を投げ出した。

 今度こそ、涙が出てくるだろうと思った。しかし、涙は一滴も出てこなかった。落涙を促す感情さえ、滴れきたりとも出てこなかった。じゃあ、きっと笑いが出てくるのだろうと思った。どちらかといえば、そっちの方を出したい心境だった。僕は、無理やり、「ハハハハ」と笑ってみた。それはとても乾いていて、全く自発的ではない笑いだった。そんな自分が空しくなって、僕は笑いを止めた。そして僕は今、自分が何も感じていないことを悟った。呆れるほどの、無感情の中にいることを悟った。そして僕は、その中で、もう一つのことを悟った。

 ――今こそが、死ぬべき時なんだろうな。

 僕は、透明のような存在感のなさで立ち上がり、おもむろに机からハサミを取り出した。本当はカッターの方がよかったのだが、あいにくカッターはなかった。下に降りて、取りに行くのも馬鹿馬鹿しい。それに、ハサミだって刃物は刃物だ。きっと、気持ちの問題なのだろう。

 気持ちの問題。この時、何故か僕は元プロテニスプレイヤーである松岡修三のことを思い出した。僕の行く動画サイトで結構見かけるのだ。頑張れ頑張れ! 気持ちの問題だ! そんなテンプレートな励ましの咆哮が、むしろ愛おしい。

 ――今生の別れに望む上で思い出すことがこんな下らないことだなんてと、僕は笑った。小さく乾いたものだったが、今度こそ本当の意味での笑いだった。

 僕はハサミを手首に当てた。ひんやりとした感触。しかし、僕はこれ以上それを引くことは出来なかった。

 僕の脳裏に、手首から鮮血が噴水のように飛び出てくる様を、そしてそこから発せられる死に至る激痛を想像したのだ。客観的に考えたらその想像は滑稽なものだった。しかしそれは、僕の無感情よりもよっぽどリアルな想像だった。

 僕はとても怖くなって、ゴキブリを振り払うように、そのハサミを机に投げつけた。僕は枕を掴んで、それを思いっきり本棚に叩き付けた。叩き付けた。叩き付けた――でも、怖くなって止めた。この音を聞きつけた両親に、やってこられては面倒なことにしかならないので。

 僕は「ううっ!」と唸りながら、ベットに倒れこんだ。

 ――僕は、涙を流さなくちゃいけない。涙を流さなきゃ、嘘なんだ。

 僕は心の中で呟きながら、目頭に力を込めた。少なくとも、それだけの感情が起こらないことには、絶対におかしいのだと思った。

 でも、どれだけ力んでも力んでも、そんなものは全く出てこなかった。本当に、欠片ほども発現しなかった。

 僕は、呆れるほどの無感情だった。僕はその事実に悶えた苦しんだ。

 何でだ――何でだよ。

 母の言葉が、僕の頭の中でリフレインする。

 ――本当はちっとも悪いって思ってないくせに、信吾はそうやってすぐ、全部分かってる振りして自分が傷つかないようにしようとする!

 ――そうやって仮初に謝って、自分だけを可愛がって自分を守る!

 ――信吾は――自分の非を認める気なんて、これっぽちもありはしないんだ!

 何だよ、これじゃあ本当に母の言う通りになっちゃうじゃないかよ! でも分かってる、これが本当のところなんだって。僕はいつだって無反省で、自分だけが可愛くって……でも、悔しくないのかよ、ここまで本当のことを看破されて、少しは悔しくないのかよ! 僕だって――反省をしなくちゃいけないってことくらい分かってるのに! 反省をするべき立場にいるって分かってるのに!

 だったら、泣けよ! こんなクソみたいな自分を恥じて、少しは泣けよ! 泣けよ! 泣いて、少しはポーズくらい取って見ろよ、それだけの感情の動きを見せてみろよ! なあ、なああよお………………。

 でも、僕は結局泣くことが出来なかった。残ったのは、どうしようもなく息苦しい、精神的な閉塞感だけだった。

 僕は思い出したように、マスクを取り外した。しかし、外したとたんに激しい咳が溢れてきたので、僕は慌ててマスクをつけた。気がつけば、熱がぶり返しているようだった。

「ちくしょう、ちくしょう…………」

 僕は呪詛の呟きを吐き出しながら、ギュッと目をつむる。このまま、俺なんて死んでしまえばいい。本気でそう思った。

 しかし、そんな都合のいいことにはならず、僕は布団の上で少しづつまどろんで行った。

 これが――僕という、つまらない人間の人生。

 そんなことを、眠りに落ちる間に、思ったか否かは、分からない。


 ぼんやりとした意識の中で、底冷えのようなやんわりとした冷たさを感じた。

 僕が目を覚ましたのは、僕にとっては意外すぎる時間だった。朝の四時半。部屋の中はいまだに暗い。普段なら仮に目を覚ましたとしても、トイレにすら行かないですぐに二度寝を始める時間帯だ。しかし、この日に限っては、この時点で意識が完全に覚醒をしていた。正確な理由は分からない。ふとした拍子に訳もなく石を蹴りたくなる、くらいの何となくな感覚だった。

 とにかく、何となく目が覚めた僕は、上半身だけ身体を起こし、電気をつけた。急速に広がった白い光に目が眩み、しばらくの間、堅く目をつむった。目が光に慣れる。僕は何をするでもなく、ボーっとあぐらを掻いて布団の上に座り続けた。物思いにふける、ということすらしなかった。寒さによるくしゃみを出して、今の季節が冬であることを思い出した。

 何もしないままで、時間ばかりが流れる。しつこいようだが、本当に、何もしなかったし、何も考えなかったのだ。耳鳴りのような音が、ひたすらに僕の中で響くだけだった。敢えて言うなら、ふとした拍子に、昨日の母との出来事を思い出したくらいだった。思い出しただけで、特に何とも思わなかった。

 そんなこともあったなあ。母には酷いことを言ってしまったなあ。何でそんなこと言っちゃったんだろう。馬鹿だなあ、僕って。

 そんなことを、何の感情も沸かないままで思った。

 ふと時計を見てみると、一時間ほどの時間が経過していた。曇りガラスから外を見てみると、夜はすでに明けかけているようだった。

 ――外が、見たいなあ。

 僕はスクリと立ち上がり、ベランダへと続く窓を開けた。

 途端、多量の寒気を含んだ北風が、放たれた猛獣のような勢いをもって僕の身体に吹き付けられた。僕は思わず身をすくめる。しかし、その実に分かりやすいな冷たさは、返って僕の意識をクリアーなものにした。僕は両腕を僕の身体に巻きつけながらも、すくめていた体をしゃんとさせ、夜明けの太陽の光が射す方へと顔を向けた。光のまぶしさに、右手を目の上にかざす。かざしながら、僕の目の前に広がった光景に、僕はハッと息を飲んだ。

 それは、深海のように色濃いコバルトブルーと、それを侵食する激しいオレンジとのせめぎ合いだった。

 何処にでもあるような、中流家庭の民家群が広がる水平線の先で、勝負の決まりきっている、しかし、一日を始めるために必要な夜と朝との闘争を行っている。

 コバルトブルーとオレンジが、鮮やかな存在感を持って、僕の目の前に広がっている。さながら、希望に燃える少年の瞳を見るように、その光景は非常に純度が高かった。

 僕は、そうすることがさも当然のことであるかのように、僕の口を覆っていたマスクを外した。興ざめな咳など、当然出るはずもない。僕は思いっきり息を吸い、それを思いっきり吐いた。自然などないに等しい住宅街の空気とは思えないほどに、それはとてもすがすがしい気分にさせてくれるものだった。

 朝が――一日の始まりが、このようにして始まるのだということを、僕は初めて視認した。

 そのことに、その事実を知ったことに、別に特別な意味がある訳ではない。

 それを知ったことによって、僕の嫌なことが直ったりする訳でもなければ、それがもたらした様々な苦痛が消えてなくなる訳でもない。母と、あのような大喧嘩をしたという事実が、なかったことになる訳でもない。

 世の中が、そんな単純に出来ていないことくらいは分かっている。そもそも、たかだかこんな光景を見たところで、全てが解決する筈がない。確かに美しくはあるが、こんなものは些細な、ほんの些細な、そんな出来事だ。一日が終わるころには脳裏の片隅にも残らない程度の、ほんのちょっとした一光景。そんなもので全てが消えてしまう程度の苦悩だったら、初めからないに等しいに違いないのだ。

 ただ……そう。僕はただ、この光景を、美しいと思ったのだ。

 今までにあった嫌なこと、そしてそこから連綿と続いている現在進行形の嫌なことが全て頭から抜け落ちて、目の前の光景をただ、純粋に美しいと思ったのだ。

 それは――とてもとても、清々しいものだった。そして、何だか不思議な高揚感をもたらした。

 今の僕だったら、全ての嫌なことを乗り越えるための闘争が、出来るような気がした。それが例えどんなに辛く、逃げたくなる――死にたくなるようなことであったとしても、僕は立ち向かえるような気がした。

 冷たい風が、僕の体に吹き抜ける。僕の感覚をすり減らす、ある種の痛覚を連想させるような風。しかし、今の僕にはそれですら、非常に心地のよいものであった。むしろ、この痛覚が僕には愛おしかった。

 ――僕は、ここにいる! ここにいる!

 僕はこんな、恥ずかしいことをすら思った。本当に、恥ずかしい――しかし、当たり前のこと。けれども、僕はこんな当たり前のことをすら、長らく、下手をしたら生まれてこの方感じたことがなかったのだ。僕は――あまりにも僕という存在から、目を逸らし続けていたのだった。

 ――ああもう、恥ずかしいなあ……。

 僕は窓を閉め、寒さの残る体をそのまま布団の上に投げ出し、毛布を被った。ぬくぬくとした暖かさが、僕の体を包んでいく。僕は、毛布の暖かさは好きだった。包み込むような暖かさは、とても、それはとても、心地がよかった。

 僕は、枕をギュッと強く抱きしめる。少しでも、自分の心臓の鼓動を感じたかった。うとうととした心地で、穏やかなまどろみの中に落ちていった。

 

 七時ごろ、下から父親が「信吾、メシだぞ」と声をかけてきた。僕は布団のぬくさに後ろ髪を引かれながらも起き上がり、下に降りた。

 リビングには、すでに朝食を食べ始めている父と母がいた。ふと、母と目が合う。少し、力のない目。僕は小さい声で、「昨日は、ごめん」と謝った。母は、「いいよ、別に」とこちらも小さい声で答えた。それから僕は無言で母の隣に座り、朝食を食べ始めた。やはり僕は、自発的には言葉を発しなかった。たまに父がニュースのいうことに対して何か意見を出し、僕か母がそれに同意したり、ツッコミを入れたり、鼻で笑ったりした。

 それから歯を磨き、それからトイレに入った。便意。僕が便座に腰を下ろしたとき、ノックの音が響いた。「入ってるよ」と僕がいうと、「分かってる」という声が返ってきた。父の声だった。

「昨日のこと、お母さんから聞いたぞ」

 父が、怒っている訳でもなければ、茶化そうとしている訳でもないような声で言った。事実を事実として語る、といった表現が一番近いだろうか? しかし、そこに無感情さが滞在している訳ではなかった。

 僕はただ単純に、「うん」とだけ返した。

「……お前の話を聞いた訳じゃないし、今はあまり聞く時間がないから聞かない。けど、少なくともお母さんの話を聞く限りじゃ、喧嘩そのものも、お前がいけなかった」

「うん……」

「まあもっとも、それは別にどうでもいいんだ。次から気をつけなさい、とだけ言っておく。お前は結構、怒りっぽいところがあるからな……本当に、気をつけろ」

 僕は少しうつむいて、三度「うん」と返した。

「でもな……」と、父が言葉を続ける。

「頼むから、お父さんやお母さんを、悲しませるようなことを、言ってくれるな」

 それは、とても傲慢なセリフであったに違いない。彼らは、彼らの罪をまるで意識していない。そう思わせるには、必要で十分なセリフだった。

 でも――そういう父の声色が、あまりにも悲哀に満ちていて。ここで「ふざけるな」と言ってしまえば、それこそ取り返しのつかないことになるような気がして。それはとても、残酷な行いのような気がした。

 だから僕は、搾り出すような声で「ごめん」と謝った。くすぶる心に、傷口がうずく心に、ギュッとフタをして。

「……でも、俺はな……」と、父はさらに言葉を続けた。

「俺は、お前を産んだことを、後悔はしてない。お母さんだって、同じ気持ちだからな」

 僕は、何も応えなかった。

 それからしばらくして、パタパタとスリッパの足音が遠ざかる音が響いた。扉が開かれ、閉ざされる音が響くとともに、足音がパタリと止んだ。

 僕はしばらくぼんやりと便座に腰掛けて、それから思った。

 ――僕は、子どもを持たないだろうな。

 この世界は、愛という無邪気な感情だけで子どもを産み落とすには、あまりにも怖い世界だった。

 僕のような人間が、僕と同じようなことで悩み、苦しみ、死にたくなる。

 それは、想像しただけで、非常に恐ろしいことであった。

 しかしそれは――恐らく、数年後には十数年後には、覆されることになるだろう。

 僕はこれから、加速度的にエゴイストな人間になる自分を想像できた。僕は、自分という存在のことを、手に取って確認してしまったから。生がただの呪いなのではなく――美しく光輝く呪いであることを、知ってしまったから。

 果たして自分は、この思いをいつまで守っていられるのだろうか? そしてその頃には、そうすることに罪をすら感じなくなってしまうのだろうか?

 僕にはそれが、恐ろしかった。

 ――どうか僕よ、この罪の意識を、忘れてくれるな。そうじゃなきゃ、これから生まれてしまうかもしれない僕の子どもが、可哀想過ぎるから。

 僕は、それを祈った。

 

 生徒達の流れに乗って駅から出ると、僕は一旦立ち止まった。冷たい風が、スクールコートをすり抜けて僕の身体に吹き抜ける。咳は、もう出てこなかった。僕は一度大きく深呼吸をしてから、学校に向かって歩き始めた。まるで氷のような冷たさは、僕の肺に心地よかった。

 コツコツと、生徒達の群れの中を歩く。周りでは、中の良い友人たちと話しているうちの生徒達の姿があった。僕はただ、一人で歩いている。

 僕はこんな時、どうしようもない孤独感を感じる。まるで僕が、どうしようもないほどに一人ぼっちであるような気分になってくる。そしてそこから芋づる式に、どんどん悪い方向、悪い方向に思考が向かっていく。

 今までにやられた手痛い仕打ち。暗く、暗く、暗いものだった僕の半生。僕が感じている、周りとの絶望的な浮き。僕自身が犯した、どうしようもなく馬鹿げた失敗。

 ――ボクハ、ショセンハ、ダメナニンゲンナンダ。

 今までの僕は、それを他人に見せ付けなくては気がすまない人間だった。今でも、何かの拍子に見せ付けたくてたまらなくなる衝動にかられる。

 そうしなければ、怖かったから。僕の拙いまともな人間のフリが見破られて、僕がつまらない人間であることを見透かされてしまうのが、どうしようもなく怖かったから。だから、最初から僕がどうしようもない人間であることを知らせれば、変な期待などされなくて済むだろうと思っていたのだ。例えそれが――傍から見たら、ただの不幸自慢であったとしても。

 僕は、今になっても、この孤独感を打ち切ることは出来ない。そしてそれは、恐らく一生消えないものだろう。僕がどんなに幸福な待遇にあったとしても、その影では――僕がそうであったという過去が、「お前は、そんな人間じゃなかろう?」と、あざ笑って来るのだ。

 僕は、怖かった。僕はまた、自分のこの孤独感を、人にぶつけてしまうんじゃないかって。少なくとも僕は、他人に自分の傷をちらつかせて自己満足して、他人に不快感を与えているような、人間だったのだ(あるいは「なのだ」)。

 そんなことを考えているうちに、僕は学校についた。二年生用の玄関から上がり、僕の教室に向かう。教室に入り、カバンを置いて、しばらくぼうっとしていると、廊下で幸田と高崎が談笑している姿を見かけた。

 僕は彼らの元に向かい、後ろから「おっす!」と声をかけた。

 そこで高崎が、

「わあ! ゲイが来たー!」

 と、大げさに、驚いて見せた。

 一瞬、僕の脳裏に「権力者」という言葉がよぎる。弱者をあざ笑い、屈辱を与えることで、自信の満足を得る、「権力者」。

 しかし僕は――その言葉を、すぐに打ち消した。

「うふふふん。高崎ちゃん、会いたかったよおん。今日もイイ男だねえ」

 そうカマっぽい声を出しながら、僕は両手を広げながら高崎に近づいた。それを受けて高崎が、これまた大げさにびっくりしたように、

「ギャーよせー! イイ男だったら、幸田がいるじゃないかー!」

「ちょ、ちょっと、何で僕なのー!」

 そう狼狽する幸田。僕は、お腹から笑い声を上げていた。腹の底から湧き上がる笑いは、苦しいながらも心地よくって。そうすることは、とても幸福なことだった。

 その時、僕の影が、僕の頭の中でささやいた。

 ほら、お前はそうやって利用されている。屈辱的な言葉で、おまえ自身が嘲弄されながら。お前はただの、代用可能なピエロなんだよ。別にお前でなくたって、笑いさえ起これば、お前じゃなくたって構わないんだ、と。

 そうかも知れない、と僕は思う。

 ピエロを演じる者は、何も僕じゃなくたって構わないんだと。僕より面白いピエロが現われた時、僕見たいなつまらない人間は、即座にお払い箱になるだろうって。

 でもね、僕の影さんさ。と僕はやはり思う。

 それだって、別に構わないじゃないかって、僕は思うんだ。僕と彼らは、こうして幸福な笑いを共有しあっている。それは、とても良いことじゃないかって。それは、とても楽しいことじゃないかって。ピエロは代用可能な生き物だ。でも――今は僕だ。僕がピエロなんだ。僕が、笑いを起こしているんだ。だから、僕が卑下たる思いを抱くことはない。僕がいなければ彼らだって――ピエロが起こしうる笑いを、作り上げることは出来ないんだから。

 後悔するぞ、と影はささやく。

 そうやってお前は、自分を偽って、周りが求めるピエロとしての自分に逃げ込んだ。お前のその選択は、自分の意思によるものじゃない――自身の弱さが生んだ、ただの思考停止だ。

 そうかもしれない、と僕は思う。

 確かに僕は、きっとこのことを後悔するだろうって。というか、僕は時々、このことで死にたくもなるだろうって、そう思うんだ。でもね、僕は――そうすることが、僕に取っても幸福であるんだとも思うんだ。保健の先生がいうように、「真っ暗なところで一人、黙々と考え込み続けて」いるよりは、周りの求めるピエロでいる方がよっぽど楽で、楽しいことなんだって思うんだ。僕が真っ暗なところで考え込むのは、結局は、今までに積み重ねられてきた復讐心から来るものなんだ。そして僕が、その復讐を成し遂げられるだけの役者ではないことを、もはや経験則によって悟っている。そしてそうあることは、ただむやみに僕の弱さを思い知らされ、その弱さに縛り付けられるだけなんだって。

 そう、僕は確かに弱い人間だし、駄目な人間だ。僕は弱い弱いピエロであるが故に、きっと孤独の中に沈んでいくんだろうって思う。でも、そうあること自体は、決して悪いことじゃない。それが悪として認識されるのは、その弱さを言い訳にしてその場でうずくまっている時だ。そしてそうあることは、とても、とても、つまらないことなんだ。

 僕は、歩こうと思う、話そうと思う、笑おうと思う、おどけようと思う――すなわち、ピエロになろうと思う。弱い人間にだって、幸福を得ることは出来る。僕は、幸福でありたいんだ。それこそが、そうあろうとすることが、生命という呪いが課した宿命であることに、僕はやっと気がついたんだから。

 だから――今は消えろ僕の影! お前の鬱々とした愚痴は、僕が独りぼっちになった時に、いくらでも聞いてやる! 僕は、幸福になるために今を生きる。ピエロにだって、なってやる。僕はそう、決めたんだ! だから――そのお前のうざったい露悪趣味を、この僕に押し付けるんじゃあない!

 色濃かった影はふっと歪み、僕の前から姿を消した。正確には、息を潜めただけなのかもしれないけれど。

 

 僕たちはしばらく、話を続けた。ささいな日常会話から、教師のこと、部活のこと、そして僕に対するイジリまで、僕たちは話を続けた。

 僕は笑ったり、笑わなかったりした。そうしている時間は――とても楽しいものであった。

 朝のホームルーム五分前のチャイムがなった。誰かが、「やっべ。そろそろ戻らないと」と呟いた。僕と幸田と高崎は、それぞれの教室に戻っていった。僕は去り際に、「じゃあ、今日も一日頑張ってね」と二人に言った。

 席についた僕。独り、席に着いた僕。僕……自分。

 どうか今日という日を、幸福なものに出来ますように。

 ポケットの中に、何となく入れておいたマスクを握りつぶしながら、そんなことを思った。


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