前編
電車が線路の上を滑る振動を感じながら、僕は一人本を読んでいた。座席の脚部から出ているあぶるような暖房の熱風が、ジリジリと僕から活字を追う集中力を削ぐ。全身が不自然な温まり方をしているのを感じた。
僕は暖房が嫌いだ。暖房の効いた室内にいると、いつも集中力がそがれ、意味のない苛立ちを覚える。こうなると、些細なこと――例えば、マスクの中で泳ぐ吐息の匂いと温度も、吐息が鼻骨の辺りから逃げることで生じる瞬時のグラスの曇りも、苛立ちを増長させる要素になるのだ。ゴホゴホとこぼれる強い咳が僕の喉を苦しめて、それもやはり苛立ちを募らせるファクターとなった。
車内に、「まもなく――」と、電車のアナウンス独特のだみ声が響いた。いかにも業務連絡といった感じの言い方で、次の停車駅を繰り返し伝える。そこは、僕の通う高校の最寄駅――すなわち、僕が降りる駅だ。
読みかけの本をしまいながら僕は立ち上がり、扉の前に向かう。扉の前にはすでに二人の男子が立っていた。ポピュラーな黒の詰襟学生服――僕の高校の制服だ――に身を包み、それぞれ違うメーカーのショルダーバックを背負っていた。二人は、微笑み程度の笑顔と、気のない笑い声をお互いにあげあっている。今日は数学の小テストがあるらしいだとか、ロクに勉強していないので合格するのは絶望的だとか、当たり障りのない雑談にふけっているようだった。
電車がゆっくりとしたペースで停車を始める。数秒前には一定の速さだった景色の流れが、ブレーキがかかるにつれてゆっくりになっていく。やがてプラットフォームに入ると、景色の中に防音壁が割り込み、車窓からの眺めを妨げた。
ほどなくして、ガクっという慣性の揺れと共に電車が止まった。振動でぶれた体の軸が戻ると同時に、蒸気が抜けるような音を響かせながら扉が開いた。僕は前にいる二人に続く形で、電車を降りた。
プラットホームに両足を着けた途端、辺りに少し冷たい風が吹き抜けた。三月の頭ともなると寒さも和らいでは来る。しかし、だからいって冬の面影が完全になくなる訳ではない。スクールコートをすり抜けた冷気が僕の身体に障り、再び数回咳をした。
僕は非常にゆったりとした足取りで階段を下りる。風邪気味とはいっても、特にダルさを感じている訳ではない。これが駅構内における、僕にとってのいつも通りの足取りなのだ。執拗に咳が出てくること以外は、体調は至って平気だった。
この駅の通路は、まるでシャッター街のように閑散としている。欠伸交じりにトボトボ歩く数人の高校生の以外に、利用者はほとんど見られない。僕は彼らの後ろにつくように歩き、改札口を潜って駅を東口に出た。僕はその場で一度大きく伸びをしながら立ち止まり、さりげなく駅周辺の風景を見渡した。
一言で言ってしまえば、この辺りは殺風景な場所だ。民家はほとんど見られず、荒地や畑ばかりが広がっている。人の少ないのんびりとした土地……などと呼べばまだ聞こえが良いのかも知れない。しかし、僕から言わせてもらえれば、赤茶色の土ばかりが無駄に広がる、不毛も不毛な場所だ。要するに、田舎と呼ぶのもはばかれるような未開発地域なのである。僕がこちら側の風景を好きでないことは、言うまでもないだろう。
しかし、最近は少しばかり事情が変わって来ている。
この辺り、近々ニュータウンができると言うことで、開拓を行っている最中なのだ。しかも、市が特に力を入れているだけあって、県内有数の規模になるそうだ。実際の話、駅を西口に出てすぐの所では、完成後には日本有数の規模を誇る予定の商業施設が建設中であり、いくつかの高級そうなマンションも完成している。駅周辺の道路も、現在の利用率に反比例した立派な物が作られている。もうしばらくすれば、「反」という言葉が外れることになるだろう。いわばこの駅は、今回のニュータウン計画における起点と言えるものだった。
先ほど、駅の利用者がわずかだと言ったが、それはあくまで現時点での話だ。商業施設がオープンする今年の秋ごろには、もっと利用者数が増え、(あくまでニュータウン計画がうまく軌道に乗ればの話だが)ホームは通勤や通学をする人たちでごった返すことになるだろう。作る側としてはそうあって欲しいのだろうが、僕に取ってはあまり気分の良い未来予想図ではなかった。僕は人ごみがとても嫌いなのだ。
一、二度首をゴリゴリと回してから、僕はのんびりと歩き出した。この辺りの風景は嫌いなのだけれども、舗装されたての道路の上を歩くと言うことはそんなに気分の悪いことではなかった。コツコツと、確かな手ごたえ(足ごたえ?)を踵から感じられるのは、何となく小気味がよかった。
五十メートル程歩いたところだった。突然、僕の喉から咳が一つこぼれた。
やばいと思う間もなかった。一回の咳を皮切りに、次から次へと大きな咳が出てくる。僕は思わずその場で立ち止まり、海老のように丸まって屈み込んだ。僕の意思を無視してあふれ出てくる咳の連発が、かき回すようにして喉を痛めつけた。
通りがかりの生徒たちが、こちらをチラチラと眺めてきているのを捉える。よっぽど重篤そうに見えたのだろう。訝しそうな視線の中に、若干の驚きの感情も感じられた。
やっと、と言ったところで咳が治まる。喉がヒリヒリと痛み、目尻には涙が溜まった。そして、荒い息を一つするたびに曇る眼鏡。マスクのせいで曇る、眼鏡の鼻骨付近のグラス。吐息はしばらくマスクの中でこもり、生々しい匂いやぬくさで僕の神経を逆撫でした後、鼻骨の辺りから逃げていく。それによって生じたり消えたりする曇りが、苛立ちを増幅させていった。
これだから、マスクは嫌いだ。
風邪気味でさえなければ、こんな拘束具など、頼まれたってつけたくはなかった。しかし、先日まで僕は熱にうなされていたのだ。そして今でも砲撃のような咳は止まない。そんな残念な体調なのであった。
いまだにヒリヒリする喉に尾を引かれながら、僕は再び歩き出した。眼鏡は相変わらず、グラスの微妙な範囲内で、曇りが生じたり消えたりしていた。
僕が風邪をこじらせたのは、今から四日前のことだ。土曜日、朝の十時くらいに起きてすぐ、喉の奥に対して違和感を感じたのだ。
最初、寝起きだからかと思った僕は、ン、ンンっと二三度咳払いをしてみた。しかし、全くもって意味がないようだった。不審に思った僕は、しばらく眉根を寄せながら、状況を把握しようとした。そしてやがて、根本的に喉の調子がおかしくなっていることに気がついた。まるで、埃を思いっきり吸い込んだ時のようなザラザラ、チリチリとしたむず痒い痛みが、ずっと喉に張り付いているようだった。
――気持ち悪いな……。
しかし、そうは思っても、この時はまだ偏頭痛と同じ認識であった。どうせ時間が経てばすぐに治るだろうと、軽い気持ちだった。ここ数年、偏頭痛くらいでしか体調を崩した覚えがなかった僕だった。なので、自分が風邪を引いたという発想は全然出てこなかったのだ。
しかし程なくして、朝食をまともに食べられない程に酷い頭痛が生じ、芯から凍えているような寒気を感じだした。まさかと思って熱を計ったら、まさかの三十八度オーバーだった。僕にとって、小二の時にインフルエンザにかかって以来の大記録。この時になって初めて、風邪という言葉が頭によぎっるに至ったのであった。
結局、朝食をほとんど食べられないまま、母に車で連れられて(自転車を漕ぐことさえままならなかった)診療所に向かった。「風邪ですね」と、至極ありきたりな診断を、中年の油っぽい顔をした医者から受けた。どうやらのど仏が真っ赤に腫れ上がっているらしく、風邪もそこから来ているらしかった。結局は「結構酷いですがまあ、薬を飲んで数日ほど寝れば治るでしょう」と、ごく平凡な結論に至り、近場の薬局からいくつか薬を処方して貰い、帰宅した。
それから土日、さらには月と一日中ベッドの上で寝たきり状態だった。酷い頭痛と咳のせいで、それ以外に出来ることなんてありはしなかった。例えばインターネット。頭痛のせいで眼精疲労が著しく、ブラウザが歪んで見える、なんてレベルじゃなかった。眼精疲労くらい何度も経験している僕でさえ、文字がバラバラと踊り出して見えるなどという感覚は初めてだった。それに寒気が加わっていると来れば、もはやブラウザの向こう側はファンタジーやメルヘンの世界になった。しばらくすると吐き気まで覚えてきて、そもそもこうして呼吸をしていられることに感謝しなくてはならないのだと悟らざるをえない始末だった。
また、それ以上に咳が酷かった。最初は鬱陶しいだけの代物だと思っていたのだが、甘かった。何度も何度も咳を出しているうちに、喉を痛めたのだ。まるで擦過傷に触れた時のような、瞬間的に芯へと迫る激しい痛みが、咳をするたびにするたびに襲った。僕は生まれて初めて、咳という行為に恐怖心を覚えたのだった。終いにはコンコン程度の咳にさえ、心の底から死んだような気分に陥るほどになるのであった。
しかし、流石に薬を飲み続けて、ずっと寝てもいれば、風邪くらいは平気で治るものである。治まったりぶり返したりを繰り返しながら、頭痛や悪寒が少しずつ弱くなっていき、三日後、つまり月曜日には大方落ち着いた。体調自体もほぼ良くなっており、学校に登校するのにも差し支えないほどになった。火曜日に学校に行かなかったのは、「めんどくさいから、もう一日くらい休もう」という軽い気持ちによるものだった。
しかし、咳だけはとうとう快方には至らなかった。頭痛や悪寒が引いていく中、咳だけは変わらず活発に発せられて、ひたすらにに喉を痛めつけた。喉の調子も、変わらずおかしいままであった。
――信吾、咳が止まらないようだったら、マスクをつけたらどう?
そんな時――火曜日の夕食の席の時に、母親がそう勧めてきたという訳であった。ちなみにこの日、父親は仕事の都合で家にいなかった。
その時、咳で飛んだ飯粒を拾っていた僕は、チラッと母の顔を見た。少しばかりの無言の間。バラエティー番組の司会者の声だけが食卓に響く。無意識ではあったが、僕は母の言葉に眉をしかめていた。一瞬だけ、マスクをつけている自分を想像したのだ。そしてその一瞬だけで、僕は不快な気分になった。僕は静かなため息をつく。予想通り、マスクをつけている自分の姿を想像するという行為は、自身の生理的嫌悪感を刺激する。
僕は、マスクが嫌いだ。大嫌いだ。暴走族の三下のようになる見た目、マスクの中でこもる息、執拗に曇る眼鏡。例え風邪をこじらせている短期間でのことであっても、そんなものをつけて過ごさなければならないというのは、ただそれだけで眩暈ものであった。
飯粒を拭ったティッシュを丸めて、テーブルの端に置く。食事中のテーブルの上に放置する物としては印象が悪いが、ゴミ箱が近くにないので仕方がない。
「いいよ別に。大丈夫だよ」
母の顔を見ずに、僕はそう言い捨てた。心配そうに「本当?」と問いかける母を無視して、大皿からほうれん草のバター炒めを摘んだ。それをご飯と一緒に口中に放り込んだ途端、再び咳が出た。今度は出る瞬間に、予感のようなものを感じた。不意打ちだった先ほどとは違い、右手で口元を押さえたために飯粒は飛ばなかった。その代わり手のひらには、唾液まみれになった多数の飯粒が、グショグショになって付着した。
「ほら、やっぱり駄目じゃない」
呆れたようにそう言う母。大失敗を犯したマジシャンを見るような彼女の瞳が、「もう決まりね」と雄弁に語っていた。
――めんどくさい。
こういう時――取り分け、誰かに何かを言いくるめられそうになった時、いつも不愉快な感情に襲われるのだ。ゲル状の生命体に、全身をがんじがらめにされたような気分だ。
が、この時はすぐに、いけないと自身を戒めた。反抗期の中学生じゃないんだ。こんなことでイラっとくるようでは、高校生などとは恥ずかしくて名乗れやしない。
しかし、一度ゲルに全身を絡められた時、それをすぐに拭いきることは難しい。そのゲルには強力な粘着性があるのだ。中途半端に溶けた飴のように、強力な粘着質を持つベタベタのようなそれである。
僕は一つ、ため息を吐いた。僕は箱から新しいティッシュを一枚とりだし、それで手のひらの飯粒と唾液をふき取った。一枚ではふき取りきれない。中途半端に残る粘液つきの飯粒。もう一枚を取り出し、完璧にそれを拭いきった。
「だから良いよ、めんどくさいし」
肩をすくめる母。「何を言ってるんだか」と言わんばかりに。イラっと来る。
「めんどくさいはないでしょう? 自分の体のことなんだから」
「マスクなんて、あってもなくても変わらないよ」
「何言ってるのよ。マスクって言うのは、他の人に対する配慮でもあるんだから」
「だから良いって。めんどくさいよ」
「何がめんどくさいって言うのよ?」
「何でもいいだろ? めんどくさいものはめんどくさ――」
と、言いかけの時に、再び咳の発作がでた。ゴフっゴフっと、大砲のような咳が数回続く。いい加減、喉が痛くなり始めていた。
――ちくしょう、よりによって、今出なくてもいいじゃないか。
気持ち、体が変に火照り、だるさを感じ始めていた。食欲もなくなり始めている。所詮は治りかけの半病体。いくら全快したと思っていても、実際はいつぶり返し初めてもおかしくない身なのだ。
僕にとって都合の悪い方向に、話が進んでいる。決定的な状況の悪化によって、加速度的に。
「……まったく」
母はため息を吐くと立ち上がり、テレビの下の救急箱からマスクを取り出した。パサっという乾いた音を立てて、それがテーブルの上に置かれる。包装紙に包まれたマスク。僕は何となくでそれを手に取った。何度か裏表に返した際、やはり一度か二度程咳が出た。
パッケージには、マスクをつけた四十台の女性の写真が載せられている。これといった特徴は感じられない、普遍的なサージカルマスク。しかし、パッケージに書かれたキャッチコピーや説明つきの矢印などが、健気な商品アピールを行っていた。だが、新構造がどうのこうのと主張されても、こちらとしてはいまいち、既存商品との類似性を破ることが出来ているようには思えない。
パッケージを見ているうちに、僕は嫌な気分になってきた。意識している訳でもないのに、自然と眉が潜まった。キャッチコピーに対してではない。むしろ社員の苦労が伺えた。問題は、パッケージの女性に対してだ。
当然のことだが、パッケージの女性の鼻から口は、マスクによってしっかりと覆われていた。しっかりと、覆われている。それはまるでプレパラートにおける、スライドガラスに張り付くカバーガラスのようで。そして、その病的なほどの密着感は、間違いなく僕の呼吸器官を苦しめるだろう。
――勘弁してくれよ……。
僕は心の中で首を振った。どうせ、こんなことになるだろうとは思っていた。しかし、悪い予想がそのまま当たるだなんて、喜ばしいことなはずがない。
「ほら、これでめんどくさいも何もないでしょ? ご飯食べて風呂に入ったら、つけなさい」
母の顔を見る。彼女は自分の行いに対して、まるで何の疑問も抱いていないようだった。
――止めを刺された。
そう僕は思った。全身に絡んでいたゲルの粘性が強まり――フツフツと熱を帯び始めるのを感じた。全身を、暖房の熱風のようなやり方で熱し始め、やがてその熱は頭にも――理性にも届こうとしていた。
「って言うか信吾、無理なようだったらご飯それまでにそれまでにしておいたら?」
両手をテーブルに打ち付けながら立ち上がった。椅子が乱暴な音を立て、テーブルとその上の食器が激しく揺れた。母の表情がピクッと強ばったのを、視界の端で捉えた。
「ああ、分かった。この辺にしとくよ。風呂入ってさっさと寝る」
ご飯の残った皿を、早足にカウンターの上に片づける。母の顔は見ない。絶対に見ない。今、母の顔を見たら、どんな感情に襲われるか分からないから。そうして顕現された感情は、決して物事をいい方向には導かない。
「何よ、怒ってるの?」
案の定、背後から険を含む声が聞こえる。
「怒ってない」
母の顔を見ずに、僕は答えた。こういう時、いつも僕は相手を無視することが出来ない。そうすることは、僕の心をますます痛めつけることになるのだから。こういう時、いつだって僕は悪者なのだ。僕は僕がそうであることが分からないほどに馬鹿な人間でもなければ、そうであることを開き直れるほどに愚鈍な人間でもなかった。
「怒ってるんでしょ?」
「怒ってない」
「何で怒るのよ?」
「別にどうだっていいだろ?」
「何? 私がマスクを出したから怒ってるの?」
僕はカウンターの前で足を止めた。持っていた大皿をカウンターの上に置く。今置いた皿が最後の一枚だ。僕はこの時点で風呂場に向かって良いはずだった。しかし、止まった足は微動だにしない。
「ねえ、何でそんなことで怒るのよ?」
全くだ、と冷静な僕だったら思うのだろう。いや、底の部分では実際にそう思っているのだろう。しかし、今の僕は全然冷静ではない。冷静だったら、それこそ僕は母とこんな喧嘩などしていないのだ。
僕が義憤以外で起こす怒りというのは、くだらないことに対しての理由のない苛立ちによる『かんしゃく』なのだ。まるで老いぼれじいさんの起こすような、それである。
「うるさいな。何だっていいだろ?」
「よくないわよ!」
叫ぶ母。無駄に甲高い、典型的なおばさんの声色。ああ、それすらムカつく。僕も、母も、ただただヒステリック。
「お母さんはあんたのためにマスクを用意してあげたんだからね!」
僕は振り返り、母の顔を見た。いや、もはや睨みつけていた。母も、眉を吊り上げてこちらを睨んでいる。僕の瞳もそれに負けず苛烈だ。母にとって、今噴出している怒りは義憤として認識しているのだろうと思った。意味不明な理由で親に怒りをぶつける、不当な息子を叱りつけているつもりなのだろう。
――母は根本的に間違っている。それは、確信して言える。
母が本当に僕のための行動をしていると自負したかったら、最初からマスクなど用意するべきではなかったのだ。ましてや用意しておいて、我善行を行われたし、と言わんばかりの態度を取るなど、問題外だ。僕から言わせてもらえれば、今の母は殺されても文句は言えなかった。最近は「キレる」若者が多いと、何かにつけてニュースのコメンテーターが発言し、母もそれを諳んじているのだ。そして彼女がそれを諳んじる時、いつも僕の目を見るのだ。
その「キレる」若者――僕もその一群に含まれるであろうその若者達が、刃物を片手に「斬れる」若者に脱皮してしまうことが少なくないこともまた、マスメディアが口を酸っぱくして叫んでいることではないか。なので僕が、その「斬れる」若者になったところで、それは全くおかしなことではないのだ。「キレる若者」が「斬れる若者」へと変貌を遂げるボーダーラインは非常に曖昧で、だからこそ非常に近い地点にある可能性がある。ある若者にとっては駆け足をしなければ越えられる地点にあり、ある若者にとっては――たった一歩踏み出した先にそれがある。
しかし僕は、僕の怒りがその程度の品格であることをよく分かっている。こんなことで露骨な怒りをあらわにするなんて、無様であるだけでなく愚昧だ。
――どうしてマスクをつけるのが嫌だって分かってくれないんだよ!
そんなことを叫んだところで、あるいはその思いを胸にくすぶらせたところで、一体何になるというのだろうか? 母から言わせてもらえれば、「どうしてたかがマスクをつけることでそんなに怒るのだ?」ということだろう。母にとって、咳の止まらない息子に対してマスクを手渡す行為は揺るがしようのない善行であり、一般的にもその通りであるのだ。
結局、人の考えること全てを理解することは有りえない。だからこそ、『僕の気持ちも知らないくせに!』という手合いの言葉が鼻で笑われるのである。
そのことを理解していながらも、感情的になってそのことで無駄な怒りを感じて、不毛なかんしゃくを起こしている。それが、今の僕なのである。
――ああそうだ、僕が悪い。そんなのは、当たり前のことじゃないか。悪くて、馬鹿で、幼稚で、愚昧で、愚劣で……
「……悪かったよ。ああ、僕が悪かったよ」
そっぽを向きながら言った。これ以上母の顔は見たくない。いや、とても、直視出来たものじゃない。
「嘘をつくな!」
と、母は叫ぶ。僕は彼女が言わんとすることが予想できた。
「ちっとも悪いと思ってないくせにそんなこと言うな! 大体あんたはいつもいつも……!」
僕は早足に風呂場に向かい、脱衣場に入ると扉を閉めた。バタンっという馬鹿でかい閉戸音と共に、母の声が途絶える。戸の隙間から彼女の声がもれているような気がしたが、それは聞かないことにした。
改めて言おう。僕が悪いということは分かっている。たかがマスクをつけるつけないで苛立ち、怒りをぶつけるような僕が正しいはずがない。
それでも、処理の仕様がない怒りが、全身から発熱するようにこみ上げてくる。マスクをつけなくてはいけない自分、マスクをつけるように強要してくる母、そしてその通りになってしまった今の状況……自身の無能。
――ムカつく! ムカつく! ムカつく!
僕は脱いだ上着を洗濯カゴに思いっきり叩きいれた。その時の「ううっ!」という唸り声が、まるで醜悪な獣のようだった。幼い自分をますます嫌に感じるには、十分に醜悪な声。
いくら通学時には何ともなくても、所詮僕は治りかけの半病人で、しかもマスクを着用している身である。そんな僕が授業を受けたところで、それを愉快なものに感じるはずがないことは自明だった。
相変わらず、強い咳が何度も喉から出てくる。ゴホッと一つ出るたび、鋭い痛覚が執拗に襲った。また、一時間目の授業に入った途端、風邪が再びぶり返し始めた。身体が火照り、頭がちゃんと回らなくなり、先生の授業内容が全く理解出来なくなった。どういう訳だか、先生の言うことを考えようとすればするだけ、意識が遠のいていくようだった。
そして、マスクの着用。一呼吸をする度に、眼鏡は曇り、息はこもる。これだけでも授業に集中できなくなるというのに、中で漂う息の臭いが僕にとどめをさした。まるで果物の缶詰の汁が腐ったような、気が滅入る臭いだった。
時折、我慢ならなくなった僕はマスクを外した。マスクのガーゼが口元から離れた瞬間に感じる、窓を開け放ったような開放感。しかし、それも長い時間は持たない。しばらくすると、例の咳が先ほどと変わらずに出てくる。しかも、ガフンっ! ガフンっ! と、気持ち悪化したような感じさえするのだ。こんな状態の僕に対して、周囲のクラスメイト達は当然良い顔をするはずがない。だから再び、マスクを着ける。が、またマスクに堪えかねて再び取り外す。この着けたり外したりを、何回も何回も繰り返したのだ。
刻々と、体調の崩れ具合が深刻になっていった。体の火照りは重い寒気へと性質を変え、額を拭えば大量の脂汗が手のひらに付着した。ふと耳を澄ました時、荒く不規則になっている自身の息遣いを自覚せずにはいられなかった。そしていつしか、机の上に体を突っ伏しながら意識を保っているのが精一杯という状態にまで追い込まれていた。
「おいおい、大丈夫かよ信吾ちゃん?」
三時間目の数学の時、そんな僕に先生が声をかけてきた。信吾ちゃん……『ちゃん』。甲高く軟派で、まるで馬鹿な高校の学生のような声。自分の職業を、場末の学習塾の講師と勘違いしているような教師だった。
顔を上げると、そこには僕の机の横で物珍しそうにこちらを見下ろす先生の姿があった。クラスの視線も、何となくこちらに集まっているのを感じる。
この時、喉元に大量の剣を突きつけられたような錯覚を覚えた。
僕は一言、「大丈夫です」とだけ答えた。これだけで済んだら、良かったのに。
「本当かよ信吾ちゃん?」
数学教師・浜田亮(23)。通称・ハマリョーの得意技、「余計な一言」の発動である。
「何か信吾ちゃん、しおっしおに枯れたキュウリ見たいな顔してんぜ?」
――ドカドカドカ!
満場一致、クラスのあちらこちらから壮大な笑いの渦が巻き起こった。決して心地の良いそれではなく、聞けば聞くほどに心を削り取られるような心地になる笑い声。突きつけられていた剣先が、薄皮一枚分だけ刺さる。
悪寒と身震いが強くなった。自分がこの場にいることが、とても恐ろしかった。まるで、言葉の通じない民族の、何か残虐な行為を行う祭りに無理やり参加させられたような気分だった。
混乱。いや、恐慌。僕は瞬く間にそんな状態になった。
――この状況は、嫌だ。どうにかしなくては。早く、どうにかしなくては。
焦りの感情は、盲目的に状況の打破を考えた。盲目的な方法による状況の打破しか、考えられなかった。
「本当です、僕は大丈夫です。風邪気味なだけです。僕のことはほっとおいぃてくださいよ」
――噛んだ!
そう思った時には遅かった。
――ドカドカドカ!
クラスが一丸となった笑いの大洪水。一瞬、何がこのクラスに起こったのかを、脳みそが受け付けなかった。しかしすぐに、その現実を受け入れることになる。
僕の頬が、体の火照りとは別に赤くなる。激しい羞恥とそれによって起こされる後悔が、僕の心臓をグルグルと駆け巡った。
よりにもよって、ほっとおいぃてくださいと来たものだ。我ながらありえないと思った。ちょっかいを加える側にとって、これほど食指のそそられる餌はないではないか!
長谷川信吾(18)。「余計な一言」を得意技にしているのは、何もハマリョーだけではなかったのだ。
――死にたい。
まさにその言葉は、今の僕が反すうするためにある言葉だった。
「……ほっといてくださいっていうかさあ。真面目な話、普通に見るに耐えかねる感じなのよ、信吾ちゃんさ」
そんな僕の心境と周囲の空気とは裏腹に、ハマリョーの返答はいたって普通のものだった。お前の抱く葛藤なんてどうでも良いという感じが伝わってくる。僕も自分の抱く悩みの矮小さと、そんな悩みを抱いてしまう自分のさらなる矮小さを自覚する。ますますもって、死にたい。
「うっわー! ハマリョーまじ優しいわあ。俺にももっと優しくしろよー!」
クラスの男子――奥田恭介。クラスの中でも特に幅を効かせている不良系の男子――が、ふざけたきんきん声でふざけたことを言った。僕の目の前の席。こいつとは去年も同じクラスだった。何かにつけて僕にちょっかいを出して、僕を苛立たせてきた人間だ。ああもう、色んなふざけた方向性で、色んなふざけたことが僕の身に降りかかる。まるで火の粉を帯びたスライムのようだ。僕は出来るだけそれが自分にかからないよう、体を小さくして縮こまっているしかない。
「うっせえ、だったらもっとちゃんと勉強しろってんだよ。いっつも宿題ださねえで、このこの!」
先生は「この、この!」と声を出しながら、丸めた教科書で奥田をつつく。奥田が「ちょやめ、うざ、うざいってハマリョー!」と、教科書攻撃を避けたながら面白半分な叫声を上げる。再びクラス中で笑いが起こった。僕は目を見開いて奥田と先生のことを見つめる。僕はふと恐ろしくなって、周囲の生徒達を見渡した。僕が見た限りでは、ニヤリとも笑っていない生徒は一人もいないようだった。僕はその事実に愕然とした。
――何なんだよ、これは一体?
いつものクラスの授業風景のはずだった。しかし、とてもそうは思えなかった。
彼らは一体、何がおかしいというのだろうか? 何がおかしくて笑いを共有しあっているというのだろうか? 人の感性というものは原則として自由のはずだ。普段もそう思っているし、今でもそう思っている。なのに、何で僕はこんなにも、笑いどころを見つけられないことに対して恐怖を抱いているのだろうか?
――分からない、分からない、分からない……。
ビイ、ビイ……咳が出る。喉が痛い。体が震えてくる。
――薄ら寒い。
「で、ハマリョーさあ、信吾ちゃんのこと忘れてね?」
奥田の一声。一斉にこちらに向かれるクラス中の視線。より鋭く研ぎ澄まされた刃が、一斉にこちらに突きつけられた。
「忘れてねえよ。で、信吾ちゃん大丈夫か?」
ハマリョーが僕に声をかける。真剣な声色。真剣な問いかけ――無粋は許されない、真剣の突きつけ。
「確か昨日と一昨日休んだんだよな? 今すぐ保健室行ってくるか?」
「…………」
「っていうか行った方が良さそうだな。何かマジでやばそうな顔してるし」
本当だったら、僕はすぐに「行きます」と言いたかった。そう言わない理由がなかった。何故なら、保健室とはきっとここよりは良い場所だろうと思われたからだ。そこにいる保健室の先生は、少なくとも彼らのように、意味不明な笑い声を上げたりはしないだろう。
しかし、自分に刃が突きつけられていることを思い出すと、たった四文字を紡ぐための唇はワナワナとしか動かなかった。
喋ること、いや、もはや声を出すことですら恐ろしい。もし僕が、彼らの意にそぐわぬことを言ってしまったら、一体僕はどうなってしまうというのだろう? 底のない穴の目の前に立つような気分だった。
「……おーい、信吾ちゃーん? どうしたーのー?」
ハッとして、僕はハマリョーの顔を見る。先生は笑顔の裏に、訝しげな感情がにじみ出ていた。何となくそれが「信吾は変な奴だなあ」と暗に主張しているような気がして、とても恐ろしかった。
変な奴――異端者。先ほど、唯一笑わなかった男。思考を、思想を違える――排斥の対象者。
ふと奥田の表情を見ると、ジイっとこちらを無表情で見つめていた。僕はそれにもまたゾッとした。先ほどハマリョーとじゃれあっている時とは、まるで百八十度違う白けた双ぼうと表情。それは、軽蔑している人間に向けられるそれと全く同等のように思えた。僕はさらに、周辺からも同じような性質の視線を感じた。
何かの宗教的な儀式の際に、衆目の面前で神器を破壊してしまった時などに、きっとこのような目を八方から向けられるのだろう。
――怖い、怖い、怖い……!
「おーい、し」
「ひっ!」
――ガタッ!
「……あっ」
僕は立ち上がった。いや、立ち上がってしまった。
ポカンとした表情のハマリョー。変わらず無表情の奥田、クラスメイト達。
「な、なんだよもー。いきなり立つなよ信吾ちゃん。びっくりするじゃねえかよ」
ハマリョーの、裏返り気味の声。それが、いかに自身の行動が、周囲にとって突飛なものであったかを伝えた。
僕は、またしても軽率だった。恐怖に対して、堪え性がなさすぎた。周囲に脅え、しかし周囲に従属できない、精神的脆弱。その結果が、この気まずい状況。どうしようもなく、浮いた奇行。
こうして周囲から、ますます乖離していく。
――もう……嫌だ。
「……保健室に、行ってきます」
それだけ言うと、僕は先生の横を駆け足に通り過ぎた。
「お、おい、ちょっと……!」
ハマリョーの声を無視して、僕は教室を出て行った。僕が教室を出た瞬間、クスクスとした笑い声が僕の耳に届いたような気がした。いや、恐らく気のせいではなかった。その直後に、ハマリョーの「ほーら、静かに!」という声がはっきりと聞こえたので。
半ば走るように廊下を、階段を通る。眼鏡は、相変わらず曇りがついたり消えたりしている。過剰な手足の振りによる激しい運動によって、その周期が早くなっている。階段の二階を下ったところの踊り場で、僕は強い咳を漏らした。その場で立ち止まり、何度も何度も咳を吐き出す。
喉が痛くなり、寒気に震え……マスクの中にこもる息の残り香に、息苦しさを感じた。
息苦しさに囲われた、マスクの中。抑圧される、僕の呼吸器官。抑圧されているものが呼吸器官だけじゃないような気がするのは、きっと気のせいではないはずだった。
四時間目はずっと、保健室のベットで過ごしていた。
保健室につくなり、僕は保健室の先生に症状の説明をし、説明した通りの症状をアンケート式のカードに書いた。
それから、体温測定を行う。七度九分。先生にそう伝えると、先生は少し眉を潜めた。先生は、いささか皺が目立ち始めている、ロングヘアーの三十台後半と思われる女性である。先生は渋い顔で、こちらの顔を覗いた。
「……酷いわね」
僕は苦笑いを浮かべながら、「ええ」と頷いた。我ながら、実に酷い。
「どうする? 今すぐ帰る? それとも一時間くらい寝て、様子見る?」
真剣な声色で、先生が尋ねてきた。
「寝ます」
僕はすぐに答えた。個人的にはすぐに帰りたい気分だったが、この体調のままで帰るというのは、流石にきついと思ったのだ。
僕はその旨を先生に伝えて、上着と靴下を脱いでベッドに潜り込んだ。目をつむると、消毒液のような臭いが鼻腔に強く漂ったきたした。すぐに眠れるだろうと思っていたが、意識がまどろみかけるたびに咳が出て、それが阻害された。
チャイムの音で僕は目を覚ました。もっとも、寝ている間も咳が酷くて、あまり良くは眠れなかったが。それでも、体調の方は少しばかりマシになっていた。少なくとも、酷かった悪寒は大分治まっている。これなら、酩酊したような意識で家路につくような事態は避けられそうだった。
白幕が開かれるスライド音と共に、僕は目を開ける。幕の間から、先生が顔を出してこちらを覗いていた。
「どう?」
一言、先生は訊ねた。
「大分、楽になりました」
マスク越しのガラガラ声で、僕は答えた。
僕はベットから抜け出して、再び熱を測った。七度四分。まだまだ安心は出来ないが、先ほどよりはマシになった。
「どうする? 顔色良くなったみたいだけど、次の時間は授業に出る?」
「いえ、今日はお昼を食べたら帰ります」
今日はもう、教室で授業を受けたい気分ではなかった。今教室に戻っても、あの雰囲気には耐えられそうにはなかった。それだけで、再び風邪を悪化させてしまいそうだった。
「そう……じゃあ、そのことを先生に報告してきなさい」
「はい。ありがとうございました」
それから、「それでは失礼します」と言って先生から背を向け、立ち去ろうとした。
「あ、そうだ」
と、その先生に呼び止められた。振り返る。先生の表情は、少し難しいそうに陰っていた。ふと、悪い予感に駆られた時に、自分もこんな感じの表情を浮かべるだろうと思った。
「さっき、カード書いてもらったでしょ?」
「はい。それがどうかしましたか?」
僕は首を傾げながら問うた。
「うん。そのことで、ちょっと気になることがあってね」
気になること……こちらとしても、全く心当たりがない訳ではなかった。
「ああ。アンケートのあれですか? 『死にたいと思ったことがありますか』って奴」
先生は首肯した。僕はやれやれと思いながら苦笑いを浮かべた。
それは、カードに書かれていた質問事項の一つ、「現在自身にあてはまるものに○をつけなさい」にあった回答の一つだった。
よく夜更かしをするか、夜食をよく食べるか……そんな回答群の最後にあった、この選択肢。それを見たとき、僕はそれを冗談を見るような思いで数秒間凝視した。しかし、僕はしばらくしてやれやれと思いながら○をつけたのだ。
――死にたいと思ったことがありますか
何を今更、と僕は思う。僕から言わせてもらえれば、僕のような人間が、死にたいと思わない訳がないのだ。
「学校や家で、何かあるのかな?」
「何か、ですか?」
僕は眼を右上にめぐらせて、心当たりを探った。しかしそれは、探すまでもないことであった。心当たりは、探求の旅に足を向けるまでもなく、僕の目の前にたくさん落ちていたのだ。
「そうですねー……」
僕はそれを手に取り、先生に見せようとした。それはきっと、他人の目に晒すに足るものにあったに違いなかった。
しかし――僕はそれを手に取ることは出来なかった。
何でだろうか。僕はしばらく、焦りすら感じながらその理由を考えた。そして、それらしい理由を考えることが出来た。
それはいわば、無数にありすぎる傷跡であったのだ。誰かの手で傷つけられたことは覚えている。しかし、一線を退いたヤクザのように一つ一つ自慢していくには、途方もないほどに多すぎるのだ。
それはただ、記号的な結果だった。「傷つけられた」という事実だけがあいまいに、しかし、存在感を持って残る、こびりついた影。
「……部活とかで、ちょこちょこ色々あったりするんです」
だから僕は茶を濁した。確かにそれは僕の「死にたい」の要因ではあったが、それをもって全てを包括するにはあまりにも表面的すぎた。
「……部活の中でイジメを受けてるの?」
「まさか」
僕はハハっと軽く笑った。
部活の友人とは、一応とても仲が良い……はずだ。
「そう……じゃあ例えば、どんなこと?」
「説明するのも恥ずかしいくらいに、下らないことですよ」
「どういうことかな?」
「例えば友人達にからかわれるたびに、そう思ったりするんです」
「……何か、酷いことを言われるの?」
「うーん……ええ、まあ」
「それはどんなこと?」
「……だから、先生が聞いたって下らないだけのことですよ」
僕は、口元だけの苦笑いを浮かべた。
「でも、僕にとっては屈辱的だったりするんです」
先生の眉が潜まり、表情が重たいものになる。僕の言葉に、特にありもしない裏でも感じたのだろうか?
「……ねえ。先生ね、隠してることがあるんだったら正直に話して欲しいな」
「はは。ないですよ、隠してることなんて」
「本当に?」
「本当です」
先生はしばらく僕の目をじっと見つめた。別に必要でもない「行間読み」の必要性を感じてしまったのだろうか? 別に先生から目を逸らす必要性も感じなければ、瞳を力ませる必要性も感じなかったので、僕は特に何かを意識させることもなく先生の目を見つめ返した。
やがて先生は溜息をつきながら、首を横に振った。大げさな動きだ。どうやらありもしない「行間」を感じ取ってしまったようだ。しかもそれだけには飽き足らず、そのありもしない「行間」を明々後日の方向に見いだしてしまったようだった。めんどくさいことになるのは必至だった。
「ねえ、お願いだから嘘はつかないで欲しいな。それで苦しむのは長谷川君なんだよ?」
「だから、嘘なんかついてませんって」
「じゃあせめて、長谷川君の言う『くだらないこと』を聞かせて? どんなにくだらないことでもいいから、ね?」
今度は僕が溜息をつく番だった。全く、両親といい部活メンバーといい、何でこう、一度懐疑心を抱くとしつこく食らいついて来るのだろうか? 僕が何でもないと言ったら、それは本当に何でもないことだというのに。
「しつこいですね。だから僕は……」
その時、にわかにいがらっぽさを感じた喉から、大きな咳が出てきた。三回、四回と、出てくる度に、僕の喉がかすれるように痛んだ。そんな僕の様子を見て先生は、
「ああ、ごめんね。分かった。今日はあまり聞かないことにするわね」
と、我に返ったように慌てた様子で言った。僕は「いえ、大丈夫です」と、淡い笑みを浮かべながら返した。
「長谷川君、でもね……」
と、先生は言葉を付け加えた。何となく、ろくなことを言い出しそうな予感はしない。
上から目線で話される、何か僕には到底考えが及ばないであろう高尚なような言葉。
「長谷川君の場合、あまり難しく物事を考えちゃ駄目なような気がするのよね」
難しく物事を考えすぎる。それは両親にも指摘されたことだ。ただし両親に言われた時は、頭に「変な方向で」とついたのであるが。
両親の説が正解だな、と僕は思う。
僕自身は、何も考えていないような青年であると自覚している。知識もなければ思考力もない。非常に無力で、つまらない人間。
ふと、何かを思案しようとする時、自分の中にはガラクタの価値観しかないことに気がつく。僕の考えることはみんな、当たり前のことであるか、何かの折に浅慮であったと思い知らされるものばかりだ。しかし、かといってそこから抜け出せるような努力をすることもない。
要するに僕は、同じところをグルグルと低回し続けている人間なのだ。
自分の狭窄な視野の中でしか物事を考えられず、その中でグルグルと同じものしか見ることが出来ない人間。そして、ふと何か違う高尚な物事が見えた時、その眩しすぎる光に目がくらみ、尻尾を巻いて逃げ出す人間。それが、僕だった。
「……そうなのかも、知れませんね」
僕は再び苦笑いを浮かべた。
僕は、実に素晴らしく、死ぬべき人間だった。死ぬべき人間――社会的な意味で。恐らく社会では、こういう人間をもっとも必要としないのだろうから。
ネット何かで、「ニートは死ね!」なんて言葉を見かけたりすると、それが実に良く分かる。恐らく僕のような人間が、ニート――彼らの言う社会のクズに成り果てる。だから僕は、社会のために、と言う言葉が嫌いだ。彼らは往々にして、社会に対して異常な信仰心を持ち過ぎている。彼らにとって社会という概念は絶対的なものであり――それに適合出来ない人間は死んで当たり前だと、少なくとも心の奥底では思っている。例えば、学校のイジメが時として必要悪になることからも、それが良く分かることだろう。学校という名の社会――小社会に適合できない人間は、排斥されて然るべきなのだと、彼らは暴言を弄し、屈辱を与えてくる。
かつて、周囲の人間が僕に対してそうであったように。
「正直に言っちゃうと、長谷川君ってそういう顔してるもの」
――顔ねえ。
「顔って何ですか、顔って?」
「真っ暗なところで一人、黙々と考え込み続けて、結局どうにもならないって感じの顔」
僕は苦笑した。なんじゃそりゃ。そう思った一方で……あながち間違いではないこともまた、笑えた。
咳が四度ほど出て来た。喉が痛い。
「……確か僕と先生って、こうして面と向かって話すの初めてですよね?」
「ええ、そうね」
「ですよね。それなのに、そんなことをはっきり言っちゃいますか? 普通?」
「あら、デリカシーがなかったかしら? だったらごめんね」
「いや、別に良いですけど……」
「まあ、私は一応養護教諭だからね。担任の先生に負けないくらい、真剣に生徒の顔を見てるつもりよ」
「はあ、そうですか」
まあいつも百点満点って訳じゃなかったけどね、と先生はカラカラと笑った。
先生の言葉は嘘ではないなと思った。先生の言う「顔」と同じように確証はなかったが、何となくそんな気がした。
「……でも、長谷川君みたいな子に、一つだけ言えることは」
と、微笑みながら、しかし、瞳は何かを訴えかけるようにきらめかせながら続けた。
「自分だけが特別だ。自分だけが苦しんでる――そんな風に思ったら、絶対にいけないってこと」
「…………」
この一言で、
色んなことがぶっ壊れた。
「確かに、長谷川君もつらい思いをしてるかも知れない。私も、それを否定するつもりはないわ」
「…………」
――ああ。
「でもね、そんなのは誰だって同じことなのよ。それは、ちょっと想像したら分かるわよね?」
「……」
それは、僕が一番嫌いな類の言葉だった。
「誰だって、普通に生きてたら、長谷川君と同じか、それ以上につらい思いを……」
「そんなの、」
僕は思わず、言葉を遮った。そして、僕が今まで溜め込んできた思いを、二の句に告げようとした。僕はこの時、僕は先生を睨みつけていた。
――ただの上から目線じゃないですか。
「……長谷川君?」
「……」
しかし、僕は何も言い出せなかった。
ああ、結局はこの人も同じだ。と、僕は思ったのだ。
何かしらの傷によって苦しんでいる人間に対して、社会のためのもっともらしい「道徳」を持ち出し、「頑張れ! 頑張れ!」と無神経に叫んで鞭を打つ。そして、その人間が頑張れない意気地なしであること悟った時、失望の眼を向けて何処かへと行ってしまう。イバラの鞭によってさらに傷を深めた、弱者達を残して。この人も、そういう無自覚な勝ち組の人間なのだ。
――しかし、そこまで思っていても、それを口に出すことは出来なかった。口だけは動いて、声を出すことが出来なかった。喉が、言葉を紡ごうとする喉が震えていた。
それを口にしてしまったら、もう後戻りが出来ない気がした。
僕は、僕の主張をしっかりと伝える自信がなかった。僕の主張になされるであろう反論に、的確な言葉を返す自信がなかった。僕は、彼女からなされる反論に対して、しどろもどろになって言葉に窮する自分を想像できた。心の内を拙く発露した僕の言葉は、その拙さによって全く違う要約をされて、「それはただの戯言だ」という風に片づけられるのだ。そして、真剣な説教顔になった彼女からもっともらしい言葉を投げかけられて、「はい、僕が間違っていました」と涙目になりながら降伏する自分がはっきりと目に見えた。納得なんて、これっぽっちもしていない癖に。
――ああ、僕は今までのように、意気地なしだ。
僕は、僕の主張を言えないことが辛かった。しかしそれ以上に、拙い言葉によって拙い人間に思われることが怖くて、恥ずかしかった。本当にそれは、耐え難い羞恥だった。
その時、もう何度目になるか分からない咳が、強く出てきた。普通のより強く咳き込み、思わずその場で屈みこんだ。マスクの中で、咳と共に出された吐息が溺れるようにもがき動く。
ゴボ! ゴボ! ゴボ!
無様だ、無様だ、無様だ――惨めだ。
咳が収まり、下がっていた顔を先生の方に向ける。怪訝そうなような、思案しているような表情を先生は浮かべていた。
僕はどうしたら良いか分からなくて、しばらく固まっていた。しかし、やがて一礼して、
「……失礼しました」
逃げ出すよう保健室から出て行った。ガラガラバタンと引き戸が閉まると、僕は早歩きでその場から立ち去った。
僕はガキだ。と強く思った。そしてこれからも、僕はガキであり続ける。
――これだから、僕なんて人間は早く死んでしまうべきなんだ。
ふと僕は、マスクの中で息がこもっているのを神経質に感じていた。眼鏡の端っこで曇りが生じたり引いたりしているのにも。
身もふたもない話をしようと思う。どうやら僕には、露悪の気があるみたいだから。それがとても気持ち悪いことであることは、分かってはいるのだけれども。誰だって、内に溜め込んでいるものを吐き出したい衝動はあるだろう? 僕はただ、それを吐き出さずにはいられない限界点までの距離が、人よりずっと短いというだけの話だ。もっとも、そういう人間こそが、世間一般には「気持ち悪い」と言われるのだけれども。だけれども、そんなのは知ったことか。
僕が気持ち悪い人間であることは自覚しているし、何よりも事実なんだ。
今更、一体何を考慮する必要があるというんだ?
という訳で、こちらで勝手に始めさせてもらう。
僕はこれまでに、肉親や他人からの色々な言葉や行動によって、精神的に傷をつけられてきた。そして、それらの積み重ねによって僕は自分でも嫌だと感じる性格になってしまった。
嫌だと感じる性格。通常から軸がぶれている性格――死にたくなってくる性格。
僕の方にもいくらかの地があったことは、認めざるを得ないのだろう。しかしそれらの歪みは確実に、僕を傷つけてきたたくさんの他人達や、それを脆弱だと暗に責めた両親が培ってきたものでもあるのだ。僕が実に素晴らしい土台であったのを良いことに、彼らは遠慮なく土壌を放り投げていったのだ。ドカドカ、ドカドカと、矢継ぎ早に。それによって土台にどのような歪みが生ずるかなど、考えることなしに。
――人間生きていれば、皆が平等に傷つく。皆が皆、人それぞれ違う痛みを背負って生きている。なので、己のみが傷ついていると思っては絶対にいけない。
先ほど、あの保健教師が言った言葉である。
これは、事実だろう。あるいは、真理と言ってしまっても構わないものでもあろう。
僕が受けてきた傷そのものにしても、その傷の付けられ方にしても、一般に比べて特に珍しいことではない。
今時、誰しもが一度は「シカト」を経験すると言われているような社会なのだ。その傷を引きずっていないなどとは到底言えない自分ではあるが、その位のことは僕にだって分かっている。
しかし、だからといってそれが、物事を根本的な解決へと導くことはない。
僕が思うに、人はこの真理に対して盲目的に信仰し過ぎている。
僕たちにとって、傷は傷なのだ。落としても落としても消え得ない、最終的には誰にも理解され得ない、そんな、半永久的に心へと落とされ続ける影なのだ。その見た目に相対的な差はあれども、傷を負った者にしてみたら絶対的なものなのだ。人物Aの言う「死ぬほどの痛み」を、果たして全人類の中の一体何者が一切の相違なく体感し得るというのだろうか?
人間――取り分け、彼女のような主張を、平気で他人に押しつけることの出来るような人間は、その辺りのことをまるで無視しているように思える。あるいは、そういうことに無神経になれる程度には、強靱(僕に言わせてもらえれば麻痺なのであるが)な精神を持っているのだろう。
彼らはその真理を受け入れることによって、他人の傷に対して狭量になっているのだ。
この真理を受け入れた人間達の言動を見てみるがいい。
――皆が、誰だって、自分以外の人間も、そうである。
――君の悩みなんて、世界のどこかで飢餓に苦しんでいる人に比べたら、よっぽどくだらない。
――死ぬなんて言葉を簡単に使うな。死という言葉はお前が思っている以上に重いのだ。
――だから……
――頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ!
何故だろうか? といつも僕は疑問に思う。
何故彼らは、僕が、僕のような人間が、必ずそれを乗り越える強さを持つことを前提に話を進めるのであろうか?
僕の抱える問題が、それほどまでに高尚なものであるとは言わない。なるほど、世界の何処かで一切れのパンも食べられない子ども達が抱える問題の方が、よほど重大だ。しかし、僕はその程度の問題を乗り越えられない程度に、弱い人間ではあるのだ。それだって問題なのではないのだろうか? いや、あるいはそれこそが、僕のような人間が抱える、本当の問題なのではないだろうか?
僕が、僕のような人間が、彼らにとって『くだらないこと』で悩み、時として死にたくなったり、隣人を殺したくなるのは、その悩みそのものによってではない。僕のような人間は、その心の内に根付く、どうしようもない精神的弱さによって悩み苦しむのだ。
現代社会は、強くあることが、強くあろうとする姿勢が、生きていく上での前提条件になっている。弱さに対して、最終的には狭量なのだ。
彼らが見る、人の苦しみ、弱さには絶対という言葉は存在しない。あの人と比べたら、あの状況と比べたらという、相対こそが全てなのだ。
――では、相対的に強くない僕は、強くあることが出来ない僕は、一体どうしたら良いのだろうか? 絶対的な弱さに打ちひしがれている僕は? そこから立ち上がることの出来ない、絶対的に弱い僕は?
それを思うたびに、僕は死にたくなるのだ。弱さが許されない社会、弱さを糾弾する社会――死にたくなってくる社会。
進化がなければ、弱さを乗り越える勇気がなければ世界は滅びると誰かが言った気がした。その誰かが言ったかも知れない言葉に、僕は思う。
果たしてその世界は――人間とすら言っても良い――それほどまでに守られるべき存在なのだろうか?
進化――弱さを乗り越えようとすればするだけ、悲しい思いをする少なくない人間達が、永久に現われ続けるではないか。
僕がこのような歪んだ考え方(そう認識出来るだけの理性くらいはある)を持つにいたったのには、僕の過去に寄るものが大きい。
はっきりと言ってしまえば、僕はイジメを受けていた。小学校入学時から、中学校の半ば辺りまでにかけて。
イジメを受けていた。そう言うと、微妙にニュアンスが違うのかもしれない。僕は僕以上に悲惨なイジメを受けてきた人間の話を、高校に入ってから聞いている。例えば、ある友人は入学早々に、数人の生徒達から集団リンチをやられたようだった。それが恒久的に続いたことは言うまでもないだろう。
それに比べて僕はと言えば、せいぜい「気持ち悪い奴」と影口を叩かれる程度であった。暴力は……特筆されるべき物はなかったと思う。よって、相対的には、直接的なものにしても間接的なものにしても、生ぬるいものであったには違いない。よって、僕がこのことを何時までも引きずっていることは、真理に照らし合わせると「甘い」ということになるのだろう。
そういうところじゃない、と僕は思う。僕の傷の本質は、そういう分かりやすいところにはないのだ。
僕は、この「イジメ」を受けていた期間――そしてその期間が終わってなお、嫌われている人間だったのだ。いや、他人にとって「嫌われてしかるべきと認識された」人間だったのだ。
僕にはいつだって「キモい」という認識が付きまとい、それが僕と他人との決定的な隔たりを作った。
――おい、信吾、お前ボール取ってこいよ。ああ? 何か文句あんのかよ? 信吾の癖によお。
――あはは、まああいつはキモいから、当然だよね。
――つーかこっちに近寄って来ないでよ。こっちにキモいのが移っちゃうでしょ?
僕だって、いじめられていた当時に、全く「遊び仲間」がいなかった訳ではない。しかし、彼らと僕との間には、暗黙の上下の差があったのだ。彼らにとって「キモい」人間とは、ただ「キモい」というだけで、見下されてしかるべき人間であるらしかった。
――理不尽な境遇。
ここまでの話だけを聞いたら、あるいはそう思われるのかも知れない。しかし、彼らとしても、全くの不当な理由があった(少なくとも、僕と彼らの客観から見たとしたら)のだ。
僕は、他の生徒達と比べたら性質的に相違し、ある一定の能力――すなわち、周りに順応する能力――に欠けていたのだ。
つまりそれは、「集団的な普通」からかけ離れている性格と言えば、ピンと来てもらえるものであろうか?
周囲が感心を持つべき話題には関心を持たず、周囲は身に付けていて当然な能力は身に付けず、周囲が持ち合わせている距離感を測ることが出来ない。そしてそういった性質を、無自覚のうちに持ってしまっている自分。
要するに、先天的に要領が悪い人間であり、救われないことに、そのことに無自覚であった人間なのだ。
なので、周囲にそのことを指摘され、糾弾されて始めて、醜く慌てふためいた。それの結果として周囲からますます乖離、最終的には排除されていく。「ばい菌扱い」などという境遇が、まさしく似合うよな人間だったのだ。
当然のことながら、僕はそうである僕が嫌だったし、しかし嫌な性格を持つ自分であることも自覚していた。そして僕がそうであることを、「遊び仲間」や両親から、いつもいつも指摘され続けた。しかし、僕は最終的にはそれを修正することが出来なかった。彼らはそれに対して「どうしてそんなことも出来ないの?」となじり、僕はますますそのことに嫌悪していった。
――長谷川君って、いじめられて仕方がないところがあるよな。
そして、高校に入っても、最も信頼している友人からこう言われる始末だ。よく発狂しなかったものだと、後になって真剣に思った。
情けない情けない――死にたい。その思いに対してにすら、「死ぬなんて言葉を簡単に使うな」と言って追い詰めたのも、他でもない彼であった。彼はまさしく、社会のための「真理」を振りかざす、「頑張れ教」の典型的な信者であった。
そんなことを繰り返すうちに、僕は何時しか捻くれてしまったのだと思う。そして、そんな自分に対して心の底で嫌悪感――あるいは罪悪感を抱いているのだと思う。
だから僕はもう、自分の性格を修正することに関しては諦めてしまっている。いや、どちらかと言えば、単純に嫌になってしまっているのだ。臭い物には蓋。今でも僕がそのことを指摘される度に、人一倍に自己嫌悪をするのはそのためであろう。
そして、そんな僕が行き着いた先が、「真理」を受け入れられ、それを弱い人間に対して押しつける人間に対する憎悪だった。
彼らは結局、それを受け入れられて、それが心地の良いものだと考えられるような人間だからこそ、それに対して信仰を抱けるに過ぎないのだ。彼らは、「真理」をどうしても受け入れることが出来ない人間がいることを理解しない。そんな人間は、甘ったれの社会不適合者なのだと糾弾する。彼らにとって「真理」は絶対的に正しいことなので、その「真理」に対して首を縦に振れない人間がいることをまるで理解しないのだ。
僕は、そんな人間達がはびこる世の中が窮屈で仕方がなかった。弱い人間が、弱いままで居続けることを許さない社会が、どうしても嫌で嫌でしょうがなかった。
それを自己解決するために非常に簡単な手段が、さっさと死んでしまうことであることを僕は理解していた。しかし、僕は死ねなかった。
死ぬことが逃げだと思っている訳ではない。単純に、死ぬのが恐かったのだ。僕が本当に求めているのは、死そのものではない。永遠を思わせる悠久を思わせる、死のような安息だった。
これが甘えというものなのだろう、ということは分かっていた。しかし、それを分かったところで、僕にはどうすることも出来ない。
僕は望んで生まれてきた訳でもなければ、望んで僕として生きている訳でもない。かといって、望んで自分を変えることも出来なければ、甘んじて僕を受け入れることも出来ない。そして、一番楽な解決手段である死も、ただそれが想起させる本能的な恐怖を拭えないという俗な理由で選ぶことも出来ない。
僕という存在の脆弱がもたらした、魂の立ち往生。
それが僕の傷が産み落とした、弱さの本質だった。




